Act2 いいところだったのに!

 瀬人は寝ている時、軽く寝返りを打つ以外にピクリとも動かない。それじゃあ肩が凝るんじゃないかって心配になるけれど、いつも寝起きは爽快な顔をしているから全くそんな事はないのだろう。その身体を抱いて寝る身としては、逃げられたり蹴られたりするよりはずっといい。

 けれど、ただじっと成すがままなのもなんとなくつまらないと城之内は思うのだ。
 

 人間なんて、我侭なもんだ。今よりももっと、もっとと求めてしまう。
 

「……ん」

 そんな瀬人が、今日に限ってなんだか落ち着かなく身体を動かしていた。ちょっとだけ姿勢を変えてみたり、向きを変えてみたり。その度に、その身体をしっかりと両腕で抱き締めている城之内は少しだけ腕の力を抜いて、瀬人が動けるように配慮してやらなければならなかった。

 その身体を勝手に拘束して寝ているのは城之内の我侭だから、その事に特に文句はない。けれど、常には決して見られないその動きに、少し心配になってしまった。

 もしかしたら、何処が具合が悪いんじゃないか。

 ふと思いついたその事に不安を感じた城之内は、かなり長い間逡巡した後意を決して相手を抱く腕を抜き、代わりに肩を掴んで軽く揺さぶってみる。

「海馬。おい、海馬。ちょっと起きろ」

 城之内が手を動かす度にきしきしと擦れるシーツの音が耳につく。それに最初はまるで人形のようにされるがままがくがくと揺られていた瀬人だったが、やや暫くして軽く眉を寄せつつ、重そうな瞼を半分開いた。すぐにじろりとこちらを睨めつけた事からして、覚醒はしているようだった。

「……なんだ」
「お前、なんか今日凄く落ち着きがないんだけど、どうかした?」
「どうか、とは?」
「寝苦しいとか、そういうのない?」
「貴様がいる時は常に寝苦しいわ。力任せに人を拘束して」
「あ、ごめん。そんなに強くしてるつもりないんだけど。……って、そうじゃなくって。それはいつもの事だろ。今聞いてんのはお前の事なんだけど」
「別に、なんでもない。気になるなら離れろ」
「本当かよ。お前が何でもないんならいーんだけどさ」
「ふん。大体、貴様は何故この広いベッドにいて、わざわざオレに触れて寝るのだ。貴様の貧相な布団ではあるまいし、場所など幾らでもあるだろうが」
「な、なんでって。なんだよいきなり」
「いきなりではない。ずっと疑問に思っていた。何か理由があるのなら答えろ」
「えぇ?理由?……理由は、あるっちゃあるけど……でも」
「言ってみろ。正当な理由ならオレも特に何も言わんが、そうでなければ叩きだしてやる」
「ちょ、ちょっと待てよ。お前マジで今日変だぞ?やっぱ具合でも悪いんじゃねぇ?」
「城之内、答えろ」
「………………」

 しんと静まり返った部屋の中に、瀬人の低い声が響いて消える。同時に真っ直ぐに向けられた何時の間にかやけにはっきりと見開いた青い瞳に、城之内は息を飲んだ。余りにも急な展開に頭も気持ちもついていかない。

 本当に、どうして突然こんな事を言い出すのか。

 今日も眠りにつく前までは、瀬人はいつもののんびりとした鈍感男で、「また来たのか。懲りない男だな」とかなんとかブツブツ文句を言ったものの、特に嫌がりも喜びもせずに普通に共に横になってくれたのだ。城之内が腕を回しても「鬱陶しい」と寝ぼけ声で言ったきり。後は穏やかな寝息が聞こえて来ただけだった。

 だから、余りにも唐突にこんな事を言い出す瀬人はやはり可笑しいのだ。大体、一度寝ると滅多な事で起きはしない筈なのに(起こしたのはこちらだが)やけに簡単に目覚めた事もその異変に拍車をかけていた。

 一体どうしたと言うのだろう。何が起こったのだろう。いや、それよりも自分はこれからどうすればいいのだろう。

 瀬人の問いに答えるのは簡単だ。ただ一言「お前が好きだから一緒に寝たかっただけ」と言えばいい。それは紛れも無い事実で嘘でも偽りでも何でもない。……が、この瀬人が求めているのはそんな今更な事ではなく、もっと深い、城之内の心の奥底まで見せる事なのだろう。そうでなければ「正当な理由」として受け取って貰えない事は明白だ。

 普段はあんな風に大半をボケて過ごしているような男だが、ここぞという時には恐るべき洞察力を発揮する。嘘やごまかしは簡単に見破られてしまうだろう。

 しかし、こんな状態でいきなり本音を吐露するのはどうなんだろう、と城之内は思う。

 「実は前々からお前を恋愛対象として見ていて、本当は寝るだけじゃなくってキスとかセックスとかしたいなぁ、って思ってるんだけど」なんてベッドの中で抱き合ったままで口にしたら、それこそ瀬人は驚愕して発狂してしまうかもしれない。最悪ベッドサイドに常に装備されている銃を突きつけられて「変態が!この場で死ね!」と引き金を引かれてしまう事だってありえる。

 城之内が何の障害もなくこうして瀬人の傍にいられるのは、ある種の信頼感があるからだ。『こいつはオレのベッドが目的であって、オレには余り用がない。何もして来ないし、安心だ。だからまぁ一緒に寝るくらいは許してやろう』的な考えの持ち主だからこそ、文句を言いつつも特に嫌悪も排除もしてこない。一体どんな育ち方をすればこんな風になるのか小一時間程問い詰めたいが、今はそんな事を考えている場合じゃない。
 

 ……素直に言ってもいいのだろうか。
 「好きなんだ」と。「本当はベッドじゃなくてお前が目的なんだ」と。

 そして、「お前さえよければ、エッチしようぜ」まで。
 

「……あー、えっと。正直な所を言うと……」
「なんだ。勿体ぶらずにさっさと言え」
「言うのはいいんだけど、お前、怒ったり叫んだりしねぇって約束できる?」
「何故、オレが怒ったり叫んだりしなければならないのだ」
「うん、まぁ。約束してくれるんならいいんだけど。どうよ」
「……約束する」
「じゃあ、言うけど。……オレ、実はお前の事が好きで。ここで寝たいっていうのは……勿論このベッドも気に入ってるっつーのもあるけど、本当はただ『寝る』んじゃなくって、あの、その、不健全な意味でお前と寝れたらいいなぁ、とか思って……」
「?……意味がわからんのだが」
「あーもう!この鈍感!よーするに、『好きだ!一緒に寝よう!そしてあわよくばセックスするチャンスが出来ればいいな!』って思ったって事だよ!」
「………………」
「……黙るなよ。……大体お前さぁ、『他人と一緒に夜を共にする事』の意味とか考えた事ねぇの?普通に考えて、まず下心無しでそういう事したがる奴っていねぇんだぜ?」
「……という事は、貴様は最初からその『下心』があったという訳だ」
「勿論。オレだって男だぜ」

 城之内の答えを聞いた直後、瀬人は一瞬目を瞠ったが、怒りも悲しみも引きもせずにただ静かに「そうか」と呟いて黙り込んだ。やはり、彼にとっては城之内の告白は予想外だったのだろうか。しかし、予想外にしては反応が鈍い気がする。……という事は、もしや瀬人は城之内の思惑に気付いていたとでもいうのだろうか。

 そうだとしたら、本当にそれこそ予想外すぎてどうしたらいいか分からなくなる。

「あの、海馬?どした?」

 完全に沈黙してしまった瀬人を聊か不安な気持ちで見つめながら、城之内は膠着してしまったこの状態を何とかしようと、とりあえず口を開こうとした。その時だった。

 不意にゆっくりと、改めて正面から城之内を見返した瀬人が、とんでもない台詞を口にする。

「なんだ。もっと早く言えば良かったものを。貴様もオレと同じだったのだな」
「……え?同じ?」
「オレも、貴様とただ寝るだけでは物足りないと思っていた。だが、貴様は共に眠るだけで何もしようとはしないから……オレとセックスはしたくないのかと、そう思っていたのに」
「はい?!ちょ、ちょっと待て海馬。それってどういう……?」
「馬鹿は飲み込みが悪いな。オレも、貴様さえ良ければセックスがしたかったと、そう言っているのだ」
「ええぇぇぇ?!」
「貴様の気持ちが分かれば話は簡単だ。ヤるか」
「ヤるかってお前何言ってんの?!ちょ、脱ぐな!上に乗っかんな!!待てって!!」
「ああ、最初はキスからか?」
「そーいう問題じゃないっての!!ってそこに触るな!!握るなぁっ!!」
「好きだ、城之内」
「いや、オレもお前の事は大好きだけどっ!!そうじゃなくってぇ!」

 いきなりの大胆発言と共に何故か即座に裸になって、あろう事か城之内の腹の上に乗り上げた瀬人は、ゆっくりと上体を倒しながら城之内へと顔を近づけてくる。

 さらさらと零れ落ちる栗色の髪、甘い吐息。まだ何もしていないのに僅かに潤んだ青い瞳。その何もかもが、今城之内の手中に落ちようとしている。焦がれに焦がれた目の前の細い身体ごと。

「かっ、海馬……」
「目を閉じろ」

 そうしたら、楽園に連れて行ってやる。

 およそ平素の瀬人からは絶対に聞けないような台詞を熱い息と共に耳に吹き込まれて、城之内はもう抗う気もなくなって、ここまできたら後は美味しく頂くだけだと腹をくくり、相手の望み通り瞳を閉じた。

 カサつく唇に触れる生暖かい空気に自然と開く口が得るものは ──
 

 ── 甘い甘い口付け……のはずだった。
「おい凡骨!!貴様何を寝ぼけている!!」
「うわぁっ?!なんだよ?!……って、あれ?海馬?」
「オレが海馬でなくてなんだと言うのだ。……って!貴様涎が出ているぞ汚いな!!」
「えっ。うわ、ごめん」
「フン。大方食べ物の夢でも見ていたのだろうが。相変わらず意地汚い事だ。もう7時だぞ、とっとと起きろ」

 ぺしん、と頭に落ちてきた軽い衝撃と共に、一気に遠ざかった瀬人を眺めながら、城之内は暫し呆然としていた。見慣れたその白い顔はすっきりと晴れやかで、頭にはきちんと櫛が通り、服装も上にジャケットを羽織れば完璧なシャツとスラックスを身に着けている。どうやら彼は城之内が起き出す大分前に目を覚まし、すっかりと身支度を整えた後だった。これもいつもの事だったが、今日はなんだか違って見える。
 

「……夢かぁ。だよなぁ、あんな海馬、海馬じゃねぇもん」
 

 自分からセックスしようと持ちかけて、積極的に脱いで乗ってくる瀬人なんて、全く持って未知の生物だ。絶対にありえない。

 そう盛大な溜息と共に呟いて、城之内は何故か脱力したように寝乱れた布団の中にダイブした。未だ暖かいそこには嗅ぎ慣れた自分の匂いと、仄かに甘い違う香りが微かに漂う。それは考えなくても瀬人のもので、その瞬間ちょっとだけ切ない気持ちになる。下半身にも力が入る。これが慰められる日が来るなんて、夢のまた夢だ。そんな事分かっている。

 あーでも惜しい事したな。あのまま寝てたら、オレ、海馬とエッチ出来たかもしんないのに。

 そんな事を思いながらゆっくりと深呼吸した城之内は、瀬人に急かされる前にとりあえず顔を洗って来ようと名残惜しいベッドから降りてしまう。途中携帯を取る為に瀬人がいる私室に立ち寄り鞄を探っていると、優雅にソファーの上でコーヒーを片手に新聞を読んでいる瀬人が、何気ない顔をして口を開いた。

「どうした、不機嫌な顔をして」
「別に、どうもしねぇよ。ただちょっと、残念なことがあっただけ」
「残念なこと?」
「そ。いいところだったのによ」
「?…………」

 お前の所為で、キス逃したじゃねぇかコノヤロウ!

 携帯片手にそう心の中で絶叫する城之内を、瀬人は相変わらずまるで分からない、という顔をして首を傾げて眉を寄せた。あ、やっぱり可愛いかも。即座に思ってしまったそんな事に、城之内は心の底から嘆息する。
 

 まぁいっか。今暫くは、こんな感じで。
 

 ふうっ、とあからさまな溜息を吐いて、再び目線を新聞に落とす瀬人の顔を眺めながら、城之内は一人そう呟いてくすりと笑った。そして。
 

「オレにもコーヒー頂戴。ミルクたっぷりの奴」
 

 そんないつもの要求を、ごく自然に口にするのだ。