カリスマ Act3

「はい、さらっさらになりました。我ながら最高の出来だね」
「疲れた」
「お前何もしてねーじゃん。そう言えば後頭部のとこ、小範囲だけど炎症出来てたぞ。髪乾かさないで寝てただろ。髪にも悪いし頭皮にも悪いんだぜ。痒くなったりしねぇの?」
「気にした事がない」
「そればっかりか。気にしろよ」
「面倒だ」
「お前って全体的に神経質な割に、ほんっとそういう所ズボラだから心配なんだよな。だからもうちょっと頻繁に日本に帰って来てくれると嬉しいんだけど」
「貴様がアメリカに来ればいいだろうが。ヘアメイクのいい勉強にもなるぞ」
「ちょ、無理言うなよ。オレガイジン嫌いなんだ」
「外人が、ではなく外国語が、だろう?日本語すらまともに喋れんからな貴様は」
「分かってるなら言うな。でもアレだぜ、不思議と専門用語は横文字でも覚えられるのな。これってどういう事なんだろうなー?」
「M&Wと同じようなものだろう。興味がある事にはその役立たずの脳も少しは働く気なる、それだけだ」
「言い方がキツ過ぎる」
「優しく言い換えても同じ事だ」
「はいはい。じゃ、後は家でも出来るから帰りましょうかね。ちょっと待っとけ、片付けするから。その辺で雑誌でも読んでろ」

 ばさりと海馬にかけていたケープをはぎ取り、1時間前までは見るからに可哀想だったオレの宝物は、今やモデルも真っ青のつやつやサラサラな状態に戻っていた。つい最近うちの店でも取り入れた、結構なお値段の特殊なトリートメントパックを試して(試させて)貰ったんだけど、効果は抜群だ。後で店長に報告しておこう。

 ……でもアレだなぁ、サラサラ過ぎて逆に気の毒だったかもしれない。物凄く邪魔そうだ。

 オレに言われた通り、片付けが終わるまで待機客用のソファーに腰かけるその姿を観察するように眺めていると、海馬は鬱陶しげに髪をかきあげながら「早くしろ」と言ってくる。うあ、その仕草ちょっとヤバい。腰に来る。

 慌てて目線を反らしてほうきを握り締めると、床に散らばった髪の毛を丁寧に掃いて、勿体ないと思いつつもダストボックスに入れてしまう。その間中ずっと背中に視線を感じていたけれど、敢えて黙々と作業を続けた。

 はいはい、早くしますよ。そんなにオレを見つめちゃって寂しいんですか?……って言ってみたいけれど、残念ながら奴がこっちを見ているのは単に暇だからと、オレの仕事に興味があるから。

 基本的に好奇心旺盛な海馬くんは、昔からどんなに下らない事でも自分の知らない事に関してはこっちが驚くほど熱心に聞いてきたり、観察していたりする。そういう所からアイデアなんかは生まれるんだろうけど、それがそういう意味だと気付きにくいから困った事も多々あった。

 だってそうだろ。興味深そうに熱い視線で見つめられたら勘違いしちゃうじゃんか。それがオレだけにならいいんだけど、残念ながらこいつは誰に対しても何に対してもそんな感じで。だからこそオレはしばしば心配になっちまうし、それが海馬と余り離れたくない理由の一つになってるんだ。

 現に今までもそうやって勘違いさせた相手に追っかけまわされたり、ハメられそうになったりしてたし、それが取引先とかちょっと権力持ってる奴だったりした時は結構な大事になったりもしたみたいだ。ちなみに男女はこの際関係無い。海馬くんフェロモンは強烈過ぎるって事ですね。うん、良く分かる。

 若い時からそうだったけど、成長すればするほど今度は別の色気も出て来たから大変だ。なんていうか範囲が広がったって感じ?最悪なんだけど。……そういう事もあるから海馬が変化を嫌がって頑なに髪をあげる事を拒む、というのも分かる。

 分かるけど、どっちかっていうと額を出すよりもさっきの仕草の方がよほど問題だという事をオレは言いたい。前髪を下ろそうが上げようが、顔が良く見えようが見え無かろうが、アナタが人に注目される要因はそこじゃないんだけどね。多分わかっちゃくれないだろうけど。

「……あのさぁ」
「なんだ。貴様手が遅いぞ」
「そうやってじーっと見られてると気になるんだけど。あんま人をじろじろ見るなってオレもモクバも言っただろ?勘違いするんだってば」
「別に貴様の顔を注視しているわけではないのだからいいだろうが。オレは見られても気にならないしな。それに……勘違い?何が勘違いなのだ」
「海馬さん、あんなに熱心にあたしの事を見つめてもしかしたら好きなのかしら……ってさ!なるだろ?この間なっただろ?しかもオッサンと!!顔に黒い線引かれて週刊誌に載ってた癖に!モロバレだったけど!」
「古い話だな」
「一週間前の事なんですけど。あのオッサンどーしたよ?」
「どうもこうもあの後熱烈なキスをしてやったぞ。右手の甲でな。結構いい音がした」
「誇らしげに語るな。だからさ、そうなるから熱心さもほどほどにしとけって言ってんだよ。こっちじゃお前は結構デッカイ方だけど、あっちじゃどーみても子猫ちゃんじゃん。ヤバいって」
「ふん。そう簡単にやられてたまるか」
「いやだから原因を作るなよ!……あーもう、他の言う事はあんまり聞かなくてもいいからこれだけは聞け。な?」
「要は対処を確実なものすればいいのだろう?」
「ちげーよ!そこじゃねぇの!!とにかく人様を凝視すんな!」
「煩いな。分かった、善処する」
「分かってねぇじゃん。じっとこっち見んな」
「貴様は例外だろうが。特に困らないだろう?」
「……うっ。そ、そういう事言うか」
「四の五の言ってないで早くしろ、オレは疲れている。急がないと寝るぞ」
「ちょ、ふざけんなよ。まてまて、後5分!」

 その言葉通り口に手を添えてやけに上品な欠伸を一つした海馬は、ふうっと小さく息を吐き、ソファーに背を預けて本当に目を閉じてしまう。ったく分かってんだか分かってないんだか。自分の事に興味ないのは結構だけど、少しは周囲の目も気にしろってのよ。煽られる方が迷惑なんだぞこの場合。

 あの週刊誌に出ちゃったオッサンだって海馬くん必殺の裏拳食らって可哀想に。めちゃくちゃいてーんだぜアレ。何回も体験したから分かるんだけどさ。しっかしあの件は……つーか他の事もひっくるめてだけど、スケベ心出しちゃった相手の方が悪いのは勿論当然だと思うけど、なんか同情しちまうね。だってきっとそういう気にさせたのは海馬の方だし。

 ……そりゃ『オレ』は他の奴等と違ってお前に見られるのは嬉しいばっかりで困る事はねぇけどさ。ホイホイ誘われて手を出したって当然の権利だから誰も文句言わねーし。でも、時と場所ってもんがあるじゃんか。こんなカメラがばっちりあるような仕事場で挑発されて盛っちゃいました、なんて事は出来ませんって。そういう肝心なとこ分かってないから時々ほんとに疲れてしまう。

 でもそれすらも憂いにはならないんだから、これはもう駄目だと思ったね。なんか色々とおしまいだ。随分と幸せな『おしまい』だけど。

 それから手早く使った器材を洗浄して片付けて最後にさっと床を拭きあげると、オレは急いで着替えて大して物の入ってない鞄をひっつかんで戻ってくる。すると、本当に眠かったのかソファーの上で微動だにしないですぅすぅ眠りこけている。

 マジで寝てるよこいつ。どうしようもねぇな……。

 オレはそんな海馬を見て脱力し、力の抜けた足取りで奴が居座るソファーに近づくと、大きな大きな溜息を一つ吐いて呼吸に合わせてサラサラと零れ落ちる髪を優しく掬いあげると、現れた耳元にそれよりももっと優しい声で起きろよ、と囁いた。
 

 爆睡していたみたいで、なかなか目は覚まさなかったけれど。根気強く、何度も。
「はい、着きましたよー。って本当に眠いんだな。つーかメシとか食ったのかよ?」
「一応」
「……食ってないのね。はいはい。じゃーとりあえず風呂入って目ぇ覚ませ。お前明日は仕事?」
「そうしたいのだが、モクバに来るなと言われた」
「あはは。拒否られてやんの。オレも明日は第三で店休みだからゆっくりしよーぜ。な?」
「貴様といるとゆっくり出来ないから嫌だ。余計に疲れる」
「あら、そういう事言う?自主的に来た癖に。ま、とにかく降りろよ」

 な?と相変わらず半分眠ったような顔でシートに身を沈めている海馬の顔を覗き込むとついでとばかりに唇にキスをして、シートベルトを外してやる。それにだるそうに身を起こすと海馬はゆっくりとした動作でドアを開け、次いでオレも鍵を抜いて外に出る。その途端こんな時刻になっても一向に冷める気配の無い夜の熱気が冷えた身体にねっとりと纏わりついて気持ち悪い。

「うわ、あっちー。コレ殆ど室外機の熱だろ。クーラー無い家は地獄だな」
「良かったな、最低限の空調設備がある所に住めて」
「お陰さまで。でもこの車もなーそろそろ新車買いたいんだけど。7年物の中古を更に3年だぜ。この間車検に出したらブレーキ擦り減り過ぎてて危うくきかなくなりそうだったんだ」
「買えばいいだろうが」
「簡単に言うな」
「それとも、オレの車をくれてやろうか?滅多に乗らないしな」
「あんなデッカイ外車どこに置いておくんだよ。いらねぇし。大体な、リミッター弄ってる奴の車なんか乗りたくねぇ」
「たかだか350キロだろう?」
「日本の道路はF1のコースじゃないんです。お前その内人殺すぞ」

 まぁ、基本50キロ制限の国道なんて乗らないけどね、このおぼっちゃまは。そんな事をやや呆れつつ思いながら、オレは既に額に滲み出した汗を手の甲で拭うと、なんだかんだいいつつ物珍しげにボロ車を観察している海馬を促して駐車場奥のエレベーターに向かう。

 今の店に就職してすぐオレは漸く溜まった金で独立し、元いた団地からさほど遠くないこのマンションで一人暮らしをするようになった。別にオヤジに嫌気がさしたからとかそういう訳じゃなくって、元々高校を卒業したら独り立ちする予定だったからごく自然にそうしたんだ。

 街中から遠く離れた独身者用のワンルームだから交通は不便だけど家賃はそう高くないし、殆ど新築みてぇなもんだったから中はめちゃくちゃ綺麗だ。後、オレにはあんまり関係ないけどセキュリティもしっかりしてるし、これならばっていうんで速攻決めたんだ。……一緒について来た海馬が。

 つーかなんでお前がオレの部屋決めるんだよ訳分かんねぇ。そう文句を言ってやったらこいつ「何を言う。オレが快適に過ごせるかどうかの方が重要だろう」って言ってふんぞり返りやがった。その顔を見てオレはなんだか可笑しくなって、あーそうですね。重要ですねって笑いながら判を押した。居座る気満々なのが物凄く可愛い。実際暇さえあれば泊まりに来てるわけだけど。

 そんな訳で、海馬がセレクトしたオレの部屋はこいつのお気に入りの別宅になっている。独身者用なんだからそれはまずいだろ、なんて思われるかもしれないけどそれは心配ない。だって海馬が日本に来るのは精々1,2ヶ月に一回で、長くても3〜4日で帰っちまうからだ。

 いつか海馬が仕事の拠点を元通り日本に移して毎日顔を合わせる事が出来る様になったら、今度は二人で暮らせる部屋に引っ越せばいい。ゆくゆくはオレも自分の店が持てたらいいなぁなんて夢を持っているから、その辺も考えにいれておいて……って。まぁ、オレが幾ら考えたって結局最後は海馬が全部決めるんだろうけどねー。その様子がすぐに想像出来ちゃうオレってなんか可哀想。でもやっぱり幸せだ。

「そういやさ、この間お隣に超美人なおねーさんが引っ越して来たんだぜ。多分オレより年上でお水系の。なんか意味ありげな引っ越しのご挨拶されちゃった」
「ほう。店の名でも書かれた派手な名刺でも渡されたか?」
「いやいや。『一人暮らしで寂しいから、いつでも部屋に遊びに来て下さいね☆』って。もうやる気満々」
「……下品な女だな」
「まぁそう言うなよ。あれだって仕事だぜ。オレは今時そんなんに引っ掛かる奴いねーよと思ったけど、いるんだよなー馬鹿が。たまに隣の部屋からすげー声聞こえてたんだぜ。オッサンの」
「はぁ?」
「女が男誘い込んで、部屋で待ってるヤクザのオッサンが脅して金巻きあげて外にポイっ、な感じだろ。最近聞こえねーから次に移ったのかな。あのおねーさん目の保養になってたのに残念残念」
「果てしなく下賤だな。下らん。それは騙される方が馬鹿だな」
「まーでも一人暮らしで彼女も居ないなんつったら、まさかと思いつつ騙されちまうもんなんだよきっと。オレも時たま寂しいなーって思う時あるし」
「で、浮気か」
「してないって。だから頻繁に帰って来いって言ってんの」

 お前の髪が傷んでないかとか、メシ食ってるのかとか、また変な奴勘違いさせて付け狙われてるんじゃないかとか、そういう心配しなくてもいいし。

 まるで歌う様にそう言いながら、何気なく掴んだ手をぎゅっと握りしめて笑ってやると、海馬は微妙な不機嫌顔でそっぽを向いた。その動きに合わせてつやつやの髪がさらりと揺れる。思わずそれに触ろうとしたら、不意に動き始めたエレベーターが止まって、一組のカップルっぽい男女がこのクソ暑いのに腕を組みながら乗り込んできた。

 それにさっと示し合わせた様に互いに手を離したオレ達はそれでも手の甲をくっつけたまま無言でオレの部屋がある階に着くのを待っていた。目の前には人のいる事なんか全くお構いなしでいちゃついている馬鹿ップル。うわ、キスまでしちゃってるよ最悪だな。

 狭い空間に女の香水の匂いが強く漂って気持ちが悪い。あーもうウザイなーそういう事は部屋でやれよ部屋で。見せつけてくれなくて結構ですから!

 そう思っていたら再び扉が開いて馬鹿ップルは無事外に出て行ってくれた。あー良かった。あんなのにオレの階まで一緒にいられたら限界きちまう。オレがって言うか、海馬が。……今だってホラ、般若みたいな顔で奴等が消えてった扉睨んでるし……。

「どこにでもいるよな、あーゆーの。そんな怒るなよ」
「怒ってなどいない。匂いが不快なだけだ。なんだアレは」
「確かにすんげー強烈だったな。化粧と石鹸系の制汗スプレーとムスク系の香水が混じった感じ。鼻曲がりそう」
「貴様案外詳しいな」
「職業柄匂いとは嫌でもお付き合いしますし、コレ位は。あの組み合わせは最悪だね。相手の男良く我慢できるな」
「……気持ち悪い」
「じゃー、口直しする?ちょっと羨ましいなーとか思ってただろ」
「思ってない」
「オレは思った。あーいう事は部屋でやれよと思ったけど、誰もいなければ確かにやりたいもんな。な?」
「同意を求めるなっ!」
「お前はあの女と違ってすっげーいい匂いだぜ。ずっと抱きしめていたい位」

 そう言って、エレベーターの扉が閉じると同時にオレは海馬の顔の両側に手をついて顔を近づけた。この暑いのに殆ど汗なんかかいてない首筋に吸いつくと、さっきオレが丁寧に施してやった高級トリートメントの柔らかい香りと、海馬自身の甘い香りが混じってたまらなくなる。

 勿論こんな場所でどうにかする訳にも行かないから、適当に戯れて最後にキスする位で留めて置いたんだけど、これじゃさっきのカップルの事どうこう言えねぇな、とちょっと思った。

 ……思っただけだけど。