丁度同じ時刻、カティスはリックより数分遅れてクラヴィスの部屋に辿りついた。リックは自分が入室した後、閉まっているかどうか確かめもせずに奥に入ってしまったのだろう、僅かに開かれた扉の隙間から暖かい空気が漏れてくる。知らず室内の様子を伺うように聞き耳を立ててしまう。もしジュリアスがいたならばそれなりの声が聞こえるはずだが、今はなんの物音もしなかった。リックがいるのなら甲高い笑い声が聞こえてもよさそうなのだが、それもなかった。
部屋は不自然な程しんと静まりかえっている。
「……リック?」
とりあえず中に入り、先客である彼の名を呼んでみた。常に来客を迎えるソファーには人影がない。と言う事は部屋の主ともども続きの奥の部屋にいる事は明白だった。カティスは先程のリック同様、室内を見回すようにゆっくりと首を左右した。すると予想通り仕切りのない続き部屋の奥の方に、求めていた彼らの姿があった。
それにややほっとして、すぐそちらに向かおうと一歩足を進めたカティスの靴底に妙な違和感があった。不思議に思い視線を下方にやると、何やら真っ白な紙を踏みつけていた事を知る。すぐに足をどけて、何気なくそれを拾い上げゆっくりと裏返す。その瞬間、それを見つめる瞳が驚愕に凍りついた。
── Lucifer抗生新薬に関する臨床研究許可申請書
ドナー名が空白になっているそれは、例のあの申請書だった。何故ここに、とは思わなかった。今朝ジュリアスがクラヴィスに話をするといい、その話し合いは確実にこの場で行われたからだ。しかしその最も重要な書類であるべきこの申請書が、床に投げ捨てられるように落とされていた事は、カティスに思いもよらぬ衝撃を齎していた。何があったかはわからない。けれど、この部屋の異様な様子を見るに確かに「何か」があったのは事実なのだ。
「── クラヴィス!」
思わず叫ぶようにその名を呼び二人がいる部屋の奥へと早足で歩んで行く。程なくして彼らの姿をはっきりと視界の中に納めた彼は、その瞳に飛び込んできた光景に再び驚きに目を瞠った。
「……カティス」
カティスの呼び声に応えたのは名を呼ばれたクラヴィスではなく、リックだった。彼はその小さな身体をクラヴィスの腕によって抱きしめられたまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「リック!一体どうしたんだ。何かあったのか?!」
「……よく、わからない。クラヴィスが急に……」
「クラヴィス……おいクラヴィスしっかりしろ!」
慌てて駆け寄り、驚きのまま硬直してしまっているリックからクラヴィスを引き離す。彼は未だ俯いたままでその所為で顔は長い黒髪に隠され何が起こっているのかすら分からなかったが、差し伸べた腕を掴んで来る指先の強さに意識はある事を知る。
とりあえず両手で眼前の身体を支えるように掴み強引に前屈みの姿勢を立て直すと、初めて髪に邪魔をされて見えなかったクラヴィスの顔が露になる。彼の背後から差し込んでくる日の光が逆光とは言え白い顔を照らし出す。ゆっくりと上げられたその表情は常と同じ、なんの変化もない無表情だった。
ただ一つだけ……左目のすぐ下、頬骨の辺りが僅かに朱に染まっていた。その赤に、カティスはやはり先程の話し合いが穏やかなものではなかった事をすぐに悟った。
「………………」
「……クラヴィス」
優しく、宥めるような音声でその名を呼ぶ。それでも目の前の顔は微動だにしなかった。じっと一点を見つめる瞳には何も映されていない事を知っているのに、彼にしか見えない何かを見つめているようにも見えた。その心に齎されたのは衝撃と、絶望。殆ど放心したように視線を空に投げるその姿に、カティスは手にしたままだった申請書を握りつぶしたい衝動に駆られた。けれど、そうした所でなんの解決にもならない事も知っていた。
掌を通して伝わる温もり。不意に、「失いたくない」と強く叫んで何も言うなと進言した自分を睨み付けたジュリアスの蒼の瞳を思い出す。両者の気持ちを思うと、胸が潰れそうだった。その苦しみが自然と彼を支える指先に滲み出る。強く力を入れたその先にある、既に折れて皺になってしまった白い紙がかさり、と小さな音を立てた。
「……カティス」
どの位の沈黙が続いたのか。突然、静かな室内の空気を震わせるような掠れた声が響いた。はっとして少し外していた視線を元に戻すと、漸く己を取り戻したかのように表情に変化をつけたクラヴィスが、自分の意思で顔をあげ、閉ざされていた唇を僅かに開いた。
「……なんだ?」
「ジュリアスを、呼んで欲しい。……私をドナーに……」
「何?」
「サインを……するから。……今すぐに。気持ちが、変わらないうちに……」
途切れ途切れに吐き出されたその言葉は、最後まで紡がれる事なく空に消えた。
変わりに白い頬を伝ったのは、一筋の透明な……涙だった。
ずっと、涙だけは流すまいと思っていた。
遠い昔……確か母が眠るようにこの世から去ってしまったあの日。悲しみと絶望で数日間部屋に閉じこもり、泣き暮らした事があった。泣いて泣いて、体中の水分が全て涙となって流れ出てしまっても、泣きやむ事が出来なかった。母があの暖かい手で抱きしめてくれるまではこの涙は決して止まる事はないだろうと思っていた。
小さな頃から自分は大層な泣き虫で、母だけがその涙を止める事の出来る唯一の人だった。その母はもういない……冷たい棺の中で永遠の眠りについたのをこの目で見て、手で触れてわかってはいたのに、幼い自分はそれを認める事が出来ずにいた。
あの時はこうして泣いていればもしかしたら母が……死んだはずの母が来てくれるかもしれないという稚拙すぎる打算もあった。けれどそんな奇跡が起きるはずもなく結果的に暗い部屋で一人、来るはずもない母だけを思い孤独に押しつぶされそうになりながらじっと部屋の隅にうずくまる日々が続いた。
元々余り健康ではない身体は精神的ショックにより酷く憔悴し、自力で立ち上がる事すら出来ない程衰弱した。けれども、食事はおろか日々生きる為に必要な薬の類すら一切口にしなかった。あの時はそこまで真剣に考えてはいなかったが、もしかしたらこのまま自分も死んでしまえたらいいのに、母の所へいけたらいいのにと、ひそやかに願っていたのかもしれない。
当時の自分には母のいない世界など……生きている意味がない場所だった。
冷たく寂しい、一筋の光すら見えない場所。しかしそんな場所にも、確かに救いはあったのだ。
『クラヴィス』
母の葬儀が行われてから幾日か経ったある日。閉ざされたままだった部屋に隣の幼馴染が訪れた。内側から鍵を掛け誰も入れないようにしたはずなのに、何故か彼は寝室の隅にいた自分を見つけ出し、やや厳しい声で名を呼んだ。厳しいというよりは、彼も必死に何かをこらえているような、そんな声だったのかもしれない。
その呼びかけに、答える事は出来なかった。今の自分を救えるのは死んだ母親のみだとこの期に及んでそう思い込んでいたからだ。目の前にいるのが幼馴染だと分かっているのに、思わず口からついてでた言葉は「母さん」だった。その言葉は一度だけではなく、幾度も幾度も止め処もなく零れ落ちた。瞳から流れ落ちる涙のように、留まる事を知らずに。
そんな自身の事を幼馴染は……ジュリアスは、暫くの間ただじっと眺めているだけだった。常ならば「男の癖に泣くな」だの「うるさい」だの好き放題言う癖に、その時ばかりはそんな言葉は一つも紡がれる事はなかった。時折、言葉を捜すように口を僅かに動かそうとする仕草が何度か目に入った。けれど、ついぞ彼は何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいかもしれない。
そうしてどの位の時が経っただろうか。殆ど止まってしまった様な時間を再び動かしたのはジュリアスだった。
彼はやはり何も言う事はなかったが、立ち尽くしていたその場所から僅かに動いたと思った瞬間、ふわりとした仕草で小さな腕の中にうずくまる身体を抱きこんだ。それは彼自身何度も目撃していた、母が自身を胸に抱く仕草とまるで同じものだった。
『……泣くな、クラヴィス。そなたがこんな風に泣いてばかりいると、そなたの母上は安心して天国に行けなくなる』
天国に行けなくなる。
その言葉に何か悲しい響きを感じてずっと俯いていた顔を上げると、不意に頬に暖かいものが落ちてきた。それがジュリアスの涙だと気づくのに、大分時間がかかった事を覚えている。
彼は何故か泣いていた。
自身の母を悼む気持ちに共感してか、それとも別の理由があったのかは分からないが、声も出さず、眉一つ動かさずに静かに涙を流していた。
その時の彼の顔は今でも鮮明に覚えている。そして同時に感じた鋭い胸の痛みも共に思いだすのだ。後にその理由を訪ねてみると「そんな事は知らない」とそっけなく答えた後、小さな声で「そなたが泣くと、私も泣きたくなる。そんなみっともない事は嫌だから、泣くなと言っている」と呟いた。その答えを聞いた時、自身に一つの決意めいたものが浮かんだのを覚えている。
……ああそうか、ジュリアスは僕が泣くのが嫌なんだ。自分が泣いてしまう位嫌な事なんだ。それならもう絶対に泣かないようにしよう。僕もジュリアスが泣くのは嫌だから。と。
新たに出来た生きる意味。どんな時も、何があっても笑顔でいて欲しいと幾度も言い聞かせてくる母の顔が脳裏に焼きついて離れなかった。母と共に生きる事は叶わなかったけれど、こんなにも近くに共に生きて欲しいと言ってくれる人がいる。それだけで、十分だった。
それからというもの何があっても、例えどんなに辛い事があっても涙を流す事はしなかった。自分自身にしかわからない、小さな小さな決意。そうする事によって、耐える事が出来たのもまた事実だった。泣いては負けだ、幾度そう思ったかわからない。……それなのに。
噛み締めた唇から、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪える。それまでなんとか持ちこたえていた何かが、目の前の小さな温もりに触れた途端弾け飛んだ。この小さな命を、いや同じ運命の元に生きる全てのものを救いたかった。けれど……どうしたらいいかわからない。割り切る事も出来ない。今まで押し殺してきた様々な想いが胸の奥底から溢れて来る。泣くのは卑怯だ。そう頭の片隅で己を嘲る声が聞こえる。しかし、もう限界だった。
「……クラヴィス」
不意に頭上から静かな声が聞こえた。先程から何も言わずその様子をただ見ていたカティスの声。濡れた頬を拭う事すら思いつかず、そのまま顔をそこに向けると彼は一枚の紙を握り締めたままだった手の甲へと触れさせた。かさり、と微かな音が部屋に響く。
「申請書はここにある。……だがな、今のお前にこれにサインをする資格はない。俺達は、お前が泣いてまでドナーになって欲しいとは思わない」
手の甲の感触が遠ざかる。僅かな音の様子でそれが再び彼の手に戻され、遠く離れた場所に置かれた事を知った。
「ジュリアスを呼んでくる。何処にいるか分からないから、すぐにとは行かないかもしれないが。……奴がここに来るまで、もう一度良く考えてくれ。本当にそれがお前の望んでいる事なのかを。……いくぞリック」
「……え……クラヴィスをこのままにしておいていいの?」
「いいから。……俺達は邪魔なだけだ」
その言葉を最後に、部屋から人の気配が消えた。小さくなる足音をどこか遠くで聞きながら、クラヴィスは漸く己の頬に指で触れた。
既に冷たくなった涙の跡を静かに辿り、彼は再び唇をきつく噛み締めた。
それからどの位の時間が経ったのか。暖かだった部屋の空気が徐々に冷えていく感覚にずっと同じ場所で微動だにしなかったクラヴィスは、漸く顔を上げいつの間にか座り込んでいたその場所から立ち上がった。視覚的に時間を知る術がない彼には赤々と染まった空や近間にある時計に目を向ける事が出来ない為、今がもう夕刻であり、カティス達が部屋を去ってから片手以上の時間が経っている事などわからなかった。
長時間特に思う事もなくぼんやりと過ごしていた所為で、立ち上がって歩き出した今でも全身が妙な浮遊感に包まれているようで現実味がなかった。特に何処へ行こうという意識も余りなかった彼は、取り敢えず冷たい風が吹き込んでくる開け放たれたままだった窓を閉めようと、つい先程までいた窓辺へと歩み寄る。
両手を伸ばして静かに窓を閉ざそうとした瞬間、最後の風が少し強く室内へと吹き込んだ。その所為でふわりと一枚の紙が置かれていた場所から音もなく落ち、風に流される形で床を滑ると、立ちつくすクラヴィスの足下で動きを止める。それを身を屈めて拾い上げた彼は、その紙がなんであるかを確かめようと指先で辿った刹那、ほんの僅かに目を瞠った。
クラヴィスが手にした一枚の紙、それは彼の心を大きく乱す切欠となったあの申請書だった。ドナー本人にも内容が分かるよう、表記されているものと同内容の文章が点字で打ち出されているようだった。それを瞬時に悟った彼は、指先の感覚でそこに記された数多くの誓約を読み、自分の身にこれから何が起こるかを知る事が出来た。その紙に名を記した時点で、己の命は研究者達の手に委ねられる事となる。
最後の行に指先を留めたままクラヴィスは漸く取り戻した通常の思考で、今日起きた様々な出来事を思い返した。突然もたらされた吉報、同時に突きつけられた現実と絶望。リックを前に襲われた焦燥と大き過ぎる悲しみの感情にどうしたらいいかわからなくなっていた。今この瞬間もそれらの混沌とした思いは胸中を駆け巡り、微かな恐怖となってクラヴィスを襲う。
記憶を失う事への恐怖。クラヴィスにとってそれはまさに死へのそれと全く同じものだった。今の自分を忘れてしまう未来の自分。この短い生の中で培われた思い出も、決して失いたくないと願っている大好きな人々の事も全て無くして、抜け殻のようなこの身だけが残る事実。目覚めた瞬間、彼等を見て「お前は誰だ」と口にするのだろうか。……それを思うだけで、身体が震えた。
クラヴィスにとって、この思いは命と同じ位大切なものだった。何を失っても手放したくはないものだった。けれど己の陰には同じ病で苦しむ沢山の人々がいる。彼等を救う為には、自分が選ぶ道は一つしかなかった。
── それでも、クラヴィス……私はそなたに生きて欲しい。
あの時、常に力強い声で自身に力を与えてくれる幼なじみが発したその一言は酷く掠れて、今にも消えてしまいそうだった。彼の祈りにも似たその言葉に、それでも嫌だと言える程我が儘でも身勝手でもないつもりだった。けれど……。
「……………………」
胸に溜まった重苦しい思いを吐き出すように大きな息を一つ吐くと、クラヴィスはその紙を手に隣室にある書き物机へと歩んでいき、塵一つ無い机上へ置かれたままだった細かな装飾が美しい万年筆を手に取った。数年前……まだクラヴィスの瞳が世界を正確に映しだしていた頃、誕生日プレゼントとしてジュリアスから贈られた物だった。同じデザインで色違いの物が彼の白衣の内ポケットにも収まっている。彼曰く、共に誕生日を迎える記念に対で買ったものだと言う。
触れた時は酷く冷たかったそれが、徐々に自身の熱を移して温んでくる頃、クラヴィスは音もなく机上に広げた申請書をもう一度丁寧に指で辿り内容を確かめると、最後に据えられたドナー本人のサインを記す欄に躊躇なく己の名前を書き込んだ。寸分の乱れもない、まるでしっかりとそこを見据えながら書いたような、美しい文字で。
話し合う必要はもう無かった。この先、誰とどのような会話を交わしたとしても、導かれる結果は一つしかない事は分かっていたから。
コトリと小さな音を立てて書類の上へ重し代わりに万年筆を置いてしまうと、クラヴィスは緩やかにその場から身を引くと、そのまま室内の何処へも戻らずに回廊へと続く扉へと向かった。数秒後、軽く木が軋む音がして、宵闇に満たされた部屋から人の気配が消えてしまう。
去り際に灯されたのだろう、デスクランプの淡い光が机上の白い紙をぼんやりと照らし出していた。
その頃、遥か離れた研究棟では政府直属機関との接見を終えたジュリアスが一人、深い溜息を吐いていた。その殆どが手の中に収められた形となった一枚の書類には、到底信じ難い身勝手な要求が書き連ねられている。そのどれもがこの奇病に携わった研究者達の怒りを呼び起こさせるものだったが、中でも一際ジュリアスの目を奪ったのは、この度の臨床試験における被験者への保証と書かれた一文だった。そこには被験者の……すなわちクラヴィスの死亡を前提とした保証金について、至極簡素に表記されていた。
「何事にも絶対という言葉はない。我々は常に万が一の事態を想定し、それに迅速に対応しなければならないという義務がある。君達研究者の腕を信じていないわけではないが、Luciferのような元より死亡率の高い病を扱うなら当然の事だろう」
審議に同行した政府高官が発したこの一言に、激しい非難の声を浴びせかけようとした研究者達は皆一様に黙りこむ事しかできなかった。そう……絶対などという保証はない。確証が持てないからこそ、一つの尊い命を「利用」し「実験」を行うのだ。その事実を認識させられるにつけ、ジュリアスは自身がこれから行おうとしている事への重さと恐怖を改めて思い知る。クラヴィスの元へ打ち捨てられるように置いてきたあの一枚の紙切れが彼の命運そのものだった。
「……貴方は自分の身内も同然の人間を、命の保証もない実験に利用するのですか!?」
審議終了後、ジュリアスはその場に集まった研究者達にドナーがほぼ確定した事を発表した。皆一様にこの試験での最大の課題であったドナー選出が滞る事無く行われた事に対しての喜びの意を示したが、その中でただ一人だけ、カティス同様ジュリアスとクラヴィスの関係をよく知っている男だけがそう言って怒りを露わにした。赤い炎の様な髪を持つ、その男の名はオスカー。ジュリアスが未だ学生の頃このEDENで似たような立場で出会って以来、親友としてそして志を共にする同志として、共に研究に打ち込んできた仲間だった。
彼……オスカーにもクラヴィス同様Luciferに冒された年下の恋人が存在していた。その恋人とは、ジュリアス達同様に幼なじみの間柄だった。彼は既にLucifer研究者としてEDENに勤務していたジュリアスの元へ「恋人を救いたい」というその一心でやってきた。オスカーの誰にも負けない意思の強さと研究に対する情熱の強さを即座に感じたジュリアスは、彼を己の右腕としチームの要となってただひたすら突き進んできた。その結果、打ち出された残酷とも言える解決法に、誰よりも激しく反発したのは彼だったのだ。
彼は皆が去った後一人居残る形でその場に座したままだったジュリアスに駆け寄り、その胸ぐらを掴んで眼前の顔をきつく睨み据えた。握りしめた指先は力の余り色を無くし、微かに震えているようだった。
「それは違う!私は……クラヴィスを救いたいのだ。万が一の可能性があるのならそれに賭けたい。このまま何もせずに終わらせたくはない!」
「相手が望まなくても?クラヴィスは、決してそんな事を望んでいないはずだ!……貴方の願いとあれば、彼が首を振る事はない。けれど!」
「望む、望まないの問題ではない。それにドナーは誰かがやらなければならない事だ。私はクラヴィスに対して卑怯な手を使った。その時点で、もう取るべき道は決まったのだ。憎まれても、蔑まれても構わない」
「ジュリアス様」
「覚悟は最初から決めていた。だから誰に何を言われても私の心が揺らぐ事はないだろう」
「……………………」
「オスカー。そなたの恋人……ロザリアを救うためにも……理解してほしい」
蒼い瞳が数倍の強さをもって睨む男の瞳を見つめ返した。その蒼の輝きに、返答如何では目の前の白い頬を殴り飛ばしてやろうと思っていた男の拳にはそれ以上力が込められる事はなく、白衣の胸元を掴んでいた指も徐々に力を失っていく。そう、分かっているつもりだった。彼がなんの為にこの精神的にも肉体的にも過酷極まる研究に日々打ち込んでいたのかを。それは全て、この度のドナーとなる一人の青年の為だという事も。
生存確率50%。例え成功したとしても、代償として重度の記憶障害を引き起こす。魔の実験。
『堕天使という名の病を悪魔のワクチンが消滅させるというわけか、恐ろしいものだな』
研究結果と試験内容を目にした審査官が即座に口にした言葉に、その全てが示されている気がした。
「……貴方は卑怯だ。そこで彼女の名前を持ち出すなんて」
「そうだな。私は卑怯だ」
その言葉にもはや何も言う事もなく、完全にジュリアスの側から離れてしまったオスカーは、無言のまま己のファイルを手にすると、部屋を後にするべく踵を返す。その胸中には未だやりきれない思いと、一つの絶望に近い不安が過ぎっていた。
「……記憶を失うって、どんな感じなんでしょうね。きっと、死よりも恐ろしいものなのかもしれない。俺はそれを思うだけで……」
「オスカー」
「こんな結果を、望んでいたわけじゃなかった!」
その悲鳴にも似た声は、室内に幾重にも木霊して立ちつくすジュリアスの胸に響く。激しい音と共に閉ざされた扉は余りの衝撃に自動ロックが掛からず、エラーを知らせる音声が警告音と共に繰り返された。
「……私とて、望んでいたわけではなかった」
一人残されたジュリアスの口から、そう苦しげな呟きが吐き出されたのは、それから数秒後の事だった。胸の奥がズキリと痛む。研究の結果が判明してからというもの、既に慣れた痛みとなっていた。……苦しい。けれど、その何倍もの痛みと苦しみを胸に抱えている人々がいる。どんなに彼等の事を思いやったとしても、自らが経験しない限りその辛さはわからないのだ。
出来るものなら全てを代わってやりたいと、幾度思った事だろう。
「………………」
そんな事を考えながら、自らも自室に引き上げる準備をしていたジュリアスの耳に、不意に小さな電子音が届いた。特に慌てもせず白衣の内ポケットに収めていた小型通信機を取り出し応答しようとしたその時、酷く動揺したカティスの声が大きく響いた。
『ジュリアス、今どこにいる?クラヴィスが部屋にいないんだ!』
「……何?!」
『机の上にサイン済みの申請書を残して何処かにいっちまったんだよ。時間が時間だから心配なんだ。すぐに来てくれないか?』
「……わかった、すぐに行く」
その言葉が全て終わる前にジュリアスは側にあった書類を小脇に抱え、即座に部屋を後にする。人気のない回廊をひたすら走りながら、しまう事を忘れた通信機をただきつく握りしめる。
扉のエラー音は、まだ密かに響いているままだった。