Eden Act5

「俺が様子を見に来た時、既に部屋の中には居なかったんだ。リックと二人でこの部屋を出てから大分経っていたからな……何時出て行ったのか。すぐに探しに行こうと思ったんだが、一応お前に知らせた方がいいと思って。どうせEDENから外へは行けないからな」
「……そうか」
「あいつの事だ、そう遠くにはいけっこない。ただ、階段から足を踏み外していたりしたら事だし……」

 クラヴィスの部屋についてすぐ、その場にいたカティスから事情を聞いたジュリアスは机上に置かれていた申請書を手に取り、そこに記されたサインをじっと見つめていた。迷いの無いしっかりとした美しい文字……それに込められた想い。机の隅に転がった馴染み深い万年筆に手を伸ばし、自身の白衣の内ポケットに収められている色違いのそれの横に差し込むと、素早く踵を返して歩き出した。

 カティスの言う事は正しい。幾ら失明してからの時間が大分経ったとは言え、介添え無しでこの巨大な施設内を歩ける程クラヴィスは見えない世界に慣れている訳ではなかった。以前も自室から庭園へと向かう途中で本当に些細な凹凸に足を取られて危うく転倒する所だった。あの時は偶然側を通りがかったカティスに支えられて事なきを得たものの、この度はそうはいかない。明るい院内ならまだしも宵闇に沈んだ庭園内では誰も彼を見つける事は出来ないのだ。

 どうしようもない不安にかき立てられる。一刻も早く側に行ってやりたかった。

「探しに行ってくる。カティスはこの部屋にいてくれ。もしかしたら私が探している内に帰ってくるかもしれぬ」
「ジュリアス」
「頼んだぞ。多分すぐに見つかると思うが」
「ジュリアス、待て!」

 来た早々口早にそう捲し立て、焦燥にかき立てられるままに外へ出て行こうとするジュリアスを、カティスは鋭い声で引き留めた。その激しさに真鍮の取手を握りしめたまま思わず背後を振り向いた彼は、苛立たし気な表情を隠しもせずじっとこちらを睨んでくる。この部屋の暗さの中でも嫌にはっきりと見える、どこか鬼気迫るようなその白い顔をカティスは複雑な思いを持って見つめていた。その姿に、先程のクラヴィスを重ねながら。

「泣いていたぞ」
「え?」
「あんなに気丈な男が、泣いたんだよ。どれだけの辛さか分かるだろう?お前があいつにした事はそういう事だ。あいつの意思を半ば無視して、断れないような願いを押しつけて、結果的にお前の願いだけは叶った。それで満足か?」

 一つしかない未来に向かい、未だ互いに納得のいかないまま歩んでいかなければならない事実。ジュリアスの血を吐くような叫びもクラヴィスの苦悩の涙も、目の当たりにしているのに何もしてやれないもどかしさ。かといって、下手に手を差し伸べても意味がない。傍観者でいる事がこんなにも辛いものだとは思わなかった。そんな方向違いな苛立ちについ、言葉がきつくなる。こんな風に追い詰めた所で何が変わるわけでもないのに。

「クラヴィスがサインをした以上、俺が何を言っても仕方がない事だと分かってる。お前達の未来はもう決まった。後はその選択にお前が責任を持てるかどうかだ」

 ── 責任。嫌な言葉だと、そう思った。

 未だ若く、まだ頼りないその肩にのしかかる途方もない重圧。連日の激務の所為で少し痩せた身体にこれ以上の何を押しつけようというのか。カティスの中にほんの僅かな哀れみの気持ちが浮かんでは消えていく。しかし哀れむ事こそ彼が一番嫌うものだった。今この瞬間もそう思っているに違いない。訪れた沈黙が酷く息苦しかった。

「………………」

 真っ直ぐにこちらを見据え紡ぐ言葉に力を込めるカティスをジュリアスはただ静かに見つめ返すだけだった。言われるまでもない、全てを背負う覚悟が出来たからこそ行動した。何も後悔はない。……幾度も己に言い聞かせたその言葉をもう一度胸の中で繰り返し、ジュリアスは再び彼に背を向けた。

「私は、そのつもりで決断した。何があっても受け止めてみせる」
「……ジュリアス」
「ここを頼む、カティス」

 最後にそう言い残し扉の向こうに消えていく白い背をカティスは微動だにせずに見送っていた。遠ざかっていく足音にどこか焦燥めいたものを感じた彼は、それでも何もする事が出来ずにじっとその場に佇んでいた。

 いつの間にか無意識に握りしめていた指先が掌に食い込んで鈍い痛みを伝えてくる。

 僅かに吐き出された溜息は静かすぎる空間に嫌に大きく響いた。
 かさり、と草を踏みしめる音が辺りに響いた。夜露に濡れたそれはただでさえ歩きにくい道を更に困難にしていたが、規則的に動く足はその場に止まる事をせず更に先へと進んでいく。やがて伸ばした手に触れる無機質な冷たい壁に突き当たり、彼の歩みは漸く止まる。

 人工の星々と月明かり以外は何もない夜の庭園……その片隅にクラヴィスは存在していた。行く先など特に考えず、足の向くままに歩いた結果辿り着いた場所だった。

 部屋を飛び出した理由はただ一つ。この一日の内に色々な事が起こり過ぎたあの場所からとにかく抜け出したいと思ったのだ。そしてやがてあの部屋に帰ってくるだろうジュリアスとも少しの間だけ距離を置きたかった。勿論本気で逃げたいと思った訳ではない。逃げた所で何が変わる訳でもなく、この暗く沈んだ気持ちが晴れる訳でもなかった。それでも、ただじっと蹲っているよりはマシだと思ったのだ。

 数日後には今日の事も全て忘れてしまうのだろう。自分がどんなに思い悩んで苦しんだ所で全ては無に帰してしまう。その空しさに、悔しさに、知らず唇を噛みしめる。同時に目の奧が熱くなり、慌てて顔を上向けた。

「………………」

 触れる壁に当たる事も出来ず小さな溜息を一つ吐くと、クラヴィスは諦めたようにそこからゆるりと手を離し別方向へと歩みだす。ここがどこかなど既に見当もつかなかった。ただ指先に触れるこの冷たい壁が、外界とEDENとを隔てるものだという事は分かっていた。

 この壁の外で暮らしていた時のあの幸せな日々はもう二度と戻っては来ないのだ。眩しい程の日差しの下花と緑に囲まれた庭園でジュリアスと二人、空に星が煌めくまではしゃぎまわった。身体が弱かった自分は時たま家の中に籠もる事を余儀なくされたけれど、それでも特につまらないと思った事はなかった。

 そんな毎日が永遠に続いていくと思っていた。少なくても、こんなに早く終わってしまうとは思いもしなかったのだ。15年前のあの日までは。

 

『僕ね、大人になれないんだって』
『え?』
『あと十五回誕生日が来ると死んじゃうんだって』

 

 ── 大人になれない。

 そう、今の自分はもう大人になどなれないのだろう。幼い自分が諦めと共に吐き出した言葉が、こんなにも強く胸を締め付けるとは思わなかった。いっその事あの時にきちんと全てに別れを告げていれば、これほど苦しまずにすんだのだろうか。そんな後ろ暗い思いだけが脳裏を過ぎり、漸く割り切った筈の悲しみが再び首を擡げてくる。振り切るように空を仰いでも、目に映るのは真っ暗な闇ばかり。あの夜空に美しく輝いていた満天の星空はもう記憶の中でしか見る事が出来なかった。

 あの頃に帰りたかった。何もかもが全て眩しく映った幼いあの日々へ。しかしどんなに切望した所で時間は戻りはしないのだ。そう思うにつけ、小さな絶望感が胸を刺す。そしてその痛みの所為で立ち止まったこの場所から一歩も動けなくなっていた。

「………………」

 まるで力が抜けたようにゆっくりと、その場にくず折れるように膝をつく。薄い部屋着を冷たい夜露が濡らしても特に何も感じなかった。この作られた人工庭園では、夜は物音一つ聞こえない。外界なら当然響くはずの虫の声や草木の息吹は存在しなかった。辺りをぼんやりと照らす外灯の柔らかな光が見えないクラヴィスにとってまさにここは誰もいない暗闇の世界だった。どうしようもない孤独感に苛まれた心は、冷えていく体温と共に凍えてしまいそうだった。

 苦しみから少しでも逃れる為、自ら望んで暗闇の只中に飛び出してきたはずなのに、何故こんなにも胸が痛むのだろう。思い出さなくてもいい過去まで思い出してしまうのだろう。いっそこのまま何もかもを無くしてしまった方が楽なのではないか、そう思い疲れたように瞳を閉じたその時だった。

「クラヴィス!」

 強く草を踏みしだく音と共に響く、鮮烈な声。それは紛れもないジュリアスの声だった。驚愕し思わず顔を跳ね上げ見えるわけもない目を見開くと、ほんの一瞬だけ光が見えたような気がした。真昼の日差しのような強く、暖かい光が。声の主はかなり距離のある場所から自分を見つけたのだろう、もう一度呼ばれた声は幾重にも木霊して静けさに満たされた庭園に響き渡る。

「……ジュリアス」

 空気を切り裂くような呼び声に応えたのは喉奥から絞り出すような掠れ声。それは思ったよりも弱々しくジュリアスの耳に届いたようだった。彼はすぐさま目の前に駆け寄ってくると片膝をつき、クラヴィスの肩を殆ど力任せに掴んで顔を覗き込む。肩を掴んでくる腕が微かに上下しているのと、抑えてはいるが確かに聞こえる荒い呼吸音に、クラヴィスは彼が必死になって自分を探していた事を知った。

 勝手をした事を怒鳴られる、そう思い反射的に身を固めたクラヴィスの耳に最初に届いたのはジュリアスの怒号でも罵声でもなく、優しい労りの声だった。

「随分と探したのだぞ。こんな所にいるとは思わなかった。……どこか痛めた所や具合の悪い所はないか?」
「………………」
「ないのならば良いのだが。カティスもそなたの事を心配をしていた。とにかく、部屋に帰ろう。ここは大分冷えてくる」

 ジュリアスの言葉通り、時間が経つにつれて少しずつ冷たくなってきた外の空気にクラヴィスは僅かに身を震わせた。頬に掛かる己の髪が酷く冷たい。濡れた下草に触れる指先は殆ど感覚がなくなっていた。けれど、ここから動きたいとは思わなかった。

 あの部屋に帰れば嫌でも明日がきてしまう気がして怖かった。サインをする事によって覚悟を決めたつもりでも、実際は現実を受け入れてなどいなかったのだ。ジュリアスを目の前にした瞬間急に溢れ出たその想いにクラヴィスは自ら酷く戸惑っていた。

「クラヴィス」

 肩を掴んでいたジュリアスの指先がそのまま腕を取る形になり、立ち上がらせる為に軽く引いてくる。しかしその動きに従うそぶりはまるでなく、クラヴィスは逆に抵抗するように取られた腕を振り払うように力を込めた。空で中途半端に留まった腕。そこから互いにじわりとした熱を感じた。

「……私の気持ちは変わっていない。今でも本当は……記憶をなくす事が怖い。……私が私でなくなってしまうのなら、このまま死んだ方がいいと思った」

 不意にゆっくりと一つ一つの言葉を噛みしめながらそう呟いたクラヴィスの言葉が闇に溶けた。その突然の言葉に少なからず動揺したのだろう、腕を掴むジュリアスの力が強くなる。

「けれど、私が実験体になる事によって、救われる者もいる。……そう言われてしまったら、私には一つしか道は残されていないじゃないか。……そうだろう?」
「……そうだな。そしてそれは私の願いだ。自分勝手なのはわかっている。それでも、そなたには生きて欲しい」
「お前の事を忘れてしまっても?……全て無くした私が……お前を、好きにならなくても?」
「それでもいい。そなたがクラヴィスでさえあれば。何故、そんな事を聞く?」

 何時の間にかジュリアスの手はクラヴィスの腕ではなく指先に触れていた。夜露に濡れ、氷の様に冷たい指先は微かに震え、それでも重ねられた暖かい掌に応えるようにきつく握り締めてくる。間近で見つめる焦点の定まらない眼差しは見えないながらも確実にジュリアスの瞳を捕らえていた。

 痛いほどの静寂が二人を包む。その静寂を破ったのは、やはりクラヴィスの言葉だった。

「何を失っても、これだけは失いたくなかった。今までもこれからもずっと、お前が好きだという事を。……一緒にいて欲しいというこの気持ちを……」
「クラヴィス」
「忘れたくない……ジュリアス……!」

 最後は殆ど悲痛な叫びだった。その言葉を放った刹那、クラヴィスは糸が切れるようにそのまま気を失ってしまう。今日一日の精神的負荷に身体が耐えられなかったのだ。

 腕の中に倒れ込んで来た痩せたその身体を抱きしめながら、ジュリアスは僅かな間放心していた。好きだという気持ちを忘れたくないと、ずっと共にいる事を切望していると彼が確かな言葉で口にしたのは初めてだったから。

「………………」

 ジュリアスは無言のまま腕の中のクラヴィスの顔を見下ろした。

 そして彼を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「少し熱が高いな。まぁ単に疲れただけだろう、あの庭園は今は冷え込むし今日は色々あったからな。安静にして一眠りさせてやれば直ぐに下がる」

 手にした電子体温計を眺めながら、カティスがそう口にしたのは二人が庭園で出会ってから一刻程後の事だった。彼は様子を見るために寛げたクラヴィスの胸元を直し厚い毛布を掛けてやりながら、背後でただ黙ってその様子を見守っていたジュリアスを振り返り、大丈夫だ、と念を押した。

「お前も今日は疲れただろう?クラヴィスは俺が診ているから、自室に帰って休んで来い。明日も朝から忙しいんじゃないのか」
「………………」
「そこに黙って突っ立ってたって邪魔なだけだぞ。……それとも何か?もしや自分の言動について今更反省しているとかじゃないだろうな」

 言いながらカティスの手は僅かに汗の滲む白い額に触れ、乱れて張り付く黒髪を丁寧にかき上げた。常に病的な程青白い頬や色のない唇は熱の為に赤みが差し、浅く繰り返される呼吸は掠れて酷く苦しそうだった。しかし何よりもジュリアスの心を締め付けているのは、クラヴィスが意識を失う前に自身に向かって吐き出した言葉だった。

── 今までもこれからもずっと、お前が好きだという事を。……一緒にいて欲しいというこの気持ちを……

── 忘れたくない……ジュリアス……!

 痛いほど強く握り締められた指先の感触。今まで何一つ弱音や我侭を言った事がない彼が、見えない瞳で己の顔を睨み、真正面からぶつけてきたそれをジュリアスは辛うじて受け止めた。何があっても受け止めてみせると言った以上、どんなに辛くてもそうする以外術がなかった。けれど、胸が苦しい。呼吸をするのすら辛かった。

「お前は受け止めて見せるなんて簡単に口にするが、現実はそう甘いもんじゃない。クラヴィスの人生はクラヴィスのものだ。こいつがどんなに悩み苦しんでいるか目の当たりにして分かっただろう?」
「……ああ」

 胸に澱んだ重苦しい想いを吐き出すように、ジュリアスは拳をきつく握りしめてそう答えた。そんな事は目の当たりにしなくても分かっているつもりだった。自分のとった行動がどれだけクラヴィスを悲しませるか。いかに自分の物言いが理不尽か。けれどそうする以外に未来へと続く道が見出せない以上、仕方のない事だった。

「……見てみろ、ジュリアス」

 不意に再び視線をクラヴィスへと向けていたカティスが、小さな声でジュリアスの名を呼んだ。その声に弾かれる様に顔を上げ、彼が熱心に見つめていたクラヴィスの顔に視線を転じる。そして、驚愕に目を瞠った。

 熱に浮かされ軽く眉を潜めて眠り続ける彼の目元から一筋の涙が零れ落ちていた。それは直ぐに留まる事はなく、間断なく溢れて耳元へと流れて行く。既に記憶もおぼろげな遠い昔に見たきりのクラヴィスの涙。声も立てずに泣くその姿を、ジュリアスはただ息を詰めて見つめる事しか出来なかった。

「何時だ?」
「……何が?」
「試験の開始日だよ。もう、決まっているんだろう?」

 カティスの静かな低い声が無感情な響きを乗せてジュリアスの耳に届く。それにも彼は視線を僅かにも動かさないまま、はっきりとした声でこう答えた。

「新年度早々に。正確に言えば1月1日から1年間だ」
「……後一週間ないんだな」
「……そうだ」

 しんとした静けさが、物音一つしない室内に満たされる。その静寂を破ったのは大きな溜息を吐き、ゆるりとした動作で寝台から身を離したカティスだった。

「やっぱり、今夜はお前に任せるよ。無理をしない程度に側にいてやれ」
「……カティス」
「残された時間を大事にしろよ。お前の所為で流れる涙は、お前にしか止めてやる事ができないんだからな」

 そう言い残し、軽くジュリアスの肩を叩くと彼は静かにその場を後にした。一人残されたジュリアスは暫くの間やはり微動だにせずにそこに佇んでいたが、やがて意を決したように寝台に歩みより、涙に濡れる頬に触れた。熱い頬に流れる冷たい涙に、得も言われぬ切なさと愛しさが込み上げる。

「……すまない、クラヴィス」

 小さな謝罪の言葉は、冬の夜の闇に消えた。

 ── 12月26日。二人の運命の日まで、残された時間は後僅かだった。