Act5 vanilla

 ふわりと、仄かに甘い香りが鼻を掠めた。

 酷く心地良く心なしか空腹を思い出させるその匂いは、よく女子が身に纏っていたり手に持って食べていたモノから漂ってくる筈なのだが、今日はその匂いの出所は意外な場所からだった。

「……あれ、なんか凄く甘い匂いがしない?」
「オレもさっきから気になってた、どっからだ?誰か菓子でも食ってるのか?」
「んーそれがさぁ、女子のとこからじゃないんだよね。この匂い」
「へ?んじゃどこからだよ」
「それが……」
「……まさか」
「うん、そのまさかなんだけど……」

 一番最初にその匂いに気付いて声を上げたのは教室の隅の方でたむろしていた遊戯と本田だった。そのすぐ横の自席で必死に次の授業の宿題をしていた城之内は、鼻を掠めたその香りと、同時に聞こえた二人の会話にふと顔を上げ、彼らがこっそりと視線を送っている『その場所』を眺めた。そして、小さく目を瞠る。

 遊戯が視線で指し示したその場所は、いつもは誰も座る者がなく小綺麗な印象が目立つ瀬人の席で、今日はそこに瀬人が座っていた事も驚いたが、それ以上に本当に彼が座る場所から甘い香りがしているのに余計驚いた。それは、余りにも瀬人という人間から香るには不釣合いな匂いだからだ。

(「まっさか、それはねぇよ。バニラだぜ?アイスクリームとかシュークリームとか!どー考えても海馬じゃありえねぇだろ!」)
(「だって、海馬くんがここに来てからだよ?この甘い匂いがしてきたの」)
(「や、確かにそうだけどよりによって……遊戯お前確かめて来いよ」)
(「えぇ?!なんで僕!?」)

 横で聞こえるこそこそ話と、瀬人を発見してしまった事で早々に集中力が途切れてしまった城之内は、ついに持っていたシャープペンを放り出しガタリと席を立つと、二人に「オレが確かめてきてやるよ」と言い残し、さっさと瀬人の席まで歩いていく。

 確かに近づけば近づく程、鼻腔を擽る香りが強くなるのを感じながら、城之内はいつもの通り、何語で書いてあるかすら分からない表紙の分厚い本を取り出して読んでいたその横顔に、そっと声をかけてみた。

「おはよう、海馬くん」
「なんだ病原菌。風邪は良くなったのか」
「ちょ、いきなり病原菌呼ばわりはねーだろ。そういやあれから始めて会うな。お陰様で完治しました。その説は大変お世話になりました!」
「そうか、良かったな。で、何の用だ。学校で話しかけるな」
「そんな冷たい事言わないで。海馬くん、ちょっとした噂になってるぜ?」
「何の噂だ」
「それが……うん、やっぱり。お前、なんかすげーいい匂いするんだけど、どうかした?」
「匂い?」
「そ。なんつーの?お菓子っぽい甘い感じの。なんか女みてぇ。お前香水付ける趣味あったっけ?」
「………………」

 くんくん、とあからさまに鼻を鳴らしながら顔を近づけてくる城之内のその言葉に漸く本から顔を上げた瀬人は、その仕草にかそれとも紡がれた台詞にか少し迷惑そうな顔をして、僅かに城之内から身を離しつつ、ぶっきらぼうな声でこう答えた。

「香水ではない。菓子だ」
「はい?」
「……そうか。丁度いい、凡骨。今日は時間があるか?」
「へ?あー、うん。今日は夜のバイトはなんも入れてない」
「なら、放課後付き合え。オレも今日は一日ここにいるつもりだ。帰りにそのまま連れて行く」
「どこに?」
「家にだ。貴様に協力して欲しい事があるのでな」
「お前が、オレに頼みごと!?」
「煩い、一々喚くな。本当は貴様ではなく真崎や野坂の方がいいのだが、部活動があると言うのでな」
「え?!ちょ、なんでお前が杏子やミホに声かけるんだよ!」
「オレが知っている女子はそれ位しかいないからだ」
「女子ぃ?……何かイカガワシイ事考えてるんじゃないだろうな」
「?何がどう如何わしいのだ」
「あ、ごめん。お前って天然だったっけ」
「何の話だ」
「んにゃ、こっちの事。じゃ、放課後な。オッケー」
「あぁ、なんなら遊戯や本田を伴っても構わないぞ。その辺は好きにしろ」
「誰が奴等を連れて行くかよ。オレ一人でもいいんだろ」

 お前から誘ってくれてんのにわざわざお邪魔虫を連れて行くなんて事、このオレがするわけねーじゃん。そう心の中で呟いて、わざとらしく「な?」と声をかけると、瀬人はそれ以上黙って首を縦に振った。そしてまた視線を本に戻してしまう。

 その体からは相変わらず甘い匂いが漂っていて、そういえば何が「菓子」だったのかを聞きそびれた事を思い出す。

(菓子ってお前、まさかお前がアイスクリームとかシュークリームバクバク食ってる訳じゃないよな?つか、お前がモノを食ってるとこもあんまし見た事無いのに菓子とか想像の範疇越え過ぎてて不気味だっつーの。一体何事?!)

 本当はそれも直ぐに問い質したかったがくしくもここは学校で、家に勝手に押しかけてベッドを占領する相手とは言え、外部ではこうして会話をする程度しか接触をしていない為、あまりしつこく付き纏う事も出来ない。仕方なく城之内はその傍を離れ、大人しく自席へと帰っていった。

 そんな彼に、最初と同じ場所から動かずに待っていた本田と遊戯が興味深々な面持ちで話しかけてくる。

「ね、城之内くん、どうだった真相。やっぱり、海馬くんだった?」
「まっさか違うよなー想像できねぇもんな。別の奴だったろ?」

 ずいっと身まで乗り出してそう口々に言う彼等の顔を何とはなしに見返して、城之内は事も無げにこう口にした。

「あ、うん。海馬だった。でも別にそんなに気にしなくていいんじゃね?」
「気になるよー。だって凄いよ?」
「海馬はなんて言ってたんだよ」
「なんも言ってなかったから分かんねぇ。原因不明」
「何しに行ったんだよ。ていうかお前、いつからあんな風に平気で海馬に近づけるようになったんだよ。何かあったのか?」
「別に。何も無いけど」
「あやしーなー」
「とにかくオレ、これやんないと不味いから。お前等邪魔だから席に帰れ」
「今からやっても無駄だっつーの」
「でもそろそろ授業も始まるし……席に帰ろうよ、本田くん」
「ま、頑張れよ。今井の奴おっかねーからな」
「うるせぇ」

 パタパタと遠ざかっていく内履きの音を聞きながら、城之内は一度放り出し机の隅に転がっていたペンを取ると、未だ半分も埋まっていないプリントを凝視してうーんと唸る。けれど、その頭の中は目の前の問題よりも今日の放課後の事で一杯で、結局授業開始までに間に合わず、追加の課題を出される事になった。

 それでも城之内は全く凹みもせず、突き出された追加プリントを半笑いのまま受け取って、周囲に不審な目でみられたのだった。
「貴様、何をやっている!」
「だ、だってしょーがないじゃん!終わんなかったんだからよ!」
「……置いていく」
「うそっ!ちょ、ちょっと待っててすぐだから!つか、お前暇ならオレに教えろよ!」
「断る」
「そんな事言わないでさぁ!お願い!お前だってオレに頼みごとしてんだろうが!」
「貴様以外と抜け目がないな」
「オレが必要なんだろ?だったら手伝って、早く終わらせて帰った方がいいじゃん」
「………………」
「はい、ここに座って!そうそう。で、問題はこれ。あ、シャープペンいる?」
「まず自分で考えてみろ」
「もう十分考えたけど一向に分かりません」
「ほんっとうに馬鹿だな」
「言われなくても分かってるっつーの。もう何でもいいから早くこれに書け」
「最後は命令か貴様!」
「怒らない怒らない。今日も一緒に寝てあげるから」
「誰が貴様を泊めると言った!」
「ん?お前の許可なんて求めてないもん。勝手に寝るし」

 放課後。HRも終り生徒も皆部活動や家路についてしまいすっかり静かになった教室で、城之内は早く帰るぞ、と急かす瀬人に向かって未だ自席についたまま、殆ど涙まじりの声を張り上げた。

 その目の前には今朝必死にこなそうとして終わらなかった課題の他に、ペナルティとしてのプリントが数枚加算されていて、そのどれもが見事なまでに空白だった。最初は放課後までに内職すりゃいいや、と気軽に思っていたのだが、残念な事に今日は殆どが体育と教養科目だった上に、問題の内容からして自力でなんとかなるものではなかったのだ。

 結局、それは放課後である今まで持ち越される事となり、現在に至るのである。

 そんな城之内を心底呆れ果てた目で眺めながら、海馬は強引に座らされた椅子の座り心地を調整すると、いかにも仕方なくと言った表情で投げ捨てられた100円のシャープペンを拾い上げ、城之内から差し出された何かのプリントの裏にすらすらと流麗な字で書き綴っていく。城之内が頼み込んだ課題のプリントは英語だった為、恐らくそのヒントか何かなのだろう。

 それにしても英語も日本語も恐ろしく綺麗だよなこいつ、機械か何かなのか?

 そう素で思えてしまうほど、本当にその文字は綺麗なのだ。一度彼の答案用紙を見た事があるのだが、字の大きさを度外視したらどちらが質問文でどちらが答えなのか分からない程その文字は機械的で。しかし、だからと言って全く人間味が感じられないかというと、そうでもない。

 そういやこいつ、一年の時に書道か何かのコンクールで賞取ったとか言ってたっけ。何から何まで出来すぎてて厭味な奴。

 さらさらとペンを動かすその音すらリズミカルで、城之内はそれが書き出す内容よりも文字そのものに意識が行ってしまう。顔も頭も良くて、何でも出来て、金持ちで地位もあって、ステータス的には最強なのに……どうして肝心なモノが大いに抜けてしまっているのだろう。

 こんな時にまたここ最近の彼とのやりとりと思いだして、心なしか切なくなった城之内は、はぁ、と無意識に溜息を吐いて、頬杖をついてしまう。そんな彼の態度をやる気がないと見て取ったらしい海馬は、すぐにぱっと顔を上げ、じろりと眼前の城之内を睨み上げた。そして、低い声で口を開く。

「貴様、なんだその態度は。真面目にやれ。ここに和訳だけ書いてやった。後は自分で出来るだろう」
「えー。ここの英作文は?」
「こんなもの阿呆でも出来るわ。きちんと問題が読めればな」
「無理。こっちにもヒント頂戴」
「とりあえずその上の空白を埋めてからだ」
「うー」
「出来るだけ早くしろ。時間が勿体ない」
「うっさいなー急かすなよ。急かしたって出来ねぇもんは出来ねぇっての」

 ばっ、と眼前の白い手からシャープペンを奪い取ると、指し示された場所へ視線を向けて力任せにガリガリと答えを書いてやる。それをじっと監視するように上から見つめてくる目線に、城之内はどこか落ち着かない気分でほんの僅かに顔を上げた。すると、今まですっかり忘れていたあの甘い香りがまたふわりと漂ってくる。

 あーやっぱりいい匂い。なーんか腹減ったなーそういやもう5時だもんな。

 そう思った瞬間、城之内の頭の中は目の前の英文から、ありとあらゆる菓子へとシフトしてしまい、じっと見つめてる筈のプリントに重なる様に最近全く口にしていないケーキやパフェがちらついてくる。くそ、集中出来ない。だからお前なんだよその匂い。そう内心で思うだけに留まらず、ふと問う様に未だこちらを凝視しているその顔を気付かれないようにちらりと見あげると、そこには菓子よりも魅力的なモノが存在していた。

 なんの事はない。それは、珍しく第一ボタンが外された学ランの襟から少しだけ覗いていた、海馬の白い喉元だった。

「……ちょっ」
「なんだ」
「や、なんでもないです。……つか、お前でも学ランのボタン外す事あるんだな」
「数時間ならまだしも一日きちっと着ていられるか。貴様など嵌めた事すらない癖に」
「……ご尤もです」
「下らん所に気を散らしていないで早くしろ。本気で置いて行くぞ」
「やだ。それは勘弁!」
「なら早く手を動かせ」

 くっそお前がそんな匂いを振りまいて、どう考えても目の毒になるようなもんチラつかせっから集中出来ねぇんだろうが!

 フン、と軽く毒づいた相手に内心でそう大きく反論して、城之内はなるべく目の前の光景を視界に入れないように注意しながら、必死に考えれば考えるほど分からなくなってくる問題に取り組んだ。しかし、やっぱり集中など出来る筈がない。

(なんつーか、かぷっと噛みついたらマジ甘そうだよなー)

 結局、勝手に上がってしまう視界の中央に映り込む城之内にとっては菓子よりも甘そうなその喉元を眺めながら、城之内は自然と緩む口元を引き締める事に必死になった。

 そして数秒後、「何をしているっ!」との怒鳴り声と共に、手痛い一撃を食らってしまうのだ。

 

2


 
「うわっ、甘ッ!なんだこの家っ!」

 漸く課題も終わり海馬と共に彼の自宅へと直行した城之内は、何時見ても威圧感漂う玄関扉を開けた瞬間、思わずそんな声を上げてしまった。何故なら彼が一歩足を踏み入れた途端、邸内から一気に甘ったるい香気が押し寄せ、それはまるでその場所そのものが菓子で出来ているような錯覚すらしてしまう程の強烈な匂いだったからだ。

 あーお菓子の家ってきっとこんな感じなんだろうな、とその匂いの発生源を探してきょろきょろと視線をさ迷わせたが、視界に入るのは常と同じ、一つ何千万もするだろうと見た目ですぐ分かる超がつくほど高級な物品ばかりで、お菓子のおの字も見つける事は出来なかった。それもその筈、その様を横目で見ていたらしい瀬人が一言「この匂いは厨房からだ」と素っ気無く口を開いたからだ。

「お前の匂いの発生源ってここかぁ。すげーなマジで」
「オレだけではない。この家にいる人間全てに染みついてしまっている。一週間程前からずっとこんな調子だからな」
「ふーん。で、なんで家中こんな匂いになってるわけ?」
「すぐに分かる。居間へ行っていろ。モクバがいる」
「あれ?お前は?」
「すぐに行く」

 そう言うと瀬人はすぐに近間にいたメイドに鞄を預け、城之内を居間へと案内するように言い置くと、自分は一人さっさと反対方向へ歩いて行ってしまう。その後姿を何とはなしに眺めていると、背後から既に城之内と懇意になっている若いメイドがにこりといつもの笑みを見せ、こちらです、と城之内を誘った。その笑顔が……否、笑顔というよりも顔自体が何となく最後に会った時とは違って見えて、城之内は一人こっそり首を傾げる。

「?……どうかなさいましたか?」
「いや、えっと、なんていうか……こんな事言ったら失礼かもしんないけど……なんか、顔、変わってね?」
「えっ?!」
「あ、ごめん!女の人に失礼だよな!今のは聞かなかった事に……!」
「やっぱり、分かります?!」
「はい?」
「城之内さまにも分かってしまうなんて!やっぱり、太ったんだわ!!」
「……や、あの……えぇ?」
「ああもう!今日からダイエットしなきゃ!!失礼しますっ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!オレ、居間とか何処だかわかんないだけどっ!なぁ!」

 そう城之内が声を上げても後の祭り。彼女は瀬人の鞄を抱えたまま、長い廊下の奥へと走り去ってしまった。何がなんだか分からず、呆然とその場に立ち尽くす城之内の耳に、遠くから『落ち着きなさい!』なんてこれまた切羽っ詰まった声が聞こえてくる。

 ……一体なんなんだよもう、何かあったのか?

 今だ強く鼻を刺激する甘すぎるバニラ臭にクラクラしながら、城之内がそう呟いて途方に暮れかけたその時だった。先程のメイドが駆けて行った廊下の奥から、やけに聞き慣れた軽い足音が聞こえて来る。モクバだ、そう城之内が思う前に、その足音はスピードを上げてこちらへと向かってくる。やがて、遠くからでももはっきりと見えてきたその姿を目にした瞬間、城之内はまた首を傾げる。

 何故ならこのモクバまでもがあのメイドと同様、なんだか顔が違って見えたからだ。

「よ、城之内。いらっしゃい!お前、こんなところに突っ立って何やってんの?兄サマは?」
「海馬はすぐ行くとかなんとか言って、オレを置いてどっかに行っちまったぜ。つか、お前……や、お前だけじゃなくてさっきのメイドさんもだったけど……顔、丸くなったな」
「あ、分かる?皆で毎日毎日すっごい量のお菓子食べてたからさぁ。ちょっと太ったかもしんない」
「は?お菓子?」
「あれ、兄サマから聞いてなかった?今日お前がここに呼ばれたのも、お菓子を食べさせる為なんだぜぃ」
「あ、そうなの?つか、お菓子って何だよ。この甘ったるい匂いと関係あんのか?」
「うん。ま、とにかくこっちに来いよ。居間に来いって言われなかった?」
「言われたけど……メイドさんに置いて行かれたんだ、オレ。やっぱ顔の事言ったら不味かったかなぁ」
「え。『太ったね』とか言っちゃったんだ?お前」
「いや!そんなに露骨な言い方はしてねぇけどよ」
「皆気にしてんだからつっこんでやるなよー。この一週間で、ぜーんぜん変わんなかったの、兄サマだけだぜぃ」
「ちょ、どういう事だよ、それ!」
「今度海馬ランドに新しいスウィーツのショップが出来るんだけどさ、そのメニューを考えてて、試作品を作っては皆で試食してたってわけ。KCにはパフェとかケーキとか凄い似合わない奴らしかいないじゃん?だから、メイドとかが一杯いる家でやってるんだ。お陰で家中甘い匂いだらけ。メイド達は試食しすぎて太ったって大騒ぎするし、結構大変なんだぜぃ」

 そう言って元気よく城之内の手を引くモクバの掌も心なしかぷくぷくとしていて、少し丸くなった輪郭もあわせると大層可愛らしい様相だった。元々が痩せ過ぎていた感があるだけに「丁度いいんじゃねぇの?」と言ってやると、「でもやっぱり体が重いよ。ダイエットしなきゃ」と返って来た。

「スウィーツねぇ。だから海馬からあまーい匂いがしてたのか」
「兄サマも試作に参加してたから余計かもね」
「はい?試作に参加?……つー事はあいつケーキとかパフェとか作ったのかよ?」
「兄サマは何でも出来るんだぜ。手先、凄い器用だから。それに、兄サマが作った!とか宣伝したら売れるじゃん」
「確かに。しっかし海馬の手作りスウィーツとか。スゲェなおい……」
「シュークリームロイヤルスワンの代わりにブルーアイズシューとかさ。ディテールに凝ってるんだよ」
「無理だろそれ」
「それが兄サマは作っちゃってさ。料理長、猛特訓してるよ」
「……気の毒になぁ。つか、いいのかよブルーアイズ食べちゃって」
「あんまり気にして無いみたい」
「あいつの拘りどころがわからん」
「でも、すっごく美味しいんだぜぃ」
「へーそりゃ楽しみだ」

 じゃーさっき一人でさっさと消えちまったのは、オレに食べさせる分を作りに行ったとでも言うのか?一体どんな顔をして、ケーキやらシュークリームやらを作ってるんだか。

 未だ絶える事無く漂ってくる既に慣れ始めたバニラの匂いを嗅ぎながら、城之内はぼんやりとその様を想像し、頭の中に浮かんだ映像に一人小さく噴き出した。お前、びっくりする程似合わないんですけど。そうポツリと呟いた言葉は、隣のモクバには届かない。

「家の人間以外でそれを食べられるの、お前だけだぞ。よーく味わって食べろよ。あ、ちゃんと評価はして欲しいけど」
「オレ、海馬の作ったスウィーツも捨てがたいけど、海馬本人も味見してみたいなぁ」
「……うわ、何言ってんの」
「正直な気持ちです」
「それはお前の努力次第だろ。兄サマ、未だにぜーんぜん分かってないじゃん。何やってんの」
「ホントにさぁ、あいつの鈍さったら絶望的。涙出てくる」
「ま、嫌われて無いだけいいじゃん。頑張れよ」
「おう。頑張る」
「あ、居間はここだぜぃ。オレもちょっと兄サマのとこ行ってくるから、お前大人しくここで待ってろよ」
「はーい」

 そんな会話を交わした後、直ぐ様外へ出て行ってしまったモクバの足音を聞きながら、城之内は通されたその部屋にある大きなソファーへと勢いよく腰を下ろし、貴重なスウィーツが出てくるのを待っていた。

 一番は、そのスウィーツを作った本人を、だったのだが。
「おまたせー!お前、一杯食べるだろうから奮発したぜぃ!」
「うっわー!なんだこれ?!すっげー!!」

 城之内が居間で待つ様に言われてから数十分後、再び開いた部屋入り口の扉から現われたモクバが押してきたワゴンには、見た目も量も一言で「凄い!」としか言い様のない、色取り取りのスウィーツが所狭しと並べられていた。

 その殆どがモクバの言う通り普通の店で出るオーソドックスなタイプのものではなく、M&Wをしているものなら一発で分かるモンスターにちなんだもので、しかもなんだか可愛らしい。「これ、マジで海馬が作ったのかよ」と城之内が思わず声に出して呟くと、モクバはさも得意げに「そうだよ」と胸を張った。

「だから言ったじゃん。兄サマは器用なんだってば」
「いや、器用とか言うレベル超えてるだろこれ。特に何このホールケーキ。真ん中にいるレッドアイズ、何で作ったんだよ」
「え?見て分かるだろ。飴だよ。そのまま食べられるんだぜぃ」
「飴ぇ?!」
「よくパティシエが作るだろ。あ、お前知らないか」
「そんな高級なもん食った事ねぇし。……つかアイツトゥーン嫌いな癖にこういう可愛いことすんだ。訳分かんねぇ。あ、でもこのカプチーノクリボーはあいつじゃねぇだろ」
「それはオレ。絵は得意なんだー」
「お前かよ!芸が細けぇよ!」
「ま、とにかく食べてみてくれよ。見た目はいいんだけど、味的にどうかなって皆で研究してるんだ」
「え。もしやあいつ味音痴とか?」
「そういうんじゃなくって、糖度の問題。もっと甘い方がいいとか、このモンスターはもう少しビターにとかあるじゃん?」
「あ、なーる」
「だから、女の人だけじゃなくって、お前でもいいって思ったんじゃないの?」

 そういう事ね。だから遊戯と本田も連れてきていいとか、そういう事言った訳。そんな事をぶつぶつ口にしながら、城之内はまず手始めに、一番最初に目についたレッドアイズ付きのホールケーキを引き寄せた。

 全体的にチョコレートベースで、きっちりと塗り固められた表面はつやつやといかにも美味しそうで、切り分けるのも勿体ないと直接フォークで切り取った場所から見える中身は見事なチョコとクリームの三重層。表面の堅さからは想像出来ない柔らなスポンジを遠慮なく真上から突き刺して、城之内は人の三倍はあるだろう大口を開けて、パクリと一気に食べてしまう。

「あ、中ココアじゃん。凄く美味い!」
「……お前さー普通ワンピース分一気に食べる?あーあ、口の周りチョコだらけにしてみっともないぜぃ」
「食べ方が汚くて悪ぅござんしたね。な、これいいじゃん、最高!」
「甘さは?」
「丁度いいんじゃねぇ?オレはこんなもんだと思うけど。よーし次はブルーアイズシュー行ってみよう!」
「お前、まさかそれも一口で……ってあー!!ほんとに一口で食べたっ!」
「んー……これあんまり甘くねぇな。オレ的には中身はカスタードよりも生クリームがいい。『ホワイトドラゴン』だし」
「一応真面目に評価するんだね」
「その為に食べさせてんだろうが」
「そうだけど」

 そんな会話を交わしつつも手を止める事無く次々と眼前のスウィーツを平らげていく城之内に、モクバは半ば呆れてその様を見守りながら、合間に呟かれるただの感想なのか評価なのか分からないコメントをメモしていた。悪食と思われていた城之内だったが、以外にも食の拘りは強く、思った以上にまともな評価を得られた事に、モクバは密かに満足する。

「あー食った食った。次は?」
「次って。これで全部だぜぃ」
「えーそうなんだ。残念。でも全部美味かったぜ。このまんま出しても問題はないんじゃねぇの」
「兄サマの拘りって半端ないからなぁ。お前の意見を取り入れて、また色々と考えるんじゃないの」
「あいつって何でも出来るよな。こんだけのもん作れるならむしろケーキ職人にでもなったらいいんじゃね?」
「誰がケーキ職人に向いてると?」
「あ、兄サマ!お疲れ様〜!」

 最後にフルーツの乗せ方と目に鮮やかなピンクのソースが特徴的な、『ブラックマジシャンガールパフェ』(とは言ってないが、多分そうだと城之内は推察した)に刺さっていたスティックを模したクッキーを口に放り込んで、城之内がフォークを手放さないままそんな声を上げたその時だった。

 突然頭上から、つい今し方まで影も形もなかった瀬人の声が降って来る。彼は銀盆に仄かな湯気が立つカップを三つ乗せていつもの無表情な顔で立っている。その身体からはやっぱりバニラの甘い香りがした。

「どうだった、モクバ?」
「うん、なかなかいい意見が貰えたよ。これどうしよう?」
「そのデスクの上にでも置いておけ。後で見る」
「うん!あ、そのお茶オレの分?貰ってってもいい?」
「別に構わないがここで飲んでいけばいいだろうが」
「今からやる事があるからさ、持って行って自分の部屋で飲むよ。じゃ、ごゆっくりー。あ、協力ありがとうな、城之内!」
「おう」

 そう言いながらモクバは瀬人からカップを一つ貰い受けると、彼には分からない様に城之内に向けて小さなウインクを一つして、直ぐにくるりと踵を返すとそのまま足早に部屋を出て行く。勿論それはモクバの城之内に対する小さな気遣いで、その事を直ぐに分かった城之内は心の中で感謝する。

 でも、二人きりになったところでいいムードになんかなるわけないんだけどね。

 小さな溜息と共に心の中でそうごちると、城之内はいつの間にか隣に座り、相変わらず淡々とした仕草でカップを置いている瀬人の事を見ていた。こいつがどんな風にあの数々の菓子を作ったんだろう。デュエルの時と同じように、真剣で気難しい顔をして泡だて器でクリームを作ったりしたんだろうか。あーやっぱり大人しく待ってなんかいないで覗きに行けば良かった。

 そんな事を思いながら城之内が差し出されたカップを手に取った、その時だった。

「それにしても、貴様本当に食べ方が汚いな。なんだこれは」

 呆れた声と共に瀬人から香るバニラの匂いをより強く感じたと思った瞬間、唇を起点とした口元に冷たい何かが触れた。ぐい、と力を込めて横にスライドしていったその感覚は、すぐに驚愕に取って替わる。

 何故なら唇に感じた冷たい『それ』は瀬人の指先で。

 彼は自分の指で城之内の口元に触れ、そこについていたチョコレートやクリームの残骸を綺麗に拭って、あまつさえその指先を自分の口へと運んでぺろりと舐めたのだ。

 妙に手慣れたその一連の動作に、最初は何が起こったか分からなかった城之内だったが、目の前にちらりと見えた瀬人の赤い舌先に即座に事態を理解し、そして思わず悲鳴を上げてしまった。

「ちょ……っ!海馬っ!お前っ、何やってんだ?!」
「?……どうかしたか?」
「どうかしたじゃねぇ!オレの、顔っ、ええ?!」
「は?……ああ、すまん。何時もモクバにやってるからな。つい。……だが別に顔を舐めた訳ではないのだからそんなに大騒ぎする事もないだろうが。嫌だったのか?」
「いやいやいやいや!そーじゃなくって!そうじゃないけどっ!!」
「なら気にするな。悪かった」

 余りに余りな事態に心拍数血圧共に史上最大値を叩きだしただろう城之内は、慌てて必死に何故自分が今こんな状態になっているのかを説明しようと試みたが、相手の動向に余り関心のない瀬人相手では全くの無駄としか言い様がなかった。

 その証拠に瀬人は何事もなかったように涼しい顔で自らのカップを軽く煽り、「で、全体的な感想は?」とやけに事務的な口調で訪ねてくる。

 その様子からみて、やはり今の行動は瀬人に取っては特別な事でも何でもなく、目の前にいる自分も気をきかせてこの部屋を去って行ったモクバと全く同じ扱いなのだ。城之内は今の彼の動作……間接キスにも等しい仕草に例えようもない程の色気を感じたのだが、本人にはその自覚は皆無だった。

 この調子ではいつか顔も普通に舐められてしまうのかもしれない。

 それこそ、出来上がったスウィーツの味見をするが如く、何の他意もない舌先で。

「……お前さぁ……」
「何だ?」
「なんていうか……ああもういいっ!なんでもないっ!」
「?」
「で、お菓子の感想だけど、大体の事はモクバにもう言っちまったからいいとして、細かい事は……」

 これまた無意識にだろう目の前にぐっと迫ってくる余りにも端正で魅力的な顔を見ながら、城之内は瀬人の望む通り至って真面目に、彼が作ったスウィーツの批評をしてやった。城之内の言葉にいちいち頷き、モクバ同様たまにメモを取ったりするその身体からは、やっぱり甘いバニラの香りがしてたまらなかった。
 

『お前の作った菓子もすんごく美味しかったけど、オレ、一番食べてみたいのは、お前なんだよな』
 

 先程モクバ相手につい口にしてしまい、頑張れ、と激励を貰ったその台詞が胸に過る。

 唇に残った、冷たい指先の感触。

 瀬人の身体なんて寝ている時に存分に触りまくり、この間一緒にお風呂にまで入ったと言うのに。たったそれだけの些細な感覚が妙に頭に残ってしまい、どうしようもなく切なくなる。

(切ないなー)

 そう小さく呟いたその言葉は、勿論瀬人に届くはずもなく、城之内は矢継ぎ早に投げかけられる菓子についての質問に出来うる限りしっかりと答えながら、こっそりと溜息を一つ、洩らすのだった。
 それから暫くして、海馬ランドに新設されたスウィーツ専門店は瀬人自らが考案したメニューが大いウケて、かなりの人気を博したという。

 後日、微力ながらもその企画に参加したという事で、城之内の元には結構な量の菓子群が届けられた。なかなかセンスの外箱を開封し、中に入っていた可愛らしい菓子箱を開けた瞬間漂ったのは、既に慣れ親しんでしまったバニラの香り。

 空腹を呼ぶ甘く幸せなその香りを感じながら、城之内は思わず無意識に指で自らの唇をなぞり上げ、その行為の虚しさに「あーあ」と小さな声を上げた。そして、緩慢な動作で現れたブルーアイズ型のシュークリームを手に取って、一気に口の中に押し込んで食べてしまった。

 今はもう、瀬人の近くに寄ってもバニラの匂いは感じない。

 けれど城之内はそれから暫く、その幸せな香りを忘れる事は出来なかった。
 

 甘く切ない……けれど酷く幸せなこの気持ちと共に。