Eden Act2

 奇病Luciferに光が見えたのはそれから約一年後の事だった。

 外界では純白の雪が降り積もり、クリスマスだの新年だのと人々が幸福と希望に満ち溢れ、笑顔で華やかな町を行きかう季節。年中常春な気温を維持しているドームの中では雪など無縁のものだったが、それでも季節のイベントは欠かさず行われ、今年も例に漏れず施設の中では賑やかなパーティが催されていた。

 そんな喧騒に包まれた病棟から少し離れた場所にある研究棟で、ジュリアスは一人険しい顔をして直ぐに来るであろう男の事を待っていた。後二時間程したら、クラヴィスの待つ部屋へと行かなければならない。小さなケーキと身体に障らないようアルコールが入っていないシャンパンで、ささやかな聖夜を祝う約束をしていたからだ。

 楽しい一日になる筈だった。なのにその心中は酷く暗く、今にも苦しみに押し潰されてしまいそうだった。

 不意に、小さな物音がして室内に人が入ってくる気配がする。彼は怪訝な顔をして、デスクランプだけが点い部屋の様子を眺めながらこちらへと近づいてくる。その足音が途切れる前に、ジュリアスはやや俯けていた顔を持ち上げると、低い声でこう言った。

「わざわざ呼び出して済まなかったな、カティス」

 薄暗く、暖房を抑えた部屋の中にその声は嫌にはっきりと響き渡る。名を呼ばれた彼は気軽に声を掛けようと思ったのだろう、些か明るめの表情で口を開こうとしたが、それは瞬時に閉じられた。変わりに至極真面目な顔つきでしっかりとこちらを見つめて立ち止まる。

「……何かあったのか?お前達研究員の姿が見えないんで皆が懸命に探していたんだぞ。そろそろパーティも始まってしまう」
「すまぬ。それ所ではなくなってしまってな」
「こんな夜位仕事を忘れたらどうなんだ。今は実験の結果待ちのはずだろう?明日以降じゃないとどうにもならないとお前も言っていたじゃないか」
「………………」
「クラヴィスも昨日からお前の姿が見えないと言って心配していたぞ。また不眠不休でやってるんじゃないかってな。時間がないのは分かるが、お前まで体を壊したら意味がないだろう。大体……」

 そこまで、カティスが言いかけたその時だった。不意に目の前に一枚の白い紙が掲げられる。細かなデータがぎっしりと書き込まれているそれは、今まさにジュリアスが手掛けている対Lucifer用の抗生新薬に関するものだった。

「結果が、出たのだ」
「……結果?」
「明日以降になる予定だったのだが、一日早く。新薬はついに完成した。これでもう、この奇病に侵された人間が死ぬことは多分無い。他の研究員は早速公的機関に許可を求めに出向いている」
「新薬が……出来たのか?!これで皆が……クラヴィスが生きられる。ついにやったじゃないか、ジュリアス!最高のクリスマスプレゼントだ!」
「………………」

 ジュリアスの口から紡がれるのは、積年の思いが叶ったという幸福な知らせの筈だった。しかし、突然の朗報に手放しで喜ぶカティスの姿を彼は無言のままただじっと見つめているだけ。その顔にはこれまでの苦労が報われたという喜びも達成感も何も無い。そこに在るのは何故か絶望と悲しみに囚われた様な暗く沈んだ表情だけだった。

「……ジュリアス、どうした……お前は嬉しくないのか?長年の夢が叶ったんだろう?」

 ほんの僅かな間だったがその沈黙が苦しくて、カティスは喜びを抑え、小さな声でそう口にした。その言葉にジュリアスは軽く首を振る。静かに左右されたその動きにそって、暗闇の中でも目立つ金の髪が、緩やかに揺れ動いた。

 それから、また暫く沈黙が続く。雰囲気の重さにこれ以上声を掛ける事も憚られて、カティスはただじっと彼の方から何か言葉が紡がれるのを待っていた。

 どれ位そうしていたのか。これまで気にすることも無かった置時計の音をはっきりと意識し始める頃、漸くジュリアスが重い口を開いた。

「命は助かるかもしれない。けれど、その代わりに……記憶を失ってしまうのだ。……それにその新薬はまだ人体では試されてはいない。今、他の者達が申請にいったのは、臨床研究の許可申請だ!」

 一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 しかし、彼から奪うように手にしたデータにはたった今耳にした事とまるで同じ結果が記載されている。その話は嘘でも偽りでもない、紛れも無い事実だった。確かに新薬を正式に使用するには確固たる安全性を提示しなければならない。その為には実際に人を使って、その効き目や安全性を証明するのは当たり前の話だった。

 臨床研究……所謂人体実験だ。その耳障りな言葉が意味するものは……。

「……お前まさか……」
「そのまさかだ。私は、その被験者に……クラヴィスを推薦した。あれにはもう時間が無い。万が一の可能性があるのならそれに賭けるしか方法はない。クラヴィスには、明日にでも話そうと思っている」
「……ジュリアス」
「とんだクリスマスになったものだ。まさか、こんな事になろうとは」

 遠くで賑やかな歓声が沸き起こった。時計を見れば丁度パーティーが始まる時刻。ホールには沢山の人間が集い、一時の楽しい時間を過ごすのだろう。その全てが救いを求めている。希望溢れる未来を切望している。出来るなら、与えてやりたかった。

「少し遅れてしまったが、パーティには出席しよう」

 眼前できつく握り締められた白い拳にそっと手を沿え、長い溜息を吐いたカティスが声色を変えて口を開いた。多少不謹慎とも思えるその言葉に、言われたジュリアスは意外にも素直に同意する。

「……そうだな、約束もあるし」
「プレゼントは用意したのか?」
「私が忘れるとでも思うのか?」

 言いながらジュリアスは薄汚れた白衣を脱ぎ、近くのソファーへと放ってしまう。カティスもまた、手にしたデータを机の上に投げ捨てた。例え一時でも、こんな事は忘れていたかった。彼の為にも、笑顔を絶やさずに過ごしたい。

 早足で部屋を後にする二人の耳に、美しい賛美歌が聞こえてきた。

 パーティはまだ、始まったばかりだった。
 翌日。二人に取って運命とも言えるその日。

 ドームの外では記録的な豪雪に見舞われていた。交通も麻痺するほど激しく降り積もる雪の中で、人々はなす術もなくただ家の中でじっと早くこの雪が収まる事を祈るだけだった。そんな外の状態も特殊な障壁に守られたこの空間では全くの絵空事で、常と同じ平穏な一日が流れていた。

「ジュリアス」

 不自然なまでに動かないその姿に躊躇いも無く声を掛ける。声の主はカティスだった。人口的な日の光が明るく緑の空間を照らし出し、暖かなそよ風が優しく頬を撫ぜ軽く束ねた髪を揺らしていく。

 時は既に午前十時。常ならばとっくにクラヴィスの待つ部屋へ行き医師としての務めや、他愛の無い会話を交わしている時刻。……そんな時間に施設内に広がるこの美しい庭園に、酷く物憂げな表情で座り込んでいたのはジュリアスだった。

 汚れなど一つも見当たらない真っ白な白衣が日の光を受けて酷く眩しい。一瞬の間があって、ジュリアスはゆっくりと声がする方向へ顔を向ける。その口元には表情にそぐわない不自然な笑みが浮かんでいた。

「……カティスか」
「どうした。こんなところでサボっているなんてお前らしくも無いな」
「……たまには、そういう気分になる事もある。それに、今日はまだ仕事を始めてもいないのだし」

 疲れたような溜息に混じり、彼からそんな言葉が吐き出される。右手に抱えた既に表紙が外れかかっている黒のファイル。その中には彼の長年の研究の成果であるあの新薬のデータが全て詰め込まれているのだろう。自室から決して持ち出す事のなかったそれを無造作に放り投げ、色の変わらない空をただじっと見つめていた。

「やはりこれからクラヴィスに告げるのか。生きられる事を……そしてその為に失わなくてはならないものがある事を」
「ああ、言うつもりだ」
「……クラヴィスに言わずに、それを実行する事は出来ないのか?お前がそれを告げる事によって、どれだけあいつが苦しむ事になるか、分かっているんだろう?」
「分かっている」
「じゃあ、何故告げる必要がある。お前は切り札も用意した、あいつが断れるような状況じゃない事はもう明白じゃないか。それなのにわざわざ余計な事を口にして、傷つける必要が何処にある?!」
「何故?そなたは医者の癖に、そのような事を口にするのか?クラヴィスは誰のものでもない、クラヴィス自身のものだ。自らの身にこれから起こる事を知らせなくてどうするのだ!」

 近くで、木々の間から鳥が飛び立つ羽音が聞こえた。この狭い世界で、それでも自由に空を飛び綺麗な声で囀る小鳥達。その姿をクラヴィスの目はもう見る事が叶わない。あの美しい紫色をした二つの瞳はただそこにあるだけの飾りと成り果てていた。静寂を乱さない密やかで良く通るあの声も、彼そのものも失いたくない。本当は、クラヴィスの中に息づく自分も失いたくはなかった。けれど、彼を生かす為にはそれらを切り捨てなくてはならない。

 覚悟は、ジュリアス自身にも必要だった。

「……お前」
「そろそろ、行かなくては。余り遅くなると、また要らぬ心配を掛けてしまうしな」
「付き添うか?」
「いや、いい。……二人だけで話がしたい」

 小さな草擦れの音と共にジュリアスの顔が間近に迫る。一瞬交差した瞳は互いに酷く澄んでいて、それ以上言葉を交わす必要はなかった。緩慢な動作でファイルを拾い上げようとしたその身体を遮って、カティスは自ら手を伸ばしてそれを掴む。手に感じるずっしりとした重みに彼の思いをみた気がして、殊更大切に差し出された白い手に乗せ上げた。

 無言のまま踵を返し、歩き去って行くその背を見つめながら、カティスはただ小さく祈りの言葉を口にした。
 簡素な装飾が施された白い扉を目の前にして、ジュリアスは一瞬それに手を掛ける事を戸惑った。中から楽しそうな笑い声が聞こえる。大方最近クラヴィスに懐き始めた、上階に暮らす少年の声だろう。

 彼……名前をリックという少年はつい先日このEDENへと収容され、親兄弟とも引き裂かれた辛さ故か連日のように泣き暮らしていた所を、たまたま担当が同じだったカティスを介してクラヴィスへと引き合わされた。

 決して子供の扱いが上手いわけでもないが、誰が相手でも態度を変えないその姿勢が少年の心を掴んだらしく、今ではすっかり友達として扱われている。暇さえあれば何かと理由をつけてこの部屋へとやってきてはあれこれと世話を焼かれているのか焼いているのかわからない彼等の関係を、ジュリアスは好ましく思っていた。

 扉の向こうから未だ響き続ける笑い声に押されるように、ゆっくりを扉を押し開ける。それを直ぐに察したリックが、不意にクラヴィスの手を掴んでこう言った。

「クラヴィス、ジュリアス先生が来たよ」
「知っている。今そこに気配がしたからな。扉を開ける前から気づいていた。大方お前の声に聞き耳でも立てていたんだろう」
「……いっつも思うんだけど、クラヴィスって超能力者?」
「いや?……単に人よりも耳が良くなっただけだ」
「ふーん。目なんか見えなくったってそれだけ周りの事が分かれば十分だね」

 傍から見れば微笑ましいその光景を出来れば壊したくなかったが、そうも言ってはいられずジュリアスは小さな溜息を吐くと、出来るだけ優しく未だ楽しそうにお喋りを続けるリックの名を呼んだ。

「リック、済まぬがこれからクラヴィスと話があるのだ。そなたは自分の部屋に戻れ」
「えー。ジュリアス先生、昨日の夜もそう言ってオレの事追い出したじゃん。クリスマスだからって」
「昨日のとは訳が違う。いいから言う事を……」

 そうジュリアスがいいかけたその時だった。それまで黙ってリックの好きにさせておいたクラヴィスが、徐に彼の手から己の指先を引き抜き、小さなその身体をそっと押しのけるような仕草をする。驚いてその顔を見上げたリックに向かって、彼はたった一言こう言った。

「いいから行け。また、後でな」
「……ちぇ。分かったよ」

 何故かクラヴィスの言う事だけはよく聞く彼は、酷く残念そうな顔をしたものの、素直に部屋を出て行った。残された二人の間に妙な静寂が訪れる。

「……それで、話とはなんだ?」
「そなた、何故リックを……」
「お前の声色が違う。真面目な話なのだろう?だから部屋に帰る様に言っただけだ。お前がそれ程真剣になる話とはなんだと聞いている」
「………………」

 見えない目で真っ直ぐにこちらを見つめるクラヴィスの眼差しが痛いほど己の身に突き刺さる。苦悩に歪むこの表情を見る事は叶わなくても、ほんの少しの気配から全て察しているのだろう。だが、これから告げるべき言葉を知る術は彼にはない。

 ……どう伝えればいいのだろう。単刀直入に事実だけを告げるのは簡単だ。しかしそれでは余りにも非情過ぎる気がした。

「……どうした?」

 長い間の沈黙を不自然に思ったのだろう。痺れを切らした様にクラヴィスが先に口を開く。その声にはっと我に返ったジュリアスは、意を決して少し離れていた距離を縮めようとゆっくりと歩み寄った。

 問うようにほんの僅かに首を傾げるその顔を見つめながら、ジュリアスは膝の上に置かれていたクラヴィスの両手に、持参したファイルを押し付ける。そうされた彼は掌に感じた重さに驚いて確かめるようにそれを握り締めようとした。

 しかしその指先はジュリアスの手によって押さえられ、それ以上動く事は出来なかった。

「……ジュリアス?一体……」
「完成した」
「え?」
「完成したのだ。Luciferに対抗できる抗生新薬が。これが、そのデータを纏めたファイルだ。そなたは、これからも生きられる」

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかったのだろう。彼は問うような表情から一変して少し困ったように眉を顰めた。

「生き……られる?」
「そうだ。来年も再来年も、それからもずっと今日という日を迎える事が出来るのだ。勿論それだけではない、見えなくなったその目も見える様になる。常人と同じ環境で生活する事だって出来る。もう何も我慢する必要はなくなるのだ」
「………………」

 それだけならば、今ここで手放しで喜び合う事ができるのに。そう心の中で口にしながら、ジュリアスは次の言葉を紡ぐタイミングを見計らっていた。クラヴィスは相変わらず先程と同じ表情で喜ぶでもなくじっと手に託された重みに視線を落としている。

 もしかしたら、彼は気づいているのかもしれない。これが喜ばしい報告ではない事を。現に己の口から放たれる言葉は心なしか震えているようだった。幾ら冷静さを装おうとしても、内心のこの動揺は隠し切れない。彼の手に触れる自身の指が、いつの間にか少しだけ汗ばむような気がした。

「……それだけか?」

 不意に小さな声が暖かな部屋の空気を僅かに揺らす。その言葉に、無意識に背が強張っていく気がした。

「その新薬に、何かあるのではないか?何の弊害も無しに、全てが元通りに……」
「ならない。どんな薬にも副作用はつき物だ。Luciferの様な大病に対抗するものなら、尚更な」
「……その副作用とは?」
「記憶を。今までそなたの中に蓄積された記録を全て食い尽くす。それを糧として抗体を作り出すのだ」

 瞬間、初めてクラヴィスが息を飲むのが分かった。ファイルを握る指先が、プラスチック製の表紙と擦れて妙な音を立てる。

「記憶を、無くす?……今迄の全てを……失わなくてはならないという事か?」
「そうだ。それでも、クラヴィス……私はそなたに生きて欲しい」

 呆然と呟かれた一言をかき消すように声を重ねる。喉奥から搾り出す様に伝えたその言葉は、彼の耳に届いている筈だった。けれど、その心に届く前にそれは一蹴されてしまう。

「……嫌だ。そうまでして、生きたくは無い!」

 次に開いた彼の唇から零れでた一言は余りにも予想通りの答えだった。

 堅く目を閉ざし拒否するように首を左右するその姿を、こうなるであろうと想像していたその様を現実に見せ付けられたジュリアスは、それ以上口にする言葉を持たずにただ沈黙するしか術がなかった。