Cross over Act5

 遠くで、優しい音色が聞こえる。知っている物ではあるが、全く身近ではないその音に、瀬人はいつの間にか寝入っていたらしい意識を緩やかに浮上させた。

 重い瞼をゆっくりと持ち上げるとそこは相変わらずの薄暗がりの世界。夢ではなかったのかと一人ごち、横たわっていた身体を静かに起こすと、己のすぐ傍で人の気配を感じた。誰だ、と声を上げる前に「それ」はこちらに気付いたのか、ゆったりとした動きで振り返ったようだった。

 暗がりの中でぼんやりと白く見えるその姿は、これまで出会って来た人間達の例に漏れず男女の判別が付きにくい。ひらひらした長いローブに、腰まである長い髪。まるで一枚の絵画のように整ったその容姿だけをみれば女性にしか見えない。それはともかく彼だか彼女だかが抱えているのは確かハープという楽器ではなかったか。今度は一体何物なのだ、訳が分からん。

 新たに登場したこれまた不可解な様相をした人物に瀬人は半ばうんざりしながら溜息を吐く。そんな瀬人の様子を何気なく眺めていた相手は音も無く距離を縮めつつ、静かに口を開いた。

「おや、目が覚めた様ですね。気分はいかがですか?セト」
「?!……誰だ貴様は」
「ああ、貴方にとっては初めてですね。わたくしは水の守護聖リュミエールと申します。貴方の事はクラヴィス様にご紹介頂きました。なんでも、異世界からの迷い子とか」
「誰が迷い子だ!あの男め、適当な事を言いおって!」
「……私は何も嘘は言っておらぬ。意外に早い目覚めだったな。お前にはサクリアの力は余り利かぬらしい」
「何!?というか、貴様そこにいたのか!全く姿が見えんわ!」
「……ふ、私はこの部屋からは滅多に出歩かぬのでな。まだ目が慣れぬだけだろう」
「この部屋に慣れるには少しかかりますものね」
「慣れるか!というか慣れてたまるかこんな所!言われて気付いたが大体なぜオレはここに寝ていたのだ?貴様、何をした!」
「……まぁ」
「……やれやれ、元気のいい事だな」

 瀬人がまるで弾かれた様に寝椅子から飛び起き、リュミエールと名乗った人物とその傍にいるらしいクラヴィスに向かって声を上げる。広いが密閉された空間ではただでさえ大きな瀬人の声は幾重にもなって響き渡る。しかし二人はやはり全く動じる事なくむしろ微笑すら浮かべていた。その事がとてつもなく癪に障る。

 だが、瀬人が幾ら不快を露わにしても完全にこちらを子供扱いしている相手には全く通用しなかった。現にクラヴィスは相も変わらぬふてぶてしい態度で瀬人を宥めに掛る。

「そう怒るな。何もお前に害をなす事はしておらぬ。少し休息を取らせただけだ。大分頭が軽くなっただろう?」
「……何か妙に引っかかる物言いだが、オレに休息など必要ないわ!貴様、見かけも怪しければ行動も怪し過ぎるぞ!一体何を企んでいる!」
「……人の話を聞かぬ子供だな」
「喧しいっ!子供扱いするなっ!!」

 動物に例えたら唸り声を上げて噛みつきそうな勢いの瀬人と飄々とそれをあしらうクラヴィスに、その間に挟まれる形となったこの場では一応新参者のリュミエールは、暫しその様子を観察した後にっこりと微笑むと、さり気無くその間に身を割り込ませて至極穏やかにこう言った。

「まぁまぁ、お二人共。喉が渇いたのではありませんか?丁度時間もいい様ですし、お茶にしましょうか」
「は?茶だと?!貴様何を暢気な事を……」
「……そうだな。頼む、リュミエール」
「はい、ではお二人共そちらにお掛け下さい。今用意を致します。クラヴィス様はいつもので宜しいですか?」
「ああ」
「……おいっ!」
「セトは……何かお好みがありますか?なければわたくしと一緒にカモミールティでもいかがですか?リラックス出来ますよ」

 言いながらリュミエールはこの薄暗い部屋で惑う事なく茶器を用意し、瞬く間に室内には香ばしい珈琲と爽やかな紅茶の香りが充満する。カチャリとソーサーにカップが置かれる音がすると、それまで微動だにしなかったクラヴィスがのそりと動いた。聞くだけで重たげな衣擦れの音と共にソファーが軋み、微かに溜息を吐く気配がする。

 それを漸く慣れて来た視界の中で捕えながら瀬人は心底呆れて立ち上がりかけた長椅子へと乱暴に腰を下ろした。全く、こんな連中とはまともに付き合う気にもなれない。大体今は何時なのだ。年中暗がりのこの部屋では時間さえも分からない。全くイライラする。

 せめて何か気が紛れるものがあれば良かったが、生憎瀬人は何一つ自分の物を所有していなかった。常に内ポケットに入れている携帯や、襟に装着している社章を模した通信機、果ては肌身離す事なく首から下げている筈のペンダントすら手元から消えていた。お陰で身分を証明するものすらない。これは偶然なのか故意なのか。どちらにしても不自由な事この上ない。

「セト?」

 近くで、リュミエールが己を呼ぶ声がする。大方何時まで経っても席に着く気のない自分を促しに来たのだろうが、今は暢気に茶を飲む様な気分ではなかった。クラヴィスもこいつも暢気なものだ。やはり自分は人選を間違えているのではないだろうか。こんな事なら多少の危険(その危険がどういうものかはイマイチ瀬人も分かりかねたが)を冒しても最初に会ったジュリアスの方が頼りになりそうな気がする。

 ……さて、どうするか。そう瀬人が真剣に考え始めたその時だった。不意にふわりとした風の流れと共に目の前に鮮やかな水色の髪が現れた。さらりと音を立てて揺れるそれはどうやらいつしか下に下がって行き、変わりにやけに白く女性めいた作りの「綺麗」と言える顔が現れる。

 この部屋には自分とクラヴィスとリュミエールしかいない筈だった。……と言う事は、「これ」はリュミエールの顔、という事になる。先程遠目では余り良く分からなかったが、やはりその顔は酷く「綺麗」だ。

「…………!」
「どうしました?お茶が入りましたよ、こちらへどうぞ」

 優美に弧を描く薄い唇から洩れでるのはたおやかではあるが確実なる男の声。……なんだこいつは、やはり男なのか、有り得ん!と咄嗟に思ったが、さすがにそれを素直に口に出す事は憚られた。先程これよりももっと強烈な人物に出くわしたのだ、これ位で驚いてなど居られない。けれど、衝撃は衝撃だった。

 故に思わず……本当に思わず、瀬人はつい口を滑らせてしまったのだ。「有り得ない」までは辛うじて押し留めたものの、それは余り意味がなかった。

「……貴様」
「はい?」
「……一応聞くが、男だよな?」
「………………」

 それが大変な過ちだったと言う事に彼が気付いた時にはもう遅かった。リュミエールは相変わらず女神の様な微笑みを湛えてはいたが、頬の一部か僅かに引き攣っていた。しまった、と瀬人が僅かに身を引く前に何故か伸びて来た白魚の様な手にがっしりと肩を掴まれてしまう。

「わたくしが男以外の何に見えるというのです?」
「いや、何に見えるって……」
「きっとこの部屋の暗さ故によく分からないのですね。良くある事です」
「……そ、そういう訳では」
「とにかく、ここでカップを持つのは不安定ですから、テーブルの所へどうぞ。ああ、目覚めたばかりで足元が覚束ないと言うのであれば、わたくしが運んで差し上げます」
「はぁ?!」

 瀬人の肩を掴んだまま変わらぬ笑顔でそう言い切ったリュミエールは、その言葉に唖然としている彼を穏やかに眺めると、軽い羽根枕を何気なく取り上げる様な仕草で易々と座する瀬人の膝裏と腰を抱え、あっさりと持ち上げた。余りの出来事に瀬人が悲鳴を上げる暇もない。

「こ、これは、一体……なんっ……!」
「ああ、大人しくなさって下さいね。大丈夫、落としたりしませんから。わたくしはこう見えて腕力には自信があるのですよ」
「そんな事は聞いてないわ!下ろせ!」
「貴方は見かけよりも大分軽いのですね。いけませんよ、成長期にはしっかりと食べなくては」
「余計な世話だ!!」

 抱えられたままキャンキャンと騒ぐ瀬人の事など特に気にも留めず、危なげない足取りでクラヴィスがいるソファーの元まで運び上げたリュミエールは、持ち上げた時同様軽々と敷かれた大きなクッションの上にその身体を下ろしてしまうと、「ああ、そう言えばお菓子を忘れていました」と口にして、至極楽しそうに闇の執務室を後にする。

 その様を殆ど茫然自失で眺めていた瀬人にこちらはマイペースでカップを引き寄せたクラヴィスは、ぽつりと小さくこう言った。

「あれに不用意な事は言わぬ方がいいぞ。怖い思いをするのはお前の方だ。後、人は見かけによらぬという事を早く学習した方が良い」
「……この世界にはまともな人間はいないのか」
「……リュミエールはまともな方だが?」
「…………おい、早くオレを元の世界に返せ」
「無茶を言うな」

 瀬人は深い深い溜息を吐いて、がっくりと肩を落として項垂れる。

 鼻を擽る、甘い紅茶の香りが今はただ腹立たしかった。