短編集 NO66〜N071

【66】 恋するハニカミ -- 09.11.11


「だめぇっ!海馬くんっ!」
「?!」

 教室に入って早々、海馬は思い切り顔を殴られた。……否、この場合殴ったと言うよりはかなりの勢いで顔……もとい口元を塞がれたと言うべきか。だが、ベチッと凄い音がした上に、衝撃でかなりの痛みを感じた事からやはり殴られた、と言っても過言ではない。

 普段ならこんな真似をされたならば百倍返しをしてやる所だが、その相手と言うのがいつも海馬に危害を加える城之内や闇遊戯ではなく(ただし、本人達はそれを愛情表現だと言って憚らない)、何時もその様を生暖かく見守っている真崎杏子だった事から、彼は眉間にこれでもかと皺を寄せ、右手をぐっと握り締めるだけで我慢した。

 そんな海馬の様子を知ってか知らずか、杏子は扉の前に立つ彼を身体ごとぐいぐいと廊下に押しやり、後ろ手で扉を閉めてしまう。瞬間「いきなり何だ?!」と怒鳴りつけてやりたい海馬だったが、相変わらず口を手で塞がれていた為、うーうーとまるで子供がぐずっているような声しか出す事が出来ない。

 だが、それも直ぐにはっと気づいた杏子によって解放される事になるのだ。

「っ……貴様、一体何の真似だ?」

 瞬時に上げた避難の声にも別段悪びれる風もなく、杏子はいつもの調子で軽く「ごめんね」と一言で謝罪を済ませると、「でもちゃんと理由があるんだから」と口を尖らせた。そんな彼女はさりげなく海馬の口に触れた手をウェットティッシュで拭い、海馬にも同じく一枚取り出して差し出すと、「口を拭いて」と強制して来る。

 そんな彼女の行動を渋々許容して言われた通り口元を拭うと、海馬はふとある事に気がついた。今まで余りの事に仰天して気付かなかったが、彼女はその顔の大半をかなり大きめの白いマスクで覆っていたのだ。余りに大き過ぎるのか、話す度にずれるそれをかなり神経質に直している。

「何だ、人を黴菌みたいに。……というか貴様風邪でも引いたのか」
「私、保健委員だから率先してね。ところで海馬くん、あの馬鹿から何も聞いていないの?」
「何の話だ」
「今現在、童実野高校は全校でマスク着用が義務化されてるのよ。確かプリントが回ったはずだけど」
「は?マスク?」
「そう。マスク。ほら、回りを見て。皆殆どマスクしてるでしょ?」
「………………」
「今ね、物凄いインフルエンザが流行ってるの知ってるわよね?ニュースでもやってるでしょ。小学校とか続々学校閉鎖してるって」

 そう言われて海馬がぐるりと視線を巡らせてみると、なるほど視界に入る生徒の大半が目の下まできっちりと覆い隠すマスクをしている。どうにも奇妙な光景だが、確かに風邪だかインフルエンザだかが大流行していると言う噂は聞いていた。完璧な空調管理と除菌が徹底している社内にいた身としては全く関係ない話だと思っていたが…。

「あぁ、確かにそんな事を言っていたな。モクバも休みだとはしゃいでいた」

 思い返してみれば、昨日一昨日とモクバは学校へ行かずに社に入り浸っていた。少し忙しかった為に余り話を聞いてやる余裕はなかったが、何故ここにいる、との問いに「インフルエンザで学校閉鎖なんだよ」と教えてくれた気がする。否、それ以前に犬の宅急便宜しく大して重要でもないプリントを届けに社に出入りしていた城之内が何やら大げさに騒いでいた気がするが、こちらも普段通りスルーしていた。

「そのインフルエンザの魔の手がうちの高校にも来たって事よ。一昨日まで一年と三年は学年閉鎖してたのよ。私達の学年はまだ何とか大丈夫だけど、大半はダウンしちゃってるわ」
「なるほどな……それで?」
「それで、じゃないの。だから、皆マスクと手洗いうがい、アルコール消毒は必須って事よ。うちのクラスではマスクをしない人は教室に入れない事になっているから、今から保健室に行ってマスクを貰ってきて頂戴。ウェットティッシュは一杯あるからこれあげるわ。はい」
「なんだと?教室に入れない?何故健康そのものであるオレがマスクなどせねばならんのだ。貴様、なんの権利があって……!」
「言ったでしょ。私は保健委員。皆の健康を守る義務があるの。幾ら海馬くんでも言う事は聞いて貰うわよ」
「なっ……」
「別にマスクをする位いいでしょ。研究所でいつもしてる癖に。あんまり駄々捏ねると……」

 言いながら何故か妙な迫力を湛えてずいっと迫って来る杏子に、海馬が二の句も告げずに不本意にも一歩後ろに後ずさったその時だった。突然、きっちりと閉ざされていた筈の背後の扉がガラリと開いて、これまた顔の大半をマスクで覆った城之内が顔を出して来る。

「おい杏子、お前廊下に海馬拉致して何やってんだよ?不純異性交遊?」
「違うわよ馬鹿ッ!あ、ちょっと城之内!あんた海馬くんに学校に来る時はマスクして来なさいって言わなかったわね?!」
「悪ィ。さっぱり頭に無かった。あーだから海馬締めだし食らってんのか」
「そうよ。責任を取って、あんたが保健室に一緒に行ってマスクを貰って来て頂戴!」
「はいはい。仰せの通りに。保健委員長様。つーか何でお前そんなに必死なの?」
「私は近々大会があるから移されたくないだけよ。とにかく、頼んだわよ?……あっ!支倉さん待って!教室入らないでッ!」

 そう言うが早いが他方に別のターゲットを見つけたらしい杏子は、海馬を城之内に押し付けると即座に彼が立っているのと反対側の扉の方へと走って行く。その様を半ば呆れて眺めていた城之内は、それ以上に茫然としている海馬に向かって眼だけで笑いかけると、「じゃ、いこっか?」と何故か嬉しそうに手を差し出した。いつの間にか随分時間が経ったのか、始業5分前の予鈴が鳴り、生徒達がバタバタと教室に入って行く音がする。

「なんなんだ一体」
「ま、気にすんな。あいつ変なトコ熱血でさ。インフルエンザ対策に燃えてんの」
「ふん。そんなもの一枚で菌が防げるものか。気休めだ」
「まーまーそうなんでも切り捨てないで。モノによっては効果は抜群らしいぜ。オレだってこんなのウザいから嫌だけど、身体が資本の身としてはインフルエンザごときにやられてらんねぇからさ。出来る事はやらないと」
「……来なければ良かった」
「そんなさみしー事言っちゃ嫌。克也泣いちゃう」
「気色悪いわ」
「なんでそんなに嫌がるんだよ。あ、もしかしてマスクしてるとオレのカッコいい顔が見えないからとか、ちゅー出来ないとか、そういう意味で嫌だとか?」
「……はぁ?貴様の脳は既に溶けて無くなっているのではないか?」
「ひでぇ」
「そんなに予防したければ全面マスクでも被っていろ阿呆が」
「ぶっ……想像すると間抜けすぎるだろそれはっ」
「マスクをせんでも十分間抜けだから心配するな」
「あーもーオレに八つ当たりすんなよ。ちゅーしてあげるから」
「いらんわ。雑菌が移る!」
「雑菌言うな!」

 もー!と大げさに膨れて見せるものの、その目は相変わらず笑ったままで、久しぶりの学校での再会に城之内の足取りは自然とスキップになっていて。それを鬱陶しげに眺める海馬もまた、眉を寄せてはいたものの満更でも無い様だった。

「でも確かに、お前にマスクって勿体ないな」
「何がだ」
「顔見えねーし」
「フン」
「ちゅー出来ないし」
「貴様、さっきと同じ台詞だぞ」
「別に何回言ってもいいだろ。正直な気持ちなんだし」
「こんな時位我慢出来ないのか」
「マスク一つ我慢出来ない奴に言われたかないね」

 まぁ確かに、これって凄く鬱陶しいけど。

 と、やはりつい数分前と同じ台詞を口にして、先に立って階段を二歩降りた城之内はくるりと振り向き、続けて足を踏み出した海馬の身体にいきなり抱きついて、マスクをしたそのままの状態で真正面から唇を押し当てた。

 それは何時ものカサついたものではなく、仄かに温かく柔らかい布の感触。

「やろうと思えばキス出来るから。まぁいっか」

 そのままパッと身を離し、パタパタと薄汚れた階段を叩いて行く履き潰された内履きの音。それをどういう反応をしていいか分からずに、その場に立ち尽くし相変わらず気難しい顔で聞いていた海馬は、いかにも苦々しいという口調で、ぽつりとこう呟いた。
 

「……マスクの外側は雑菌だらけだぞ、凡骨」
 

 けれど彼がポケットに忍ばせたウェットティッシュを取り出す事はついぞ無く、眼下で揺れる金色に埋もれたつむじに向かって、小さく文句を言うだけで留めておいた。

城海:『マスク越しのキス』リク作品。こっそりさなえだ様へ。ありがとうございましたー!! ▲

【67】 The Game -- 09.11.12


「オメーは相変わらずマジメだなぁ、シャチョーさん」
「その呼び方はやめろ。獏良了」
「テメェこそその呼び方はやめろよ。オレはバクラだ。宿主とは別の人格なんだからよ。ジンケンをソンチョーしてくれよな」
「フン、貴様らのオカルト現象にオレがわざわざ付き合ってやる義理はない。オレから見れば貴様は獏良了以外の何者でもないわ」
「『遊戯』は区別してる癖によ。差別だろそりゃあ」
「喧しい。邪魔をするな」
「しょうがねぇだろ。宿主は昨日寝てねぇからってオレ押し付けて爆睡こきやがるし。こんな読めもしねぇ紙切れを前に何しろっつーんだよ」
「オレの知った事か。鬱陶しい、机に腰かけるな!」
「おーこえー。でもなんか懐かしいぜぇ、その響き」
「………………」
「そういや昔のアンタもそうやってオレ様の事を煙たがってたよなー。ゴミでも見るような目ぇしてよ。蝿追っ払うように掌翻すその様は今でもはっきりと覚えてるぜぇ」

 言いながらギシリと音を立てて比較的真新しいパイプ机から飛び退くと、バクラは近くから椅子を拝借し、本来の方向とは敢えて逆向きに腰かけて、背凭れに両腕を組んで顎を載せる形で海馬と向き合った。

 放課後の教室で二人きり。
 窓から差し込むオレンジ色の夕日が初冬の冷たい空気に凍えた身体を仄かに温めて行く。

「なぁ、社長」
「………………」
「何その顔。そんなに学校で社長って呼ばれんのが嫌なのかよ」
「オレとて一応プライベートが存在するのでな。出来れば分けたいと思っている」
「四六時中黒服侍らせてる癖にプライベートねぇ……良く分かんねぇな」
「貴様には関係のない事だろう。真面目にやれ」
「だからまず字が読めねぇんだっつーの。社長代わりにやってくれよ」

 バクラが身動きする度に椅子の背と机の端が擦れてギシギシと耳障りな音がする。その音に連動して微妙に揺れる机上に海馬は少しやりにくそうに、けれどスピードを緩める事無く薄茶色の用紙に文字を書く行為を続けている。見る間に埋まって行く空白を何となく眺めていたバクラだったが、直ぐにそれも飽きてしまい即座に身体を大きく仰け反らせて声を上げた。

「だー!無視すんなッ!おいセトッ!」
「…………!?」
「お、顔上げた。なんだ社長、名前呼びして欲しかったのかぁ?……いでッ!!」

 教室中に響き渡った殆ど雄叫びにも似たその言葉に海馬は、一瞬驚いた様に今まで僅かにも動かなかった視線を上げて目の前の顔を凝視すると、即座に左手で咄嗟に掴んだらしいステンレス製のペンケースをバクラの頭上に叩きつけた。

 ガシャン、と派手な音を立てたそれはそのまま静かに元の場所へと戻される。

 ジンジンと痺れるような痛みがバクラの頭頂部を襲う。それを両手で鎮めるように押さえつけて、彼は先程とは反対にぐっと顔を海馬へ近づけると大声で盛大な文句を口にした。

「いきなり殴るこたぁねぇだろうが!」
「人の名を気安く呼ぶな!」
「はぁ?!なんでよ?!テメーが社長呼びが嫌だっつーからちゃんと名前で呼んでやったんじゃねぇか!」
「だからと言って即下の名前で呼ぶ奴がいるか!怖気が走ったわ!」
「だってオレ様、アンタの名前それしか知らねぇし!」
「『海馬』瀬人だ。獏良了もオレの事をちゃんと海馬と呼んでいるだろう。いい加減覚えろ!」
「カイバ……変な名前。似合わねぇぜ」
「喧しいわ!」

 フン、と小さく毒ついて海馬は直ぐに目線を獏良から手元の用紙へと戻してしまい、軽快なリズムが再び戻る。そこにはつい数秒前までの騒がしさが微塵も感じられず、ただ凪の様な静寂があるだけだ。そんな彼の様子にチッと鋭い舌打ちを一つして、バクラは顔一杯に不満を表しつつもそれ以上がなり立てる事無く大人しく元の位置へと戻って行った。

 遠くでバタバタと騒がしい足音が聞こえる。それ以外は何も聞こえない、静か過ぎる空間。
 
 ……そう言えば、昔もこんな感じだったなァ。
 

 カツン、と首元の千年リングが木の背に触れる。既に身体の一部となっているそれは僅かな重みと冷たさを借り物の身体に伝えていて。

 昔。数年や数十年では無い、もっと気が遠くなる様な過去の話。目の前の彼と、それを手持無沙汰に眺める自分が古代エジプトの砂塵の中で暮らしていた頃の事。

 海馬は違うと言い張るが、バクラは目の前のこの男が己が昔想いを寄せた『あの男』と同じ魂を持つ者だと分かっていた。否、その夕陽に透かすと黄金色に輝く髪の色、どこまでも真っ青などんな蒼よりも美しい蒼の瞳。歯に衣着せぬ冷たい言動、そして……冷酷な振りをしてその実至極温かみのあるその心。
 

 ── セト。
 

 名前すら変わらないその存在をどうして違うと言えるだろうか。
 

「なぁ、セト」
「その名を呼ぶなとつい今しがた言った筈だが、聞こえなかったのか」
「まぁいいじゃねぇか。細かい事を一々気にすんなよシャチョーさん」
「……貴様!」

 一瞬にして苛立ちを見せる表情。衝動のままに上がる腕。その仕草が、眼差しが、過去の姿とシンクロする。制服の青が『彼』が常に身に纏っていた服の青と重なって、視界がぶれる。思わず手を伸ばして空を切る腕を捕まえて、強く強く握り締めた。

「……っ!」
「オレ様はよ。今も昔も、そうやってアンタに嫌がられる運命なんだな」
「なんの話だ。何時もの下らん戯言には付き合わんぞ」
「別に付き合ってくれなんて頼んじゃいねーよ。独り言だ」
「ならば手を離せ。独り言は部屋の隅で一人でしていろ」
「独り言だけど、アンタに聞いて貰いてぇの」
「聞かん。時間の無駄だ」
「なぁ」
「聞かんと言って……!」
「好きだぜ、セト」

 今も昔も、未来永劫。嫌がられても、罵られても、例えその手に掛って命を落とす事になっても尚。
 

「好きなんだ」
 

 再び、リングが音を立てる。触れた木に微かな傷をつけながら。それを無感動に眺めながら、海馬は瞬き一つ、言葉一つ発さずに、ただ振り上げていた腕の力をゆっくりと抜いて行く。自然と机に落ちて行く二つの手。その肌の色はかつての日に焼けた褐色ではなく、どこまでも白い。

「……下らんな」
「人の真剣な告白を下らんとかヒデェ」
「貴様は知っているかどうか分からんが、一つだけきっちりと言い置いてやる。オレは過去には一切興味が無い。貴様の言う何千年前の因果だの、輪廻転生だののオカルト話は例え事実であろうとも、オレにとっては無意味なものだ。故に、それをちらつかせてオレに付き纏うのはやめて貰おう。苛々する」
「………………」
「だが、現在進行形のものについてはその限りでは無い。以上だ」

 すらすらと、まるで何かの文章を読み上げている様な口調でそうきっぱりと宣言すると、海馬は即座に掴まれていた手を乱雑に振り解き、再び視線を下に落とす。弾みで転がってしまったペンを手に取り、軽快に動かしながら彼はまた空白を埋め始めた。

 その白い顔に表情はない。けれど、纏う雰囲気は少しだけ柔らかく感じられた。サラサラと紙の上を滑る黒芯の音が遠い昔に聞いた砂が風に舞う音に似ている気がして。
 

 バクラは、やはり彼に『彼』を見い出してしまうのだ。
 

 ……けれど。
 

「え?何?シャチョー今何て言ったの?どういう意味?オレ様まだこの国の言葉に不慣れで理解出来ないんだけど!」
「二度は言わん。良く考えろ」
「優しくねぇな!!」
「貴様に優しくしてオレに何の得がある」
「オレ様が幸せになる」
「死ね」
「や、もう死んでるのと同じだし!」
「第一段階として、呼び方から改めてみるのだな。オレは貴様にとっての『社長』でも無ければ、貴様が勝手に思い込んでいる『セト』でもない。……オレの名は?」
「え?え?……えっと、カイバ……」
「海馬瀬人だ」
「カイバセトだな。良く分かったぜ!」
「ではバクラ。現代での人付き合いの在り方を教えてやる」
「えっ」
「何だ」
「いや、その、名前がよ」
「貴様はバクラだろう?」
「………………」
「好きだの嫌いだのを持ち出す前に、スタートラインをきっちりと決めるのだな。『バクラ』」

 そう言って勝ち誇った顔で微笑むその姿は、過去の光景から探し出す事はついぞ出来ず、新たな記憶としてバクラの中に刻まれた。
 

 海馬瀬人。覚えたてのその名前と共に、胸深く。
 

「どうしよう、オレ様。物凄くときめいたんですけど!」
「ちなみにオレは男はお断りだからな。それも良く胸に刻んでおけ」
「えぇ?!」
「まぁ、精々足掻いてみるがいい。努力次第ではどうにかなるかも知れんぞ」
「努力次第って、オレ様に女装しろってか!」
「そういう努力ではない!阿呆が!!」

 馬鹿と話していると馬鹿が移る!と身も蓋も無い台詞を投げつけられて、ふい、と背けられてしまったその顔をバクラはじっと息まで詰めて見つめていた。昔はその頬に触れる事が出来るまでどれ位の時間が掛ったのだろう。そして今はどれ位の時間が掛るのだろう。
 

 どれだけ長い時間が掛ってもいい。手間が掛ってもいい。それでもオレは。
 

 必ず、オレは。
 

「アンタを振り向かせて見せるぜ。海馬瀬人」
 

 かつての生き様と同じ様に、欲しいモノはこの手で力強く奪うが如く。
 

「貴様ごとき、歯牙にもかけんわ。馬鹿者が」
 

 ── さぁ、ゲームの始まりだ。

バク海:バク海を所望して下さった方々へ。……む、難しい。バクラ好きなのに……! ▲

【68】 雨音 -- 09.11.14


「……寒いな」
「当たり前だ。この雨の中傘も差さずに歩くとは馬鹿のする事だ。大体、鞄に折り畳み傘が入っていただろうが」
「?折り畳み傘?」
「……知らないのか?これの事だ」
「ああ、これ傘だったのか。全然分からなかったぜ」
「使い方は……」
「別にいい。今日オレが外に出たのはたまたまだ。相棒が分かっていればそれで」
「その『相棒』の身体を粗末にしているからオレが教授してやろうと言うのだ、黙って聞け」

 パチン、シュル……と音がして、濃い藍色をしたペンケース位の大きさの物体を、海馬の白い手が見る間に見慣れた傘へと変えて行く。まずこの袋を取って、折り畳まれている骨を伸ばして、縮まっている金属の棒を伸ばしここを上に押し上げれば……みろ、ちゃんと傘になる。一つ一つまるで子供に教える様な丁寧さで説明していく海馬の事を、遊戯は頭に被せられた柔らかなバスタオル越しにただじっと見つめていた。

 柔らかな眼差し、優しい口調。『自分』が表に出ている時には余り見られないその姿が、今はこんなにも近くにある。

 本来なら今この場所にいるのはこの身体の正規の持ち主であるもう一人の遊戯の筈だった。だが彼は今日の試験の為に連日の徹夜が祟って途中で力尽きてしまい、仕方なく『遊戯』が表に出て目的であるこの海馬邸にやって来たのだ。試験が終わったら会いに行くから。携帯電話越しに何度もそう言って溜息を吐いていたその様を知っていたから、彼が眠ってしまっても家に帰る気にならなかった。

 尤も、『遊戯』がここにやって来たのは遊戯の為だけではなく、自分の為でもあったのだが。

「貴様、聞いているのか」
「ちゃんと聞いてるぜ。ここを押せばいいんだろ」
「……それは畳む時だ」
「……じゃあ分からない。もう一回説明してくれ」
「ふん、聞く気がない男に何度説明したって分かるものか。今度から雲行きが怪しい場合は畳めない傘を所持して置く様に奴に言い置いてやる」
「そうして貰えるとオレも助かるな」
「貴様は下らん事の知識だけは豊富な癖に、こういう日常のちょっとしたものの扱い方を知らなさすぎる。普段からよく遊戯のやる事を見ておけと言っているだろうが」
「見られる時は見ているさ。お前に心配されるまでもない」
「折り畳み傘一つ扱えない様を見ては信用ならんな。……と言うか貴様何をぼうっとしている。さっさと頭を拭かんか、風邪をひくぞ」

 ふうっ、と小さな嘆息を一つして、先程からどうにもツンケンした態度の海馬が手にした傘をソファーの上に放り投げ、呆れた様に『遊戯』の頭からタオルをはぎ取ると未だぽたぽたと滴が垂れている髪を少々力は強めだが、動作は丁寧に拭き取って行く。まるで頭を撫でられている様だ。酷く手慣れたその様は普段からこんな行為を良くしているという証拠で。彼の言動から垣間見えるその痕跡に少しだけ心がざわついた。

 しかし、仕方がない事なのだ。海馬と遊戯は恋人同士なのだから。

「そんなに相棒の身体が大事か」
「当たり前だ」

 ぽたり、ぽたりと落ちる水滴を甲斐甲斐しく拭き取っていた海馬の横顔にぽつりとそんな事を呟いてやる。それに一瞬ピクリと指先が反応した気がするが、帰って来たのは普段と同じ素っ気ない一言だった。

「もういいぜ、クラクラする」
「そんなに乱雑にした覚えはないがな」
「慣れないだけだ」
「そうか」
「……興味なさそうだな」
「そんな事は無い」
「相棒じゃなくて残念だな」

 比較的明るい口調でさらりと意地の悪い事を告げてしまうのは自分も苛立っているからだろう。『も』というのは、ここにももう一人この事態に苛立っている人間がいるからだ。何故貴様なのだ。オレが待っていたのは遊戯であって貴様ではない。決して口には出さないがこちらを見る眼差しが雄弁にそう心の声を伝えて来る。

「海馬」
「雨に打たれて冷えただろう。何か温かい物でも……」
「珈琲にしてくれ。ミルクたっぷりの奴」
「それは貴様の好みではないだろう」
「相棒と同じものでいい」
「飲めない癖に何を言っている。いいから貴様の要望を言わんか」
 

 ── ミルクは苦手だ。あの独特な風味が舌に残って気に入らない。
 

 何時だったか、何かの折に好き嫌いの話をした時に、自分がぽつりと漏らしたその一言を海馬はきちんと覚えていた。そんな些細な事まで全て記憶して、気遣ってくれるのに。
 

 どうしてお前は、オレが好きではないのだろう。

 同じ顔、同じ身体、同じ声をしているのに。
 

「……ブラックでいい」
「ふん。最初から素直にそう言え。直ぐに用意させる」
「飲んだら帰るぜ。オレだとお気に召さない様だからな」
「別にそんな事は無い。折角来たのだからデュエルでもして行け」
「オレはデュエルマシンじゃないんだが」
「似た様なものだろうが」
「一晩中待った所で多分相棒は起きないぜ。ここの所寝ていなかったからな」
「だから別にいいと言っている。一々奴を持ち出すな」

 ならば何故こちらを見る瞳には一抹の寂しさが見えるのだろう。態度には苛立ちが混ざるのだろう。それは一重に遊戯が『遊戯』だからだ。それ以外の理由は何処にもない。

「分かったぜ。寝るまで相棒が起きなかったらオレが代わりに添い寝してやるよ」
「余計な世話だ。代わりなどいらん」
「じゃあ、個人的に」
「それも断る」
「……つれない奴」
「遊戯」

 その名前は今ここに立つ、意識を支配している者の本当の名前では無い筈なのに。その名しか、今の『彼』には無かったから。呼ばれれば、応えるしか術はないのだ。
 

「貴様は貴様だ。奴ではない」
 

 例え、想いを寄せている人間から、とどめの様に否定されたとしても。
 

「……お前って相変わらず酷い奴だよな」
「なんの事だ」
「分からないならいい。早く一服して、お望み通りデュエルをやろうぜ」
「望む所だ」

 偉そうな口を叩きおって、完膚なきまでに叩きのめしてやるわ!

 そう言って不機嫌な顔を崩さないままそれでもこちらを見据えて薄く笑みを刷くその顔を、『遊戯』は強引に捕らえて引き寄せてやりたいと、強く思った。勿論それは思うだけで決して実行する気など無かったが。  
 

 気付けば、広い部屋に激しい雨音が木霊していた。
   

 煩いな。そう言おうとして、それは上手く言葉にならなかった。 

表海←闇:出来れば三人で幸せになって貰いたい。……難しいけど。 ▲

【69】 その腕の温かさ -- 09.11.17


 一体、何がどうなってこんな羽目に陥っているのだろうと、海馬は目の前で嬉しそうににっこりと微笑んでいる遊戯の顔を眺めながら些か真剣に悩んでいた。けれど自身の身体を包む柔らかな羽布団の感覚や、それと同じ位心地いい遊戯の暖かな体温の所為で、なんだかどうでも良くなって来る。

 僅かな隙間を空けて敷かれた二組の布団はその実一組しか使用されてはいなかった。何故なら遊戯が自分の家の物なのに「布団が変わると眠れない」と文句を言って海馬の方へと潜り込んで来たからだ。勿論それが方便だと言う事を海馬は知っていたが、特に何も言わなかった。

「海馬くんってさ、手足冷たいね。冬、辛くない?」
「己の部屋に居る時は、特に意識した事はないな」
「あそっか。海馬くんの部屋あったかいもんね。ベッドもすっごくふかふかで全然寒くないし。……でもここはきみの家の高級ベッドじゃなくって僕んちの三点セット一万円の羽布団なんだから寒い時は寒いって言ってよ。風邪なんかひかせたらママに怒られちゃう」
「フン、貴様がしっかり湯たんぽ代わりになればいいのだ」
「はいはい。じゃあ遠慮なく」
「髪がくすぐったいわ」
「湯たんぽに文句言わないでくれる?」

 もー海馬くんてば我ままなんだから。そう口を尖らせながらも自ら進んで海馬の身体に密着して来た遊戯は、その言葉通り酷くひんやりとした指先を手に取り、己の体温を分け与える様に包み込む。じわりと感じる温かさ。静かな部屋には二人の息遣いしか聞こえないが、遠くでは微かに毎週この日にやっている深夜ドラマのエンディングが響いている。

「ごめんね、煩くて」
「……煩いか?特に気にならないが」
「僕の部屋なら一番隅だからもっと静かなんだけど、ここ客間だからママ達の部屋に近くって」
「そうか」
「それだけじゃないけど」
「何がだ」

 特に煩くしてはいけないという法はないが、既に時刻は12時を過ぎ、遮光カーテンを閉め切って暗闇に沈んだ部屋の中に寝ていると言う状況の為か自然と互いに小声になりつつそんな言葉を交わし合う。

 普段なら付き合っていると言う関係上、こういうシチュエーションには必ず付随して来るコミュニケーションを行う筈なのだが、今日は場所が場所という事もありどちらもそれを良しとせず、ただこうして抱き締め合うだけに留まっていた。そんな夜も彼等の間では珍しいものではないので、特に不都合はない。

 ごそ、と小さく遊戯が動き元々近かった顔が更に近づく。途中で一旦言葉が途切れた事や、彼が言わんとしている事が良く分からなかった海馬は、少しだけ首を傾げてより間近に迫った大きな瞳を覗き込んだ。それに少々首を竦めるような仕草を見せて遊戯は再び口を開く。

「えと、なんて言うか、ママが勝手に話を進めちゃったりして。海馬くんにもすっごく馴れ馴れしくしたし」
「……ああ、その事か」
「ほんとにごめん。後で良く言っておくから」
「別にいい」
「えっ」
「貴様の馴れ馴れしさに通ずるものがあるだろう、あれは。だから特に不快には思わなかった」
「………………」
「貴様の性格は母親に似ているのだな」
「うー……それって喜んでいい所?」
「親に似ているのはいい事ではないのか?男は女親に似ると言うしな」
「あ、そうなんだ。……海馬くんも?」
「どうだろうな。顔の作りや髪色は父親よりも母親に似ている気がするな」
「へぇ。この海馬くんのお母さんなんだからきっとすっごい美人だったんだろうね」
「顔の良し悪しなど良く分からん」
「ママは海馬くんの事可愛いって言ってたよ」
「……武藤家は親子揃って目がおかしいのではないか?」
「酷いなぁもう。褒めてるのに」
「嬉しくないわ」
 

『貴方は確かに社長さんなのかも知れないけど、私の目からみたら遊戯と同じ高校生なんですからね。子供は子供らしく、ちゃんと大人の言う事を聞きなさい。遠慮もしないで。ね?』
   

 そう言って、こちらの言う事などお構いなしにあれこれを世話を焼いて来た遊戯の母親に最初は大いに面喰った海馬だったが、『遊戯の母親』という事と、その物言いに不快感を全く覚えなかった為、特に反抗する事もなく大人しく彼女の言葉に従って、こうして遊戯と武藤家の客間に泊まる事となった。

 勿論海馬にはそんな予定など組み込まれておらず、今日は珍しく一日学校に滞在しその流れで遊戯と共に帰り彼を自宅まで送り届けた後、自分はそのまま社へと向かう予定だった。だが、なんの偶然か遊戯が車から降りる際に買い物から帰って来たらしい母親とはち合わせてしまい、なんやかんやと理由を付けられ家に誘い込まれた揚句にこの始末。

 快活で押しの強い遊戯の母親に猫を被っている海馬が対抗出来る筈もなく、結果的になすがままになってしまった。だから彼はしきりに何故こんな事に、と首を傾げているのである。
 

『パパには大き過ぎてとても着られないと思ったけど、海馬くんだとこれでも短いのね……凄いわね』
 

 泊まり込む為に必要なものなど何一つ持っていない海馬に、不在中だという遊戯の父親の物を引っ張り出して来てそんな事を口にした彼女は、屈託のない笑顔をみせつつもパジャマを宛がったその手で海馬を一瞬抱き締めてくれた。

 遊戯と同じ、少し作りが小さくて柔らかいその手と仄かに香るいかにも母親らしい落ち着いた匂いは、海馬が遠い昔に失ったものだった。その事情を遊戯から聞いているのかいないのか確かな事は知らないが、彼女は海馬にとても優しく、敢えて遊戯と同じ様に子供扱いをしている様だった。

 普段他人から年相応に扱われる事に過剰なまでの拒絶反応を示す海馬だったが、抗する気持ちはついぞ沸かなかった。それどころか、少しだけ嬉しいと感じた。その感情は即座に彼自身の気持によって心の奥底に追いやられ、未だ漏れ聞こえるテレビの音の様に至極微かな面映ゆさを与えていた。

(……母親、か)

 そんな一言を声には出さずに心の中で呟いて、海馬は小さく息を吐く。それに今度は遊戯が怪訝な顔をする番だった。

「どうしたの?」
「いや、別に」
「ママはきみの事をとっても気に入ったみたいだね。普通友達捕まえて泊って行け!なんて言わないもの」
「……そうなのか?経験がないから今一よく分からん」
「僕はすっごく嬉しいけどね。こうして一緒に眠れるし。……エッチできないのは、ちょっと残念だけど」
「物音でも立ててみろ、耳聡い貴様の母親の事だ。部屋から飛んで来るぞ」
「うん、ありそう〜!ママがさ、僕達の事を知ったらなんて言うかな?」
「さぁな。貴様の母親だろう?」
「案外普通に『あらそうなの?』って言ったりして」
「……それは有り得ないだろう」
「そうかな?だって『僕の』ママだよ?もう一人の僕が居た時だって、なーんにも言わなかったし。彼ね、ママの事『ママさん』なんて呼んでたんだよ?」
「気付いていて尚且つその対応なら尊敬に値するな」
「僕の家族って案外能天気なのかもね」

 あはは、と声に出して笑いながらもう眠気が差してしまったらしい遊戯は、それきり黙って海馬の胸に頭を強く擦り寄せて来た。大分温まった白い指先から手を離し、目の前の身体にしがみつくその様は滑稽としか言いようがない。けれど、やはり不快ではなかった。

「……能天気、というよりは懐が広いのだろうな」
「……え、何?」
「何でも無い。早く寝ろ」
「……うん、ごめん。お休みなさい」
「お休み」
「……かいばくん」
「何だ」
「……すき、だよ」

 余り長いとは言えない両腕でしっかりと海馬の事を抱き締めて、遊戯は穏やかな眠りの中へと落ちて行く。ゆっくりと上下する肩、じわりと伝わる温かな体温に、海馬は不意に口元を綻ばせた。

 ……全く、この男には敵わない。そして、そんな男を生み出した母親にも敵う訳がないのだ。この小さな家は他所では大きな自分の存在を丸ごと包み、体よく柔らかな場所に押し込んでしまう。心の底から安心出来る様な、幸せだと言葉にして言える様な、そんな状態に変えてしまう。

 それは至極不思議で不可解な出来事だったが、そんな事はやはりどうでも良くなってしまうのだ。
 

 優しい温かな腕の中。
 

 海馬は先程胸底に押し込めたあの面映ゆい気持ちをほんの少しだけ取り戻しながら、目の前の身体をそれなりに強く抱き返すと、ゆっくりと目を閉じた。

 遊戯の熱が届かない足先は未だ冷たいままだったが、じきに温かくなるだろう。  
 

 この、存分に抱きしめられた心と共に。

表海:……表海はこの位のほのぼのさが好きです。 ▲

【70】 全ては必然の成せる技 -- 09.11.18


「ゲッ!何これお前?!このちっこいのが?!」
「おい、勝手に何を取り出している!」
「や、だって暇だったからよ。こんな見える場所に置いておくのも悪いだろ」
「煩い。いいから返せ。触るな!」
「別にいいじゃん減るもんじゃないし。しっかしさすが超お坊ちゃま系有名私立中学。卒業アルバムの質からして違うね」
「……こんなものに質も何もあるか!」
「今度オレの中学の卒業アルバムも見せてやっけどよ。その辺で売ってるやっすい本みたいなやつだぜ。こんな豪華じゃねぇって。現にもうボロボロ」
「それは貴様の保存方法の問題だろうが」
「あーまーそれはあるけどー……ていうかよく考えたらオレ載ってたっけかな?最後の方なんて学校行きやしなかったしな」
「どうしようもないな」
「うん。確かにあん時のオレはどうしようもなかった」
「今も似た様なものだろうが」
「ひっでーの!これでも大分マシになったんだぜ。お前と一緒でさ!」
「オレを貴様と一緒にするな!」
「似た様なもんじゃん。知ってる?夫婦って似てくるんだぜ?」
「誰が夫婦だ!」

 そんな悲鳴のような叫び声と共にバシン、と薄いファイルが床に座り込むオレの頭に直撃する。軽いプラスチック製の奴だったから対して痛みもなくパタン、という音と共にあっさりと床に落ちた。

 それをゆっくりと拾い上げ近くのテーブルに乗せてしまうと、オレは再び目の前に置いた豪奢な装丁の卒業アルバムを覗き込んだ。そのページは多分クラス写真だ。ただ、人数が少ないのか一人一人の写真がやけに大きく感じる。

 そこにいる一人の少年。今はもう少年なんて言ったら皆から噴出されちまうけど、ここに映っているコイツはその見かけや大きさからしてまさに少年そのものだった。

 尤も、中学生という肩書きだけで間違いなくカテゴリは少年に属する訳だけど。

 童実野屈指の金持ち私立なだけあって純白の学ランを始め背後に映る教室の風景まで妙にハイソな光景の中に佇むそいつは、今と違ってやけに小柄でつんと澄ました人形のような顔をしていた。

 学ランの白とあまり大差ない顔色は他の健康なクラスメイトに比べれば病的で痛々しい。なまじ顔が整っている所為でいっそ気味が悪い位だ。尤も、今も決して血色がいいとは言えないけれど、ここまで酷くはない。

 まぁ、思い返してみれば出会った当初は確かにこんな顔をしていた気もする。

 余りにも静かで、普段は存在感がまるでなくて、授業で名指しされた時やテストで順位が張り出された時のみ多大な注目を浴びていて……その正体が海馬コーポレーションの社長だと知ってからは何もしなくても騒がれる様にはなったけれど……。

 ちら、といつの間にか仕事に戻っちまったその顔を仰ぎ見る。生真面目な顔で真剣にディスプレイと睨みあっている姿は静かだけれど精気に満ち溢れていて、傍にいるだけで鬱陶しい位だ。

 伸びすぎた手足は本人すらも持て余し、時折何の意味もなくオレを殴ったり蹴ったりして楽しんでいる(ただしその強さは猫が猫じゃらしにじゃれている程度だ)それが当たり前となった今、この過去の海馬がどんな少年だったかオレには知る術がない。

 ただ一つだけ言える事は、当時のオレがこいつに出会っていたとしたら、間違いなくボコボコにしてやっただろうと言う事だ。それほどまでに『嫌いなタイプ』だったのだ。この海馬瀬人は。

「何時まで見ている!さっさと元に戻せ!」
「何でそんなに怒るんだよ。昔の写真見られるのが恥ずかしいの?」
「恥ずかしい?何故そうなる」
「や、だってなんか必死だから。しっかしお前の中学時代ってかわええな。いかにも貧相なお坊ちゃまって感じで」
「煩い」
「オレ、この時にお前に会ってたら絶対に苛めてたね」
「ふん、貴様みたいな出来そこないの不良になどやられるものか」
「今じゃーリーチの関係でちょっと危ないけど、この時ならオレの方が絶対上だね。だってオレ、中学時代から身長あんま変わってねぇもん」
「ふん、喧嘩は体格だけで勝敗が決まる訳ではない」
「体格もそうだけどさ、お前いかにも病弱そうじゃん。この頃何食って生きてたのよ」
「さぁな。当時の記憶など思い出したくもないわ」
「学校では今みたいに猫被ってた?」
「あぁ。……例えば……」

 オレのしつこいアルバム攻撃にいい加減イラついたのか、はぁっとあからさまな溜息を吐いて席を立った海馬は、わざとらしいにっこり笑いを浮かべながら床にべったりと座り込むオレの元までやって来て、自分もその場に膝をつくと長い腕でオレの肩を抱いて耳元に顔を近づけた。

「ちょ、何っ」
「何って。きみが知りたいって言うから再現してあげてるんじゃないか」
「き、気持ち悪いんですが!」
「酷いなぁ……好きだよ、城之内くん」
「はい?!」
「……とまぁ、こんな具合だ」

 くっくっ、と喉奥で笑いを漏らして直ぐに離れていった海馬は、どうだ。満足したか?とかっわいくない口調で一言言い捨てると、さっさとまた元の場所へと戻ろうとする。オレは今の出来事に一瞬茫然として開いた口が塞がらなかったけど、殆ど反射的に離れようとする腕を捕まえて力いっぱい引きとめた。

 ちょっと待て。ちょっと待ってくれ、海馬!

「なんだ」
「なんだじゃねぇっつの。最後の何?」
「再現だと言っただろうが、最初も最後もないわ」
「だ、だって好きとか言ったじゃん!」
「だから?」
「だからって……ああもう何だよそれッ!」
「これに懲りたら懐古妄想に浸ってないで、とっとと現実を見据えるんだな」
「誰が妄想してたよ!」
「貴様がだ!」

 そう最後に一喝した海馬は、オレの前からさっさとアルバムを取り上げて、お仕置きとばかりにそれで一発頭を殴るとオレがさっき弄っていた本棚に向かって歩いて行き、到底届かない位置へとしまいこんでしまう。っか〜!嫌みな奴!別に悪い事したんじゃねぇのにそこまで露骨なマネする事ないだろ!

 くそ、こんなんなら昔のお前の方がまだマシな気がして来た。なんつっても大人しそうだし小さいし、今よりも多分ダントツに可愛いし!でも『あれ』がマジで誰にでもあんなことしてたんなら、とんでもない尻軽な訳で……うーん。これは悩む。

「何を真剣に悩んでいる」
「だってよー」
「昔は昔、今は今だろうが。ちなみにオレも貴様が昔の貴様なら歯牙にもかけなかっただろうな」
「えっ?」
「闇雲に吠えて噛みつくしか脳のない駄犬だったら興味など沸かなかった、と言っている」
「……はぁ」
「出会う事もそのタイミングも全て必然だ。よく覚えておけ。……あぁ、ちなみに」

 カツカツと高質な靴音を響かせて部屋を歩きながら、海馬は何気ない声ですらすらととんでもない事を口にする。それにますます惚けるオレに、奴は席に着く前に一瞬立ち止まり、今度はわざとらしくない、自然な微笑みを見せてこんなトドメを刺して来た。

「先程の最後の台詞はサービスだ、凡骨。「好き」の安売りはしていないのでな」

 ……あ、オレ、やっぱり今の海馬くんが大好きです。どうしよう。なんだこいつ、可愛過ぎる。

「それでもまだ懐古妄想に浸りたいと言うのであれば、アルバムを取ってやるが?」
「……や、結構です」
「そうか」
「結構だけど、今の海馬くんにさっきの台詞もう一回言って欲しいなぁ」
「却下だ。安売りはしないと言っただろう」
「それは売る相手にもよるだろ?!もう一回!お願い!一生のお願い!」
「……三回廻ってワンと言ったら考えてやる」

 その後、オレがどんな行動に出て、海馬にどんな台詞を言わせたのか、多分想像できると思うのでここでは特に言いません。
 

 ただ、それ以来オレはあいつの卒業アルバムに手を伸ばす事はなくなったとだけ言っておきましょうか。

城海:久しぶりに普通のラブラブ。はいはいって感じ(笑) ▲

【71】 ミラクルスーツ -- 10.05.09


 随分と長い間髪の上や間を行き来していた白い手がすっと外された瞬間、首が折れる勢いで無理矢理近くにあった鏡とお見合いをさせられた。ゴキッという音と共にイテッ!っというオレの悲鳴が木霊する。

 普段ならここで粗雑な扱いをする海馬に文句の一つも言ってやるんだけど、それを口にするより早く思いっきり驚いちまって声が上手く出て来なかった。

 鏡の中に居るオレが別人になっていたからだ。

「なんだこりゃ、すげー……」
「特に大した事はしていないが、人間髪の色と形を変えるだけでも随分と印象が違ってくるものだ。貴様の様などこからどう見ても軽薄極まりない馬鹿もそれなりに……」
「おいっ!さり気なく酷ぇ事言ってんじゃねぇ!」
「事実だ。違うか?」
「うっ……」
「貴様も己でそう自覚したからこそオレに依頼してきたのだろうが」
「うぅ……」
「今回の事で掛った費用は全て祝いとしてくれてやる。後は精々本を読み付け焼刃の知識を披露して乗り切るのだな。ま、貴様程の愛想と調子の良さを持っている人間を落とす方がどうかしている」
「ちょ、急に褒めるなよ。焦るだろ」
「残念ながら一ミリも褒めてないわ。あぁ、どうせだから服も着替えろ。そこにかけてある」

 そう言って何故か少し機嫌良くぽん、と軽くオレの肩を叩いた海馬は濡れたバスタオルを丁寧に畳みくるりと背を向けてバスルームへと返しに行った。その後ろ姿を鏡越しに眺めながら、オレはもう一度目の前の自分の顔をじっと見つめた。やっぱり、別人だ。

 だって鏡の中のオレの頭は、中坊の頃から今日まで一度も変えた事がなかったぱさぱさの金髪じゃなく、艶やかな色をした暗めの茶髪になっていたからだ。伸ばし放題伸ばして跳ねまくっていた髪型も随分と大人しい。軽く撫でつけてワックスで固められたそれはドラマで見るリーマンそのものだ。人間変われば変わるもんだよな。他人事のようにぽつりと呟く。
 

『昨日さぁ、所長からこの仕事にも大分慣れてきたし、オレは愛想もいいから社員になって本社で営業やらないかって言われたんだ。あんま興味無いんだけど、給料は大分上がるから考えようかなって』

『でも、営業っつーと今までみたく作業着で、と言う訳にはいかねぇだろ。スーツもいるし、頭とかも金髪じゃ駄目だろうしさ。んでもオレ、正直そういうのどうしたらいいのか分かんねぇんだよ。頼む!何とかしてくれ!一応来週面接があるんだよ!』
   

 事は丁度今から数日前、仕事先の上司から突然持ちかけられた正社員への登用話から始まった。高校を卒業してからずっとバイトとして勤めていた某企業。仕事もそんなに大変じゃないし、何より休みが多い割にバイト料も高いってんで続けていたんだけど、まさかそこに就職する事になるなんて夢にも思わなかった。しかも営業ってありえねぇ。まぁでも人生チャンスはどこに転がってるか分からないから、道が繋がったのなら迷わず歩いて行こうと思ったんだ。

 そんなこんなで、社会人としては遥かに偉大な先輩であり、尚且つ『選ぶ』立場である海馬に速攻泣きついてみた訳だ。そしたら「そんな事は自分で考えろ」なんて冷たくあしらわれるかと思いきや、奴は意外にも協力的で、話をしたその日の内にオレを車に押し込んで、やれヘアサロンだ高級デパートだと連れ回され、揚句の果てには海馬御用達の香水専門店にまでお邪魔して、一通りビジネスアイテムを揃えられてしまった。そして今、仕上げとばかりにあの日時間の関係でやって来なかった染髪をして貰ったと、こういう訳。

 どうでもいいけど、その費用たるや相当のモンだぞ。なんつったって『海馬セレクション』だからな。一般人には到底手に入らないもんばっかりだ。つーかそんなん維持出来ねぇんだけど、どうすんだ?

 ……それはともかくそうして出来上がったのはどこからどうみても立派なビジネスマンである城之内克也くんで。自分で言うのもなんだけど結構「デキそう」なイケメンに仕上がっている。……まぁでも、中身は全く変わってないから口を開けば終わりなんだけど。

 近くにあったスーツ一式をベッドの上にばさっと広げて皺とか付かない様に慎重に着込んで行く。ベルトや袖はともかく学ランの第一ボタンさえまともに嵌めた事がないから、首回りが窮屈でしょうがない。こんなんで一日とかなんの拷問だよ。世の男どもは皆こんな窮屈な格好で生きてんのか?信じらんねぇ。あーオレも海馬位首回りが細かったらもっと楽なのかなーでもこれってちゃんとサイズ測るから無駄だよなーうざい。辛い。この上ネクタイとか信じられん。

 ……て、あれ?ネクタイ?

 上下をきちっと身に着けてなんだかギチギチになった身体で殆ど綺麗になったベッドの上をちらりと見遣ると、そこにはご立派なハンガーと共にオレンジ色のネクタイだけがぽつんと残されていた。それを手に取ろうとして、一瞬躊躇する。……どうしよう、そう言えばオレ、ネクタイとかした事なかった。

 結び方、分かんねぇんだけど!

 早くも途方に暮れてしまったオレは、速攻自力でなんとかする事を諦めて、困った時の海馬くん、とばかりに姿の見えない奴の名前を大声で呼んだ。多分思いっきり馬鹿にされるけど、事実だからしょうがない。

「海馬ぁ〜」
「なんだ、間抜けな声で呼ぶな。着替えたのか?」
「着替えたけどさぁ、ネクタイ結べない」
「……はぁ?」
「だって!オレ一回もこういうの着た事ねぇんだもん!ブレザーとかもないし!七五三だってホック型の蝶ネクタイで!!」

 オレの呼び声に漸く姿を見せた海馬は、何事だ、という顔で鏡の前までやって来る。そして、オレの切実な(というかキレ気味の)言葉を聞いて、心底呆れた溜息を吐いた。……しょうがねぇだろ!小学生で既に社交界デビューしてるお前と一緒にすんな!

「今時ネクタイも結べないだと?!幼稚園児か!」
「うるせぇ!ちゃっちゃとやり方教えろよ!」
「何をキレている。貴様、己が教えを乞う立場だと言う事を完全に失念している様だな?」
「あっ、嘘です。ごめんなさい!教えて下さい、海馬サマ。オネガイシマス」
「心が籠ってない」
「込めまくりだって!」
「……ふん、良く見ていろ」

 そう言うと海馬は後ろに落ちていたネクタイを取り上げて、そつが無い動きでオレの襟の下に通してしまうと、物凄い至近距離に顔を寄せてネクタイを操りながらここをこうして、潜らせて……なんて言いながら丁寧にゆっくりと解説してくれる。が、オレはそれを耳と視界に入れただけで、ちっとも頭に入れられなかった。

 だって、このシチュエーションって凄く萌えねぇ?新婚さんぽくって!

 それに海馬がちょっと身じろぐだけで、奴が好んで身に付ける甘い香水の匂いが鼻を擽って落ち着かない。顔を近づけてる所為で剥き出しになった額に海馬の髪が掠ったり、離す度に息がちょっと掛ったりと大変な状態だ。説明を聞いてるなんて余裕がない。ある訳無い。

「分かったか?」
「はい?」
「はい?!」
「や、あーえーっと……逆じゃ分かんねぇ」
「逆?」
「うん。だってお前向かい合わせだろ?同じ方向じゃないと。後ろからもう一回やってくれ」
「…………馬鹿だろ」
「馬鹿言うな。なーなーもう一回〜!」

 折角綺麗に整ったネクタイのノットに手をかけてシュルっと外すと、オレはちょっとあざとい感じの笑みを見せながら向かい合っていた海馬の腰をがしっと掴んで、そのまま強くオレの背後に押しやった。勿論反対で分かんねーっつーのは口実な。ぶっちゃけ聞いてなかっただけだし。んでも、もう一回やって欲しいから敢えてそう言ってみた。これも一種のおねだりってやつだ。

 あ、ちなみにオレ、スーツを着るのやネクタイをするのは初めてで苦手だけど、脱がすのは結構手慣れてるんだよね。どうでもいい話だけど。

 背後から盛大な溜息が聞こえる。けど、意外に素直に伸びて来た両手はオレのオレンジのネクタイを掬いあげると、もう一度最初から丁寧に結び始めた。さっきよりもよりダイレクトに感じる体温。近い声。コレに我慢出来る男なんて早々いない。

 数分後、無事ネクタイの結び方をマスターした鏡の中の似非イケメンは、そのままがしっと肩にあった小さな顔を捕まえて、振り向きざまにキスをした。

 勿論その後綺麗に整えられた頭は白い拳によって思い切り殴られていい音がしたけれど、まぁ、この位は痛くも痒くもない。
 

 数日後、オレは晴れてアルバイトから正社員へと昇格した。明日はドキドキの本社初出勤だ。何事も最初が肝心だから、今日は海馬の所に泊まって、明日の朝はちゃんとネクタイを結んで貰おうと思う。
 

 いってらっしゃいアナタ、はないけれど。

城海:新婚乙。要するに城之内のスーツ萌え。面倒見のいい社長萌えって事です ▲