Act4 病気

 人間悩み事を抱えていると、免疫力まで低下してしまうらしい。

 ここ数年、病気らしい病気をしていなかった城之内は今朝覚えた寒気を始めとする体のだるさや止まらない鼻水、そして胸のむかつきや頭痛など、全て今年一番の寒さの所為だと思い込み、特に気にしないようにしていた。

 途中遊戯などから「城之内くん、なんか顔が赤いよ?具合悪いの?」等と言われたりしたのだが、「暖房が暑いせいじゃね?」と一蹴し、取り合おうとしなかった。後で分かった事だったが、彼はこの時点で既に通常の体温を3度ほど上回っていたのだが、全部『気のせい』で乗り切った所為で大事には至らなかった。

 が、幾ら誤魔化そうと体調を崩していたのは事実だったので、放課後バイトをこなしている最中から「さすがに変だ」と思い始め、終わる頃には「これはヤバイ」と漸く自分の体調不良を認知した。

 早く帰って寝ないと死ぬかも、そう思いつつ既に安定感を失った身体を持て余しながら店を後にした時、そこで本当に偶然にとある人物と鉢合わせた。

 夜闇の中にも嫌に目立つ白コートに高そうなマフラー、裾から覗くスラックスは見覚えがあり、彼が良く『余所行き』として着用するものだった。ちらちらと舞い落ちる白い雪が、傘も差さずにその場に佇むその男……瀬人の髪に僅かに降り積もっている。

 迎えの車でも待っているのだろうか。そういえばこの近くには大きな高級ホテルがあった筈だ。そんな事をぼうっとする頭で何気なく考えていると、瀬人の方が先に気づいたのか、奇怪な顔をして早足で近づいてくる。ゆるりと上げた視界はぶれて、見慣れたその顔も、どこか別人の様に見えた。

「あ、かいばだ。こんばんはー」
「貴様、こんな時刻にこんな場所で何をしている?」
「え?バイトだけど。ここ、オレのバイト先」
「そうなのか」
「お前こそ夜中に何ふらふらしてんの?なんかスーツとか着ちゃって」
「オレはそこのホテルで会合だった。今帰るところだ」
「……ふーん、やっぱり」

 くいと顎で背後のホテルを示す瀬人に城之内は半ば眠ったような声で応えを返す。正直もう立っているのさえ限界だった。身体は熱いし頭は痛いし、目はぐるぐる回るし、最早何がなんだか分からない。既に誰と会話しているのかさえ曖昧だった。

 そんな彼の様子に何かおかしいと悟ったのか、瀬人の顔が一瞬曇る。そして、有り得ない距離まで顔を近づけて真面目な声でこう言った。

「凡骨」
「なに?」
「貴様、酔っているのか?」
「オレ、いちおう未成年ですけどー」
「顔が赤いぞ。呂律も回って無いし」
「あー、うん……」
「おい、凡こ……城之内!」

 瀬人がそう声を荒げたのと、城之内の体がぐらりと大きく傾いたのは同時だった。急速に遠くなっていく意識の中で確かに感じたのは、冷たい雪の中に倒れ込む衝撃ではなく、ちっとも柔らかくない、堅い腕に受け止められた感触だった。
「39度」
「そんなんで良く雪の中歩いて帰ろうと思ったね、こいつ。馬鹿じゃん」
「モクバ、本当の事を言ってやるな。可哀想だ」
「兄サマの言い方の方がよっぽど可哀想だと思うけど。でも良かったね。兄サマがいなかったら凍死してたかも」
「運の良さには定評があるからな、この男は」
 

 何処か遠い場所で、聞き慣れた二つの声が随分と失礼な事を言っているのが聞こえる。次いでパチンと額を弾かれる痛み。

(……なんだ?オレ、どうしたんだっけ?)

 そんな事を思う間もなく気力で持ち上げた瞼の向こうにぼんやりとした影が映り込む。薄茶色と白で構成されたその影の正体は、余り良く考えなくても先程鉢合った瀬人のもので、そのすぐ傍に見える黒い塊はきっとモクバのものなのだろう。こんな小憎らしい台詞を吐くのは彼以外にありえないからだ。

「あ、兄サマ、城之内目ぇ開けたよ!」
「何?……やっとお目覚めか馬鹿犬が」

 城之内の不明瞭な視界が漸く明確になる頃、その事に気づいたらしいモクバが嬉しそうに瀬人の事を振り返る。その声に即座に近づいて来た瀬人は、その顔を覗き込む様に身を乗り出しやや呆れた表情で呆然と上を見あげる城之内を見下した。

「気分はどうだ?」
「……さいあくです」
「そうだろうな。死にそうだったからな」
「……ここ、おまえんち、だよな?」
「生憎貴様の家の場所等知らないのでな」
「……そっかぁ……さんきゅー」
「連絡をするのならしてやるが」
「……あー、いい。どーせオヤジいねーし」
「そうか。まぁ、幸いな事に今日は土曜だ。一日寝ていれば治るだろう」
「……土曜?」
「あぁ、土曜の朝だ。貴様の所為で会社に行きそびれたぞ、どうしてくれる」
「えっ」
「しかし馬鹿は風邪を引かない筈なのだが。珍しい現象もあるものだな」

 そう言って、何故か微妙に機嫌のいい様相で口の端を吊り上げた瀬人は、そのままストンとその場に腰を落ち着けてしまう。何事かと見れば、見慣れたベッドの横には見慣れない椅子が添えられていて、近間にあるサイドボードには書類が山と積まれていた。

 どうやら瀬人がこの場に持ち込んで処理をしていたらしいが、問題はその『物』ではなくその『事』だ。しかも今更ながらに気づいたのだが、見慣れたベッドという事は、ここは客間でも何でもなく瀬人の寝室という事で、今自分が寝ているこのベッドは……。

「ちょ、ちょっと待て。これ、お前のベッドじゃね?」
「なんだ今更」
「……や、っつーか、オレ、これ占領してたって事?お前どこで寝たの?」
「別に。寝るところなぞ幾らでもあるだろうが」
「……幾らでも……って。えぇ?!ご、ごめん!出るからっ!どっか別の場所に……!」
「いい。構わん」
「良くないだろ!ていうかお前なんで自分のベッドにオレ寝かせてんだよ!」
「貴様が常に占領するからだろうが」
「普段と今とを一緒にすんなよ!ああもうお前馬鹿じゃね?!」
「馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはないわ。無駄に興奮するな。鬱陶しい上にまた死にかけるぞ」
「……だっ、だけど……」
「オレがいいと言っているのだからごちゃごちゃ言うな。煩い。寝ろ」
「海馬ってば……ぶっ!」
「黙れ」

 最後には額を冷やすために絞ったタオルで顔を思い切り叩かれた城之内は、渋々起き上がりかけたベッドの中に再び横になると、仕方なく溜息を吐いて目を閉じる。叩かれた鼻がジンジンと痺れていたが、それ以上に瀬人の『さも当然』というような態度や相変わらず柔らかで温かいベッドの寝心地の良さに気を取られてしまって落ち着かなかった。

「貴様の大好きな場所で眠れば少しは治りも早くなるだろうからな」

 そんな城之内の事をフン、と鼻でせせら笑った瀬人は、そう言って既に興味を失ったと言わんばかりにゆるりと視線を反らすと、すぐ近くにあった書類を一束掴んで捲り始めた。

 時計が刻む秒針の音と、瀬人が紙をめくる微かな音だけが響く室内。

 その只中で城之内は、なんとも言えない気分と共に再び眠りにつくのだった。
「兄サマはああ見えて捨て猫とか捨て犬とかを見ると放っておけない性質なんだぜぃ。小さい頃はよく公園とかで面倒みたんだ」
「……捨て犬って。オレ一応人間だってば」
「まぁそれは冗談だけど。だからお前の事面倒みたのかなーって思っただけ」
「面倒、かぁ。そっかぁ」

 あーオレはあいつに取ってはその辺のダンボールの中で鳴いてる犬と同じ認識なわけね。犬なら一緒のベッドに入ろうが一緒に風呂に入ろうがどうって事ないよな。あの警戒心のなさはそういう所から来てるのか。なるほどねー。

 そう言われてみると大いに合点が行くものの、同時に虚しさも覚えてしまう。はぁ、と大きく息を吐き出すと体内の熱さが込み上げてくる気がした。けれど、大分楽になって来た気がする。

 そんな城之内の事を些か面白そうに見下ろしながら、今は少し出ている兄の変わりに看病を買って出たモクバは、「水飲む?」「リンゴ食べる?」など、細々とした箇所まで気を回して忙しく立ち回っていた。

 「お前良く気がつくなぁ」と感心すると、「兄サマから教わったんだぜぃ」と返って来た。そう言われてみれば瀬人もなんだかんだと文句をいいつつも、こちらが何か言う前にして欲しいと思う事を的確にしてくれていた事を思い出す。

 ああいうのは性格というのだろうか。律儀と言うか真面目と言うか、普段の城之内に対する粗雑な扱いからは余り想像できない事態を経験し、城之内はまた瀬人に対する好意のメーターを一つ上げたばかりだった。

 それなのに犬ってか。なんだか落ち込むなぁ。

 知らずまた出てしまいそうになる溜息を今度は辛うじて喉奥に押し込んで、少しだけずり下がった掛布を口元まで引きあげる。そんな城之内の仕草に即座にモクバが「寒いの?」と声をかけてくるが、首を振る事で否定した。そして思わずぽつりとこう呟く。

「……身体は寒くねぇけど、心が寒いかも」
「心が寒い?」
「だってさ、お前の兄サマ、オレの事犬扱いしてんだろ」
「犬?」
「今そう言ったじゃん」
「あ、今の話?例え話だって言っただろ」
「……でも、当てはまる事めっちゃあるし」
「なんで?お前、兄サマから犬扱いされてんの?」
「分かんねぇけどそうじゃねぇの」
「だってお前と兄サマって……」
「ぶっちゃけた話なーんにもありません」
「え?!」
「嘘じゃねぇよ?マジの話」
「一緒に寝たりお風呂まで入って何にも無いの?!」
「そうだって」
「……へー」
「遠い目すんな。オレがそういう気持ちだっつーの」
「あーでも兄サマだとそうかも知れないなー。そういうとこ、とっても鈍いし」
「お前が一番分かるだろ」
「でもまさかって思うじゃん。オレは当然そう思ってたし、家の人間もみーんなそうだって思ってるぜ」
「……だろうね。そういう感じするもん」
「でも肝心の兄サマがそう思ってないんだ?」
「そうです」
「変なの」
「変だな」

 二人できっぱりとそう言い合って互いにじっと相手の顔を見ながらこくんと頷く。そう、そうなのだ。確かにこれは『変な事』なのだ。誰が聞いたっておかしなこの話を、全くおかしいと思わないのが瀬人という人間で、だからこそこの平和なようでいてその実息苦しい状態が続いている。まぁ、でも自分もそういう意味での明確な意思表示をしていないから、分かれと言われても分かりにくいのかもしれないが。

 その事を控えめに口に出すと、モクバはそれにも少し驚いた顔になり、「それはお前も悪いよ」と言い切った。

「兄サマに空気読めって言っても無理なんだからさ、ちゃんと言葉にして言わないと。ここまでやったって気付かないんだから、このままじゃずーっと変わんないと思うよ」
「……でもドン引きされたら嫌じゃん」
「でもこのまんまじゃヤなんだろ」
「うん。ここんとこずーっとそれ考えてて、だからかなー風邪なんか滅多にひかねぇのに、こんな風になっちまったの」
「お前も悩むって事あるんだぁ」
「失礼な事言うな」
「んー、でもさぁ、それなら尚更だろ?はっきりした方がいいんじゃないの?」
「……うー。……つか、お前良くオレとこんな話できるな」
「別に。オレあんまり気にしないから」
「海馬そっくり」
「兄弟だから」
「……海馬もお前位こういう事には敏感で物分りがいいといいんだけどなー」

 まぁ、敏感なら敏感で速攻部屋を叩き出されて終わるだろうけどさ。そう溜息混じりに呟いて半ば自嘲の笑みを見せた城之内を、モクバは僅かに目元を和らげて、まるで内緒話をするように横になる彼の耳元に口を寄せて囁いた。

「あはは。でもさ、一つだけ言っておくけど、幾ら兄サマだって犬や猫と一緒に寝た事なんてないんだぜぃ。さっき言い忘れたけど兄サマ、捨て犬や捨て猫を気にはするんだけど、アレルギー持ってるから触れないんだ。だから、兄サマと一つのベッドに寝た事があるのって多分オレだけだよ」
「えっ」
「という事は、一緒に寝れてるお前は動物扱いじゃないって事だろ。そうだなぁ、一応兄サマの『特別』に入ってるのかも」
「えぇ?!」
「オレは兄サマじゃないから本当の所はよくわかんないけどさ。そこんとこ、聞いてみたら?」

 そう言って今度ははっきりとした笑みを見せたモクバは、徐にポケットに入れていたらしい携帯を取り出してカチリと開く。そして弾んだ声で口を開いた。

「あ。兄サマ?うん、ちょっと元気になって来たみたい。え?あー、そうだね。でも兄サマが帰ってくるんなら一緒に食べたら?うん、うん。はーい、待ってるぜぃ。……兄サマ、今から帰るって」
「……帰ってくんの?」
「なんで嫌そうな顔してんだよ。ここは喜ぶとこだろ」
「だ、だってさぁ」
「いつもずうずうしいお前が大人しいと気持悪いぜぃ」
「なんか具合悪くなってきた……」
「心配ないって!平常心平常心!」

 な!と一際明るい声を上げてこちらが病人だと言う事を完全に忘れているかのようにバンバンと肩を叩くモクバの小さな手を、城之内はただ受け入れる以外に術はなかった。

 モクバとこんな話をしてしまった以上、瀬人がこの部屋に帰って来たら、自分は彼に問いかけなければいけないのだ。口にしても、しなくても、どちらにしても少し苦しいこの想いを、ほんの僅かにでも分かって貰えるように。

「ダメだったらオレが慰めてやるからな」
「ダメとかいうな」
「でも、さ。オレはきっと大丈夫だと思う」
「なんでそう言い切れるんだよ」
「兄弟だから」
「またそれか」
「っていうのは冗談で。お前を拾ってきた時の兄サマの顔が、さ」
「顔?」
「うん、顔。だから、大丈夫」

 何度も繰り返すようにそう言って、モクバはほんの一瞬だけ、掛布の上に出ていた城之内の指先をぎゅっと音がする程握りしめた。

 少し痛みを感じる程の強い、力で。

 

2


 
「さすがに具合が悪いと動き回る元気も無い様だな」
「……お前、オレを何だと思ってるわけ?」
「犬」
「あ、やっぱり犬なわけ」
「やっぱり?」
「さっきモクバと色々話してさ、そういう事言ってたから。お前、捨て犬とか捨て猫に構うのが趣味なんだって?」
「何時の話だ。今はそんな暇は無い」
「だろうね」
「どうでもいいが、貴様食事を取れるのか」
「あ、うん。丁度腹減ったなーって思ってたとこ。ステーキ食いたい」
「馬鹿か。聞いているこっちが気持ち悪くなるわ」
「えー風邪引いた時って体力つけたいから重いもん食べたくならねぇ?」
「人外の認識でものを語るな。貴様だけだ」
「ちぇ」
「とにかく、食べられるのなら食べろ。ここにある」
「あれ、何時の間に」
「先程モクバが持って来ただろう」
「お前が邪魔で見えてなかった。……つーか食べろって。普通はさぁ、病人に対してはもっとこう優しくさぁ、抱き起こしてくれてー食器手渡してくれてー、もっと優しいと食べさせてくれたりするもんじゃないの?」
「ふざけるな」
「あっ、超頭痛い」
「嘘吐け」

 わざとらしく顔を顰めて額を手で押さえてみても、視界に映り込む端正な顔は僅かにも変化はなく、いかにも下らない、と言いたげな冷たい視線を寄越してくる。

 「なんだよケチ、途中でオレほっぽり出して仕事行った癖に」と城之内が文句を言うと、「貴様の面倒を見る義理なぞない」と返ってきた。全く、ああ言えばこう言う。病人相手にも全く変わりが無い減らず口はキリがない。それでもやはり少しは優しくする気があるのか、嫌な顔をしながらも食事の入ったトレイを手渡してきた。大小様々な器の中にはいかにも病人食といった消化の良さそうなモノが入っている。

「あーうまそう」
「我が家に不味いものなどない」

 一般庶民と一緒にするな。そう憎まれ口を叩いて既に定位置になってしまった椅子に腰かけると、瀬人は何時の間にか更にうず高くなった書類の山からまた一つ抜き取って目を通し始める。その横顔をちらちらと眺めながら城之内はスプーンを手に取り、大きな深皿にたっぷり盛られた粥を一口一気に食べた。蓋を開けたばかりで出来立ての熱さを保っていたそれを咀嚼した瞬間、当然の事ながら熱さに呻く。

「あつっ!」
「……何をやっている。熱いに決まってるだろうが。何故余所見をして食べる」
「だってさぁ。……うぅ、舌火傷した。いってぇ」
「相変わらず馬鹿だな」

 まさか隣にいる瀬人を見ていて目の前の食事が疎かになったとも言えず、城之内は恨みがましい表情を彼に向けて、ひりひりと痛む舌を出して訴える。その様をやはり冷ややかな目で眺めながら、瀬人はわざとらしく肩で大きく息をついた。

 それでも書類よりはこちらを気にしてくれた事に嬉しくなり、城之内は「病人なんだからもうちょい優しくして貰ってもバチは当たんないよな」と勝手に決め付け、もう一度持ち上げようとしたスプーンを置いてしまうと、未だ呆れた風にこちらを見ている瀬人に向かってやや甘えた口調でこう言ってみた。

「なー、やっぱり食べさせてー?」
「……は?」
「今のでもうやる気なくした。食べる気力ない」
「何を言っている。甘えるな、気色悪い」
「こういう時ぐらい甘えたっていいだろ。食べないと治らないし。治らないと、オレここから出ていけないじゃん?」
「……なんだその理不尽極まりない言い訳は」
「お前がずーっとオレにここにいて欲しいって言うんなら別にいーけど」
「………………」
「な?別に減るもんじゃないし」
「………………」
「ちょっとだけ」

 言いながらずい、と身体ごと近寄ってくる城之内を相変わらずの顰め面でただ眺めていた瀬人だったが、繰り返される「なぁなぁ」の声に段々と鬱陶しさを露わにし始め、最後の方ははっきりと不愉快な顔をみせたが、それでもまだ粘る城之内にいい加減根負けしたのか、ついには書類を乱雑に山の上に放り投げた。次いで部屋中に響くかのような大きな溜息が零れ落ちる。

「貸せ」

 かなりドスのきいた声はとても病人に向けて発するものではなかったが、それでも念願が叶った城之内には喜びの材料にしかならず、先ほどまでの無気力ぶりは何処へやら、程良く温んだ器を差し出された白い手に乗せあげる。それをしっかりと掴み取り、放り出されたスプーンを手に取ると、瀬人はかなり投げやりな態度で器の中の粥を掬い、ずい、と城之内の眼前に差し出した。

「あーんとか言ってくれないの?冷ましては?」
「やかましい。もう十分に冷めてるわ」
「でも一応ポーズとしてさぁ」
「煩い。食べないのなら口の中に突っ込むぞ」
「それは勘弁。……あーん……うん、ひゃめてるな」
「食べながらしゃべるな。汚い」
「お前いちいち言う事がキツイんだって。そんなんだから周囲から一歩引かれるんだぜ」
「余計な世話だ。黙って食べろ」

 それから暫く、甘さの欠片もない食事という『共同作業』を黙々とこなした二人は、城之内が最後の一口を飲みこんで、瀬人が放るように食器を置いた時点で漸く終了した。カチャリと音を立てながら遠ざかる食器を名残惜しく眺め、それと共に離れて行こうとする瀬人の姿を寂しく思う。

 なんかやっぱり素っ気ないよなーこの態度の何処が特別なんだろうなぁ。

 そう思いながら暫しぼんやりとベッドヘッドに背を預けて動かないでいると、いつの間にか肩に温かさを感じた。それが、瀬人の掌がもたらす温度だと気づくのは数秒後だった。

「何をぼうっとしている。食べたのならさっさと寝ろ」

 そんな声と共に肩に感じる指先がぐっと力を込めるのを感じる。ぼうっとしていた分余計に突然に思えた瀬人のこの行為に城之内は思わず大きく反応してしまい、顔ごとじっと相手の目を凝視してしまう。それに一瞬たじろいだ素振りを見せて、少し性急に離そうとした手をすぐに捕まえて、城之内は自分でも無意識のうちにぽつりとこんな事を口にしてしまった。

「お前さ、オレの事どう思ってる?」
「……何?」
「だから、オレの事どう思ってるって聞いてんの」
「……なんだ突然。下らん無駄口を叩いている暇があったらさっさと……」
「それ聞いたら寝るから教えてくれよ。オレ、ずーっと気になってたんだ」

 まさにそれは予想だにしない一言だったのだろう。いきなり掴まれた手に加えられた思いがけない力も相まって酷く驚いた顔をした瀬人は、きゅっと眉を寄せて問う様に城之内を見る。その、困惑したような迷惑そうな顔は、彼が常に見せる表情そのもので、その顔を見せつつ許容されてしまう事への不可思議さに悩んでいた城之内にとっては、今ここではっきりとした言葉で示して欲しいとそう思った。

 そうでなければ、きっとこの病は治らない。
 身体が治っても、多分心はずっと風邪を引いたままだ。

 だから。

「教えて欲しいんだ。オレが、お前にどう思われてるのか」

 迷惑だと、本当は嫌でしかたないと言われたからと言って諦める筈もないけれど。中途半端のままではやっぱり苦しい。

「好きとか嫌いとか、そういう単純な返事でいいからさ」

 そんな一言をさらりと吐き出して、それきり城之内は口を噤んだ。後は瀬人の返事を待つだけだと言わんばかりに。

 瀬人はその言葉に一瞬目を瞠り、唇を噛み締めたようだった。それも彼が戸惑いを表す時に良くやる仕草の一つで、この後は大抵うやむやにされて終わってしまうのが常だった。けれど、今日ははっきりとした返事を聞くまで、城之内は引くつもりはなかった。故に、二人の間に静かな沈黙が訪れる。

 置時計が時を刻む音だけがカチカチと響く部屋の中で、彼らは暫く黙ったまま、ただ互いの顔をじっと見つめていた。
 

 繋いだ手は、そのままに。
「……どう、答えたらいいのか分からん」
「なんでだよ。自分の事だろ?」
「よく、分からない」
「分からないってなんだよ。簡単じゃん。好きか嫌いか聞いてんだけど」
「だから、それが分からないと言っている」
「好きか嫌いか?」
「……ああ」
「……なんだそれ、マジで?」
「オレは嘘は言わない」

 それは数分間にも数時間にも感じた長い長い沈黙の後の事だった。途中幾度か無意識にだろう詰めた息を逃しながら、思い悩むように苦し気に瞬きをしていたが、ついぞ彼の中で明確な答えは出なかったのか、瀬人からゆっくりと吐き出された言葉は、なんとも曖昧で不明瞭なものだった。

 本人もその事に自覚があるのか、少々申し訳なさそうな顔をして心持ち俯いている。その表情をずっと熱を出していた所為で汗でしっとりと重くなった前髪の合間から見てしまった城之内は、今の返答が瀬人の正直な気持ちなのだと言う事を嫌と言うほど知ってしまう。

 本当に、彼は自分に対して何の気持ちも持っていないのだ。好きとか嫌いとか、それすらも分からないほど曖昧な感情を抱く相手。……そんなに瀬人にとって、自分はどうでもいい人間なのだろうか。瞬時にそう思ってしまった城之内はあからさまに肩を落とす。

「……そっかぁ。お前にとってのオレってそんなもんかー。ちょっとは期待したんだけどなぁ」

 絶望ついでにそんな事を口にして、ふうっ、と大きな溜息を吐いた城之内は、脱力してずるずるとベッドに沈んでいく身体はそのままに少しだけ悲しそうな顔を見せた。そして、「もういいや」と小さく言った。そんな彼の様子をこちらもひそかに伺っていたらしい瀬人は、俯けていた顔を少し上げ、ついでに微かに驚いた表情を見せる。城之内が最後に発した言葉が彼にとっては予想外のものだったらしい。

「……期待していた?何を?」
「ん?まぁ、色々と。お前に言っても分かんねぇだろうけど」
「含みのある言い方だな。何か言いたい事があるならはっきり言え」
「はっきり言ったって、お前理解しないじゃん」
「そんなの、聞いてみなければ分からないだろう」
「オレには分かるね。絶対分かんないよ」
「決めつけるな」
「だってそうじゃん」
「何が」
「もういいって」
「良くない。気になるだろうが」
「もーお前しつこい」

 どうせオレが何を言ったって、お前は不思議そうな顔をして首を傾げるだけの癖に。

 そう大半が不貞腐れた気持ちで心の中で吐き出した城之内は、いつの間にかまた上がって来たらしい体温を忌々しく思いながら目を閉じる。身体の調子が悪いからか感情が定まらない。悲しくて、イライラして、呆れて、切なくて。ごちゃごちゃになったその思いを伝えるだけの気力は、たった今瀬人から齎された絶望で、もうなかった。

「城之内」

 段々と重く沈んでいく意識の中で、瀬人の良く通る抑揚のない声が名前を呼ぶ。次いで先ほどまでは確かに温かいと思っていた指先の感触を頬に感じた。城之内の体温が上がった所為か今度は冷たく感じるそれは、熱の具合を確かめる様にゆるりと額に触れ、再び頬を伝って首筋へと降りてくる。それは、まるで猫や犬を宥める時にする仕草のようで、城之内は何故だか分からないがくすりと笑ってしまった。

 やっぱお前、オレの事動物扱いじゃん。オレは捨てられた犬猫じゃなくって人間だっつーの。そんな事されたって、尻尾はふらねーし舐めないし、噛みつく勇気だって無い。精々齎されたその手にすり寄る位だ。

 そんな事を思いながら、未だ離れない指先を段々と心地よく感じ始めたその時だった。

 頭上から、ぽつりと独り言めいた言葉が降ってくる。

「多分、聞いていないだろうが……そうだな、貴様にこの場所を占領されるのには馴れたつもりだ。共に寝てもアレルギーは出なかったしな」

 ……それ、どういう意味?さっきの質問の答えのつもりかよ。そう聞こうとしても、眠りの淵に立つ城之内の口は動かない。それどころか段々と全てが不明瞭になるばかりで……明確に感じていた指先の温度すら今は遠い。その所為で……
 

「良く分からないが、嫌いではない……と思う」
 

 瀬人の肝心な一言を城之内は聞き逃す羽目になってしまった。そして更に不幸な事に、体温を確かめる意外の目的で彼に頬を撫でられた事にも気付かなかった。

 それは確かに、瀬人に取っては特に意味のない行為かもしれない。

 けれどこれがもしモクバの目に触れていたら、彼はきっと大きく目を瞠ってこう文句を言ったに違いないのだ。
 

『そんな事、オレにだってしてくれた事ないのに!』……と。
 翌朝。熱が下がり大分軽くなった身体や頭を感じながら身を起こそうとした城之内は、意外なものを発見して起きぬけで重い瞼を思い切り見開く事になる。

 いつの間にか横になって眠っていた彼の視線の先、一人で寝ても大分余るベッドの空いた空間に静かに収まっている人の姿を発見したからだ。『それ』は見慣れた白いシルクの夜着を身に纏い、少し離れた場所で控えめに寝息を立てていた。

 ……風邪を引いて寝込んでいる人間のすぐ横で。酷く疲れた顔をして。そのすぐ横には握りしめられた跡がある濡れたタオルまで落ちていて。その全てが指し示すものは、ただ一つだ。

 何故なら嫌いな相手にはこんな事はとても出来ない。……と、いう事は。
 

「……そっかぁ」
 

 それを見た城之内は、一瞬頬が落ちるのではないかと思う程のしまりのない笑みを浮かべ、満足気に二、三度首を縦に振った。そうか、そういう事か。これはいい方に解釈していいって事だよな。そう一人でごちながらすっかり温くなったタオルを拾いあげる。そして、それを掴もうとした形のままシーツの上に落ちている指先を殆ど元の温度になった掌でぎゅっと握りしめた。ありがとう、の言葉の代わりに。
 

「オレは、お前が好きだよ。だから、お前がオレをどう思っているのか知りたいんだ。今度ちゃんと聞かせてくれな」
 

 未だぐっすりと眠り続けるその横顔にやや大きな声でそう言うと、城之内は折角起きだしたその身体を再びベッドの中へと押し込んでしまう。そして、ほんの少しだけ身体の位置をずらして、眠る瀬人の方へと近づいて向かい合わせの形で目を閉じた。本当は抱きしめてしまいたかったけれど、自分はまだ一応病人だ。だから、風邪がうつるような真似は極力控えなければならない。……当然の事だけれど。

 不意に、小さな咳が出る。今年の風邪は治りかけに咳が出るとテレビでは言っていた。という事は、既に風邪は治りつつあるのだろう。

 嬉しい事実を突き付けられて、解消されかけた悩みと共に、あっけなく。もう今年は風邪など引かないだろう。引く理由も見当たらないし。……けれど。

 こんな時間が過ごせるのなら、たまには風邪も悪くないと、そう思った。

「海馬が目を覚ましたら、なんて言ってやろうかなー。ありがとうかな?それとも普通におはようって?」

 あ、でも、まだ具合が悪いふりをして、もう少し構って貰うのもいいかもしんない。……一人ぶつぶつとそんな事を呟きながら、幸せ一杯の気持ちで目を閉じた城之内は、優しい微睡みの中でもう一度だけ微笑んだ。

 そして、後でモクバに瀬人が自分をこの家に持ち帰った時の『顔』の事を聞いてやろうと密かに思った。
 

 それが、心配気であればあるほど嬉しいと、勝手な事を思いながら。