短編集 NO72〜N082

【72】 好物バスタイム -- 10.05.08


 バンっと勢い良く扉が開いた瞬間、オレは心地よい香りに包まれた。最もその香り……というか匂いは今しがた初めて嗅いだ物じゃなくて、ついさっきまでまで嫌って程吸い込んでいたものだったけれど。それでも、その只中にいるよりは少し新鮮に感じるそれを、オレはもう一度深呼吸とと共に吸い込んだ。なんとなく、腹が減る。

 そんなオレの感傷(って程立派なものじゃないけど、むしろ馬鹿だけど)をぶち壊したのは、まさにその匂いをまき散らしている海馬くんで、青いバスローブに青いバスタオルを首から引っかけ、頭からはポタポタと雫を垂らしながら凄い顔でこっちを見ていた。

 ……あれ、何怒ってんだこいつ?

 そう思いつつも頭の片隅には奴がなんで怒ってるかその理由はおぼろげに分かっていて。一応断って入れた方が良かったかな?なんて今更ながら思ったりした。まぁ、反省はしていないけど。

「凡骨!貴様風呂に何を入れたっ!!」
「何って。匂いで分かんねぇ?バイト先で面白い入浴剤貰ってさぁ。試しに入れてみ……」
「風呂中がカレー臭いわ!!」
「だってカレーだもん。ただのお湯にカレーの匂いが付いてるのかと思ったらさぁ、結構本格的なのな!思わずお湯舐めて見ようかと思ったぜ」
「……自分の出汁を飲んでどうする。汚いな」
「出汁言うな。汚いはもっと言うな」
「どうでもいいが匂いがきつ過ぎる、なんとかしろ!というかそういうものは自分の家で試さんか!」
「えー?カレーなんてそんなもんだろ。いい匂いじゃん」
「良くないわ!」
「んでも、匂いが付いてるって事は文句言う割に入ったんじゃんか」
「ほんの一瞬だ!」
「はぁ?!ちゃんとあったまれよ!あれ、すげー温熱効果があるんだぞ!」
「あんな場所に一分一秒でもいられるか!体中がカレー臭くなるだろうが!」
「もう臭いけどね」
「最悪だ!」
「まーまー落ち着いて。所詮入浴剤だからさ、明日までは落ちるって。お前別にカレー嫌いじゃないだろ」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だって。いいからこっち来いよ」
「………………」
「あ、お前すげースパイスの匂いがする。超美味しそう」
「…………!」
「はい、逃げない逃げない。うわ、凄いなこれ、たった一瞬浸かっただけでこんなに匂いって付くもんなのか?」
「オレに聞くな。大半は貴様の匂いだろうが」
「こういうお揃いっていうのも悪くないよなー」
「悪いわ!」

 そんな言葉を交わしながら、目の前にいた海馬の腕を捕まえてぐいっと力任せに引き寄せると、細い体は意外なほどあっけなくオレの膝の上に収まった。風呂から上がった直後でほかほかと温かい、少し湿ったその身体からはたった今話題にしていたカレー入浴剤の香りが漂っている。勿論海馬の言う通り、こいつだけじゃなくってオレからも、なんだけれど。

 匂いだけじゃなくて見た目的にも本物のカレーに近いものになっていたその入浴剤には、ニンジンや肉やジャガイモの形をした固形物も入っていて結構本格的な奴だった。まぁ、所詮水溶性の薬剤だから海馬が入る頃には溶けてただろうけど。オレ的には自分がカレーの具になったみたいで、なかなかのヒット作だった。

 ……まぁ、金を出して買おうとは思わないけど。

「これの他にさーシチューとかおでんとか、コーヒー……あ、ガリガリ君なんてのもあるんだぜ?どれも美味しそうだよなー全部試してみたい。食べ物を入浴剤にしようって発想はスゲーよなー」
「何っ?!おでんだと?!」
「あ、おでんダメですか?」
「駄目に決まってるだろうが!そんなものを入れてみろ、貴様の息の根が止まるまで湯の中に沈めてやるからな」
「近寄れない癖に」
「うるさい。したら殺す」
「入浴剤で殺されたらたまんねーっての。遊び心がない奴だな」
「そんなものに遊び心などいらんわ」
「オレはいつだって遊びたいんだよ。だって時間が勿体ないじゃん。……てか、カレーの匂い嗅いでたら本格的に腹が減ってきた。カレー食いたい」
「食べればいいだろうが。勝手に頼んで来い」
「んーでも今夜中の二時だしなぁ」
「迷惑だと思うなら我慢しろ」
「冷たい」
「オレは暑い」
「体温の話じゃねーっての。……ちえっ、いーよ。こっちのカレーで我慢するから。よいしょっと」
「は?!何をしている!」
「大丈夫、舐めてちょっと噛む位で食ったりはしねーから。……な?」
「な?ではない!……ちょ、やめろ凡骨!触る……あっ!」

 膝の上の海馬がオレの動きを察して逃げる前に、オレはすかさず腕に力を込めて、そのままその身体を強く抱き込んだ。

 そして、食欲と同じ位抗い難い欲を満たす為に大好きなカレーと同じ匂いがするその耳元にキスをした。

城海:実際にある『カレーなる入浴剤』は全くカレーっぽくありません。あしからず ▲

【73】 感情の定義 -- 10.05.09


「なんで『舐める』ってエロイんだろうな?」
「……は?」
「や、なんつーかさ、舌を出して何かを撫でるとか掬うとかってすっげーエロイじゃん。何がエロイのかな、舌かな?表情かな?」
「……スプーンを持ってこい」
「ソフトクリームをスプーンで食う奴いねーよ。最後まで舐めろ」
「貴様が今そういう話をするからだろうが!食欲が失せたわ!」
「だって、見てそう思ったんだもん」
「見るな!」
「食べるのが遅い奴が悪い。あっ、溶けてるぜ」

 その言葉と同時に身を引く間もなく『それ』を持っていた右手を掴まれた。広いソファーの中央でほぼ密着する形で座っていたのだから、逃れる事は難しい。やめろ、とオレが言う前に指先に生温かいベタついた液体が流れ落ちる。城之内の言う通りなかなか減らないそれが、室温で溶けたのだ。

 甘ったるいバニラの香りがする、ごく普通のソフトクリーム。今日は少し温かな陽気になり、それに触発されたのか食べたいと大騒ぎして、本当に買いに行って来た城之内は明らかに人数分以上の本数を抱えて得意気に部屋に戻って来た。

 一本はモクバにやって来た、と言いながらその内の一本をオレに差し出し、はい、と眩しい笑顔を見せる。そんなものなど特に食べたくは無かったが、拒否をするのも気が引けて嫌々ながら手を伸ばしたのが運の尽きだ。

 結果、奴に妙な気を起こさせてしまった。尤も、必然だったのかもしれないが。

 ちゅ、と小さな音がして、珍しく湿って柔らかな唇が離れて行く。
 その際、長く伸ばされた舌によって薄い皮膚をなぞられた。

「甘くて美味しー」

 それはオレの指ではなく、溶けたソフトクリームだろうが。主語を言え、主語を。

 そう口にしようとしても、慌てて一気に含んだ口内のソフトクリームが邪魔をして上手く言葉が紡げない。甘い。甘すぎる。喉が渇く。思わず、水が飲みたいと呟いた声は、城之内が立てるコーンを齧る音にかき消された。いつの間にか、右手には何もない。

「美味しいけど、喉乾くな」
「手がべとべとだ。洗いたい」
「舐めてやろうか?」
「さっき舐めただろう」
「つーかオレの手も結構べとべとだった。舐める?」
「洗え」
「そう言わずに。お前、口の端についてるぜ」

 いつの間にか膝の上にのしかかりそんな勝手な事をほざく馬鹿犬は既に臨戦態勢だった。さっきの台詞を発した時点でそれはとっくに分かっていたが、こうも素早く実行に移されると面食らう。そんなオレの戸惑いなど知らんふりで城之内のベタついた手が頬に触れ、温かな舌が口の端を這う。そのまま唇をなぞり、僅かな隙間から口内に潜り込む。

 それを目を開けたままで見ていたオレは、確かにこいつの言う事も一理あると心の中で得心した。しかし、それには付加条件が必要だと、声に出さずに意見した。

 舐める行為をそうと感じるのは、行為そのものの問題では無く……。  
 

 それをする相手の問題なのだ。

城海:要するに好きな相手がすれば何でもえろい。……の割にえろくなくてごめんなさい ▲

【74】 No Smoking -- 10.05.10


 無意識に上着の内ポケットに手を伸ばす。そこには何もない事が分かっているのにどうしても止められない。でも今日はまだ2回目だ。最初に比べたら随分な進歩だと思う。けれど、ぺしゃんこな胸を見ると、ちょっとだけ悲しくなる。……これもストレスなのかな。うーなんか落ち着かねぇ。

 オレがそんな事を考えながらソファーの上で膝を抱えたり寝っ転がったりとごそごそしていると、それが気になったのか向かいに座って膝の上のノートパソコンと真剣に向き合っていた海馬が、ちょっとだけ顔を上げてガラステーブルを指差した。

 その上には綺麗に纏められた書類の束と適当に放られた漫画本数冊、そしてちょっとだけ独特な形をした白いボトルと、空のコーヒーカップが二つある。その中で海馬が指を差したのは白いボトルで、ついでとばかりに右手を伸ばしてオレの方へと滑らせる。案外軽いそれはガラスの上を綺麗に進み、妙な音を立ててテーブルの淵に留まった。

「凡骨」
「何?」
「ガムは目の前にあるぞ」
「……いらねぇ。さっき食ったし。つーかこれ普通のガムじゃん。アレは?」
「もう必要ないだろう?」
「……そうだけど」
「あのような百害あって一利無しの物質を摂取するのはやめておけ。貴様なら大丈夫だ」
「煽てられたって嬉しくねーよ。……あーもー、じゃー諦めるから構えよー!」
「もう少しだ。大人しく待て」
「待てねぇっ!」
「貴様なら出来る」
「そればっかりか!」

 オレの不機嫌な叫びにももう慣れっこなのか、海馬は普段の様に怒鳴り返す事はなく、比較的穏やかにそう言ってまた目線をパソコンに戻してしまう。オレも我慢してるけどこいつも結構我慢してるよなーそんなにオレに止めさせたかったのか。……そう思うとちょっと愛を感じるようなそうじゃないような。

 オレが海馬に強く勧められて(というか命令されて)禁煙を始めてから約一月。ニコチンパッチやら禁煙ガムやらで色々と苦労しながらも、漸く煙草無しでも生活できるようになって来た。たかが一月、されど一月。この期間はそれこそ気分的には地獄の一ヶ月だった。

 なんせオレは高校二年にして筋金入りのヘビースモーカー。三度の飯より煙草が好き……という訳でもないけれど、まぁそんな生活を送ってきた訳だ。そんな奴に禁煙をしろって言うのがどれほど酷な事か分かるのは、同じく煙草を吸う奴等だけだ。

 尤も、嫌煙家を恋人に選んだ時点でオレの負けなんだけれど。

 最初の二週間はヤニ切れでイライラして喧嘩の数が二倍になった。次の一週間は煙草が吸えない事を紛わせる為に馬鹿食いして2キロ太った。そして四週間目である今はパッチも取って、ガムだけでも時々何とかなる様になって来た。時折もう無い煙草を探して服を探ったり、自然と指先が煙草を持つ形になってはいるけれど、煙草を忘れる瞬間が多くなった。自分で言うのもなんだけど結構順調だと思う。まだ吸ってる奴を見ると吸いてぇなとは思うけれど。

「結構いいものだろう」
「あ?」
「煙草を吸わないのも」
「……んーいいっていうか。イライラはすっけど、金に余裕が出来たっつーのはあるな。一箱400円って痛いよなぁ、今思えば。弁当買えるじゃん余裕で」
「だろう?」
「あと、なんか飯が美味くなった気がする。それに息切れなんかもしなくなった」
「いい事だらけだろうが。と言うか、後者は至って普通の事だ」
「そうなんだよなぁ。なんつーか、当たり前なんだけど、懐かしい感じがする」
「オヤジか貴様」
「オヤジじゃねぇ。失礼な」

 17歳の少年を捕まえてオヤジたぁなんだ!と続けて噛みつくと、海馬はさも可笑しそうに笑いながら、やっとパソコンを閉じてずっと座っていたソファーから立ち上がった。そして、ガムのボトルを弄びながら膝を抱えて座っていたオレの目の前までやって来る。

 そして、くいとオレの顎を持ちあげると、やけに艶っぽい笑みを見せた。

「貴様が煙草をやめた事で、オレも一つ変わった事がある」
「へ?」
「苦くなくなった」

 何が?と聞く前に、無理矢理上向いた唇を塞がれた。メントール系のガムの味でいっぱいだった口内に、コーヒーの香ばしさがまじり合う。あー苦くなくなったってキスの事か。そういやオレは全く分からなかったけど、多分海馬は苦かったんだろうな。

 つか、キスってこんな味だったのか。甘くはないけど、結構いいかも。

「……良く分かんねぇけど。すっげー美味い気がする」
「ふん」
「な、もう一回」
「ここでか?」
「えっ?あ、勿論ベッドがいいです。……てかマジで?まだ夕方ですけど」
「頑張っているようだからな。たまには褒美をくれてやる」

 おっ、これは思わぬお誘いだ。海馬は随分機嫌がいい。
 これも禁煙効果なのかな。だったら禁煙様様だ。

「オレ、続けて頑張るから、沢山ご褒美ちょーだい」
「調子に乗るな」

 その言葉通り調子に乗ってそんな事を言ったら、むぎゅ、と鼻を抓まれた。
 それでも差し伸べた手を掴んでくれたから良しとする。

 禁煙約一ヶ月。この記録がずっと長く続くように、オレは触れた手をぎゅっと強く握り締めた。

城海:らっぶらぶ。うちの社長は基本的に嫌煙家です。KCは全面禁煙だと思う ▲

【75】 Treatment -- 10.05.13


 ケホケホという乾いた咳が部屋に響いた。聞いてる方も喉がむず痒くなる様なその音に、海馬は僅かに顔を顰めて頭をあげると、目の前に座る城之内が丁度ポケットから小さなプラスチックケースを取り出して、その中身を口に放り込んでいる所だった。商品名はよく分からないがテレビのCM等でよく見かける某有名メーカーののど飴。薬用の癖にそうとは見えないどぎつい色に自然と眉間に皺が寄る。

「あー喉痛ぇ。これ、あんまし美味くないな」
「馬鹿の癖に風邪を引くとは生意気だな。うつすなよ」
「あっ、そういう優しくない事言うんだ。しょうがねぇだろ。こう毎日気温差がありゃ風邪もひくっての。昨日30度近くあったのに、今日は10度だぜ?10度!」
「身体が資本だろうが。泣きごとを言うな」
「常に適温の室内にいるお前にだけは言われたくないね。むかつくー。うつしてやろうか」
「ふん。オレにうつしたら向こう一ヶ月は出入り禁止だ。死んでも近寄らせんからそう思え」
「酷い……っ!」

 そんな会話を交わしてる合間にも、城之内の口からはひっきりなしに咳が出て止まらない。既に声は掠れ気味で横隔膜にもダメージを受けていた。呼吸をするだけで胸と言うか胃の辺りが酷く痛い。何をどうしても消えないそれにいい加減うんざりした彼は、不貞腐れたようにソファーにごろりと横になった。こんな状態でも自宅に帰るつもりはないらしい。

「薬は飲んだのか」
「ああうん。家にあった奴をちゃんと飲んでる」
「貴様の家の常備薬などあてにならん。そもそも期限が切れてないという保証がない」
「んな事ある訳ねーだろ!どんだけだよ!」
「どうかな。数年に一度しか風邪など引かないと豪語していただろうが」
「…………う」
「後でオレの薬をくれてやるからそれを飲め」
「……おう」
「しかし酷い声だな」
「酷い言うな」

 オレだって好きでこんな声になってんじゃねーよ。

 そう投げやりに呟いて再び咳をまき散らす城之内に、海馬は呆れた風に溜息を吐くと数分の休憩だと言って席を立った。城之内になんだかんだと文句を言いつつも一応気遣うつもりがあるのか、うつすなという言いながらも彼が転がるソファーへと近づいて、膝を折る。そして徐に手を伸ばし、何かを確かめるように頬に触れた。全く日に焼ける事がない白い指先。そんな見かけの印象そのままの冷たさが肌に沁みる。

「熱は無い様だな」
「あっても微熱程度じゃね?……あーなんかお前の手冷たくて気持ちいいかも。もっと触って。特にここ、喉のところ」
「気色の悪い事を言うな」
「いいじゃん別に。なんか治る様な気がするんだもん」
「気がするだけだろう」
「病は気からって言うだろー。だから、な?」

 と甘える様に大きな褐色の手が伸びて来て頬に触れていた海馬の指先を掴みあげる。そして掠れた声が発する通りその手をゆっくりと引き下ろし、ちりちりと痛む喉へと触れさせた。ひんやりとした体温が、痛めたそこに心地いい。こうしていると気の所為なのかもしれないが、本当に治る様な気がする。そんな事をいささかうっとりした声で呟いた城之内に、海馬は表情を変えないままこう言った。

「まぁ、『手当て』と言うものな」
「……どういう事?」
「その言葉通りだ。昔は怪我や病気をすると患部に手を当てて治していたらしい。そこから『手当て』と言う様になったとか」
「へー」
「もっともそれは俗説であって、科学的証明はされていないらしいが」
「あ、待って」

 だからこれも無意味だな。そう苦笑と共に離れかけた海馬の手首を捕まえて再び自分の首に触れさせた城之内は、不可思議な笑みを見せながら「もうちょっとこのままで」と口にした。『手当て』の話はただの言い伝えかもしれないけれど、自分にとってはかなり効果がありそうな気がしたからだ。

「科学的根拠がなくっても、オレには効きそうだから手当てして」
「……意味がないと思うのだが」
「現にほら、咳止まったろ?」

 そういえば、いつの間にかあの耳障りな咳は聞こえなくなっていた。それに心なしか、声も少し戻った気がする。それこそ気の所為かも知れないが、気の所為であっても良くなるに越した事はないだろう。

「これで治れば安いものだな」
「ある意味高くつきそうだけどねー」

 冷たかった指先が、体温を吸って仄かに暖かくなってくる。その心地いい温度と同じ位の優しさに包まれて、城之内は少しの間だけ、と軽く目を閉じて口も閉ざした。部屋に穏やかな静寂が訪れる。

 不思議な事に、彼の咳はその瞬間からぴたりと止まってしまい、喉の痛みも消えたと言う。

 それが海馬の掌療法によるものなのかは定かではないが、次に風邪をひいた時も同じように治して貰おうと城之内は思うのだった。

城海:社長の手は魔法の手だといいな、という勝手な願望です ▲

【76】 ギザギザハートの子守歌 -- 10.05.16


「あーもうあちぃ!まだ5月なのに30度ってなんだよ?!熱帯地方かよ!!」

 来訪早々外界の暑さにひたすら恨み節を吐き連ね、城之内はその憤りを放るかの様に空調に冷やされた革製のソファーに薄い鞄を投げつけた。余りにも使い込み過ぎて元の色が分からない程褪せてしまったボロボロの学生鞄は、ソファーの背面に見事に当たって下に落ちる。その衝撃におざなりにかけていた錆びた留め金がガチリと外れ、大して入ってはいない中身も四散した。その内の一つに、海馬の特に意識もしていなかった視線がピタリと止まる。

 丁度対面に座っていた部屋の主である海馬の元に転がって来たそれを、彼は城之内には分からない様に拾い上げ、硝子テーブルの下で静かに見る。親指で側面にある銀色のつまみに触れると、金属の掠れる音がして鋭い刃先が現れた。大分古い型の飛び出しナイフだった。

 全く手入れがされていないその刀身はそれでも照明を受けて鈍く輝き、銀色の光を放っている。その先端にこびり付いた黒い付着物は血なのだろうか。顔を近づけなくても漂って来そうな鉄の匂いに思わず眉を潜め、海馬は即座に刃先をしまい込み、柄だけになったそれを右手で握り締め、身を屈めて周囲に散らばった私物を集めている城之内を見遣った。指先に、ずしりとした重みを感じる。

 今では生真面目にバイトに精を出し、ヘラヘラとしまりのない笑いを絶やさなくなったこの男も、かつては視線だけで相手を射殺す様な荒んだ佇まいをして、こんなものを振り回していたのか。未だその名残である暴力行為や喫煙癖は現在も海馬の顔を歪ませてはいるものの、それでも大分マシにはなって来たのだろう。尤も、かつての不良仲間からすれば、現在の城之内克也を『最早別人』と呼ぶのかもしれないが。

「あーもー最悪っ!余計ムカつくっ!」
「おい、凡骨」
「あ?何?」
「何、ではない。貴様、こんなものを常に所持しているとはどういう了見だ」
「はぁ?……って、うわ、お前何持ってんだよ!」
「持ったのではない。拾ったのだ」
「そういう意味じゃねぇ。返せ!」
「いいからオレの質問に答えろ。もしや、現役で使用しているのではあるまいな」
「お前だって銃もってんだろーが」
「オレの事では無い、貴様の事だ」

 言いながら海馬はかちりと再びつまみを押した。中が錆び付いているのか、余り俊敏とは言い難い動きで刃が顔を出す。「これでは出遅れるのではないか」そう無感動に呟きながら、事の真偽を確かめる様に二つの蒼の瞳は城之内をじっと見据えた。この色の前では嘘やごまかしは通用しない。

「……使ってねーよ、今は。見りゃ分かんだろ。オレだってそんなん鞄に入れてた事すら忘れてたっつーの」
「そうか」
「そりゃー昔はガキだったからよ、そういう武器持ってりゃ強くなれるって思ってたよ。でも、今は別に」
「そうだな。喧嘩で武器に頼るなど、クズ以下だ。貴様がそういう男だとしたら、今直ぐこの場で処分してやってもいいのだが」
「お前の方が過激じゃねーか。ナイフチラつかせてそういう事言うな」
「ふん、これは没収だ。二度と触るな」
「……極端な奴だなー。っつーか、ナイフ位でガタガタ言うなよ」
「オレは刃物が好きではないからな。必然的に持っている奴に嫌悪を覚える」
「お前の好き嫌いかよ。ナイフが嫌いとか訳分かんねぇんだけど」
「実際に突き立てられて見れば分かる」
「え?」
「戯言だ」

 己の皮膚を切り裂く感触。表層を通り越し、内部の肉をも抉る痛み。否、あれは既に痛みではない、熱だ。灼熱の炎を突き込まれた様な、そんなおぞましい衝撃だ。その痛みを、熱さを全て知っている。知っているからこそ、もう、二度と。

 どんなに鬱陶しいと言われてもあげる事のない前髪の下に隠された額。猛暑の中でも決して晒さない素肌の上にその答えは隠されている。その傷はあのナイフにこびり付いていた血液の様に変化して、分からなくはなっているものの、海馬の中では未だその記憶は鮮やかだ。吐き気がするほど、はっきりと覚えている。

 手の中のナイフを床に放り、緩やかに踏み締める。偶然踵につまみが触れて、刃が飛び出した。それを無感動に見下ろして、海馬は足に力を込める。ガチリ、と鈍い音がして銀の刀身が二つに折れた。その場に、細い傷がつく。

「あ」
「案外ナイフも脆いものだな」

 己にその痛みを齎したあの男の様に、あっさりと踏み壊されて。複雑な想いと共にバラバラになる。それに一瞬視線を巡らせ瞬きを一つすると、海馬は最早興味はないとばかりにその残骸から目を背けた。そして何事も無かった様にただ呆然と立ち尽くす城之内を仰ぎ見る。

「かい、」
「何を呆けている。さっさとその無様な残骸を片付けろ」
「お、お前が踏みつぶしたんだろうがよ!」
「持ち込んだのは貴様だ」
「二度と触るなって言った癖に」
「既にナイフではなくなったものを触る分には問題ない」
「それは屁理屈……」
「城之内。早くしろ」

 余りにも凛とした声でそう命を下すものだから、それ以上逆らう術を持たない城之内は、渋々足元の、元はナイフだった物体に手を伸ばした。怪我をしない様にと慎重になったつもりだったが、チクリとした痛みが指先を刺す。慌ててその部位を口に含むと、苦い血の味が広がった。  
 

 今の自分の心の様だった。

城海:ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれたよ……って城之内じゃん!(笑) ▲

【77】メイド喫茶へようこそ -- 10.05.16


「……は?」
「は?じゃないの。もう決定事項だよ。僕達、もう三年で最後の学園祭でしょ?だから、サボりは駄目だからね!どんな事情があってもクラス全員が参加する事って決まったんだから」
「おうよ。天下の海馬社長様だからって我が儘は通らねぇぞ。腹括ってオレ等と一緒に地獄を味わえ!」
「ちょっと城之内くん。変な事言わないでよ。海馬くんがますます嫌がっちゃうでしょ」
「オレだって死ぬほど嫌だっつーの!!アホかよ!お前はなんでそんなにノリノリなんだよ!好きなのか?」
「好きじゃないけど、面白いじゃん。皆一緒だし」
「面白くねぇ!」
「えー城之内くん達は絶対似合うと思うけどなぁ」
「いや、無い。死んでも無いわ」
「とにかく!決まった事を今更ごちゃごちゃ言わないでよね。そんっなに嫌ならどうして杏子達に文句言わなかったのさ!」
「徒党を組んだ女共に太刀打ち出来っか!殺されるだろ!」
「城之内くんの意気地なし」
「オレは悪くねぇっ!」
「やかましいわ!貴様ら!一体この場に何をしに来たのだッ!さっきから意味不明な事をごちゃごちゃと!世間話ならよそでやれ!むしろ死ね!」
「いきなりキレたぞ、おい」
「あ、ごめん海馬くん。そういう訳だからちょっとサイズ測らせて?」
「だからどう言う訳だと聞いている!」
「もーちゃんと説明したのに耳に栓してたでしょ。だから、僕達は学園祭でコスプレ喫茶をやるんだってば!女子は男装、男子はメイド服でね!」
「…………?!」

 そう言って、にっこりとした笑顔を見せて持参したメジャーを掲げた遊戯に、海馬は一瞬瞬きと呼吸を忘れて固まった。まるで精巧なマネキンの様になってしまった彼を遊戯は特に気にする風でも無く、これ幸いと傍らに城之内にも命じて、海馬が座っていた執務机から引き摺り下ろす。どうやら、海馬用の衣装を作る為の採寸係を命じられて来たらしい。

「メイド服って言ったらさ、一番最初に海馬邸のメイドさん達を思い出したから。後でちょっとお話聞かせてね」
「いや、遊戯。海馬聞いてねぇぞ」
「許可貰わなくても聞くからいいよ」
「……お前って時折ものすごーく強引な。なんかすげー男らしく見えるぜ」
「そりゃー僕だって好きな人の可愛い姿、見たいもの」
「可愛いって……メイド服だぜ?」
「絶対似合うと思うんだ!」
「駄目だこりゃ」

 キラキラと目を輝かせながら、生ける屍となった海馬を抱え込み、じゃあ城之内くんそっちの手をお願い、なんて指示を出す遊戯に、城之内は心底呆れた溜息を吐きつつ逆らうのも怖いとこまめに動いて補助をする。数分後、彼等が持参した真新しいノートの最終頁には、汚い字で海馬瀬人の名前と有りとあらゆる箇所の寸法が記載される事となった。

 男子全員分の採寸を担当した二人にとって、最後の一人となればその処理スピードは最早神業だった。お陰で余りの事にショック状態にあった彼が再び喚き出す前に必要な情報は全て引き出されてしまっていた。

 しかも、かなりぞんざいな方法で。

 肩幅を測る為に羽織っていたジャケットは脱がされ、ウエスト部分は正確さを期す為にベルトを外し、スラックスの中にきっちりと入れていたシャツまで勝手に引き出されて計測された。その後何に必要なのか考えたくもないが太股の太さや二の腕のサイズまで調べ上げ、最後は仕上げとばかりに靴を取られて内部に刻まれていた数字をも書き取られた。

 それらが全て終了した後の海馬の姿と言ったら、まるでレイプ魔と遭遇した後の如く悲惨なものだった。尤も今の彼に取って、この悪魔の様なクラスメイト達はレイプ魔よりもまだ性質が悪い存在だったが。

「うん、これでバッチリだぜー!」
「……おい、遊戯、海馬がめっちゃこっち睨んでるけど」
「え?」
「き……貴様等……!」
「わ、海馬くん。なんかすっごくエッチな格好だね」
「いい加減にしろ!男がメイドだと?!貴様らの変態趣味になど死んでも付き合うか馬鹿が!!」
「そんなに怒らないでよ。たかが学校行事でしょ」
「オレは行かないぞ。国外逃亡してやるからな」
「学園祭に行きたくない為だけに国外逃亡するアホがどこにいるんだよ」
「お願い、我が儘言わないで」
「やかましいっ!」
「海馬くん」

 乱れた服もそのままに興奮状態でそう喚き散らしていた海馬を背後から覗きこんでいた遊戯は、海馬の「国外逃亡」の一言に瞬時に眦を釣り上げて、けれど表情は変えずに至極穏やかにその名を呼ぶ。ただし、その声は数秒前の彼とはほんの少しだけ違っていた。

 うわ、やべぇ。城之内のほんの微かな呟きが、部屋の空気を震わせる。

「僕がこんなにお願いしているのに、君はそういう事を言うんだ?」

 にっこりと、天使の様な微笑みを湛えたまま遊戯は一言一言区切る様にそう口にすると、頬を抱えていた海馬の顔へと擦りつけて、ついでにキスまでしながらこう言った。

「国外逃亡なんてしたら、折角作ったメイド服、プライベートで着て貰う事になるけど、それでもいい?」

 ……勿論この言葉に海馬が「嫌だ」と言える訳がなかった。  
「……ま、お前一人じゃねぇんだし、腹括るしかないんじゃね?オレはもー諦めたし」
「………………」
「どうでもいいけど、服直せよ。家の奴に見られたら誤解されるぜ」
「………………」
「あーもーお前がどうにもなんねぇもんをオレ等がどうにか出来る訳ねぇだろ。かなわねぇんだって、あいつには。だから、まぁ、頑張れ」
「頑張れるかッ!!」
「お、元気出たな。良かった良かった」
「ちっとも良くないわ!死ね!」
「もうそれ聞き飽きたから。もうちっとお前ボキャブラリー増やせ。な?」
「黙れ!!」

 海馬の反論をたった一つの言葉と視線だけで封殺した遊戯がメモ片手にご機嫌で部屋を出て行ってから暫く。殆ど『被害者の会』と化した二人は近くにソファーの存在がある事すら忘れて、床の上に膝を抱えながらそんな言葉を交わしていた。彼等の中で遊戯の命令は絶対だ。逆らえる者はここにはいない。尤も、逆らった所で結果は同じになるのだから意味は全くないのだが。

 今の二人に出来る事は、一月後に迫りくる悪夢の日に対して、心が砕けない様に身構えておくことだけだった。

「……で、この下らない茶番劇の発案者は誰なのだ」
「そりゃお前決まってんだろ。獏良だよ」
「もう殺せ」
「いやいや殺人は良くありませんって」  
 

 はぁっ、と二人分の溜息が広い部屋に木霊する。  
 

 この数分後、分厚いメイド服カタログを手に再び顔を輝かせた遊戯がその最悪な気分に追い打ちをかけるのだが、それはまた別の話である。

表海+城海:実はお題を使った連載予定でした。アホですみません(笑)! ▲

【78】折り紙 -- 10.05.22


「貴様、なんだこれは」
「え?……あっ、それ、授業中に暇だったから……」
「そうじゃない。その物体はなんだと聞いてるんだ」
「えぇっと、鶴だけど」
「鶴?この不格好な出来そこないの鳥もどきがか」
「ちょ……酷い。そこまで言う事ないじゃん。途中で忘れちゃったの!もう、そんな事どうでもいいでしょ!」
「まぁ、どうでもいいが。貴様見かけ通り不器用なんだな」
「見かけ通りってどういう事?じゃー海馬くんは折り紙出来るの?アナログな事なんて興味ないでしょ」
「馬鹿にするな。鶴位見ないでも折れるわ。貸せ」

 そう言って海馬くんは僕の目の前にあった30点の赤文字が眩しいプリントを取り上げて、黙々と手を動かし始めた。長方形のそれをほとんど適当なのにも関わらずきちっと正方形に切る事から始まって、白く細い指先は一瞬の迷いもなく紙を細かく折って行く。その工程を目で追いながら、僕は自分がどの段階で間違っていたのかを知り、こうして折れば綺麗に折れるんだ、という事が分かった。海馬くんの折り方は素早い癖に一定のリズムがあって見ていても面白い。

「ほら」

 いつの間にか机上に置いていた僕の掌の上にちょこんと薄茶色の鶴が乗っていた。わざとなのか偶然なのか、30の文字がちょうど羽根にくっきりと浮かんでいる。ちょっと何これ嫌味なの?そう口を尖らせて呟くと、海馬くんはふん、と鼻を鳴らして「偶然だ」と言い切った。絶対に嘘だと思う。

「上手だね。海馬くんって折り紙出来るんだ?」
「まぁ、多少はな。昔は折り紙ぐらいしか遊ぶものがなかったのでな。モクバと色々やった。動物や乗り物なら大抵は折れる」
「乗り物?!折れるの?!」
「折れないのか?」
「折れないよー!鶴だって覚えてないのに」
「………………」
「あっ、馬鹿にしてー。大体ね、海馬くん位手先が器用な人って珍しいんだからね。なんでも自分基準に考えるのやめてよね!」
「……そう言えば鶴で思い出したのだが、貴様ら昔オレに千羽鶴を寄こしたな。中に鶴の形を成してないものが大量に混じっていたが、もしやあれは貴様が折ったのか?」
「えっ」
「先日、偶然モクバが見つけてな。処分をどうするか聞かれたのだ」
 
『海馬くんの為に皆で折ったんだ。早く良くなる様にって』
 

 不意に蘇るその台詞。それは一年も前の出来事だった。もう一人の僕の手に寄って半年間植物人間状態になっていた海馬くんに僕がかけた言葉だった。その時、お見舞いにと持って行ったのは色鮮やかな千羽鶴。当時のクラスメイトから10羽ずつ、そしてあの事件に関わった僕達がその不足分を補う形で合計1000羽折り上げた。勿論僕もへたくそなりに一生懸命折り続けた。……確かに鶴かどうかは怪しい形だったけど、それでも海馬くんの事を思って頑張ったんだ。

 だけど、そう言われてしまっては、立つ瀬がない。

「ごめんね!へたくそで!でもさ、僕は一生懸命作ったんだよ?!」
「何をキレている。オレは別にそれに対して何か言うつもりはない」
「今言ったじゃん!」
「あれは貴様だったのかと思い出しただけだ。他意はない」

 そう言った海馬くんの顔は意外なほど真剣で、確かにあの千羽鶴について茶化したり馬鹿にしたりする素振りは見せなかった。いつもなら口先でからかう位はする筈なのに、それもなかった。海馬くんはそれきり黙ったまま僕の手の上にあった鶴を持ち上げて、指先で音すら立てずにただの紙に戻してしまう。再び現れた30点。色々な意味で情けないなぁ、と溜息を吐きそうになった僕に、彼はそれを再び手にしながら「教えてやろうか?」と笑顔で言う。

「えっ?」
「また千羽鶴を作る機会があるかもしれないだろう?」
「千羽鶴って、別にいいよ!」
「貴様のあの不格好な鶴では治るものも治らない気がするからな。覚えておけ。とりあえず折ってみろ」
「えぇ?!今?!……えっと」
「最初から全然違う。貴様本当に折った事があるのか?」
「そ、そんなに吃驚した顔しないでよ!形になればいいんだよこう言うものはっ」
「そういういい加減な事だから貴様は30点以上点が取れないのだ」
「ちょ、テストは関係ないでしょ!」
「あるに決まってるだろうが。いいか、最初から説明してやるから良く見ていろ」
「海馬くんの指って綺麗だね」
「抓られたいか?」
「……ごめんなさい」

 海馬くんの指が、もう一度一羽の鶴を折り上げて行く。一年前の僕に似た真剣な眼差しで。そう、あの時僕は必死だった、真剣だった……心が潰れそうだった。僕が折り上げた鶴達に涙の沁みが付いたのは一つや二つじゃない。僕の鶴がよれよれで不格好だったのはそういう意味もあるんだよ、と心の中で呟いたけれど勿論そんな事は言わなかった。

 今、君がここにいる事が何よりも嬉しいから。どんな事を言われたって、全然平気なんだ。

「覚えたか?」
「あ、ごめん、見て無かった」
「………………」
「ごめんって!今度はちゃんと見てるから、もう一回折って!」
「……貴様」
「そうしたら、今度は君が吃驚する位の綺麗な鶴、折ってみせるから」

 そう、ただの折り紙の鶴として。君に笑って貰えるように。

「ねぇ、もう一回」
 

 君の為に鶴を折る事が、もう二度とありませんように。

 そう願いながら、僕はゆっくりと動き出す綺麗な指先に目を向けた。

表海:折り紙は奥が深い。社長はブルーアイズも折れると思う。私には無理です ▲

【79】 青春謳歌 -- 10.05.24


「お望み通り、今日はオレが運転する。そこを退け」
「は?」
「この間言っただろうが。目に物見せてくれるわ」
「いや、その……ちょっと」
「退け」

 そう言って、オレをその場所から押しのけた海馬は、オレの鞄に付いている鍵を引ったくってチャリにさし、二重トラップになっている前後のロックを外して鞄を籠に放り込んだ。そしてさっさとサドルにまたがってオレを見あげる。そんな奴の一連の動作をただ茫然と見ていたオレは、苛立たしげに投げ付けられた「早くしろっ」の声に慌てて鞄を籠に放ると、海馬の動きに習ってその後ろに跨った。付けたばかりの銀色の荷台は少し細くて、微妙に座りが悪い。なんだこれ。

 うわーちょっと怖い。二ケツの後ろってこんななんだ。そういやオレ運転手しかした事ねーから初めてだわこういうの。そう思いながらこっからどうすればいいのかと迷っていると、海馬がまたイライラと声をあげる。あ、そーか、このままじゃ駄目だよな。掴まらなきゃいけねーんだっけ。掴まらなきゃ……えっ、どこに?!

「何をしている」
「えっ?!や、やー……何処に掴まればいいのかなー、なんて」
「どこでもいいわそんなもの」
「そうおっしゃられましても」
「貴様も好きにしろと言うだろうが。同じ事だ」
「あ、そうだっけ」
「ああ」
「……そっかぁ。じゃ、じゃあ遠慮なく」

 うん、確かにオレもこいつを後ろに乗せる場合は適当なとこにしがみついとけって良く言うっけ。最初の頃は海馬もさんざん迷った挙句、遠慮がちに肩に手を添える程度だったけど、カーブとかでバランスを取るのに大変だったらしく、最近ではがっちりと腰をホールドする形で落ち着いてる。

 それだけ慣れたって事でオレとしては物凄く嬉しい訳だけど、立場が逆だとどうも躊躇してしまう。や、安定性を図る為にはもちろんソコが一番いい訳だけど……海馬だからさぁ、なんつーか、やっぱ怖い。言うと殴られるから言わないけど、腰細すぎて心もとないっつーか。不安だっつーか。んでも、何時までももたもたしてると怒鳴られるから、仕方なくオレは恐る恐る海馬の腰のあたりに腕を回して掴まった。

 ちょ……やっぱり細い。つか、両手余りまくりなんですけど!

「うわ、なんだこれ?!こえぇ!」
「は?」
「お前、これ酷いだろ!えぇ?!」
「何がだ!」
「腰が怖い!」
「意味が分からん事を言うな!行くぞ!」
「え?!ちょ、ちょっと待って!ぎゃぁ!」
「煩いわ!黙っていろ!」

 ぐん、と一瞬前にのめって、僅かの軋みもなく銀色の自転車が走りだす。さすがは高級品、手入れが良く行き届いてる。チェーンもブレーキも錆びついてキィキィ煩かったオレのボロチャリとは大違いだ。アレどこ行ったんだろうなぁ。結構愛着があったのに。

 最初は痩せた猫を触ってるみたいで凄く怖かった目の前の身体も、慣れてくるとこんなもんかと思えてくる。運転も車やバイクと違って結構安定していて乗り心地が良かった。こいつが踏ん反り返ってえばっていたのも分かる気がする。あーなんか、これ楽でいいかも。漕いでる海馬は多分大変なんだろうけど。

「なぁお前、重くねぇの?」
「重いに決まってるだろうが」
「その割に軽々漕ぐよな」
「ふん。貴様は心底オレを馬鹿にしきっているようだが、これでも運動神経はいい方だからな」
「知ってるよ。ただ、想像できなかったの」
「貧相なその脳みそではな」
「そういう意味じゃねぇっ!いちいちムカつくなぁ!」
「暴れるな。振り落とすぞ」
「やってみろよ」

 オレの持ち物にしては不似合いなピカピカの高級自転車。その本来の持ち主は、意外にも自転車漕ぎが上手かった。抜群の安定感とそこそこのスピードを保って狭い路地を迷いなく走って行く。

 こんな経験が出来るなんて思っても見なかった。今回起こった事はオレ的には不幸だけど、結果的にはすげぇ良かった気がする。うん、良かった……多分。
 

『どうした。みっともない顔をますますみっともなくして』
『ひでぇ。そういう事言うなよ』
『ならば顔を引き締めて来い』
『無理言うな』
『……どうしたんだ?』
『学校でチャリ盗まれた。鍵壊れてたんだよな〜あーもうームカつくー!!』
『ふん、自業自得だな。まぁ、あんなちゃちな鍵なぞ付いてようが付いてなかろうが一緒だろうが。諦めろ』
『オレの貴重な交通手段なんだぞ?!諦められるかッ!』
『盗む奴も目がないな。あの様なスクラップ寸前のボロ自転車を選ぶ事もないだろうに』
『お前な〜!!っつーかよ、チャリ盗む奴ってのは長く使う為に盗むんじゃねーんだよ!その場限りの足にする為に目に付いた奴をパクって……』
『そんな事は解っている。その場限りでも何でも何故アレを選ぶのか疑問に思っただけだ』
『……あんまりいらん事言うとぶつぞ』
『三乗にして返されるのを覚悟の上でやってみろ』
『…………あああもう〜!』
『そう悲観するな。自転車位くれてやる』
『いらない。新品とか勿体ないし』
『誰が新品をくれてやると言った。貴様になぞビタ一文投資するか』
『えっ、じゃーモクバのお古?お前いくらなんでもソレは小さ過ぎるだろうが』
『勝手に決めつけるな!モクバのじゃないわ!オレのだ!』
『はぁ?!お前、チャリなんか乗るのかよ?』
『馬鹿にするな!』
『いや、馬鹿にするとかしないとかじゃなくって、何時どこで乗る機会があるんだよ?言ってみ?』
『……その気が失せた。もういい』
『あっ、ごめん!嘘です!嘘!それ下さいっ!』
『………………』
『じゃ、じゃあ、えぇっと……こ、今度さ、お前の気が向いた時でいいから、自転車乗って見せてくれよ。な、なんならオレ乗っけてくれてもいいし!な?……あ、でもお前二ケツとか……』
『………………』
『うわっ、睨むな!!睨まないでっ!お前は何でも乗れるよな、うん!』

 

 きっかけは数日前のこんなやり取りだった。

 オレが学校でボロチャリを盗まれて、その足で海馬のところに行って泣きついた事がこんな事になるとは思わなかった。言葉通り奴は多分数回しか乗ってない真新しい自転車に荷台と最新式の鍵を取り付けて、オレに乗れ、と渡してくれた。奴が中学時代に少しだけ使ったというのにも関わらず、サドルを調整しないと乗れなかったのがちょっとイラついたけど、高いだけあって乗り心地は最高だった。これから大事に乗って行こうと思う。

 それにしてもこいつ、わざわざ無い荷台を取り付けるなんて乗る気満々だな。最初はそんなの恥ずかしいだの、オレの運転が荒いから嫌だだの言ってた癖に、気に入ってるんじゃねーか。可愛くねーな。

 まぁ、でも、こうして自分が乗る側になってみるとその気持もわかる気がする。結構気持ちいいんだこれ。労力つかわねーし、なによりこうして密着出来るのがかなり美味しい。あ、もしかして海馬もそれが気に入ってたりして、だとしたらなんか可愛いかも。うん、可愛い。

 息一つ乱さずに順調に足を動かす海馬の骨っぽくてなんだか頼りない背中に顔を押付けて、オレはちょっとの間凄く幸せな気分だった。こんな機会は多分二度とないだろうから、思いっきり楽しもう、そう思って。

「なー海馬ー」
「なんだ」
「後ろに乗るのも結構いいかも」
「そうか」
「今度チャリでどっか行こう。サイクリング!」
「行かない」
「即答かよ」
「貴様が漕ぐと言うのなら考えてやろう」

 あ、やっぱりオレが漕ぐわけね。それでもいっかー。いつもの事だし。

「こうしてると、なんか凄く高校生って感じしねぇ?」

 戯れにそんな事を口にすると、前から「ふん」と小さな声が聞こえた。
 

 オレらは今、青春を謳歌している。

城海:社長だって男の子(笑)あの細こい体は触るの怖いです、なんとなく ▲

【80】 馬鹿な犬ほど気を付けろ -- 10.05.25


 飼っている駄犬の手癖が悪いのは今に始まった事ではなかった。こちらが想像もし得ない事をやらかすのもいつもの事だった。故に海馬がソファーに座し、つい先日発表された研究論文を読みふけっている間に行儀悪く上に圧し掛かり、白い開襟シャツの合間から露出している範囲を舐めたり噛んだり吸ったりしていても特に動じはしなかった。これ位で動じていてはこんな駄犬を飼っていられないからだ、と言うのは本人談。

 そんなご主人様の放任主義をいい事に、駄犬は……と言ってもこの犬は人間で主人である海馬のクラスメイトである城之内克也なのだか……ますます調子に乗ってきっちり締めてあったボタンまで外して、悪戯に耽っていた。けれど海馬は論文に夢中であまり顕著な反応を示さない。

 物事に集中すると他の事を一切シャットアウト出来るのはある種の才能だ。半ば呆れながら口元にあったピンク色の突起を甘噛みして欝憤を晴らしながら城之内は思った。さすがにこれは無反応ではいられなかったらしく、すでに彼の玩具と化している細身の体がびくりと跳ねる。次いでかなり勢いのある平手が額に降ってきたが、これ位では城之内側も動じない。

「いでっ。痛いなーもう。叩くなよ」
「何をしている」
「何って。構ってくれないから一方的に構ってるだけだけど」
「舐めまわすな。気色悪い」
「舐めるだけじゃないし。噛んだり吸ったりしてるし」
「そういう問題じゃないわ」
「お前が悪いんじゃん。ほっとくから」
「知らん。突然来た方が悪い」
「あーそういう事言うんだ。へー」
「何でもいいが邪魔をするな。相手は後でしてやる」
「お前の後で、は下手すると日付またいだりするから信用出来ない」
「………………」
「あっ、早速聞いてないし!……くっそー。いいもんね。勝手にしてるから」

 一瞬止まって始めた会話が終わらない内に、またもや紙の束に意識を持って行ってしまった相手の態度に再び放置される事となった城之内は、溜息と笑いを同時に漏らす。力づくで制止されないと言う事は、別にそれほど嫌でもないという事なのだ。さほど長くもない付き合いの中でそれだけはいち早く学習した城之内は、ギリギリのラインを持って海馬で遊ぶ。

 身を伸ばして、まずは頭頂部に顔を寄せる。仄かに甘い整髪料の香りが漂う栗色の髪に唇を寄せ、キスをする。資料を見つめる瞳を塞がない限り特に文句も言わないだろうと、その唇は先ほどの軌跡をたどる様にこめかみ、耳の上と頬を経由し、耳朶に触れ身動き一つしないのをいい事に先刻既につけてしまった跡の上を舐めあげる。海馬がいつも纏うハイネックやスーツの襟でギリギリ隠れる場所だ。それらを全て取り払っている今は、当然の事ながらその赤欝血痕は至極目立っている。

 肌が白い分、痕付けると凄く目立つんだよなこいつ。だからこそマーキングのし甲斐があるんだけど。……そんな事を思いながら前に回り、喉仏の辺りに食らい付こうとして邪魔だと頭を叩かれる。どうやらボリュームのある金髪が視界に入って気になるらしい。

 なら下に行くよと頭を下げて鎖骨の辺りに舌を這わせ、それまで添えるだけたった手指を使って、既に全てのシャツのボタンを外しすっかり肌蹴て露出してしまった肌を撫で回した。痩せぎすで少々目立つ骨格や、乳首や肉の薄い腹部、触れる箇所は全て触って舐められる所は全て舐めた。やはり余り反応はない。

 否、反応はあるのだが、それよりも論文への集中が勝っているのだ。どさくさに紛れて触れた股間は全く持って平常通りで、欠片すらも変化が見られない。これにはさすがの城之内もむっとした。それでも下肢の衣服を取り去って強引に事を進めないのは、目の前の玩具……海馬の上半身では割と気ままに遊べるのだが、下半身となるとそうはいかないからだ。すらりと伸びた細い足に力任せに蹴り飛ばされて怪我をした事は一度や二度じゃない。触らぬ神になんとやら、ここから先はお許しが出ない限り手を伸ばせない。

「…………うー」

 相変わらず涼し気な顔をして資料を捲る顔を見上げ、低く唸る。このやろ、徹底無視しやがって。愛犬をほっとくとどうなるか目に物見せてやる。そんな風不穏な事を心の中で呟きながら彼がこっそり手を伸ばしたのは、自分のジーンズのポケットだった。ごそ、と右後ろのそれに指を突っ込んで取り出すと、安っぽい銀色の物体が現れた。形だけを見れば刑事もので良く見る手錠と同じものだ。

 それは学校帰りに遊戯の買い物に付き合い、いわゆるボンテージ系のアクセサリを扱う店に寄った際、ふと目について買ってしまったものだった。勿論普通のアクセサリーショップなので玩具の部類に入るのだが、形的にはちゃんとサマになっている。手で輪の片方を弄るとかちりと音を立てて輪が緩んだ。面白半分に手を通して、もう一度カチリと音を立てると元に戻り固定される。どこからどう見てもただの玩具なのに意外に丈夫だ。これは結構イケるかも。

 悪戯心でいっぱいになってしまった城之内は徐に手を伸ばし、目の前で静かに動く海馬の手首を捕まえた。そして素早く空いていたもう片方の輪を通してしまうと、カチリと固定してしまう。

「お、嵌った」
「?貴様、何をしている。……って、これはなんだ!」
「え?おもちゃの手錠。外れねぇだろ?結構丈夫だよなーこれ」
「……おい。外せ。邪魔だ」
「嫌だ。お前が無視するから悪いんじゃん。なーなーもうそんなん後にして遊ぼうぜ」
「断る。全部読み終わるまでは貴様の相手はせん」
「えー!!いつ終わるんだよ?!」
「もう少しだ」
「嘘吐きっ!ぜぇったい信用しねぇ!」
「何でもいいからこれを外せ!」
「嫌だっつってんだろ!その手の中のもん放り投げたら考えてやるよ!」
「誰が投げるか!」
「じゃー誰が外すか!」

 ちゃちな造りの玩具の手錠で互いを繋ぎ止めながらそんな下らない争いをしていたその時だった。不意に部屋の扉がノックも無しに開け放たれ、外から大変無邪気な顔をしたモクバが飛び込んできた。学校帰りなのだろう。未だ通学鞄を手にしたままで「兄サマ!」と元気な声が部屋中に響き渡る。

 その瞬間、いい争いをしていた双方が慌てて身じまいを正そうとしたが、件の手錠が邪魔をしてままならなかった。

 数秒後、部屋の空気が凍りついたのは言うまでもない。

 余談だが城之内が持参した玩具の手錠には鍵穴が存在せず、外すまでに随分と苦労をしたらしい。が、それ以上に兄達がソフトSM的遊戯に耽っていた事に対して驚愕し絶句するモクバに対して、それは誤解だと説得するのに倍の労力と時間がかかったとか。
 

 結論:駄犬の放置もほどほどに

城海:え?エロ展開?行くわけないじゃないですか(笑)その内何か考えます ▲

【81】Secret to my heart -- 10.05.26


(ねぇ、海馬くんってなんで笑わないのかな)
『突然なんだ相棒』
(うん?暇だから。だって全然こっちを見てもくれないし)
『……よく分からないが、面白くもないのに笑うという事はしないんじゃないか?』
(えーでもさ。面白くなくたって笑うでしょふつー。にこっと)
『そ、そうか?』
(君もよく笑ってるよ。君の笑い顔好きだな、僕)
『……えぇと』
(無理して反応してくれなくていいよ。ごめんね。つまんない事で声かけて)
『いや。オレも特に眠くもないしな。暇だった』
(……海馬くんとデュエルでもする?君がデュエルするって言ったら海馬くんも仕事やめてくれるかも)
『この間散々やらせて貰ったからな。今日のところは相棒に譲るさ。まぁ、仲良くやれよ』
(仲良くって言ってもさぁ……アレだもの)
『相棒は遠慮し過ぎじゃないのか?約束をしたのは奴の方なんだから、仕事なんてやめさせちまえばいい』
(そ、それはそうだけど。そうすると海馬くんの機嫌がすっごく悪くなるんだもん)
『それは違うな。奴は機嫌なんか損ねてないぜ』
(損ねるよ!だってすっごい怖い顔するんだよ?!)
『相棒は解ってないな。じゃー証明してやるよ』
(え、何するの?もう一人の僕?)
『いいから見てろって』

 そんな声に出さない会話が延々と続いていた昼下がり。手にしていた白いカップを聊か乱暴にソーサーに戻した『遊戯』は、にやりと不敵な笑みを浮かべて未だ最初の挨拶を交わしたきり、一言も口をきかない部屋の主の方へと顔を向けた。

 今日は土曜日で学校は休みだ。暇ならくればいいと先に声を上げたのは間違いなく、この仕事馬鹿の方だった。「じゃあ遊びに行くよ!」と遊戯が元気よく答えて、意気揚々とこの部屋にやって来たのは今から丁度一時間前の事。にこにこと微笑みながら「来たよ!」と言った彼に、海馬は無表情な一瞥を向けたままソファーを指差して「そこで待て」と言い、メイドに持て成しを頼む旨の電話をかけた後、一言も言葉を発さずに仕事らしき作業に没頭していた。以来部屋の中には海馬が立てるリズミカルなタッチ音と、時折遊戯が発する複雑な思いを込めた溜息だけが響いている状態だ。

 全く、本当は構って欲しくて仕方ない癖に意地っ張りなんだからな。

 視線を海馬に固定したままいつの間にか表に出てきた『遊戯』は苦笑混じりにそう思いながら、徐に席を立つ。その刹那、全く乱れがなかったタイプ音に一瞬の狂いが生じた。ほら、気にしてる。『遊戯』の笑みは深くなる。

「おい、海馬」
「なんだ。いつの間に出て来た貴様」
「たった今だ。とっくに知ってたんだろ、そんな事」
「何を言っている。知るわけなかろう」
「へぇ?さっきから何かとこっちの気配を伺ってたみたいだけどな。オレの勘違いか?」
「勘違いだな」
「嘘吐けよ。お前には分からないかもしれないが、奥に引っ込んでたって周囲の状況位は把握できるんだぜ。相棒よりも、確実にな」
「……なんだ。何が言いたい」
「聡いお前の事だから、オレの言いたい事なんか手に取る様に分かるだろ?」
「……生憎オレは貴様の様に人の心を盗み見る様な悪癖を備えてはいないからな」

 一歩一歩わざとゆっくりとした歩みで、『遊戯』は海馬へと近づきながら、その表情を崩してやろうとわざと挑発的な言葉を選んで口にする。すると案の定仮面の様に冷たいその無表情に変化が現れ、僅かに口元が歪んだ。本当はこんな顔が見たい訳ではないのだが、自分相手ではどうしても『こう』なってしまうらしい。まぁでも、冷めたままの目で見つめられるよりはずっといい。自分が欲しいと思っている表情は、その実とっくにもう一人の自分のものだと言う事は知っているから。

「相棒が悲しんでるぜ。お前が笑顔の一つも見せてくれないってな」
「何だと?」
「あいつは素直だからな。いつまでもそんな態度でいると『僕は嫌われてるんだ』と大騒ぎするぜ?」
「な……」
「素直になれよ。何も難しい事じゃないだろ。オレにはあからさまに嫌な顔する癖に」
「…………!」
「さぁて。今日は相棒に譲るって約束したからな。お邪魔虫は消えるとするか。お前はまずそのパソコンを閉じろ。じゃないと変わってやらないぞ」
「だ、誰が変わって欲しいと言った!」
「何でもいいけど早くしろ」
「………………」
「あぁ、それと。笑う時は相棒との身長差を考えてやれよな。頭の上で笑って見せたって見えないんだぜ」
「やかましいっ!とっとと消えろ!」
「はいはい」

 バタンとディプレイを閉じる音と、押し殺した笑いが部屋中に響いたのは同時だった。知らず頬に上がる熱を悟られないよう、海馬が上半身ごと身を引くと、不意に眼下の気配が変わった。「あれ、海馬くん?」と打って変わって穏やかで甘い声が朱に染まった耳に届く。

「ど、どうしたの?顔真っ赤だよ?もう一人の僕に何かされた?」
「う、煩い!何でもない!」
「でも、仕事やめちゃってるし。あの、僕の事なら気にしないで、切りのいい所までやっていいよ?待ってるから」
「………………」
「海馬くん?」
「別に、急ぎでは、ない」
「え?」
「何度も言わせるな!急ぎではないと言っている!」
「えぇ?じゃあどうして今まで僕を待たせてたのさ!」
「貴様が勝手に待っていたんだろうが!」
「それ、どういう理屈?」
「自分で考えろ!」
「無茶言わないでよ!ワガママなんだから!」
「ふん、何とでも言え」
「もー!」

 自分と向き合った途端顔を顰めて憎まれ口しか叩かない海馬の様子に、遊戯は内心大きな溜息を吐いたが、その頬が変わらず赤く染まっている事になんだかとても可笑しくなる。本当だ、顔は凄く怒っているけれど、海馬くん自体はそんなに怒ってもいないんだ。彼の言った事は真実だった。そう思い、遊戯は今はもうすっかり沈黙している『遊戯』に感謝した。君は僕よりも彼の事を良く知ってるね、羨ましいなぁ。そう心の中で呟きながら、遊戯は漸くこちらに意識を向けてくれた、海馬へと手を伸ばした。勿論、簡単には触れられない。

「なんだ、触るな!」
「ごめんごめん。謝るから」
「何を謝るのだ」
「よく分かんないけど、君が怒ってるみたいだから」
「怒ってなど無い!」
「怒ってるよ、顔が」
「………………」
「僕、遠慮し過ぎてたみたいだね。これからは、気を付けるよ」
「何がだ」
「君の気持ちを見かけだけで判断しないように」

 そう。変わらない表情や乱雑な態度が、心そのままだと思わないように。誰よりも君が好きな『彼』に教えて貰ったから。

「とりあえず、こっちにおいでよ。海馬くんも休憩しよう?」

 一際優しい声でそう言っていつの間にか伸ばした指先で海馬の手を捕らえた遊戯は、くるりと背を向けて今まで自身が座っていたソファーへと彼を導く。それになかなか従わないこちらに「早く」と子供の様に手を引くその姿に、海馬はなんだか意地を張るのが馬鹿馬鹿しくなり、わざと入れていた全身の力を抜いてしまう。

 その瞬間、頬の筋肉も僅かに緩んだのだが、不幸にも背を向けていた遊戯の目に触れる事はなかった。

「海馬くん?」

 不意に抵抗のなくなった身体に、訝しげな声を上げて遊戯が振り向く。見上げてきた大きな瞳に鏡のように映る自分の仏頂面を認めた海馬は、一瞬躊躇した後僅かに身を屈めて、その頬に小さなキスを一つ落とした。

 なかなか見せる事の出来ない微笑みの代わりに、この心の内が上手く伝わるように。

表海+闇海:……一般的なツンデレを表現してみました。……あれ? ▲

【82】似た者同士な僕等 -- 10.05.27


 冷たいベンチに腰を下ろし、海馬は眉を潜めていた。

 夕暮れの中央公園。時刻が時刻だけに常日頃溢れ返る子供やその母親達の姿はもう見えず、会社帰りのサラリーマンや、今の海馬の様に誰かと待ち合わせをしているらしい学生等の姿が目立っていた。春を通り越し既に初夏に近づきつつあるこの季節では、午後6時を過ぎても空には赤々とした残照が残り、気温も殆ど下がらない。故に海馬が顔を顰める理由は温度変化の所為ではなかった。

 はぁ、と彼は小さな溜息を吐く。仕事の区切りが良かったとは言え、待ち合わせよりも30分も早くこの場所に来る事などしなければ良かった。余った時間で余計な行動を起こさなければ良かった。その後悔が先程から顕著に表れている海馬の表情の原因となっていた。

「……女相手にデレデレとみっともない。と言うか貴様、彼女はいないだと?!それで仮に誘いをかけられたらどうするつもりなのだ。受けたら殺す。絶対殺す」

 胸に渦巻く不満を声にまで出してぶつぶつと呟く姿は、長身を前のめりに折り曲げた姿勢も相まって酷く不気味に見える。まぁそれも彼の現状を知れば仕方ないと思えるだろう。所謂デートの夜に約束した時刻より早く待ち合わせ場所に来てしまい、する事も無く暇だったからすぐ近くにある恋人の職場へと迎えに行って驚かせてやろうと出向いてみれば、件の相手は仕事もそこそこに同僚らしき女と楽しそうにイチャついていた。これで怒るなと言う方が無理である。

 尤もイチャついていた、と言うのは店外から覗き見た海馬の至極客観的な意見であり、本当のところはどうか分からない。しかし、幸か不幸か丁度客の出入りの激しい時間帯にぶち辺り、開閉する自動ドアの隙間から声だけははっきりと聞こえてしまったのだ。そんな恋人の所業とそれを助長させるが如く響き渡る笑い声が余計に癪に障り、結局海馬は一人この場へと戻ってしまった。本当は家に帰ってしまおうと思ったがそれは流石に短絡的だろうと思い直して、辛うじてこのベンチに留まっている状態だ。

『彼女?そんなんいねーよ。うん、全然。でも──』
『へー意外〜!』
『やーお前だったらもっといいオトコ捕まえられるんじゃねーの?オレが保障してやるよ。可愛いって絶対』
『克也くんって口ばっかりなんだもん』
『ンな事ねーって。オレ位正直な男はいねーぜ?マジで!』

(何が可愛いだ。貴様のそれはあからさまにリップサービスだろうが!と言うかその辺の女にこんな事を言って回っていたのかこの男はッ!)

 常日頃から己に対して好きだ愛してるだから構えと煩く纏わり付き、大切な仕事の邪魔をしてまで圧し掛かってくる癖に、その実誰にでも同じような笑顔を振り撒き、尻尾を振ってじゃれついていたのだ。この分では海馬に向かって耳が腐るほど浴びせかけたあの甘い言葉の数々も怪しいモノだ。知らぬが仏とはこういう事を言うのだろう。この場合は仏だった、と言うべきなのだろうが。

 全く腹が立つ。何に腹が立つかってこんな事に腹を立てている自分に腹が立つ。たかが凡骨如きに何故こんな思いをしなければならないのか。イライラと沸き立つ感情は海馬の鉄壁の平静さをも軽く奪い、思わずその辺にあるものに当たり散らしたくなる。この分では顔を見た瞬間に力の限りに殴り付けてしまいそうだ。そんな荒れ狂う自身の心に流石に不味いものを感じた彼は、とりあえずどうにかして気持ちを落ち着かせようと近間の自動販売機に意識を向けた。何か温かい飲み物でも飲めば波だった心も少しは落ち着くだろうと、そう思って。

 しかし、そんな彼の思惑は不意に現れた濃い影の存在に阻害されてしまう。

 城之内か?と思うより早くその影はゆらりと揺らめき、全く聞き慣れない声が頭上から降ってきた。

「君、こんなところに一人で何をしてるんだい?待ち合わせ?」
「…………は?」
「暇なら、少し付き合わないか?」

 口元に微妙な笑みを浮かべてそんな事を言うその影の持ち主は、身形こそ普通のスーツだったが言動が些か怪しいサラリーマン風の男だった。男は海馬が気付かない内に様子見でもしていたのか「時計を見る様子もないし、携帯を気にする風でもなかったから、暇なのだろう?」と勝手な事を捲し立てながら馴れ馴れしく肩に触れて来る。そんな相手の仕草を特に動じるでもなく受け入れながら、海馬はこんな馬鹿な真似をして来る人間の顔を良く拝んでやろうと堂々と顔を上げた。海馬に取ってこんな事は日常茶飯事であり、特に珍しい事でも無いからだ。逆光の中に浮かび上がるやけに大きな顔は、想像通りどこか下卑た感じがする品性の欠片も無い男のものだった。

(今日はスーツではないからな)

 人気の無い公園であからさまに己を狙っている男に触れられている状況にも関わらず、海馬は至極冷静にそんな事を考えていた。常日頃の様に寸分の隙も無いスーツ姿で居れば早々声などかけられないのだが、今はデュエルコートをただのコートに変えただけの至って普通の服装だった。いかに多少年齢よりも上に見られる海馬とは言え格好如何では年相応に見えるものだ。だからこそ男も声をかけて来たのだろう。変態め、と半ば呆れ半分に悪態を吐き、さてどうしてやろうかと海馬がまるで他人事の様に暢気な気持ちで思案し始めたその時だった。

 いつの間にか目の前に、もう一つの影が出来ていた。

「おいそこのオッサン。あんた、オレの連れになんか用でもあんの?」
「えっ?」
「用があんのかって聞いてんだよ」
「い、いや、私は別に」
「別に?へー。別に用も無い相手にいきなり声かけして身体触っちゃってんのあんた。何、変態?ここはてめぇらのハッテン場じゃねぇんだよ、死ねよマジで」

 やけにドスの効いた声と共にあっという間に男を海馬の視界の中から消し去ったその影は、城之内のものだった。彼は先程小さなコンビニエンスストアの中で見せていたヘラヘラとしただらしのない態度など欠片も見せず、先程の海馬と同じ様な怒りと不満を今にも爆発させそうな不穏な表情をして目の前に立っていた。海馬がそれをはっきりと意識する頃には件の男の姿は何処かに消え去り、深い溜息を吐く音だけが聞こえていた。「何やってんだ」。吐き捨てる様に紡がれた言葉に海馬の視線が上を向く。

「じょう……」
「お前って、誰にでもあーゆー事させるわけ?」
「何?」
「あんなどっからどう見ても変態臭いオヤジにまでほいほい肩触らせてんのかって聞いてんの」
「そんなわけ」
「あっただろ?今。……ったくオレがいないとコレだからさぁ、嫌になっちゃうよなーもー。だからお前の側離れたくねぇんだよ。あームカつく。すげー苛々する」
「な、何を来て早々勝手な事を言っている貴様!貴様こそ先程バイト先で女とイチャついていただろうが!彼女がいないだの、可愛いだのと楽しそうに言っていただろうが!」
「あ、見たんだ?」
「見たんだじゃないわ!己の所業を棚に上げて良くもそんな事が……!」
「ンな事はどーでもいいんだよ。オレ、嘘言ってねーし」
「どうでもいいって」
「どうでもいいだろ?だってオレに居るのは彼女じゃなくて彼氏だし?あの子の事は本当に可愛いなーって思ったけど、思っただけだし。つーかオレは可愛い奴より美人な奴が好きだから、あの子が幾ら可愛くっても関係無いし。つかまっったく興味ねぇし。好きとか愛してるとか言った訳じゃねぇんだから関係ないだろ?それよりもお前だよお前!憤死しそうなんだけど!!」
「………………」
「言っとくけどオレ、めちゃくちゃ一途で嫉妬深いから。よーっく覚えとけバカイバ」

 目線を合わせるなりそう捲したていつの間にか乱暴に抱き締めて来た城之内に、海馬は胸中に溜め込んでいた罵詈雑言を叩きつける機会を失ってしまう。顔を見たら直ぐにでも殴りつけてやりたいほど怒っていた筈なのに、それを上回る怒りにかき消されてしまった。なんだか、酷く馬鹿馬鹿しい。

「痛いぞ凡骨」
「凡骨言うな。反省しろ」
「誰が反省などするものか。貴様の方こそ良く覚えておけ」
「何を」
「嫉妬深いのは、貴様だけでは無い事を」

 そう言って海馬は抱き潰される痛みの中、必死にもがき、目の前にあった少し皺のよった襟を掴んで力任せに引き寄せた。そして。
 

 これが証拠だと言う様に、互いに不満で歪んだ唇同士を合わせて長い長いキスをした。

城海:なぁにこれぇ。この二人はお互いにがっちりホールドしあってればいいよ ▲