Act3 幸せですか?

「一緒に入らねぇ?」
「……は?」
「お前だってモクバと入るだろ。風呂」
「……まぁ、ごく、たまにだが。しかしその事と今の事は関係ないだろう。何故オレが貴様と共に風呂に入らなければならないのだ」
「だって時間勿体ないじゃん。それにモクバと入ってるんならオレとも入れるよな?」
「馬鹿か貴様。この家に幾つ風呂があると思っている」
「いーじゃん別に。男同士なんだし、何もしねーし。普通はさ、皆で銭湯とか行くんだぜ」
「銭湯?」
「背中流しっこしたりさぁ、誰もいない時は風呂で泳いだりするんだ。……つかお前、もしかしてオレに裸見せるの恥ずかしいの?蒙古斑消えてなかったりとかぁ。やだ可愛い、海馬くん」
「ばっ、勝手に決め付けるな!誰が恥ずかしいか!」
「じゃあいいだろ。早くいこ」
 

 何が『じゃあいい』のだろう。この男の言う事はいつも良く分からない。というか人の話を全然聞いてすらいない。そもそも今しがた放たれたこの文句は確かこいつが最初に共寝をしようと言った時と同じものだ。と、言う事は幾ら嫌だと言っても聞く耳など持たないのだろう。

 そう思った瀬人は一人深い溜息を吐きながら、何かを大いに期待している目で己を見あげる眼下の男……城之内を見下ろした。
 

 今日も今日とて特に用もないのに海馬邸に居座った彼は、夕食、雑談、テレビ鑑賞など常日頃の工程を全て速やかにこなし、いざ就寝という段になって、いきなり普段とは違う行動に出始めたのだ。

 いつもならここで瀬人の事などまるで無視して、勝手知ったる他人の家とばかりにさっさと一人で入浴を終え、「じゃ、お先に」なんていいつつ人のベッドにもぐりこんで(大抵その際には瀬人を引きずって行くのだが)おやすみなさい、というのが王道パターンだったが、今日は何故かそれをせず週間漫画をちら見しながらじっと瀬人の事を伺っていた。

 その余りにも不躾な視線にいい加減鬱陶しくなった瀬人が憤然と長時間居座っていた椅子から立ち上がると、足音も荒く城之内の前に立ちはだかり、「貴様、さっきからジロジロとなんだ鬱陶しい!さっさと風呂に入って寝てしまえ!」と怒鳴りつけたところ、帰ってきたのはそんな予想を遥か斜め上に行く驚愕の言葉だったのだ。

「貴様、まさかそれがしたいが為にじっとオレの事を見ていたのか」
「うん。仕事が区切りいいところで終るの待ってた」
「オレの仕事に区切りなぞ無い」
「だろうね。でもそうやってオレの事怒鳴りに来たって事は、今が区切りなんだろ?そうじゃないとお前絶対机から離れないし」
「……確かにそうだが」
「じゃ、もう風呂に入れるよな?」
「入れるが、貴様とは入らん」
「なんで」
「なんでって……とにかく入りたければ一人で入って来い」
「やだ。お前と入る。折角待ってたのに」
「嫌なのはこっちだ。知るかそんな事」
「大体、オレいつも思ってたんだけど、お前どんなに寒くても『風呂』に入らないじゃん。シャワーだけさーっと浴びてさ。カラスの行水で。そんなんだから身体が冷たいままなんだぜ?」
「貴様には関係ないだろうが」
「一緒に寝る身としては関係あるんですー」
「勝手に人のベッドを占領している癖に偉そうな事を言うな。嫌なら出て行け!」
「おあいにく様、嫌じゃないから出て行きません。出て行かないけど、お前の身体が心配だから、一緒にお風呂に入って貰います」
「訳のわからん理屈を振りかざすな!」
「お前も諦め悪いなー。どうせ最後はオレの言う事聞かせられるんだから素直にはいって言ってみろよ」
「誰が言うか!」
「はいはい。言うわけないですね。ま、とにかく行きましょ」
「行かないといっている!手を離せ!」
「ちゃんと歩けよ、すっころぶぞ」

 なんだかんだと反論しつつも結局は力負けで城之内の思うがままになってしまう常のセオリー通り、今回もまたがっしりと掴まれた身体を引きずられる形で、瀬人は城之内と共に浴室に行く羽目になった。いつも彼が利用する部屋に備え付けの小規模なものではなく(それでも一般家庭のものよりは数倍広い)、瀬人でさえめったに使わないちゃんとした浴室へと準備が出来ているからと言って迷わず連れて行こうとする辺りは完璧な確信犯である。

 引っ張られている所為で足元がおぼつかず、バタバタと不規則に響く音や、廊下で擦れ違う使用人が微笑ましいといわんばかりの柔らかな笑みを浮かべて頭を下げていく様に、瀬人の眉間にこれでもかという皺が寄る。

 こんな光景を見て何故誰もオレの事を助ようとせず、城之内の暴挙を止めようともしないのか。そればかりか笑って見送るとはどういう事だ?!

 と、瀬人が内心力の限り叫んでも、そんな彼の叫びなど既に『瀬人様と城之内様は恋人同士』と認識している使用人達には勿論届き様がなかった。
「さて、と。おーバッチリバッチリ。すっげーじゃんこの風呂、ホテルの大浴場みたい」

 程無くしてついに件の浴室に辿りついてしまった瀬人は、ここに来て漸く観念したのかそれまでずっと腕に入れっぱなしだった力をやっと抜いて、城之内から距離を取った。その事を手のひらで感じていた城之内だったが、掴んだ腕は放さずにうきうきとした様子で無駄に広い脱衣所を見回したり、浴室との仕切りの硝子扉を開けて中の状態を伺って歓声を上げたりしている。

 その様子を横目で眺めながら瀬人は一人溜息を吐き、ただ大きさがあるだけで特に珍しくも無いだろうにこいつは馬鹿か、と思う気持ちを隠しもせずにやや低い声で口を開いた。

「……ここは指示しない限りは使用できないようになっているのだが。貴様、まさかオレの使用人を説き伏せたのか?」
「うん?二つ返事でOKしてくれたけど。モクバが」
「モクバが?!」
「オレが『今日お前の兄サマとお風呂一緒に入りたいんだけど』って言ったら、いい所があるよってここを紹介してくれたんだぜ」
「…………何故」
「お前も一緒に入るか?って言ったんだけど、拒否られちゃった。あいつ見かけによらず恥ずかしがりやだよな。残念残念」
「……貴様どこまでずうずうしいんだ」
「ま、なんでもいいから入ろっか。んじゃおっさきー」
「投げるな!服は畳め!」
「細かい事は言いっこ無し。お前も早く来いよ」

 まさかモクバまでグルだったとは!……そんな驚愕の事実に心底凹んだらしい瀬人の事などまるで構いもせずに、一人上機嫌の城之内はその場で何もかもを纏めて脱ぎ捨てると、脱衣籠に放り込むのもそこそこにタオル片手に一人でさっさと中に入って扉を閉めてしまう。

 その余りにも鮮やかな脱ぎっぷりに何か思う暇もなく一人取り残される形となった瀬人は、聞こえるシャワーの流れる音と、籠に上手く入らずに床に落ちてしまった城之内の擦り切れたジーンズを眺めながら、何となく途方に暮れてその場に立ち尽くしていた。

 

2


 
 一方、瀬人相手に無理を押し通した形で自らの野望をほぼ達成した城之内は、一人熱いシャワーを浴びながら喜び半分戸惑い半分のこの気持ちをどう収めるか思案していた。

 この日の為に下準備の果てから根回しまでを完璧にこなし、瀬人の退路を断った上で強引に誘い込んだとは言え、実際ここまでスムーズに事が運べるとは思っていなかった。尤も瀬人は諦めがいい方だし、ベッドの件を考えても死ぬ気で抵抗する事はないと踏んではいたが。

 勿論それは相手が自分と言うある程度信頼の置ける人間だからこそなのだろうが、それにしても瀬人のこういう面に対しての常識のなさには呆れ返る。まぁそれを最大限に利用しているのも自分だ。チャンスは最大限に生かす事、を生きる信条としている城之内は、多少の後ろめたさ位は見てみぬ不利をしよう、今更だし。と決め込んだ。

 しかし一番の問題はそんな心情的な部分ではなく、身体的な部分の事である。幾ら我慢強い城之内とは言え、生理現象まではコントロールできない。今の所何とか平常心を保っているお陰で特に身体に変化をきたしてはいないが、全裸の瀬人を見た途端反応しないとも限らない。

 同じ男としてそれがどういう意味か分からない筈はないので、それを見られた途端引かれてしまう可能性だってある。というか、自分がもし他人から見せられたら確実に引くだろう。結果、今まで培ってきた信頼が一気に崩れ去る事になりかねない。そうならない為にも、ここは死ぬ気で我慢しなければならないのだ。

(……でも、無理な話だよなーそれって)

 男なら誰だって好きな人の裸を見て反応するのは当たり前で、それが男か女かの違いなだけだ。ましてや瀬人は自分がずっと焦がれてやまなかった相手である。が、これまでの経験上ある程度の耐性がついて来たのも事実だった。

 ずっと『何もしないで』共寝出来ていたのだ。今更裸くらい何とも無い、着替えすら見た事無いけど大丈夫。と半ば自己暗示の勢いで繰り返し、勝手に熱くなる身体を冷やそうとシャワーをお湯から水に切り替えたその時だった。

 音も無く擦り硝子製の入り口ドアが開き、人が入ってくる気配がする。立ち込めた湯気で良くは見えないが、この状況で入ってくる人間は一人しかいないので、『それ』は確実に瀬人という事になる。

(うわ、ヤバ……ッ)

 まだ実物も見ていないのにその事実だけで十二分に興奮してしまった城之内は、慌てて浴室に入る際に右手に掴んできたタオルを腰に巻くと、心持前屈みになりつつシャワーを止める。ピシャ、と背後で水で跳ねる音が大きく響く。

「っ!冷たいな。貴様真冬に水を浴びる趣味があるのか」
「あ、ゴメン。今ちょっと事情があって」
「……事情?」
「こ、こっちの事だから気にすんなよ。それよりもほら、お前も先にシャワー浴びるだろ?オレ、もう湯船に入るしっ!」
「何をそんなに慌てている。先程まではあんなに威勢が良かった癖に」
「べ、別に慌ててなんかねぇよ」
「まぁ、どうでもいいがそこをどけ」
「はいはい。あ、ちょっと待ってあっためるから」

 自らが浴びた水のお陰でタイルその他がすっかり冷たくなっている状況に、城之内は再びシャワーを湯に切り替えてコックを捻る。慌てていた所為で温度調節を間違え途端に降り注ぐ熱い湯に飛び上がりそうになりつつも、ある程度周囲を暖めると極力後ろに立つ瀬人と目を合わさない様にその場から素早く抜け出した。

「はいどーぞ。って、お前熱いの大丈夫なの?」
「一々煩いな。何故貴様にそこまで面倒を見て貰わなければならないのだ。さっさと行け」

 まるで犬猫を追い払うように「しっしっ」と手を上下させた瀬人は、先程までの戸惑いや拒絶が嘘の様にやけに堂々とした態度で城之内が譲った場所に立ち、無表情で湯を浴び始めた。自分同様腰にタオルを巻いただけのその後ろ姿は想像を絶するほど艶かしい。

「……うわ」

 それだけで股間にダイレクトアタックを食らった城之内はが、また雲行きが怪しくなって来た己の下半身を隠蔽すべく、急いで乳白色の湯が張られたバスタブに飛び込もうとした。しかし、彼の視線が瀬人のある一点を見た瞬間、性急なその動きは止まってしまう。

「何を見ている。鬱陶しい」

 すかさずそんな城之内の奇怪な行動をきちんと把握していたらしい瀬人の不機嫌な声が飛んで来る。が、今更そんなものにめげる訳も無い彼は、反対側に向けてダッシュしようとしていた身体をくるりと反転させ、瀬人の傍へと寄ってくると無遠慮な視線を眼前の白い身体に容赦なく注いだ。

 正確には、服を着ている状態でも細い細いと思っていた腰辺りを、だが。

「お前ほっそ!ちゃんとメシ食ってるのか?あーだからお前全然抱き心地良くねぇのか」
「余計な世話だ!」
「だってここ骨浮いてるじゃん。つーか骨に皮張ったみてぇ。肉あんの?なんか可哀想なんだけど」
「……貴様殴られたいのか?」

 密かに怒気を孕んだその声も華麗にスルーして、城之内は今度は何の躊躇もなくその部位をタオル越しだが両手で掴んだ。途端に短い悲鳴が上がったが、特に気にせずに「ほらほら」などと口にする。

 この時の城之内はそれまで感じていた興奮等を一切意識の外に追いやって、ただ純粋に相手の身体を案じていたのだが、それは大いに余計なお世話だったらしい。すかさずかなり手痛い衝撃が頭上から降ってくる。

「何時まで掴んでいる、離さんかッ!」
「いだっ!肘鉄は無いだろー!男の癖にちょこっと触られる位でギャーギャー言うなって」
「どこがちょこっとだ!」

 そう言って瀬人が本格的に城之内を引き剥がすべく身体を捩って縋る形になっているやや色味のいい腕を掴みあげ、力を込める。すると、その拍子に城之内の体がぐらつき、安定感がなくなった彼は、不可抗力で顔を思いきり瀬人の肌にくっつけてしまった。浴び続けていた湯のお陰でほんのりと暖かい、すべらかな肌の感触を直接己の皮膚で感じてしまった城之内は、一瞬忘れていた興奮を思い切り取り戻してしまい、そのまま素直に「ぎゃあ!」と悲鳴をあげると慌ててその体から飛びのいた。

 途端に瀬人の顔が盛大に顰められる。

「なんだ突然!」
「あー吃驚した。……しっ、死ぬかと思った!」
「そんなに強く小突いた気は無いが」
「や、そっちじゃなくって、こっちの話!」
「歯切れの悪いものの言い方をするな!さっきから気色悪い!」
「ごめんごめん何でも無い。じゃ、オレあっち行ってるわ」
「素直に最初からそうしてればいいのだ」

 フン、と小さく毒づいて再びくるりと後ろを向いた瀬人は中途半端な所で邪魔をされてしまったシャワーを再開する。その背中をちらりと横目で流し見ながら、城之内は、無駄に汗をかいてしまった身体をバスタブの湯で一度流すと、今度は大人しく肩まで漬かる事にした。

「……うー。心臓に悪い」

 ちゃぷりと心地よさ気な水音と共に小さな声で呟かれたその言葉は、勿論瀬人の耳には入らなかった。
(それにしても……マジ細い体だよなー)
 

 城之内が一人湯船に浸かる事数分後。未だしつこくシャワーの前から動かず、いつもの習慣なのか先に体を洗い始めてしまった瀬人の事を眺めながら、城之内は心の中でぽつりとそう呟いた。彼と自分は確かに同じ『男』の筈なのに、こうして見ると全く別種の生き物のように見える。

 真っ白で、実際はそうでもないが華奢な印象を受ける背などは、柔らかさが見受けられない所為か骨っぽく、女性のものより頼りなく目に映る。

(そういえばさっき腰骨掴んだ時、肉はっ?!と思ったもんな。脇腹なんか触ったら痩せた猫みたいな感触がしたりして。まさかアバラが浮いたりはしてないだろうけど。あーだからオレ、こいつの事こんなにデッカイのになんかほっとけないっつー気持ちになんのか。なるほど)

 ぺたりとバスタブの淵に頬を乗せて、城之内がぼんやりとそんな事を考えていると、いつの間にか瀬人の手が後ろに回ろうとしていた。それを見た瞬間、城之内は慌てて声をかけて制止し、ざばりと湯から上がってしまうと不審そうにこちらを見る瀬人の手からスポンジを取り上げてこう言った。

「お前オレの話聞いてた?背中の流しっこする為に一緒に入ったんだけど?はいちゃんと前向いてー」
「それに一体何の意味があるのだ」
「意味っつーかコミュニケーション?お前行ってないから知らないだろうけど、合宿とか修学旅行とかでは皆やるんだぜ。一回ぐらい経験してみたいだろ」
「別に」
「頭も洗ってあげよっか。オレ昔床屋で洗髪のバイトもした事あるんだー」
「……貴様は無駄に経験だけはあるのだな」
「無駄とか言うな。こうやって役立ててるだろ」

 言いながら、スポンジにバスソープを追加して遠目から見た印象通りの白くて薄い背に滑らせる。まぁ実際はこんな風にくっついて丁寧にしたりなんかしないけどね、男同士でも。……思わず出そうになったそんな台詞は笑いと共に喉奥に押し込める。

 白い、柔らかな泡が項から腰にかけてふわりと覆っては流れていく。本当はスポンジなんかじゃなくて素手で洗いたい位だが、さすがの城之内もそこまで大胆にはなれなかった。今は腕の中、と言って差し支えない無いほど密着している瀬人が力を抜いてされるがままになっている。

 それは考えなくてもやはり自分を信頼している証で。その信頼を最悪の形で裏切る事だけは、どうしても出来なかった。

(あーあ。やんなっちゃうなぁ)

 大好きな相手が添え膳宜しく目の前でその肢体を惜し気もなく晒しているのに。それでも自分はオオカミにはなれず、牙を無くした悲しい雄のまま溜め息をつく以外にはないのだ。

 だが、それが物凄く辛いとも思わない所が、自分が今一歩先に踏み込めない要因なのだ。けれど、それでもいいと今は思う。

 今のところは、だったが。
 

「オレって結構苦労症だよなー。そう思わねぇ?」
 

 長い時間をかけて背を洗い終え、今度は洗髪に取り掛かった城之内は、手の中にシャンプーを受け取りながら思わずそんな事を口にしてしまう。それに僅かに首を傾げる事で反応した世界一の鈍感男は、相手に優しく髪をかき上げられる仕草にやや顔を上向けると見事に疑問符付きの言葉で返してくれる。

「……何の話だ?」
「何の、っていうより、全体的に。自分でもどうしてこんな事好き好んでやってるんだろうって事、多いからさ」
「嫌ならやらなければいいだろうが」
「そうなんだけどさー、どうしてもやっちゃうんだ。嫌って思うほど、本当は嫌なんじゃないかもしれない」
「……意味がわからん」
「お前に分かって貰おうなんて思ってないし」
「なら言うな」
「素っ気ねぇの。はいはい。口に出したオレが悪うござんしたよ」

 オレは今のこの状態を言ってるんだけど!あんまりニブちんだと襲うぞコラ!

 そんな事も本気で思う事すら出来ない自分に歯噛みしつつも両手で包んだ温かな頭皮を洗う事に専念する。指先に絡まる存外細くて柔らかい髪。その割に形状記憶合金並に乱れるという事を知らないのだから不思議なものだ。この髪に寝癖のついている所なんか見た事が無い。

 瀬人は先程と同じく、身動ぎ一つしないでじっとしている。泡が目に入る事を懸念してかいつの間にか閉ざされてしまった目の辺りを眺めると、まるでベッドの中で一緒に寝ている時のようだ。

 ああ、そっか。こいつのこういう顔が見れるだけでも、ラッキーって思わないといけないんだよなオレは。

 余りにも無防備で、ほんの少しだけ幼く見える顔。普段からは絶対に想像出来ないその姿。眼前に晒された細くて薄い、見ていると心配になってしまう身体同様、こんな素の部分を目にする事が出来るというだけでも、本当は奇跡なのだ。

 今まではそんなもの、余りにも些細過ぎて全然良くは思えなかったけれど、気づいてしまえばそれは結構大変な事で。
 

『お前、兄サマとお風呂に入れるなんてスゲー事なんだぞ!オレだけの宝物だったのにさ』
 

 この話を持ちかけた時に、ほんの少しだけ悔しそうな顔をしてそう叫んだモクバの言葉の意味が、今漸くわかった気がしたのだ。
 

 そして、同時にこう実感した。
 

 自分は、よく考えなくても相当な幸せ者なのかもしれない、と。
「貴様なかなか上手いではないか。感心したぞ」
「だから言ったじゃん、バイトしてたって。気持ち良かった?」
「あぁ」
「じゃー今度はオレの番。あ、オレ、生ぬるいの嫌いだからガシガシやってな。痛い位が丁度いいんだ」
「束子でか」
「ちょ!鍋じゃないから!!これでも一応人間だから!!スポンジでお願い!」
「我が儘言うな」
「言うに決まってるだろ!」

 そんな幸せな気分のまま、無事反応する事もなく速やかに作業を終えてしまった城之内は自分に施す数百倍の丁寧さで綺麗に仕上げをしてやると、今度はオレの番、とばかりに場所を交換して椅子に座った。

 湯からあがって大分経っていた為、ひんやりと冷たくなった身体に僅かに身を震わせると、そこに温かな瀬人の手が触れた。手、どころではなく、身体全体を密着させる形で。

「…………ちょ!」
「?……なんだ?」
「や、……な、なんでもない」
「動くなよ」
「大人しくしてるだろ!」

 それは、少し遠くに城之内が置き去りにしたボディソープをとる為に瀬人が身を乗り出した所為での出来事だったが、城之内の心臓に負担をかけるには十分な出来事だった。
 

 そんな瞬間を幾つも乗り越えて、二人は無事『初めてのお風呂』という城之内にとっては一大プロジェクトを成功させ、無事いつもの通りベッドで横になる事が出来た。長湯をした所為で二人とも汗をかくほど身体が温まっていたが、だからと言って距離を取る事はしなかった。

 それがさも当然の如く、城之内は瀬人の身体を抱きしめる。
 何の意図もなく、ただ……眠る為だけに。

 それだけでやっぱり今は幸せなのだ。
 少し物足りないけれど、その物足りなさも心地いい。
 

「なぁ、海馬」
「……ん?」
「また一緒に風呂に入ろうなっ」
「……気が向けばな」
「大丈夫、向かせて見せるから」
「………………」
「あ、寝てるし。お前ってほんっと……可愛い奴だよなぁ」
『幸せですか?』
 

 城之内克也にもう一度そう尋ねたら、彼は満面の笑みを持ってこう答えるだろう。
 

「そうだね。まぁ、今のところは」