短編集 NO21〜N032

【21】 縫合 -- 08.04.23


「お前ってさーほんと何でも出来るのな。なんでお前みたいなやる必要のねぇ奴がサクサク出来ちまうんだよ」
「……オレが何でも出来るのではなく、貴様が何も出来ないのだ。これで今までどうやって生活してきた」
「うん?まぁ、適当に」
「……それはそれで感心するがな」
「アリガトウゴザイマス」
「しかし派手にやったな」
「やー場所が廃工場なもんで有刺鉄線が引っかかってさぁ」
「喧嘩をするなら場所も考えてやれ」
「しょうがねぇだろ。成り行きでそーなっちまったんだからよ」
「ではせめて学ランは脱げ。貴様には高価だろうが」
「はいはい。今度からそうしますよ」

 あーもうお前男の癖にうるせーな。そう言いながら城之内は鮮やかに縫い合わされていく薄汚れた紺の布地から目を離せずにいた。城之内が見つめているそれを手馴れた風に持ちながら、器用に針と糸を操っているのは海馬である。

 その細い指先はまるで機械のようにリズミカルに動きながら、瞬く間にほぼ真っ二つになりかけていた学ランの背を縫合した。その技術は見事としか言いようがなかった。
 

 城之内が常と同じく学校帰りに海馬の元へとやって来たのは未だ日が高い時刻だった。大方学校を途中でサボったのだろうと、取次ぎをしてきた社員の声を聞きながら海馬は呆れた溜息を吐いたのだが、実際部屋までやって来た城之内の姿を見て、さらにその溜息は大きくなった。

 傷だらけの顔に泥と埃に塗れた制服。貴様それは何事だ!討ち入りか!と突っ込みたい気持ちを飲み込んで、海馬は嫌々ながら彼を社長室横の私室に招き入れたのだ。そして一応身綺麗になり傷の手当も終えた彼を放置し、本人よりもよほど酷い状態になっていた学ランの修復作業に入ったのだ。

 海馬の元に来るまで、正直城之内は途方に暮れていた。今日着ていた制服は最後の一着で、勿論新しいものなど買う余裕も無い。かと言って制服を恵んでくれるような先輩も存在しなかった。

 海馬なら殆ど着ないだろうし、一着ぐらいくれるかもしれない。けれど多分サイズが合わないから無理だろう。と、なると明日からどうしよう、そう思っていた矢先だった。
 

 海馬がずいっと右手を突き出して、「学ランを寄越せ」と言ったのは。
 

「出来たぞ。いい機会だ、ボタンぐらい自分で付けろ」
「えっ、無理。やった事ねぇもん」
「糸で服に括り付ければいいだけの話だ。ボタンを見れば構造位分かるだろうが!」
「何処に?どうやって?」
「貴様家庭科で何を習って来た?!」
「調理実習でメシ食った記憶しかない。だからやって」
「………………」
 

 修復が完了した制服と取れたボタンを投げ返して、あっけらかんと返って来た答えに、海馬はもう幾度目か知れない溜息を吐き出す。そして先程よりも乱暴な手つきで瞬く間にボタンも付けて、城之内へと投げ返した。汚れた制服を抱えた所為で海馬の手や膝にも泥がついてしまったが、その事に関しては特に何も言わなかった。

 パン、と元通りになった制服を広げて、城之内が満足気に微笑む。

「すげー!何処直したか分かんねー!お前、絶対いい奥さんになるぜ!」
「……貴様のその口も縫ってやろうか?」
「嘘です」
「これからはもう少し上手く喧嘩するんだな」
「はーい。頑張ります」
「なんか腹が立つな」
「気のせいだろ。な、まだ時間あるから遊ぼうぜ」
「嫌だ。貴様の遊びはろくでもない上に疲れる。それにオレはまだ仕事中だ」
「そんな事言わないで。どーせ中断しちゃったじゃん」
「貴様の所為だ!そこをどけ!」

 泥だらけの制服を挟んでそんな事を言い合いながら、二人は結局いつもの時間を過ごす事になるのだ。

 後に海馬から城之内に、携帯用のソーイングセットが手渡される事になるのだが、結局それは使われる事はないのである。

城海:社長は花嫁修業いらないね! ▲

【22】 その愛を証明せよ -- 08.04.30


「これ、今日のテレビでやってたんだけど……お前ならどうする?」
「何が。『その愛を証明せよ』……これか?」
「そうそう」
「オレに聞く前に貴様はどうやって証明するのだ」
「オレ?そうだなぁ……君の為なら死ねる!!」
「ほう、そうか。なら今すぐ死ね」
「ちょ、『君の為』なら死ねるけど『君の所為』では死にたくない!」
「なんだ。情けないな」
「いやいやいや。速攻殺そうとすんなよ。んーでもそう言われると難しいよな。どうやって証明しよう。今の言葉嘘じゃねぇけど死ぬわけにいかないし」
「オレは貴様の為になんぞに死なんぞ」
「そうでしょうとも。最初からお前には期待してねーよ。つーか愛されてる実感すらないし!」
「そうなのか?セックスしてるだろが」」
「……お前の基準ってよく分かんねーんだけど……それが愛の証明ですか」
「今の所貴様と以外する気がないから、そういう意味でオレはそれを答えとするな。証明とは物理的な話だろう?」
「いや、感情面の話かもしれねぇじゃねぇか」
「それこそ証明のしようがないだろう。口先だけならなんとでも言える」
「その口先ですら言った事無い癖に」
「言えと言われた事がない」
「そーいうのは自主的に口にするもんだろ。普通『言って』なんていわねぇし。オレはちゃんと言ってるじゃん」
「言われてみれば言ってるな。鬱陶しいほど」
「……伝わってねぇみたいだけど」
「耳には入ってるぞ」
「……駄目だこりゃ」
「凡骨」
「はい?なんかもうどうでも良くなってきた」
「証明してやろうか」
「もーいいよ」
「愛しているぞ。貴様の為なら死んでもいい」
「えっ?!」
「以上」
「ちょ、もう一回言って!!お前そんな言葉ばっかり超早口じゃねぇか!」
「嫌だ。一度だけだから意味がある」
「うああ!言うなら言うって言えよー!!」
「言葉で足りないのなら態度で示そうか」
「それもいいけどもう一回ー!愛してるって言ってー!」
「貴様の『証明』がまだだと思うが」
「……へ?あ?……あ、愛してます。これでいい?!だからもう一回!」
「心がこもってない」
「嘘っ?!超心こめたってマジで!!」
「そうか」
「ああもう海馬くん元に戻ったし!!ちくしょう!時間よ戻れ!」
「……心の底から馬鹿だな貴様」
「馬鹿とかいうな!」
「好きだぞ」
「オレもだよ!」

城海:究極の馬鹿ップルだよどうしよう(笑) ▲

【23】 セクハラ的行為 -- 08.05.06


「貴様ぁ!いきなり何をするかッ!」
「悪い悪い。まさかそんなに吃驚するとは思わなくて。火傷しなかったか?あ、手が赤くなってるじゃないか」
「煩いわ!近づくな!」
「火傷は直ぐに冷水に浸すのがいいんだぜ。この間相棒がカップラーメンをひっくり返した時、母さんが言ってたぞ」
「何が母さんだ。ふざけるな!この位、特になんともない!」
「とりあえずその床をなんとかしないとな。オレが電話してやるよ」
「余計な世話だ!貴様はそこから動くな!」

 言いながら海馬は即座に近間にあった電話機を取り、慣れた口調で一言「床を汚した、片付けてくれ」と口にするとその場から身を引く。彼の足元には粉々になった珈琲カップと中身である珈琲が、未だ白い湯気を立てて広がっていた。海馬が机上からカップを取り上げた際、至近距離にいた遊戯が背後から悪戯に海馬の腰を両側から掴んだ所為だった。

「まさかお前がそんなに感じるとは思わなかったんだ」

 自らのは無事だった同じ珈琲カップを取り上げて一口飲み、悪びれもせずそう口にする遊戯はちらりと海馬を見上げて意味ありげに微笑む。心底楽しそうな顔。彼がこういう顔をする時は大抵ろくでもない事を考えているのが常なのだ。海馬は即座にそれを察すると、不躾なその視線を振り払うように手を振って大声で否定する。

「か、感じてないわ。驚いたのだ!貴様とて突然そんな事をされれば驚くだろうが!」
「いや?いつも城之内くんにやられているが、特に驚いたことはないな」
「…………ほう」
「別に変な意味じゃないぜ。友達同士のコミュニケーションって奴だ。だからお前にも……と思ったんだが。ちょっと刺激が強すぎたか?」
「たわけ!何が刺激だ!違うと言っている!」
「へぇ?」

 カタリ、とカップがテーブルに置かれる音がして、遊戯の表情が変わる。頭上の海馬を見あげるのはやめて上目遣いに変えた彼は、ぺろりと口の端についた珈琲の雫を舐め取って、さも面白いものを見つけた、と言わんばかりに瞳を輝かせた。途端に海馬の背筋にぞくりと妙な寒気が走る。

 墓穴を掘った。彼がその事実に気づいた時には、もう遅かった。

「な、なんだその顔は……」
「お前今『突然だから驚いた』って言ったよな?じゃあ、突然じゃなければ平気なわけだ?」
「…………え?」
「ちょっと試させて貰うぜ海馬。こっちに来いよ」
「誰が行くか!ち、近寄るな!」
「別に何をしようって訳じゃない。腰を触るだけだろ。逃げるなよ」
「こ、こっちへ来るなと言っている……っ!」

 言いながらソファーから立ち上がりじりじりと海馬に近づいた遊戯は、ついには壁際まで追い詰めてゆるりと手をのばす。その瞳にばかり集中して、その手を避ける事すら思いつかない海馬は蛇に睨まれたカエルの如く、その場から全く動けなかった。そんな彼を楽しげに見遣りながら、遊戯はまるでオモチャに手を伸ばす子供の様に喜々として海馬の腰を両側から掴んだ。それも先程とは違い、思い切り。

「どれどれ〜……よっ、と」
「── ひっ!やめっ!」

 瞬間、ビクリと海馬の身体が大きく跳ね、緊張に硬くなる。同時にきつく握り締められた両手に遊戯はニヤリと笑みを浮かべる。殆ど真正面にある目の前の彼の中心が僅かに反応をしたのを見て取ったからだ。

「海馬、オレはただ腰を触ってるだけだぜ。なんか凄くいい声が出た気がするんだが」
「……んっ……き、気の所為、だ。……気が済んだなら……早くっ……離、せっ!」
「そんなに顔を赤くされたら離せないだろ。もしかしてお前、ココ弱いのか?知らなかったぜ」
「んあっ!みょ、妙な動きをするなっ!馬鹿が!そ、そろそろ床を片付けに人が来る!やめんか!」
「別にオレはやらしい事をしてるわけじゃない。お前が勝手に感じてるんじゃないか」
「これは立派なセクハラだろうが!」
「セクハラ?……なんだそれは」
「貴様が今やっている事だッ!いいから手を離せ!!」
「へー。これがセクハラって奴か。面白いな。お前が嫌がるともっとやりたくなるんだぜ。今度からここもちゃんと触ってやるよ」
「面白がるな!!というか余計なお世話だ!!」

 ぎゃあぎゃあ言いながら暫くそこで戯れていた二人だったが、程なくして海馬の言葉通り床を清掃にした社員にその現場を目撃されてしまい、その『事件』は他人の耳にも入る事となったのだ。
 

「なー遊戯。お前、海馬にセクハラしたって本当?」
「何それ?!僕が海馬くんにそんな事するわけないじゃん!!」
「でもなんか新聞に載ってたぜ。『デュエルキングが海馬社長にセクハラか?!』って」
「えぇ?!し、信じられない!!もう絶交だからね!もう一人の僕!!」
 

 その後暫く、闇遊戯は「セクハラ王」と名づけられ、長く周囲の……主に海馬の冷たい視線に曝されたという。

闇海:うちの王様こんなんばっかり……(笑) ▲

【24】 納得いかない -- 08.05.07


「僕、どうしても納得行かないんだ。何で僕の方が『女の子』扱いされなきゃいけない訳?実際『女の子』側は海馬くんなのに!だから、僕はもっと男らしくなりたいんだ」
「だからさ。人には似合う似合わないってのがあってさ……つーか形から入ろうってのがお前らしいけどよ。どうにも何ねぇだろそんなの」
「そんな事分かってるよ。でも、今のままじゃ駄目なんだ。絶対!」
「や、でもオレが思うに今以上に男らしい格好なんてないって。お前それ以上どうすんの?」
「じゃあ後どうしたらいいのさ!逆に海馬くんに可愛くなって貰えばいいの?!」
「ちょ……それはもっと無理。っていうか、オレはお前が何を気にしているのか分かんねぇんだけど」
「さっきから言ってるじゃん。逆に見られるのが心外なの!それに、絶対海馬くんのほうが可愛いのに!」
「……一回眼科行こうか、遊戯。付き合うぜ」
「もうっ!城之内くんは真面目に話を聞いてくれる気あるの?!」
「聞いてるよ!聞いてるけど……ちょっと難しいって。海馬よりもお前が男らしく……とかさ」
「どうして?!」
「どうしてってそりゃ……オレにそれを言わせるのかよ!大体事実を知ってるオレだって未だに信じられねぇよ。海馬がお前を……じゃなくお前が海馬を……とかさ。つか、それが正直な一般人の見解だって」
「事実は見かけじゃないのに。この間なんて、一緒に映画に行った時なんて言われたと思う?!『可愛い恋人ね。弟さんみたい』だよ?!」
「…………あー。つーかお前らアレ観に行ったのか。あの……ちょっとホモチックな……」
「うん」
「うん、じゃねぇよ。観に行くな」
「だって同性カップルなら半額だったから」
「それでも観るもんは選べ」
「別にいいでしょ。海馬くんの好きな近未来SFアクション映画だったんだから。ってそんな事はどうでもよくって!どうやったら誤解されないで済むかな……」
「誤解されて不都合な事なんてあるのかよ。いーじゃんどっちがどっちに入れてようが」
「駄目!男の沽券に関わるんだよ!」
「お前が言ってもぜんっぜんサマになんねーよ」
「うーん……やっぱり僕がカッコよくなるよりも海馬くんに可愛くなって貰った方が……」
「いやいやいや。それは駄目だって!!無理!絶対無理だから。つーかあいつこそ何やったって可愛くならないから!」
「えー……」
「とりあえず、毎日牛乳でも飲んで背ぇ伸ばせ。話はそっからじゃねぇの」
「やっぱりそこからかぁ。でも今から40センチ伸びると思う?」
「まあ、男は25の朝飯前までっていうし……」
「そっか。そうだよね。僕頑張るよ、城之内くん!」
(お前のその顔で海馬よりもでかくなったらそれはそれで怖ぇけどな。つかそういう話の相談相手にオレを選ぶな)

表海:可愛い攻めでもいいじゃないか! ▲

【25】 口寂しい -- 08.05.08


 カタカタとキーボードを打つリズミカルなタッチ音と共に微かに耳障りな音が響く。先程からずっと気になっていたその音に、ついに無言を貫き通す事が出来なくなった海馬は、緩やかに顔を上げて、直ぐ傍のソファーでだらしなく寝そべって雑誌を読んでいる城之内を睨んだ。

「おい」
「ん?」
「貴様、音を立てずに存在する事は出来ないのか」
「なにがぁ?」
「その口の中のモノの事だ!煩いわ!」
「え?ああ、ガム?」
「それだけではないだろう。この部屋に来てからずっと口を動かしっぱなしだろうが。目の前のゴミはなんだ」
「だって、オレバイト帰りで腹減ってんだよ。しょうがないじゃん」
「というか、貴様が何も口に入れていない時があるのか?」
「そう言われて見ればないかもしんない。ガムはいつも持ってるしな」
「つまらん無駄遣いをするな」
「もー、別にいいだろ。煙草吸ったりしてるわけじゃねぇし。ほんっとお前煩い。大体ここでオレがガム食ってるのはお前の所為なんだぜ」
「はぁ?何故そこでオレが出てくる」
「分かんねぇ?これだから嫌なんだよな」

 あーあ、とあからさまに大きな溜息を吐きながら、城之内は手にした雑誌を食べ散らかしたコンビニ弁当の傍に放り投げる。バサリと音を立てて落ちたそれは中身が開いた状態でテーブルの上に留まり、どう見ても上品ではない頁が丸見えになり、海馬の眉が更に寄る。

 しかしそれに気づいた城之内は悪びれる様子はなく、むしろその海馬の反応を面白がるように薄く笑うと徐に立ち上がり、傍に寄ってくる。

「そんなモノを社長室に持ち込むな」
「エロ漫画くらいで一々目くじら立てんなよ。別にこれで抜いてるわけじゃないし。暇つぶしだもん。大体お前だって見るだろ?こういうの。それとも漫画よりも実物がいいとか」
「見るか!そんなもの!」
「一々怒んなよ。ガムも漫画もやめて欲しかったらお前のその態度を改めろ」
「……?意味がわからんのだが」
「……マジで分かんねぇの?」
「……ああ」
「教えて欲しい?」
「別に」
「可愛くねぇな」
「というか傍に寄るな」
「あ、そういう事言うんだ」

 言いながら城之内は口の中で悪戯に噛んでいた既に味も何もないガムを、ポケットに入れていた包み紙に吐き出して、そのまま屑篭へと捨ててしまう。そしてその仕種を視線で追うように眺めていた海馬へと更に近づき、その顔へと手を伸ばす。口でなんだかんだと言う割に視線を反らす等、拒絶の意思を示さない海馬の顎を指先で掴んで城之内は至近距離まで顔を近づけた。

 互いの唇に暖かな吐息が触れる。途端に漂う爽やかな香りに、直前まで噛んでいたのはミント系か、と海馬が何気なく思っていたその時だった。じっと見つめていた筈の顔が何の前触れもなく落ちてきて、何時の間にか後頭部を包みこむ熱い掌と共に唇が重なった。

 途端に噛んでいたガムの所為か少しだけ甘い唾液に塗れた舌が入り込み、誘うように海馬の歯列をなぞり、上顎を舐める。程なくして諦めたように触れされた舌に、嬉しそうに絡んだそれは満足が行くまで海馬の口内を蹂躙した。静かな室内に、やたらと淫靡な息遣いと音が漏れる。
 

「こうやってキスとかしたいのに、出来ないから、口寂しくて」
 

 不意にゆっくりと唇を離し、余韻のように零れ落ちる唾液を舌で舐め取りながら、同じ様に口の端を光らせる海馬のそれを指で拭い、城之内はそう言った。

「だから、口にガム入れて気を紛らわしてんの。本もそう。お前が構ってくれないから、読んでるだけ。同じ部屋にいるのにお前、オレを無視して仕事すんだもん」
「………………」
「そういうわけだから、やめさせたかったら相手して?一回してくれたら満足するから」
「……嘘吐け」
「ホントだって。まあ、場合によっては延長もありだけど?」

 な?じゃないとオレ、ずっとガム噛み続けるけど。

 そう言ってまだ封を切っていないガムを取り出し、にっこりと笑うその笑顔に反論する気は起きず、「ガムを噛む音が嫌だから」という理由をつけて、海馬は身体ごと彼に向き直り、PCの電源ボタンに手を伸ばした。

城海:あの音は結構気になるものです ▲

【26】 一緒に寝る -- 08.05.09


「今日は一緒に寝ようか、モクバ」
「えっ、いいの」
「だってほら、雪が降って来ただろう?明日の朝はきっと寒くなるから」
「あ、ほんとだ!雪だ!明日雪だるま作れるかな?」
「どうだろうね。じゃ、おいで」
「うん!」

 ちらちらと雪が舞う、冬に入りかけの少し寒い夜の事。オレは寝る前に小さな石油ストーブの前を陣取って、もう何度も読み返してボロボロになった本を抱えて寒さで震える身体を温めていた。

 多分元は一人部屋の酷く狭いその空間にオレ達は二人、押し込められるように生活していた。けれど、今思えばそれは幸せな事だったのかもしれない。手を伸ばせば、そこに兄サマの笑顔があったから。幾つ部屋があるか分からない無駄に広くて手入れだけが大変な今の屋敷に比べれば、そこの暮らしは幸せだった。

 その時にいた施設は立て付けの悪い窓から隙間風が入るようなそんな古い建物で、風が吹く度にガタガタ鳴るその音に怯えて、いつも傍にいた兄サマにしがみついた記憶しかない。

 壁も薄くて隣の部屋にいる子の騒ぎ声が煩かったりしたけれど、兄サマは全く気にする様子がなくて、やっぱり誰かの使い古しの辞書を片手に悴んで真っ赤になった指先を息で暖めながら勉強していた。

 そんな兄サマがオレに声をかけて本を閉じたのがその日は普段よりも少し早い時間で。毎日の生活時間を決して崩す事の無い兄サマが、寝る時間を早めた事も驚いたけど、それ以上に一緒に寝ようと言ってくれたのも久しぶりだったから、その時は余計に驚いた。

 施設に来てからの兄サマは優しかったし表面上は特に変わった様子はなかったけれど、昔の兄サマのように本当に楽しそうに笑ったり弾んだ声でオレに話しかけてくれる事はなくなっていた。

 ただ黙って何かを考えていたり、他の子供よりも真面目に勉強に取り組んでいたり、それまで遊びでしかしていなかったチェスを真剣にやるようになって、話しかけても生返事ばかりで焦れたオレが兄サマの背中を抱き締めて、やっと気づいてくれるような毎日だったから。

 オレにとってはそんな寂しい日々の中で突然訪れたその瞬間が、凄く嬉しかった。
 

「モクバの布団だと少し小さいかな……僕のを持って来ようか」
 

 オレがストーブを消すと同時に、兄サマは言葉通り自分のベッドから少し大きな上かけを取り去ってオレの横に落としてしまう。その頃はいつも寝るのはオレが先で、兄サマの手元を照らすデスクライトを眺めながら、今思えば凄く薄い毛布と布団に包まって、震えながら眠気が来るのを待っていた。

 でも今日はそんな寒さも感じることが無い。部屋の都合上二段ベッドの上と下で寝ていたオレ達は、その日は狭いそこを抜け出して床に寝る事に決めたんだ。
 

「寒くない?」
「ううん、兄サマ凄くあったかいよ」
「僕じゃないよ。モクバが暖かいんだよ」
「そうかな。一人だと、凄く寒いのに」
「僕も一緒だ。……じゃあやっぱり、二人だから暖かいんだね」
「そっか。……ねぇ兄サマ、オレ達……ずっと一緒だよね?」
「当たり前じゃないかモクバ。ずっと、一緒だよ。何があっても」
「うん」
「……だから、もう寒くなんかない」
 

 兄サマの布団に二人で包まって、お互いの身体や顔をぴったりと寄せ合ったあの暖かさをオレは今でも忘れない。あの瞬間は凄く凄く幸せで、眠ってしまうのが勿体無いと思ったけれど、余りにも気持ち良かったから直ぐに寝てしまったんだ。

 目が覚めると、兄サマはまだ眠っていて、オレの手をぎゅっと握り締めていた。外を見ると、雪は全然積もっていなかった。
 

 

 それから数日後、兄サマは海馬剛三郎にチェスの勝負を申込み、オレ達は海馬姓を手に入れた。今思えば、一緒に寝ようと言ったあの日に、兄サマはその事を決めていたのかもしれない。眠る直前に兄サマが言った一言を後から良く考えたら、そういう意味だったのかと今なら分かる。

 そこからの日々はオレにとっても兄サマにとっても辛く苦しかったけれど、今はもうそれすらも過去になった。

 幸せだ、と思う。

 今日、天気予報で初雪が降ると言っていた。だからオレは枕一つ持って兄サマの部屋に行こうと思った。そして、もう寒くはないけれど雪が降る事を口実に、一緒に寝ようって言ってみるんだ。
 

 あの暖かさが、恋しいから。

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【27】 兄の心配 -- 08.05.20


「もしもし?あれ?静香?」
「……静香なら今席を外しているが」
「えぇ?!」
 

 妹に電話した。何故か男の声がした……っつーか男が出た。
 

 ── 大事件だ!!
 

「というわけなんだ!どうしよう?!」
「なにぃ!し、静香ちゃんに男だとぉ?!馬鹿てめー何ぼうっとしてんだ城之内!!速攻静香ちゃんのとこに殴りこみに行くぜ!!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ城之内くん、本田くん。ただ電話に静香ちゃん以外の人が出ただけでしょ。今日は平日だし、クラスメイトの誰かとかじゃないの?」
「違う!静香の学校は今日と明日の二日間休みなんだ。だから前々から会おうぜって約束してたんだからな!さっきだって、確認の電話を入れたつもりだったんだぜ!そしたら……男が!!休日に……男って!!デートに決まってんだろっ!!」
「っかー!!静香ちゃん!オレという男がいながら他の男とデートなんてありえないぜ!」
「うるせぇ本田!!テメーとデートだったら容赦なくぶっ殺す!」
「とにかくっ!相手の男が誰か探れよ!オレも一緒にぶん殴る!」
「おうよ!一緒に殺ろうぜ!」
「ちょ、殺るとか言わないでよ二人とも……もしかしたら勘違いかもしれないでしょ。もっと穏便に……」
「いーや!何かあってからじゃ遅いからよ!」
「……城之内くんじゃないんだから……」
「何か言ったか?」
「ううん、何にも」
 

 それは平日の昼休みの事だった。当人が口にした通り、今日の夕方学校が休みの所為で時間のある妹、静香と会う約束をしていた城之内は、詳しい待ち合わせ時間の最終確認のため、彼女の携帯に連絡を入れた。

 常ならばディスプレイで名前を確認し、相手が兄だと分かると直ぐに聞こえてくる弾んだ可愛らしい声は、今日に限って何故か……何故かどこからどう聞いても男の、ぶっきらぼうな声だったのだ。

 電波の具合が良くなかったのか、相手の携帯の持ち方に問題があったのか。余り鮮明に聞こえなかったその声に、それでも仰天してしまった城之内は、思わず携帯を閉じてしまい、通話を遮断してしまう。

 閉ざされた携帯を暫し呆然と見つめ、立ち尽くす事数分。その間に今起きた出来事をじっくりと考えているうちに、とんでもない事であると気づいた城之内は、抜け出してきた教室へ取って返し、未だ和やかに談笑しながら昼食を取っていた仲間に今起きた出来事を説明し、大騒ぎするに至ったのである。

「とっ、とにかくだな!オレは静香のとこにむか…………って!!住所知らねぇ!」
「えぇ?!なんで兄貴のお前が知らねぇんだよ住所!!」
「この間引っ越したとかで……今度会った時聞けばいーやって思って聞かなかった!!」
「馬鹿かお前!!最低だなっ!静香ちゃんになんかあったらお前のせいだぞ!!」
「うわああああどうしようっ!」
「……あの、城之内くん。静香ちゃんにもう一回電話してみればいいんじゃないかな……」
「あ、そっか。でもまたあの男がでたらオレ立ち直れない〜!!」
「そしたらオレに変われ!一言言ってやる!!」
「……うー。怖ぇけど……一応……もう一回電話しかけてみる」

 結局相談の結果、直接本人に問いただす、もしくは会いに行くという方向で話は纏まり、どちらにしても静香に連絡を取る事が先決だという結論に至った城之内は、震える手で携帯のリダイヤルボタンを押して耳に当てる。脳裏に甦る見知らぬ男の低い声にドキドキと胸を高鳴らせていると、数秒後、聞こえて来たのは無常な「電源が入っていない」の音声案内だけだった。
 

「うわっ?!電源入ってねぇ!!」
「嘘?!まさかもう手遅れかよ?!」
「不吉な事言うな!!馬鹿ッ!」
「……あーもうちょっと落ち着いてよ二人共。城之内くん、こういう時こそ海馬くんにお願いしてみたら?」
「へっ、海馬?なんで?」
「海馬くんなら、静香ちゃんの居場所とか、分かるんじゃないかなぁ。ほら、KCってそういうの得意じゃん」
「おお!そうだぜ城之内!!海馬に聞いてみろよ!っつーかどうせ電話じゃ埒開かねぇから、お前行って来い」

 ……というわけで。城之内よりもよほど熱心にそう言う本田に押される形で、城之内は即座に学校を抜け出して、助言通りKC本社へとやって来た。海馬の関係者の中で一番ここに訪れる頻度の高い城之内は、特に断りを入れる事無く受付をスルーし、勝手知ったる他人の会社……とばかりに一路社長室へと向かった。

 程なくして、何の断りもなしに重厚な扉を開いた城之内を出迎えたのは、些か不機嫌顔の海馬だった。彼は、熱心にキーボードを操る指先を留めないまま、目線だけで城之内を睨み、ノックもなしに入ってくるな!と叫んだ。しかし、そんな怒鳴り声も全てスルーして、城之内は即座のその傍に走り寄ると開口一番こう口にする。

「海馬っ!お前に頼みがあるっ!」
「やかましいっ!何の用だ!」
「何でいきなり怒るんだよ。まだ何も言ってねぇじゃん。オレ何かした?」
「用件はなんだと言っている。オレは貴様なんぞに用はない。とっとと出て行け」
「……人の話はスルーかよ。ああもう何でもいいや、緊急事態なんだ!お前の会社で人捜しって出来る?捜して欲しい人がいるんだけど」
「我が社は探偵社じゃないわ。出来るか!」
「そう言わないで。その昔バトルシティでオレ捜してくれたじゃん。ああいうシステム使ってさぁ」
「貴様、あれを使うのにどれだけの費用が掛かるか分かっているのか?下らん事に使えるほど安くは無い!」
「ケチくさい事言うなよ。それに下らないかどうかなんて分かんないだろーが。いいから話聞けよ」
「聞かない」
「いいから聞け!静香を捜して欲しいんだって!!」
「は?」
「だからっ!オレの妹の静香を捜してくれ!話せば長い事ながら……!!」

 海馬のつんけんした態度などまるでお構いなしに、城之内はかくかくしかじかと事情を説明し、協力してくれ!と締めくくる。その話を聞いている海馬の顔が段々と厳しくなって行く事にも気づかずに、相手に口を挟む隙すら与えずに喋りまくった。そんな彼を海馬は片眉を上げた超不機嫌顔のまま、ただ無言で睨み据える。反応は、一切無い。

「……何か言ってよ。マジ無視すんの?」
「貴様、『知らない男が出た』と言ったな」
「うん。だから万が一そいつとなんかあってからじゃ遅いだろ?!だから早く……!」
「捜す必要は無い」
「ちょ、何で?!お前、オレの妹の事なんかどうでもいいって言うのかよ!!」
「………………」
「最悪!!超薄情!!お前がそんなに冷たい奴だとは思わなかっ……いや知ってたけど!!それにしたって酷ぇだろ!!お願いします!この通り!何でもするからッ!」

 海馬の余りにも冷たく素っ気無いその態度に、城之内は殆ど必死に、それこそ土下座せんばかりに頭を下げて頼み込もうとした。その時だった。突然隣の部屋のドアが開いて、この場にそぐわない暢気な声が響いたのである。

 慌ててそこに視線を向けると、扉の向こう……多分この部屋と繋がっているモクバの部屋である副社長室から、部屋の主であるモクバと……今まさに大捜索に乗り出そうとしていた静香がひょっこりを顔を出したのだ。

「声がすると思ったら、やっぱりいるじゃん城之内!な?やっぱりここで待ってて良かっただろ」
「本当ね。久しぶり、お兄ちゃん!」
「!!静香っ!お前っ、なんでここに?!」
「予定よりも早く童実野町に着いちゃって、時間を持て余していたの。そうしたら、モクバくんと……ね?」
「うん。どうせ一人でも暇だろうし、お前を待ってるんだとすればここに居たほうが早いだろ?だからオレが連れて来たんだぜぃ」
「海馬さんやモクバくんと色々な話をしたのよ。勿論お兄ちゃんの事もね」
「…………へぇ…………!!って!じゃあちょっと待て!オレがさっき電話をかけた時に出た男ってのは……」
「さっきって何時ぐらい?お昼だったら、オレと社内のレストランでご飯食べてたぜぃ。あの時確か荷物ここに置いて行ったよな?」
「ええ」
「じゃあ、あの電話に出たのは誰だよ……ハッ!まさか……!」

 そう城之内が言いかけたその時だった。背中に視線をビシバシと感じた彼は、即座にその真相に辿り着くと、つうっと流れる冷や汗はそのままに背後にいる未だ無言のままの海馬を振り返る。

「……も、もしかして……あの声って……海馬くん?」
「……そうだ」
「ひー!!マジですか?!」
「貴様がオレの声すらも判別できない程の馬鹿だとは思わなかったぞ凡骨。話を続けようと思ったら切っただろう!!」
「だ、だっていきなり妹の携帯に男が出たら吃驚すんだろっ!勝手に静香の携帯に出るな!!」
「やかましい!頼まれていたのだから仕方ないだろう!!それに声でわかれ!声で!!」
「分かるかっ!!くっそー心配してしてソンした!!」
「逆ギレするな!!」

 バン!!と思い切り机を叩いて立ち上がった海馬の怒鳴り声を皮切りにそのまま派手な喧嘩を開始した二人を眺めながら、彼等を兄に持つ弟と妹は顔を見合わせて笑いながら肩を竦めた。

「なーんか、似たもの同士だね。静香ちゃんもオレも苦労するぜぃ」
「そうね。でも、楽しそうで羨ましいな」
「んーまあ、これで結構仲いいからなぁ」

 言いながら、彼等は暫しその状態を見守った後、それぞれの兄の元へと歩み寄り、その勢いを宥める事に徹したのだ。その後4人はそのまま仲良く夜までの時間を過ごしたとか、過ごさなかったとか。
 

 とある平日の、何気ない日常の出来事である。

城海?:社長と静香は仲良し希望(笑) ▲

【28】 雨の日の幸福 -- 08.07.21


「なー。雨が鬱陶しい」
「今は梅雨だ。諦めろ」
「海馬くんって冷たい。雨だと新聞配達の時こえぇんだぜ。濡れた道路って滑るしよ!すっころんで大怪我したらどうすんだ!」
「貴様が寝坊をしないで、定刻に出発し、途中でサボらず迅速に配達を終えればなんの問題もないだろうが」
「……うっ。そ、そりゃ、そうだけどさぁ。……ちぇ、お前はいいよなー雨が降ってようが何しようが移動は全て車、仕事は室内!雨降ってる事すら気付かないんじゃねぇ?」
「貴様がここに来る度に気づくがな。床がずぶ濡れだ」
「えっ?あ、ごめん。そのまんま来ちゃった。今、外は嵐だぜ」
「そんなものはどうでもいいがそのままでは風邪を引くだろう。隣の仮眠室にオレの着替えがある。シャワーでも浴びて着替えろ。その服はクリーニングに出してやる」
「あ、サンキュー。じゃ、遠慮なく。あーでもズボンがなーお前のウエスト細すぎて入んねぇんだけど」
「そんな事知るか」
「あっ、そういう事言う。そんな可愛くねぇ事言うと下半身裸で出てきてやる」
「出てきてみろ、変態。通報してやる」
「変態言うな!」
「ああもう煩い!ここは社長室だぞ!仕事の邪魔をするな!とっとと出て行け!」

 バンッ!と盛大に机が叩かれる音がして、静かな社長室に海馬の大声が響き渡る。同時に投げつけられた淡いブルーのタオルに彼のさりげない優しさを見て取った城之内は、表面だけ驚いた顔をして見せつつ、にっこりと笑いながら緩く弧を描いて降ってきたそれを濡れた右手で受け止めた。ぽたぽたと、透明な雫が磨き上げられた床に滴り落ちる。

 季節は初夏。温かな春と暑い夏の狭間のこの時期は、空は連日どんよりとした雲に覆われ冷たい雨が降らない日はない、一年で尤も鬱陶しい季節だった。外の労働が多い城之内にとって、雨は最大の敵であり憂鬱の原因でもあったが、中の労働ばかりの海馬にとってはそんな事は関係ない。

 忙しい日々の間にこうして訪ねて行くといつも涼しげな顔でパソコンを弄るその姿を見る度に城之内はほんの少しだけズルイと思わずにはいられなかった。

 夏なのに酷く冷たい雨粒に全身ずぶ濡れになって、気に入りの服も、一応時間をかけてセットしている髪も何もかもが駄目になる最悪の日々。止まない雨を見上げて何度恨みがましい溜息を吐いた事だろう。本当に、嫌な季節だ。

 けれど、嫌な事ばかりではない事も実は知っていて。

 海馬の言う通り隣の仮眠室で備え付けのシャワーを借りて、幾枚か用意されている着替えの中からなるべく身の丈に合いそうなものを選び出して身に付ける。袖や裾は余る癖に胸元や腰元は酷く窮屈で、どことなく息苦しさを感じつつもじめじめとした嫌な空気を払拭するような清潔な匂いに包まれて人心地着く。この瞬間がたまらなく幸せだった。

 部屋を出ると、先ほどと同じ状態の海馬が相変わらずパソコンを睨んでいて、出てきた城之内をちらりと見遣ってつまらなそうな顔をする。その背後には巨大な硝子窓を叩く大粒の雨。暫くは止みそうもない。シャワーだけでは身体は芯から温まるはずもなく、効き過ぎた空調がぞくりと背を震わせる。

「雨、止まねぇな」
「……梅雨だからな」
「お前そればっか。もうちょっと気の利いた事言えねぇの?」
「気の利いた事とは?」
「早く止めばいいのにな、とか」
「今朝方ニュースで降水確率100%だと言っていたからな。分かっていて期待をさせるような事は言わない」
「もー。そうじゃなくってさぁ!……あーなんかもういいや。疲れた。次のバイトまで寝る」
「寝るのか」
「うん。暇だし、寒いし。お前冷たいし」

 大体ここ温度低すぎるんだよ。今何度?そう言いながら壁際にあるコントロールボックスを覗き込む城之内の姿を海馬の視線が追う。勝手に温度を上げようと伸ばす指を留めるように席を立って傍に寄る。緩やかな動作でボタンに触れる手を掴む。

 その瞬間、城之内の口元が、にやりと笑った。

「あ、前言全部撤回。お前あったかいじゃん」

 ぎゅ、と触れられた手を握り返して、城之内がそう呟く。海馬はその言葉の奥に潜む無意識の意図に気付いて、慌てて手を引っ込めようとしたが、時は既に遅かった。何時の間にか空いた腕で抱き寄せられた腰に息を呑む。

「お前もちょっと休憩しねぇ?オレの服が乾くまででいいから」
「……寝るんだろう?」
「そのつもりだったけど、寒くて眠れなさそうだからあっためて。この服も窮屈で、脱ぎたいし」
「好意で貸してやったものに文句を言うな」
「ぜーんぶ梅雨の所為にしてさ。諦めろよ。付き合ってくれたらオレ、もう愚痴言わねぇから」

 むしろ雨の日が好きになるかも。

 そう言って唇を寄せてくる調子のいいその顔を眺めながら、海馬は大きな溜息を一つ吐いて、諦めたように瞳を閉じた。未だ雨脚は強く、雨粒が窓を叩く音が静かな室内に響いている。

 この行動も、城之内の台詞も、もう何度目だろう。雨の度に繰り返されるそれは既に一種のパターンだ。雨の日だけではない。雪の日も全く同じ台詞が紡がれる。結局は全てただ一つの事がしたいが為の口実なのだ。
 

『好きになるから、暖めて?』
 

 ……城之内が雨を好きになる事等、多分、一生ないだろう。

城海:最近の自分だけの流行。甘えんぼ城之内(笑) ▲

【29】 ロマンティック・スカイハイ -- 08.10.13


「すっげー気持ちいい秋晴れ!こんな日はさー……」
「洗濯日和だな」
「えっ」
「湿度も低くからっとしていて丁度いい。さぞ良く乾くだろう」
「いや、あの」
「何だ」
「何だって……お前からそんな台詞が飛び出してくるとは思わなくってよ」
「オレが庶民的な事を口にするのはそんなにおかしいか」
「おかしいだろフツー。お前、今の自分の状態考えてみろよ」
「何か問題が?学校の屋上で授業の合間に一休みしているだけだが」
「そーじゃなくってさぁ」

 今現在の行動を言ってるんじゃなくて、普段の生活水準やお前の現状を振り返ってみろって言ってんだけど。

 そう言ってもまだ尚首を傾げる海馬を呆れた様に見返して、城之内は腕を伸ばして背後のフェンスへと寄りかかった。ガシャリと小さな振動がおき、同じものに凭れて座る海馬の身体すらゆらりと揺らす。

 やめろ、と鬱陶しそうに呟くその手には、城之内にはまるで理解できない内容の書類の束と、名前入りの勿論オーダーメイドの高級ペン。きっちりと着込まれた制服の裾からちらりと見えるのは同年代の男子が持つものとゼロが2つ3つほど違うブランドものの腕時計だ。その他彼の身に着けるもの、持っているものの高価さを並べたらきりがないが、とにかく周囲の人間を容赦なく『庶民』と一蹴してしまえる程の財力を持っている事は確かである。

 家に帰れば数十人のメイドやら執事やらが我先にと争って着替えの果てから髪に櫛を通すまでしてしまいそうな勢いの生活をしている癖に、彼は何をどう思ってこの綺麗な秋空を指して「洗濯日和」などと言ったのだろうか。城之内の驚きはまさにそこにあったのだ。

「貴様だとて今そう思ったんだろうが」

 けれど海馬は未だ驚愕から覚めやらないままの城之内を上目遣いに一瞬見上げて、さらりと尚もそんな言葉を口にする。

「そりゃ思うだろ。ここんとこずっと秋雨で洗濯物溜まってたしよ」
「ならば尚更だ。貴様が思う事をオレが思うのが何故おかしい」
「だから生活環境が違うんだって。お前洗濯機とか使った事ねぇ癖に」
「どうして断言出来る。オレが生まれてから今日までの生活を全て見ていた訳でもあるまいし」
「だってよー」
「今は確かに違うが、昔は家事など普通にやったぞ。貴様などよりもよほど手馴れていると思うが。オレに包丁を持たせてみろ。極一般的な家庭料理位なら即できる」
「……マジで?」
「オレが嘘を吐いた事があるか」
「そりゃないけど……想像できねぇし」
「貴様の無駄な先入観がそうさせるのだろう。だから何でも思い込みで話をするなと言っている」
「そっかぁ……」

 でもやっぱり、想像できねぇよ。常にかっちりとした高級スーツを着込んで言葉一つで沢山の大人すらも動かせてしまえるお前が、綺麗な青空を見上げて洗濯物を干してるような姿なんて。まぁ、でも知り合ってからまだ少ししか経ってなくて、こうして自然と傍にいるようになったのは本当に極最近の事で、相手の事のまだ10分の1も分からないんだから仕方の無い事なのか。

 海馬の事だからこんな日にはブルーアイズジェットで空をかっ飛ばしたら気持ちがいいだろうとか、そういうオレにとっては非現実的な、けれど海馬にとっては至極当たり前の事を口にすると思っていたのに。

「なんていうか、意外な発見だぜ。秋晴れに感謝だな」
「何を一人でブツブツ言っている」
「なんかもー学校いんのダルくなって来た。お前の言う通り洗濯日和だから、このまま帰って洗濯しようかな」
「午後の物理は後一回の欠席で単位を落とすと聞いているが」
「だって明日からまた雨だぜ。今日しかないじゃん」
「現代には乾燥機という便利な文明の利器があってだな……」
「そんなの分かってます。それを使う金がないんですー」
「ならば諦めろ」
「どっちを」
「それは貴様が選べ」
「なんだよ、つめてぇな」
「オレはどちらでも付き合ってやる」
「えっ」

 そういうと、海馬は広げていた書類等を全て鞄に収めてしまうと城之内が半分飲んで置き去りにしていた100円のパックジュースに手を伸ばし、ストローを咥えて軽く吸った。ズズッ、という耳障りな音が、それでも大分上品に吹き抜ける風に紛れて消えていく。

 不味い、と文句を言いつつ最後まで飲んでしまったらしいそれをくしゃりと潰して彼はゆっくりと立ち上がる。途端に見あげる形となった白い顔を城之内は眩しそうに見つめた後、不意に断りもなくキスをした。

 どちらのものとも言えない甘ったるいカフェオレの香りが、鼻を擽って思わず笑みがこぼれてしまう。

「よし、決めた。帰ろう」
「物理は諦めるんだな」
「こんな天気のいい日に勉強するなんて馬鹿のする事だぜ」
「馬鹿に馬鹿とは言われたく無いだろうがな」
「うるせぇ。お前、散々オレに自慢したんだから、その腕前、これから見せて貰うからな。今日の夕食何作って貰おうかな〜」
「いつの間にそんな話になった!」
「初めてのデートで、コースは学校からオレの家、そして彼女の手料理!定番っしょ」
「誰が彼女だ」
「似たようなもんじゃん。さ、早く帰ろ。途中でコンビニ寄って行こうな?」

 抜けるような青空と少し冷たい爽やかな秋風。その下で太陽を背に満面の笑みを浮かべて手を差し伸べてくる、間抜け面の……それでも好きだとはっきりと言えるその顔を見つめながら、海馬は腕時計をしていない右手を持ち上げて、掴み取る。

 ぎゅ、と強く握り返されるその感触に、遠い昔、同じ様にこの手を強く握り締めてきた小さな手を思い出し、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
 

『今日はいい天気だから、良く乾くね、兄サマ』
『モクバが失敗しなければ、シーツだって溜まらないんだけどね。これ、結構大変なんだよ?』
『うー。次からは気を付けるから』
『あはは、嘘だよ』
 

 はためく白い洗濯物を眺めながら、笑顔でそんな事を言い合った懐かしい日。辛く寂しい日々の中で、それでも時たま訪れた幸せの瞬間を、こんな時に思い出す。
 

 不意に訪れた、最高の秋晴れの日。それは、絶好の洗濯日和。

城海:秋のひとコマ。全然ロマンティックじゃない(笑) ▲

【30】 エンドレスループ -- 08.10.14


「オレはやった事を怒っているのではない」
「では何を怒っている」
「貴様がヘタに隠すからだ。何故素直にやってしまったと言わないのだ」
「お前が怒るからだ」
「隠したってバレるのだから同じ事だろうが。というか、何度言ったらオレの机の上を荒らすな、という言いつけを守れるようになるのだ貴様は」
「机の上にあるかと思って……」
「ほう。それで中身入りのコーヒーカップを派手に倒し、他の書類も全て茶褐色に染めた挙句、それらを分からないように机の引き出しの一番奥に隠したというのか」
「そうだ」
「で、中にしまっていた重要書類にもコーヒーの染みをつけたと」
「それは知らなかったな。そうなのか?」
「普通想像出来るだろうが!だから無駄な隠蔽工作はやめろと言ってるんだ!余計状況が悪化するだけなのだからな!」
「そんなに怒るな」
「貴様が怒らせてるんだろうが!」
「お前はいつもそうやって全力で怒鳴りつけてくるが、疲れないのか?」
「疲れるに決まってるだろう!」
「怒ってもいいが、もう少し静かに怒れ。何て言うんだったかな……そう、理性的に」
「何を偉そうに!貴様に言われたくはないわ!」
「お前に怒られていると途中から何に対して怒られているのか分からなくなるのだ」
「人の話を聞いていないからだろう!」
「ちゃんと聞いているぞ」
「ならば今オレが何に怒っているか言ってみろ」
「飲みかけのコーヒーを駄目にされて……」
「そこじゃないわ!!馬鹿が!!全然分かってないのではないか!!」
「だから、何に怒っているのかもっと冷静に教えてくれと言っている」
「………………」
「お前が怒らずにきちんと教えてくれたらオレとて反省する」
「……ならば。まず一つ。オレの机の上を荒らすな」
「うむ」
「二つ。注意力を身につけろ。特に安定感のないものには触れないようにする事だな」
「?うむ」
「三つ。してしまった事は素直にオレに言え。隠そうとするな」
「良く分かった」
「以上、順を追って説明してやったぞ。今度こそオレが何に怒っているか分かるだろう」
「オレがお前の机の上を許可なく漁り、PC横にあった中身入りのカップを倒した挙句、その所為でコーヒー塗れにしてしまった書類を隠すために机の中に仕舞いこんで、その所為で他の書類にもコーヒーがついた。という事か」
「その通りだ。次からは絶対にするなよ」
「うむ。素直に言えという事だろう?」
「それもそうだが、まずは『するな』」
「……実はな、瀬人」
「何だ」
「そのコーヒーを倒した時にお前のスーツを着ていたのだが……」
「はぁ?!それを何処にやった!」
「その、コート専用のクロゼットの中に」
「また隠したのか!!」
「『また』ではない、『同時』にやったのだ」
「威張るな!!貴様は何故そう── 」
(どっちにしても結局怒鳴られるのではないか。言って損した)
「聞いているのか!」
「ああ、聞いている」
「嘘を吐け!」
「うるさいな。どうすればいいのだ」
「反省しろ!」
「反省している」
「ふざけるな!そこに直れ!貴様には一から教えてやらないと分からないようだな!」
(やれやれ、エンドレスループだな)

カイ瀬人:彼らはいっつもこんな調子です ▲

【31】 オレ等の関係 -- 08.10.23


「お前、逆やりたいとか思わねぇ?」
「……は?」
「だってさ、オレ等男同士じゃんか。ぶっちゃけどっちも出来るじゃん?」
「まぁな」
「だから興味ねーのかなーって。そもそも男なら普通突っ込む側だろ。だからお前もそっちやりたい時あるのかなーとこないだふと思った」
「そっち、とは?」
「だからーオレを抱いていいよって」
「全力で断る」
「ちょ、即答かよ。なんで?」
「無理だ。勃たない」
「……無理って。結構傷つくなぁそれ」
「そもそも男に興奮する方がおかしい」
「更に根本的な否定かよ。んな事言って、ちゃんと勃ってイく癖に。オレ的にはケツの穴に突っ込まれてなんでイけるのかが分かんねぇ。それ、イイの?」
「試したいのか?」
「うん。でも、痛いのは嫌かなー」
「なら無理だな」
「え。やっぱり痛いの?」
「興味があるなら試せばいいだろうが。オレはしないがな」
「浮気推奨するほど嫌か!そんなにオレって魅力ない?!」
「嫌だ。気持ち悪いわ」
「き、気持ち悪いって……あれ、オレ達付き合ってるんだよな?」
「?……そうなのか?」
「ちょ、ちょっと待って。お前オレとの関係なんだと思ってんだ」
「……なんだろうな。そう言われてみれば考えた事はなかった」
「うっそ?!マジセフレ認識?!」
「セフレ?」
「セックスフレンド!」
「いや、違う」
「ほっ、そこまでじゃねぇのか。良かっ……」
「友達ではない」
「そっちかよ!」
「では貴様はなんだと思っているのだ」
「なんだってそりゃーこ、恋人っていうかぁ」
「恋人?!」
「そ、そんなに吃驚した顔しなくても。だってよ、フツー、キスとかセックスとかすんのって恋人とじゃねぇ?違う?」
「イコール恋人、にはならないと思うが」
「……あ、そーですか。っていやいや。オレは結構真面目にそう思ってんだけど」
「ふぅん」
「……興味なさげですね」
「オレにはどうでもいい事だ」
「どうでも良くないだろ。じゃあお前はこーゆー事他の奴ともしてんのかよ」
「するか、こんな事」
「じゃあやっぱオレはトクベツって事じゃん。毎回させてくれるって事は嫌でもないんだろ。っつー事は好きって言う事でー」
「好き?」
「ちょ、だからなんで疑問系なんだよ」
「貴様はオレにそんな事一言も言った事がないだろうが」
「へ?!何言ってんだよオレはちゃんと……!」
「聞いてないぞ。だから貴様の言っている意味が分からないといっているのだ」
「……あれ……そうだっけ?オレ告白してないっけ?」
「していない。だからオレは、貴様の言う恋人だのなんだののカテゴリ分けをしていなかったんだが」
「……うっそ。じゃあなんでエッチするようになったんだっけ?」
「知らん。貴様が勝手に盛ったんだろう」
「そっからズルズルと一年……ってありえないだろ。お前、そういう事はもっと早く言えよ!」
「普通聞くか?そんな事」
「大体お前だってオレにそんな事言わねーじゃん!」
「オレは貴様にそんな感情はない!勘違いするな!」
「うわっ、断言?!お前ツンデレ……や、デレてないか。ツンツンもいい加減にしろよ!」
「訳の分からない事を言うな!」
「……つーかさーすっ裸でする話じゃなくねぇ?こんなの。ピロートークに関係確認とかありえないだろ」
「貴様が余計な事を言うからだろうが」
「オレの所為ってか。……まあとにかく。これまではそれでしょーがないとして、これからは、その、恋人になってくれる?」
「順番が果てしなく逆なんだが」
「悲しいほど分かってるからそこにツッこむなよ!どうなんだよ!」
「まぁ、考えておいてやる」
「……反応薄っ!」
「とりあえず、手順は踏んでみたらどうだ」
「手順っ?!」
「あぁ」
「あ、そっか。……えと、好きだぜ」
「オレはそうでもないがな」
「ちょ、なんだよそれ!」

城海:こんな関係の二人も案外好きだったり ▲

【32】 海馬邸の眠り姫 -- 08.11.02


「またこんなとこで転がってー。寝るんなら自分のベッドにしろって言っただろ?」

 そう言いながら古ぼけたスポーツバックを床に放り投げる事もそこそこに、オレが覗き込むように寝転がるその顔に自分の顔を近づけると、そいつは鬱陶しそうに眉を顰めて丁度いい位置にセットしたらしいクッションの中へと顔を埋めてしまう。普段の顰め面からは想像出来ないほど気持ちよさそうないい寝顔。この姿だけを写真にして切り取ったら、それこそその辺のモデルに匹敵するんじゃないかってほど見てくれはいいと思う。

 付き合ってから一番最初にこいつの寝姿を見た時、オレの脳裏には昔静香に読んでやったことがある『眠り姫』の本の挿絵を思い出した。勿論姿形や格好、性別さえも全然違ったけれど、豪奢なベッドに人形のように横たわるあのお姫様の絵が、こいつの寝姿にそっくりだったんだ。今でも時折、あの絵の事は思い出す。本人には一度も言った事はないけれど(絶対怒られるから)

 そんな、なかなか目の保養になるこの一枚絵のような光景は、残念な事にコイツが眠っている時にしか見る事が出来ない。何故なら一度目を覚ませばかなり特異な立ち居振る舞いや言動に圧倒されて、その整った顔を『綺麗だ』なんて思う暇がないからだ。だからオレはオレだけに許されたコイツを綺麗だと思えるこの瞬間をいつも大切にしている。勿論見ている事しか出来ないし、触れてしまうと途端に起きてしまうからつまらないっちゃーつまらないんだけど。

 でもやっぱり、数日の空白を経て更に労働で疲れた身体を押してわざわざココにやって来て、ただ鑑賞しているだけってのも結構ツラくて、オレはついつい穏やかなその寝顔に手を伸ばしたくなる。

 今は冬で、ちょっとでも外を歩くと直ぐに氷のように冷たくなってしまう指先にはぁっと大きく息をかけて暖めつつ、丁寧に擦り合わせて人の体温を取り戻すと、そっと、本当にそうっと室内気温の暖かさの所為で少しだけ血色が良くなっている目の前の頬へと指を伸ばす。ゆるゆると滑らかな肌を辿って、額に触れて、そこに掛かる僅かに乱れた栗色の髪を軽くかきあげると風呂上りでまだ僅かに湿った髪がさらりと落ちる。

 ……まーた頭乾かす間もなく倒れただろ。だからそんなになるまで根詰めるなっての。耳元でそう囁いても瞼一つ動かない。いつもならここで青い瞳が現れてオレをきっちり睨むのに、今日はしっかり熟睡中。目の下に薄い隈が出来てるからここ数日また徹夜でもしたんだろう。ちゃんと寝ないと大きくなれないって言ってあるのに、オレの言う事なんて全然聞かないんです、この人は。

 まぁでも、186cmもあればそれ以上伸びる必要なんてないけれど。掴むと折れそうな腰とか首とかはなんとかした方がいいと思う。殆ど食べもしないで寝もしない。けれど良く動く低燃費のこの身体は、燃料高のこの時代には有り難いモノなんだろうけど、やっぱり乗り物や機械じゃないからしっかりと食事と睡眠はとるべきだと思う。じゃないと直ぐにガタが来るから。一度壊れると治すのが結構大変で、やっかいだから。

 お、ちょっとだけ顔を擦り寄せる仕草をしてる。なんだか可愛い。猫みてぇ。

 大き目のソファーに細長い手足を少しだけ折りたたんで、多分自分がかけた訳じゃない柔らかな手触りのボア毛布を中途半端に引っかけて眠るその顔は凄く幸せそうで。呼吸に合わせて緩く上下する肩の当たりに視線をやると、珍しく大きめに肌蹴たシャツの間から偉く目立つ鎖骨が見えてちょっと目の毒だ。

 真っ白な皮膚の中に点々と見える一見すると虫刺されの様な跡は、実を言わなくてもオレの仕業で。毎回そこに唇を寄せる度に怒られるけれど特に気にはしていない。動物は良く自分のテリトリーにマーキングをするけれど、オレのこれも所謂それと同じ意味を持っている。

 本人には自覚が全くないけれど、その実色んなヤツの視線を集めているコイツだから、横取りされないようにちゃんと「オレの!」って印をつけて置かないとって思うから。綺麗なお姫様が世のオトコに狙われるなんて話は童話として腐るほどあるんだし、ここは一つ早い者勝ちを主張させて頂かないと割に合わない。

 ……それにしても全然起きないな。よっぽど疲れてるんだな。連日の過酷なバイトと言う茨をくぐった貧乏な王子様が膝をついてその頬に手を触れているのに、気配すらも感じないんですか、この世間に揉まれ切って疲れ果てたお姫様は。

 やっぱりココは物語のセオリー通りキスをしないと駄目なんですかね。

 キスをすると、キスだけでは、多分すまないけど。

「海馬」

 お姫様の名前としては、余りにも色気のないその名前を、それでもオレはかなり恭しく口にすると、子供向けの童話らしく、ちゅ、と音を立ててその唇にキスをした。

 けれど、眠り姫はまだ起きない。今度はもう少し、大人のキスをしてみよう。

 その瞬間、多分頬をバラ色に染めるより早く、愛情の多分に篭った強烈な平手打ちがオレの頬をお見舞いしたとしても。
 

 ── 王子様は、お姫様が凄く凄く好きなんです。

城海:城海で電波系メルヘンを目指してみた(笑) ▲