Eden Act6

「よし、体温も脈も正常だ。今日は起き上がっても大丈夫だぞ。ただし、無理はしないようにな」

 首筋に触れていた微かに消毒液の匂いのする指先がするりと離れていく。繊細な作業の多い医師の手にしては大きくて少し無骨な感があるその指先は、今の診察の為に取り出した器具を手際よくケースに収めた後、数種の薬が入った白い袋を取り出してベッドサイドへ置いた。

「とりあえず何でもいいから口にして、この薬を飲んでくれよ。今のお前は抵抗力と免疫力が殆どない状態なんだ。その辺で風邪でも拾ってみろ、大変な事になる。ちょっと疲労しただけでもこのザマだからな」
「……カティス」
「ん?なんだ?」
「……いや、なんでもない」
「具合が悪くなったら直ぐに言えよ。……あと、言いたい事もな。我慢なんてするだけ損だぞ」

 そう言うとカティスは視線を落としてしまったクラヴィスの肩を軽く叩き、踵を返す。部屋を去り際一度だけ振り向いた彼は、未だ微どうだにしないベッドの住人を眺めると小さく嘆息してこう言った。

「……ジュリアスは、試験の最終準備で寝る間もなく飛び回ってる。だが、昨夜も一昨日の晩もこの部屋に来て、短い時間だったがお前の側にちゃんといたぞ。今日辺りは大分落ち着くといいんだがな。見かけたら捕まえて来てやるから心配するな」
「…………………」
「クラヴィス」
「……わかった」
「そうそう、リックがお前の事を凄く心配していたぞ。熱が下がったら見舞いに行くから絶対教えろと煩くてな、そのうちここに飛び込んでくるかもしれない。その時はよろしくな」

 その言葉を最後に部屋には静寂が訪れた。小さく扉の閉まる音がして、力強い足音が遠ざかっていく。その規則正しい響きを遠くに聞きながら、クラヴィスはゆっくりと俯けていた顔を上げ、朝の清浄な空気が流れてくる開け放たれた窓辺へと目を向けた。

 夜の庭園でジュリアスと言葉を交わしてから、既に三日の月日が経っていた。この期間の記憶はクラヴィスにはない。気がついたら何時の間にか三日もの時が経っていたのだ。……あの日以来、クラヴィスはジュリアスの声はおろか気配すら感じない。その事がどうしようもない不安となってクラヴィスの心に影を落としていた。三日前のあの夜に、激情のままに吐き出してしまった言葉。あの叫びをジュリアスがどう受け止めたのか、自分に対してどう思ったのか……それだけが気がかりだった。

 ジュリアスが幾ら忙しい時間の合間をぬって側にいてくれたのだとしても、自分の意識がある時に顔を見せに来ないのは意図的な事で、その理由はあの夜にあるのではないかとクラヴィスは感じていたのだ。

 物分りの良い振りをして書類にサインをしたにも関わらず本当は嫌だと嘆き、相手の気持ちも確かめず一方的に好きだと……ずっと側にいて欲しいと言ってしまった事。どちらも確かに本心だった。けれどそれはジュリアスを困らせるものだとも知っていた。知っていたのに言わずにいる事ができなかった。言いたい事だけを好きに叫んで、意識を失った自分を見つめて彼は何を思ったのだろう。何を馬鹿な事をと呆れただろうか、それとも気の毒だと哀れんだのだろうか。……どちらにしても、彼の心を波立たせたのには違いない。

 ── それでも、クラヴィス……私はそなたに生きて欲しい。

 助かる方法があるとジュリアスが報告にきたあの日。酷く苦しげな声でそう呟いた彼の声は未だはっきりと耳の奥に残っている。あの時の台詞は確かに彼の心からのものだったのだろう。その想いを僅かにも疑った事はない。ただ、その想いが……愛情という己がジュリアスに向けるものと同質かどうかは分からなかった。当然の事ながら今まで彼と互いの気持ちを確かめ合うような会話をした事はない。この世に生を受けてから今日まで側にいるのが当たり前だったから、言葉など必要なかったのだ。

 ……そこまで想いを巡らせた所でふっと肩の力が抜ける気がした。どちらにしても、自分は後数日で自分ではなくなってしまうのだ。それから先の未来など考えても無駄な事。そう思うと少し気持ちが軽くなるような気がした。軽くなっただけで、心の奥底の痛みは消えはしないけれど。

 見えない瞳を閉じ、諦めの溜息を一つ吐くと、また瞳の奥が熱くなるのを感じた。堪えようとすればするほどその熱は高まっていく。しかし、幸いな事にその熱が涙となって瞳から零れ落ちる事はなかった。何故なら閉ざされたはずの部屋のドアが小さなノックと共に勢いよく開かれ、小さな足音が飛び込んで来たからだ。

「クラヴィス!」

 甲高い声と共に寝台の上に座したままだった身体にどさりと軽い身体がぶつかった。勢い余ったリックが寝台前で立ち止まる事をせずに、思い切りクラヴィスの膝に上半身を乗せ上げたからだった。

「……リック」
「良かったぁ!オレ、カティス先生からOK貰ってすぐに飛んできたんだ。もう起きても大丈夫なんだね!……ってごめん、重かった?」
「……いや。心配させてすまなかったな。私はもう、大丈夫だ」
「本当に?」
「……ああ、本当に。……今、お前が来てくれて良かった」

 無意識に手を伸ばし、近間にあった少年の頬に触れる。その冷たい指先にも驚かず、彼はむしろ喜んで熱い手の平を重ねてくれた。そして力強く握り締める。……何時の間にか、込み上げていた熱は引いていた。膝に感じる確かな重みと暖かな体温は、突然訪れた後ろ暗い感情を和らげてくれるだけの十分な力があった。一人でいたら更なる闇に捕らわれ、息をすることも出来なくなりそうだった。それほどまでにクラヴィスの身体はおろか、心も衰弱していたのかもしれない。

「……あ、そう言えば、オレお見舞い持って来たんだよ。……あんまり意味ないかもしれないけど……」

 クラヴィスの指先を握り締めたまま暫く嬉しそうに色々な話をしていたリックが、突然思い出したようにそう言った。その「お見舞い」とやらはリックのもう片方の手に握られていたらしく、彼はゆっくりと身を起こすと徐にその手をクラヴィスの前に付き出した。

「これ。なんだと思う?」
「……花の香りがする」
「あったり〜!さっき庭園で摘んで来たんだ。すっごく一杯咲いてて綺麗だったから、クラヴィスにあげようと思って。……目が見えないからつまんないかもしれないけど……白くて小さな花なんだよ」

 その言葉を聞きながら、クラヴィスはそっと目の前に掲げられているらしいそれに手を伸ばした。綺麗に摘み取られ、下の方をリボンか何かに束ねているのだろう。柔らかな細布が甲に触れる。ゆっくりと茎を辿り、僅かに揺れる花弁に指で触れた、その時だった。

「……これは、シロツメクサだな」
「シロ……なに?」
「これと共に珍しい形の葉が群生していなかったか?3つの丸い葉が寄り添ってる……」
「あーあったかも。でも、それがどうかしたの?」
「……別にどうという事はないが、凄く懐かしいと思ってな。昔はよく、この花で花冠などを作って遊んだのだ」
「はなかんむり……って?花で冠を作るって事?どうやって?」
「それほど難しい事じゃない。ただ数本束ねた花を繋ぎ合わせて行くだけだ」

 微かに口元を綻ばせそう答えるクラヴィスの顔をリックはじっと見つめていた。こんなに優しい笑顔を見たのは久しぶりだったから。この間の哀しそうな表情が頭に焼ついて離れず随分と気に病んでいたリックは、彼のこの笑顔をもっとみていたいと、突然こんな事を口にしたのだ。

「……じゃあ、オレにも作ってみせてよクラヴィス。今から庭園に行こう」
「庭園に?」
「うん。今日はあったかいし、ちょっとだけなら外に出たって大丈夫でしょ。カティス先生に許可貰ってくるから!」

 そういうと、リックはすぐに寝台を飛び降りて掛け出していく。その背を呼び止める事も出来ずただ見送ったクラヴィスは、手渡されたシロツメクサの花束をそっと両手で包み込んだ。

 幼いあの日を、懐かしく思い出しながら。
「オスカー、すまないがこの書類をカティスの元まで持って行ってくれないか?試験に関する具体的な計画が書いてある重要なものだから厳重に保管するよう言い置いてくれ。それがすんだら自室に戻り、そのまま仮眠に入って構わぬ」
「……ジュリアス様がご自分で行かれないのですか?俺は昨日も自室に帰る事が出来ましたし、休息も十分とっています。貴方こそ休息ついでにあいつの病室を覗いてくれば……」
「私には今やらなければならない事がある。いいから、頼んだぞ」

 膨大なデータが流れるディスプレイから一瞬も目を離さぬまま、ジュリアスはこれ以上の会話は無用とばかりに分厚い書類の束をオスカーに押し付け、キーボードを叩き始めた。その姿に尚も言葉を続けようとしたオスカーは、諦めの溜息を一つ吐くと、肩を竦めて言われた通り踵を返して歩き出す。

 病棟から大分離れた場所にある研究棟はまさに戦場のような慌ただしさだった。誰もが皆三日後に訪れる臨床試験の準備に終われ、各自それぞれの持ち場についての最終チェックを行ったり、必要書類の見直しをしたりと一時の休みもなく立ち動いていた。しかし今現在はそれもピークを過ぎて、一人、二人と仮眠を取る為に部屋を離れる事が出来る程落ち着きを取り戻しつつあった。

 そんな中で未だ少しも気を緩めず、僅かな休息のみでずっと研究室に詰めているのがジュリアスだった。この試験の責任者であり、被験体が彼の幼馴染という事もあって周囲はその根の詰めようも理解していたのだが、それにしても些か度が過ぎると心配する声が上がる位、ジュリアスの様子は異様だった。彼の身を案じる一人として、オスカーもそれとなく声を掛けてみたのだが、返って来るのは先ほどと同じ頑なな拒絶ばかりで埒があかない。数日前、この場所で激しい口論をしたあの日からどこか変わってしまったその姿に、オスカーは眉を顰めずにはいられなかった。

「………………」

 ずしりと腕に堪える書類を腕に抱え長い回廊をひた歩きながらオスカーは、幾度もその事に関する考えを巡らせていたが、あの後のジュリアスの状況を知る術は今の彼にはなく答えの出ない堂々巡りにしかならなかった。それでも、後数日で事実上の別れを迎えてしまう二人の事を思うと、現状は限りなく酷なものだった。残された時間を……クラヴィスにとっては失われてしまう事が前提の時であっても、大切に過ごして欲しい。それは、同じ苦しみを抱えた自分と恋人にも言える事だった。

「……ロザリア」

 ふと無意識に彼女の名前が零れ落ちる。この書類を届けたら、いつも通り彼女の部屋へ向かおう。自分たちとて残り時間はそう長くない。少しでも多く二人の時を持ちたかった。……そう思えば思うほど、彼等にもそうして欲しいと願う気持ちが大きくなっていく。そんなもどかしさがオスカーの胸中を満たしていた。
「……ったく。俺は確かに起き上がる事は許可したが、外出まで許可するといった覚えはないぞ」
「外出じゃないじゃん、ドームの中だし。今日は凄くあったかいし大丈夫だよ!ねーお願いカティス先生、ちょっとだけでいいから」
「……本当に少しだけだぞ。それから、俺の部屋から見える範囲内にいる事。何かあったら事だからな」
「わかってる!」
「じゃあ早く行って来い。クラヴィス、くれぐれも無理はするなよ。リックの我侭に付き合う事はないんだからな」

 それからどの位歩いたのだろう。不意に耳に飛び込んできた大きな声に、オスカーははっとして顔を上げた。見れば目の前はいつの間にか目的地であるカティスの部屋で、室内には部屋の主であるカティスとリック、そして今までずっとオスカーの思考を支配していたクラヴィスの姿もある。リックに半ば強引に連れてこられたのだろう、病み上がりだと聞いていた彼は未だ健常さを取り戻している様子はなく、立っているのが不思議な位危うげに見えた。……こんな状態の彼を一人置き去りにして、ジュリアスは研究室へ詰めているというのだろうか。そう思い、絶句する。

「じゃ、行ってきます!……って、あれ?オスカーじゃん。どうしたの?カティス先生に用?」
「……おはようリック。カティスに書類を持ってきたんだ」
「ふーん、先生なら中にいるよ。オレが呼んで来てあげようか?」
「……ああ、頼む」

 そんなオスカーの様子を知るはずもなく、元気に挨拶をして部屋を出ようとしたリックはすぐさま扉前に立つ彼に気づいた様だった。その声にも生返事で応え、じっと前を……正確に言えばリックの背後にいたクラヴィスを見据えたままの彼を不思議そうに仰ぎ見ながら、リックは彼なりに気を聞かせたのか、室内にいるカティスにオスカーが来た事を知らせる為に一旦クラヴィスの手を放し再び室内へと戻って行った。その場に残されたのは、立ち尽くすオスカーとクラヴィスの二人だけ。クラヴィスは急に手を離して駆け出してしまうリックの足音を追うように振り返ったが、それは一瞬の事だった。

「熱は下がったんだな。それにしては余り顔色がよくないが。そんな状態で外に出て大丈夫なのか」
「……部屋にいても気が滅入るだけだからな。いい気分転換になるかと思って」
「………………」
「ジュリアスはどうしている?試験の準備も大詰めで、休みもせず立ち動いているのだろう?……無理をしないようにと伝えておいてくれ」
「……クラヴィス」
「今のあれにはお前の存在が何よりの支えになっている。これから先も、そうであって欲しいと願っている。私が言えた義理ではないが……よろしく頼む、オスカー」

 戸惑うように伸ばされた冷たい指先がそっとオスカーの手を探り当て、軽く触れる。その言葉には暗に自分が記憶を失った後も、という意味が込められている事はわかっていた。そんなクラヴィスの台詞にオスカーは哀れみを感じるどころか仄かな苛立ちを覚えていた。

 己にジュリアスの何を頼むというのか。ジュリアスが研究者としてここにいるのは他ならぬクラヴィスの為。クラヴィスさえ救えれば後は何も望む事はないと豪語している程、彼はこの研究に心血を注いで来たのだ。その研究を幇助するという意味では自分は彼の支えになるのかもしれないが、それ以外の、例えば彼の人生そのものに関しては完全なる部外者だった。支えどころか、何の役にも立ちはしない。それを眼前のこの男はわかっているのだろうか。

 こんな思い違いをさせたまま、彼はこのクラヴィスと別れを告げようとしているのか。本当にそれでいいのだろうか。沸々と湧き上がる思いは言葉となって唇から吐き出される。

「俺はあんた達のメッセンジャーじゃない。言いたい事があるなら自分の口で直接あの人に言えばいい」
「……オスカー?」
「あの人もそうだ。自分でこんな結果を招いておいて、今更逃げるなんて卑怯すぎる!」
「…………!」

 突然のオスカーの激昂にクラヴィスは一瞬戸惑いを露にして触れていた手を離そうとした。その指先を逆に掴み、オスカーは一段と険しい顔つきで何かを言い募ろうとした。が、それは寸でのところで飲み込まれる。

「何をやってるんだお前達。……オスカー、用があるのは俺だろう?クラヴィスを解放してやれ、こいつは今からリックと庭園に行くんだそうだ……ほらリック、早く行け」
「うん。行こう、クラヴィス」

 力強い手からするりと抜き取られた指先は、すぐさまリックの手に捕らわれ、そのまま軽く引かれてしまう。早く、と急かす声に応えるようにクラヴィスは室内にいる二人を振り返らずにゆっくりと歩き出した。二人分の足音が徐々に遠ざかるのを聞きながら、残された医師と研究者はただ黙ってお互いの顔を見つめ合う。その眼差しにはどちらにも酷く複雑な思いが滲んでいた。

 「余りあいつらを追い詰めるような言動をするな、オスカー。お前の言い分もよくわかる。だが、これ以上は二人の問題だ」

 ほんの僅かな沈黙の後、溜息と共にそう口にしたのはカティスだった。彼は徐に手を伸ばしオスカーが握り締めていた書類入りのファイルを掴み取ると、そのままの姿勢で中身に目を通し始める。紙を捲る微かな音だけが静かな室内に響いては消えて行く。

 オスカーはそんなカティスの姿に目を向けてはいたが、見てはいなかった。知らず握り締めた拳に力が入りつつあるのを感じる。思わず震えそうになるそれを空いた手で押さえるように包みながら、オスカーはやりきれない吐息を一つ吐き、今度はしっかりと視線を手元に集中させ続けるカティスの顔に向けた。

「……俺は……!」
「お前のその気持ちは俺が今までに何度も味わってきたものだ。なんとかしようと足掻きもした。けれど、駄目なんだよ」
「何故……?」
「俺が幾ら頑張ってもジュリアスやクラヴィスにはなれないからさ。どんなに努力したってどうにもならない事はある。……虚しいよ。後三日しかないのにな」

 パタンと一際大きな音を立てて、彼の手の中で分厚いファイルは閉ざされた。風圧で微かに揺れる金の髪が日の光を受けて微かに煌く。光線の加減の所為か、その横顔は酷く哀しげに見えた。彼らに最も近い場所にいた分、喜びも悲しみも全て間近で感じていたのだ。そしてそれはいつしかカティス自身の感情をも揺さぶるようになり、その揺れに翻弄され疲れ果てた彼だけがこの場所に残されている。

 ……こんなにも他人の心を乱しておいて、後は二人の問題だから捨て置けとでもいうのだろうか。余計な世話だという事は分かっている。しかし、ここに至るまでの経緯を全て知るものに取っては最後の最後位少し行き過ぎた口を出しても罰は当たらないのではないか。沸々とこみ上げるそんな思いに、オスカーはついにギリギリの線で抑えていた怒りを解放した。

「まだ、三日もあるんだぜ。諦めるのは早すぎる」
「オスカー?」
「あんたに出来なかった事をこの俺がしてやるよ。恋愛的立場から言えば、同じLucifer患者を恋人に持つ俺とジュリアス様は対等だ。……だから俺にしか言えない事がある」

 そう低く呟くと、オスカーはそれ以上何も言わずにカティスに背を向けた。そして足早に立ち去ろうとする。彼が何を言っているのか理解出来なかったカティスは、反射的にその肩を掴んでどういう事だと声を上げようとしたが、それよりも早くその手を振りほどいた彼は最後に一言こう言った。

「俺は、『今の』二人に幸せになって欲しいんだ。……そうでなければやりきれない」
「オスカー!」
「あんただってそう思うだろう?カティス」

 それっきり、大きな足音が瞬く間に遠ざかっていく。その音を遠くに聞きながらカティスは緩やかな動きで、背にしていた大きな窓を振り返った。遠くに見える花と緑が敷き詰められた庭園で、つい先程この場を後にしたリックとクラヴィスが花を手にして微笑っている。本当に幸福そうな、優しい笑顔だった。その瞬間を彼等は生涯覚えておく事が出来ないのだ。ならば自分が、今ここでその光景を目に止める事が出来た自分こそが深く心に刻んで置こうと、カティスは暫くその様子を息を詰めて見守っていた。

 ……二度と忘れる事が出来ないように。
「……なんか、クラヴィスがやるとすごく簡単に見えるのに。どうしてオレにはできないんだろ」
「難しく考えるからだ。何も複雑な事はないのに」
「だって、何度やっても花がばらばらになっちゃうよ」
「それは巻き方が下手だからだろう。どうしても出来なければ、他にも方法はある。例えば、三つ編みにするとかな」

 言いながら、器用な手つきで摘み取られた数本の花を手際よく輪にしていく。ともすれば目が見えているのではないかと思う程、輪の周囲に綺麗に並ぶ白い花をリックは驚嘆の眼差しで見つめていた。丁度リックの頭に乗るほどの花冠。長い指が動く度にまるで魔法でも見ているように花達は姿形を変えていくのだ。

「あーもうわかんない!でもいいや、こんなに一杯出来たし」
「……お前は一つも作っていないようだが」
「いいの。へたくそなの作ったってしょうがないし、練習台にされる花も可哀想だもん。これ、貰っていってもいい?」
「好きにすればいい。ただし、花冠の花は直ぐに枯れてしまうけどな」
「大丈夫。この間エナが押し花のやり方を教えてくれたんだ。これも押し花にして、ずーっと取って置けるようにする」

 無邪気な笑い声を上げながら、小さな花冠を手にして彼はそんな事を言う。クラヴィスはその姿を真正面から感じながら、その実この少年は全て知っているのではないか、と思う事がある。当然リックには完成した新薬の事も、三日後にクラヴィスの身に起こる事も、何も知らせてはいなかった。知らせた所で理解できるわけもなく、余計な悲しみを与えるだけだとカティスに断言されたからだ。けれどそう遠くない未来、彼は残酷な真実を目の当たりにする事になるのだろう。それを思うとまた胸に鋭い痛みが走る気がした。

「あ、何これ変なの。葉っぱの数が他のと違うよ」

 何時の間にかリックの興味が花ではなく葉に移ったのか、不意に彼はそんな事を呟き座っていた場所から動く気配がする。どうした、と訊ねてみると、彼は一つの葉を茎ごとむしり取り、クラヴィスにも分かるようにその白い指先に触れさせた。

「ほら、わかる?この葉っぱ、他のと違って四枚ある。一杯あるのかと思ったらこの辺では探せないや」
「四つ葉?」
「うん。なんか可愛いね。他にもあるのかなぁ、ちょっと探してくる!」

 俄然好奇心をそそられたのかまるで宝探しをするように四つ葉を求めて遠ざかっていくリックの気配を感じながら、クラヴィスは手渡されたそれを指で辿り、遠い記憶にあるその姿を思い浮かべようとした。それと同時に四つ葉には確か謂れがあったという事も。

 しかし、幾ら考えてもその謂れの内容を思い出すことが出来ず諦めたように小さな溜息をついたその時、不意に間近でリック以外の気配を感じた。探るようにその気配の正体を突き止めるより早く、それは躊躇無くクラヴィスの手にあった四つ葉をとりあげ、酷く静かな声で口を開いたのだ。

「四つ葉のクローバーを見つけた者には、幸運が訪れるんだぜ。花言葉は『わたしのものになって』『わたしを想ってください』……坊やには少々早いがな」
「……!オスカー」
「遊びの時間はもう終わりだ。今からここにジュリアス様が来る。……メッセンジャーボーイの役目は果たしたぜ」
「私は」
「そんな事を頼んでいないなんて言うなよ。言っただろう?言いたい事があるなら自分の口で直接あの人に言えばいいと。全ての言葉は、無駄じゃない」
「………………」
「リックは俺が連れて行くぜ。また、後でな」

 一瞬、彼の手が優しく髪に触れた気がした。そのまま静かに遠ざかる気配に反射的に顔を上げる。しかし、既に周囲には誰も存在していなかった。

 柔らかな風が吹きぬけていく。知らず瞳を閉じてうつむいたその顔には、大きな不安と、僅かな悲しみが滲んでいた。