Act2 乃亜兄サマとオレ達

「お帰りなさい兄サマっ!」

 瀬人が学校から帰宅してすぐ、数多の使用人と共に兄を出迎えに来たモクバは、いの一番に立ち尽くすその体に飛びついて至極弾んだ声でそう言った。そんなモクバの事を心底愛しげに見下した瀬人は、その小さな身体を優しく抱き返しほっと小さな溜息を一つ吐いた。

 その胸中には今日起きた様々な出来事とそれに付随する怒りや疲労感がぐるぐると渦巻いていたが、それもいつもの事だったので、早めに忘れる事にした。そうでもしないとあの男の傍では生きてはいけないからだ。

「ただいまモクバ。……一人か?」
「うん、そうだけど。乃亜に何か用?」
「いないならいいんだ。むしろいない方がいい」
「っていうか、乃亜はアメリカでしょ?」
「いや。帰って来ていた」
「えぇ?!もうっ?!予定は一週間でしょ?!」
「奴が予定通りに行動した事などあるか?」
「それはそうだけど。でもやっぱり乃亜は凄いなぁ。尊敬するぜぃ!」
「……動機が不純でなければ凄いのだがな」
「?何か言った?兄サマ」
「いや、何でも」
「んーでも乃亜が帰って来ちゃうとちょっと寂しいなぁ。乃亜と兄サマ、いっつも一緒にいるんだもん」
「好きでいるんじゃない。むしろ居たくないわ。……そんな事を言うのなら、今日はお前と共にいてやる」
「ほんと?宿題みてくれる?!」
「ああ」
「やったぁ!じゃあ着替えたらオレの部屋に来てね、待ってるから!」

 そう言うと嬉しそうに瀬人の腰に縋りついていたモクバは弾かれる様にぱっと身を離すと、まるでスキップをする様な足取りで自室へと帰って行く。それを少しだけ苦笑しつつ眺めながら、瀬人は自らも部屋に向かう為に歩き出した。その背に向かって、メイドの一人が何かを思い出した風な顔で小走りに近づいて来て、そっと耳元で口を開いた。

「瀬人様、ロスの剛三郎様からメッセージが入っておりますが」
「大方保釈金の無心だろう?ふん、犯罪者の言う事など聞く耳持たんわ。貴様の為になぞビタ一文出すものか、と伝えておけ」
「かしこまりました。それともう一つ。たまには顔を見せてくれ、だそうです」
「断る。変態息子と仲良くしていればいい」
「剛三郎様は瀬人坊ちゃまの事が可愛くてしょうがないんですね」
「気色の悪い事を言うな!親子共々不愉快な奴らだな!」
「あ、そう言えば乃亜様からもご伝言を……」
「最新テクノロジーを扱う会社を経営しながら何故伝言などと言うふざけた真似をするのだ奴らは!直接言って来いと言え!」

 ええいイライラする!!そう言って何の罪もない伝言役のメイドを振り切った瀬人は、足音も荒く二階へと上がって行く。その途中、内ポケットに入れていた携帯が大きく震え、忌々しげな舌打ちをした瀬人は、とりあえず中身を見る為に取り出したそれを開く前にその場に叩き付けそうになった。何故なら、今の震動の原因……メールを送信して来た相手は『乃亜』だったからだ。

『父上の事を悪く言っちゃ駄目だよ、瀬人』

「ふざけるな!!おいっ、盗聴器はどこにある!」
「ぞ、存じ上げません!瀬人様に装着されているのではないですか?」
「くそっ!貴様ら探す気などまるで無いだろう!」
「乃亜様の隠し方は巧妙過ぎて私どもでは到底探し当てる事が出来ませんので……」
「この無能どもが!恥を知れ!」

 まさにキー!とヒステリーを起こしそうな声でそう言うと、瀬人はもはや処置無しとばかりに頭を抱えると階下で心配そうに(彼等は慣れているので多分にしてフリだけだろうが)見守る使用人達に背を向けると今度は一気に階段を駆けあげる。そして二階の廊下に辿り着いた瞬間、思わず悲鳴を上げそうになった。

 何故ならそこには瀬人のストレスの元凶、乃亜がにこやかな顔をして立っていたからだ。

「やだなぁ、瀬人。発信機は付けているけど盗聴器なんて無粋なものは今のところ付けてないよ」
「きっ……貴様!何時の間に帰宅した!!」
「うん?きみが帰って来る少し前だけど。一緒に玄関から入ろうとしたんだけど、驚かせようと思って」
「………………」
「それにしても変態息子は酷いなぁ。まぁ、認めるけど」
「認めるな!」
「そういちいち怒らないでよ。僕はきみと喧嘩したい訳じゃないんだ」
「ならば付き纏うな!」
「はいはい。気を付けるよ。それはそうと、今日はモクバの勉強を見てやるんだろう?早く行かなくていいのかい?」
「……邪魔をするなよ」
「しないよ。今日は僕もやる事があるしね。仕事を沢山持ち帰って来たからさ」
「向こうで済ませて来い!」
「日本で出来る事は日本でする。常識だろう?」
「……もういい。貴様と話していると疲れる」
「え、そうかなぁ。まぁいいや。じゃ、また後でね、瀬人」
「……後で?!来るなっ!」

 あんまり大騒ぎするとモクバがビックリするよ?

 そう言って大騒ぎをさせている張本人は至って平静にそう言うとひらひらと手を振りながら自分の部屋へと入って行く。静かに閉められた木製のドアを蹴り上げてやろうと思ったがモノに罪はないのでぐっと堪えつつ、瀬人は漸く自分の部屋に入るのだった。
「ねぇ、兄サマ。さっき乃亜の声しなかった?」
「気の所為だ」
「そうかなぁ、兄サマと話してる声が聞こえた気がするんだけど……」
「そんな事より、分かったのか?」
「あ、うん。もうばっちりだぜぃ!兄サマってやっぱり凄いよね。先生よりも教え方が上手だよ。乃亜も凄い上手いけどさ。どっちも凄いや!兄サマ達って同点で学年一位なんでしょ?」
「さぁ、成績など気にした事はない。奴と一緒にするな」
「もー兄サマはー。乃亜は別に悪い奴じゃないよ。そんなに文句言わないでよ」
「ああ。『お前には』悪い奴ではないだろうな」
「兄サマにだって優しくしてくれるじゃん。オレ、羨ましいぜぃ」
「ああいうのは優しいとは言わない。おかしいのだ」
「なんで?」
「なんでってそれは……」

 普通に考えていい年をした男兄弟二人が四六時中共にいたり、時には風呂に入ったり、共寝をしたり(風呂と就寝は殆ど乃亜が強引に乱入してくるのだが) するのは異常だろう。それを普通だと豪語するのは本人である乃亜位のものだ。全く、何が良くて自分などに固執するのかが分からない。尤も、モクバがターゲットにされるよりは幾分マシだとは思うのだが。

「………………」
「兄サマは乃亜の事、嫌いなの?」
「好きだと思うか?」
「でも、乃亜は兄サマの事大好きだよ?」
「それが問題なのだ。むしろ嫌われたいわ」
「なんでさ。兄弟が仲いいのはいい事だって皆言ってるよ。乃亜も兄サマもさ、オレの自慢の兄サマ達なんだからさ。喧嘩しないでよ」
「喧嘩が出来る位なら苦労しないわ」
「そうだよねー乃亜って喧嘩に乗ってこないもんね。兄サマが一方的に怒ってる感じで」
「あののらりくらりした態度が気に食わないのだ!」
「でも、楽しそうで羨ましいぜぃ」
「楽しくないわ!」

 くそ、あの緑の悪魔め!モクバに何を吹き込んでいるのだ何をっ!

 そう瀬人が内心憤慨していると、トントンと扉をノックする音が響いて、メイドの涼やかな声が響いて来た。大方茶でも持って来たのだろうと、適当に返事をするとそれは静かに内側に開いて、銀盆を持った彼女の姿が……と思いきや、そこに立っていたのは乃亜だった。

 ひっ、と瀬人の口からが妙な声が洩れる。

「やぁ、可愛い弟諸君。勉強は捗っているかい?」
「貴様!何をしに来た!というかメイドはどうした!」
「うん?僕が彼女からこれを預かったんだよ。瀬人、君はまたこんなに苦そうな珈琲を飲んで。胃に悪いよ」
「余計な世話だ!」
「乃亜!お前やっぱり帰ってたのかよ!」
「ただいまモクバ。元気そうで何よりだね。はい、お茶」
「ありがと。あ、もう勉強は終わったんだぜぃ。兄サマが教えてくれると早いんだ」
「そう、流石だね。じゃあ、もう瀬人を借りて行ってもいいかい?僕も仕事を瀬人に手伝って貰いたいんだ」
「断るっ!今日はモクバと共にいる事に決めたのだ!誰が貴様の手伝いなどするか!一人でやれ!」
「に……兄サマ……」

 テーブルの上に持って来た茶器を置き、至極穏やかにそう言った乃亜を瀬人は全力で拒絶し、席まで離れて殆ど猫が毛を逆立てて敵を威嚇するように大きい背をますます大きく見せる様に派手にリアクションをしながら声をあげる。がしかし、乃亜も瀬人と身長はさほど変わらない為余り効果は無かった。

 なんでこんなに何もかも似ているんだ?剛三郎の趣味なのか?!そう内心大きく毒づきながら、瀬人はいつの間にか近づいて来た乃亜に更なる抵抗を試みようとした、その時だった。

「……やっぱり、本当の兄弟じゃないから、僕じゃあ駄目なのかな……」

 急に顔から笑みを無くした乃亜がいかにも悲しそうな表情を滲ませてぽつりと呟く。勿論それは彼の見え透いた芝居なのだが、無駄に演技が上手い故に大抵の人間はころりと騙されてしまう。

 瀬人よりも大分純粋な心を持ったモクバなどその典型で、既に使い古されたこの台詞にも毎度同じ反応を示してしまうのだ。

「えっ」
「そうだよね。分かってるんだ。でも僕は……」
「乃亜……」
「貴様、その腹の底が透けて見える嘘臭い芝居はなんだ!そんな下らん言葉に惑わされる馬鹿が何処に……!」
「兄サマ、乃亜の仕事、手伝ってあげて?オレはもういいから」
「モクバ?!お前っ、この馬鹿の言う事を真に受けるのか?!こんなもの、全て演技に決まってるだろうが!」
「お願い。乃亜だってきっと寂しいんだよ!」
「ちょ……待て!」
「モクバ……!ああ、君はなんていい子なんだろう。ありがとう。じゃあ遠慮なく瀬人は借りて行くよ」
「うん。ごゆっくりどうぞだぜぃ」
「そういう訳だから、行こうか、瀬人?」
「ぎゃあああ!近づくな!!触るな!向こうへ行けッ!!」
「うんうん。君と一緒にね。じゃあ、モクバ。また後でね」

 言いながら、がっちりと瀬人の身体をホールドした乃亜は、そのままの姿勢で彼を引きずりながらモクバの部屋を後にする。耳を劈く様な実の兄の悲鳴も、モクバに取ってはさほど問題ではないのか、彼は一人満足気に頷くと、まるでいい事をしたと言わんばかりに鼻の下を擦って笑みを見せた。
 

 

「いやぁ、モクバは本当に素直ないい子だよねー。瀬人もアレ位素直になってくれると嬉しいんだけどなぁ」
「喧しいわこのペテン師が!死ねッ!」
「ペテン師とか時代錯誤だよ、瀬人。きみは新しいんだか古いんだか良く分からないな」
「黙れっ!!」

 モクバの部屋を出た彼等は相変わらずの調子で喧々囂々と言い争いをしていたが、もはやそれも日常茶飯事なので誰も止めに入るものはいなかった。 否、これ位の騒ぎで動揺していては海馬家の使用人は務まらないのだ。

「じゃあ今日は何をしようか?アメリカのお土産話はどう?」
「仕事を持ち帰ったのなら仕事をしろ!」
「あはは、あんなのは単なる出まかせだよ。この僕が、仕事を残して帰る事なんてあると思うのかい?」
「!!」
「あ、父上からラブレターを預かって来たけど、読んであげようか?」
「そんなものは速攻捨てろ!持って来るな!」
「全く瀬人はどうしようもないツンデレだなぁ」
「貴様、その言葉の意味を分かっていないだろう?!」
 

 ……海馬家の兄達は今日もとても仲良し(?)である。