Act7 一緒に 帰ろう?(Side.城之内)

「……オレさぁ。今日バイト休もうかな」

 ぽつりと呟いたその声に、目の前に差し出されたかけたカップが引っ込んで、勢い良くテーブルに叩きつけられる。幸い置き方が上手かったのか中身は零れる事無くバシャ、と音を立ててカップの中に納まった。同時に海馬がすげぇ怖い顔で睨んでくる。

 あれ、なんで怒ってんの?オレ、なんか怒らせるような事言ったっけ?

 今日は同居生活の最終日。

 長いようで超短かった一週間も残す所後一日だ。昨日からその事を考え出したオレはずっと憂鬱で、今朝は起きた時から既にテンションは最低だった。幸い今日は日曜でバイトは昼からだったから、何時もよりも長くベッドでゴロゴロ出来て、無理矢理付き合わせた海馬が鬱陶しいからいい加減起きろと怒り出すまでずっとひっついて離さなかった。

 ちょっとでも体を離すと寂しいから初めて風呂までついて行った。朝から優雅に二人で朝風呂。でも全然楽しくなかった。今日は朝から駄目だって言って、海馬が触らせてくれねぇんだもん。物凄く明るい室内でオレのキスマークがくっきりついた身体晒しときながらそりゃないよな。

 流石に一週間(一日だけ何もしなかったけど)ヤリっぱなしだった所為か、熱心に二重にも三重にも吸いついたその痕は、赤どころか紫に変化してて、ちょっとやそっとじゃ消えなさそうだ。オレの肩や背中についた傷だって瘡蓋になる前にまた引っ掻かれるから全然治らない。今も服が擦れてちょっと痛い。

 けど、それも当たり前になっちまって全然気になんなかった。海馬は腰……というかまあ言えない場所が痛いって文句を言ってるけどな。それにだって慣れちまっただろ。時折、キッチンに置いてあるスチールの椅子に座ろうとしてびくっとしてるみたいだけど。穴あきムートンクッションでも買ってやろうか?ってからかったら蜜柑が顔に直撃したからそれ以来二度とその手の事は口にしてない。怖いから。

 でもそんなに辛い思いしてんのに、ここにいる間ずっと嫌だとかやめろとか言わなかった。最後の方には指突っ込まれただけで痛そうに歯を食い縛ってたりして、なんかすげー悪い事してる気分になったりしたけど、やっぱり何も言わないから結局最後までやったし、しかも一回で終わんなかった。最低だ、オレ。でも、多分今日もヤる。最後だし。

 これが、明日で全部終わってしまう。それを思うと寂しくて、やりきれなくて、何もする気になれない。だから、今日は本当に何もしないで、ずっと一緒にいたいって思ったんだ。

 だってこう出来るのも後ちょっとだぜ。名残惜しいじゃんか。

 それなのに海馬ってば何時もと全然変わんねぇの。さっさと着替えて、この時間だからブランチ?を作って、新聞読みながらそれを食べて、今日はバイトは昼からだから別に弁当はいらないよな?とか言っちゃって、オレがそうだよ、と言うのを聞きながら席を立って食器洗い機に食器つっこんで、コーヒー淹れて、カップを二つ用意したその時に、オレがついたまんなくなって、ぽつりと本音を漏らした途端、普通だった目の前の白い顔が、瞬く間に強張った。そして本気で怒った目でオレの顔を見る。

「休む?」
「うん。だって……今日で最後じゃん。だから」
「だから貴様は与えられた仕事を休むというのか。命よりも大事なバイト代さえ投げ打って」
「そういう言い方はねぇだろ。そんな深刻なもんかよ」
「最低だな。貴様にとって、あのバイトはその程度のものなのか」
「……なんで怒んだよ。オレお前怒らせるような事言ったかよ」
「そのいい加減さと無責任さには呆れ返って物も言えんわ。最後だから?仕事を休む?死んでしまえ!」
「ちょ……そこまで言う事ないだろ!だ、大体お前オレがどういう気持ちで言ってるか分かってんのかよ!お前と離れるの嫌だからそう言ったんだぞ?そこで怒るか普通。わけ分かんねぇ!」
「あの飲み会の時といい、今といい、何でもオレの所為にするな!」
「何もお前の所為になんかしてねぇじゃん。オレが!」
「もういい。話したくない。一つだけ言っておくが、オレは午後から会社に行くぞ。貴様が休もうが休まなかろうがな!」
「え」
「どうとでも勝手にしろ!」

 そう言うと海馬はカップを一つだけ手に持って、キッチンから離れ、珍しくコタツの一方を陣取ってノートパソコンを弄り始める。オレの方なんかみやしない。……なぁ、なんで?なんでここまで来て喧嘩になんの?ほんっとわけ分かんねぇよ。大体あいつ今日沸点低くないか?昨日折角持ち直したのに。つーか一番仲良く出来たなって思ったのに。

 オレを見ない顔を眺めてるのがちょっとだけ寂しくて、変わりに高速でキーボードを叩く指先をつい凝視してしまう。

 ここに来てからはその指が仕事をするより他の事をしてる時の方が多くて、フライパンを握ってみたり、投げ捨てたオレの服を一瞬で畳んでみたり、蜜柑剥いてって甘えてみたら、めちゃくちゃ綺麗に皮を剥いて、神経質に白い筋まで取って差し出してきた。その筋は食ったほうがいいってテレビで言ってたぜ?って言ったら、次からはそのまんま渡してきた。学習能力ありすぎだろ。

 その指を寝るときは必ず絡めて眠って。普段でも近くにあれば思うように握ってみたり、指先にキスしてみたり、蜜柑の汁ついたのを舐めたりもして、気持ち悪いって頬をつねられたりもしたっけ。……なんで今こんな事を思い出すんだろ。なんかもう何もかも終わったみたいだ。まだ海馬は目の前にいるのに、オレもまだ、ここにいるのに。
 

 駄目だ。やっぱり、どこにも行きたくなんかない。
 

「何時からだ」
「……何が」
「バイト」
「だから今日は行かな……」
「オレは12時半にはここを出て行く」
「出て行くって言うなよ……」
「そこに立つな。目障りだ」
 

 なんだよそれ。お前、オレの顔を見もしないでそういう事言うんだ?
 

 何でそんなに素っ気ないの?オレなんかした?何もしてないよな?ただ、寂しいって、一緒にいたいって言っただけじゃん。なんで怒るの?お前、もしかしてオレと一緒になんか居たくねぇの?
 

 ── 明日で終わって、清々するって思ってんの?
 

「海馬」
「煩い」
 

 呼びかけても振り向くどころか表情一つ変えないし。済ました顔でコーヒー飲んでんじゃねぇよ、馬鹿。これ以上無視したら襲うぞコラ。……お前は楽しくなかったかもしんねぇけど、オレは凄く楽しかったんだよ。幸せだと思ったんだよ。

 大体お前がオレを強引にこの生活に引きずり込んだんだろうが。オレ、最初ちょっとそれはないって言ったよな?ありえねぇって。でもそう言ったら、すげぇ不機嫌な顔して黙り込んで。めちゃくちゃ拗ねて見せたから結局オレが折れたんじゃねぇか。その経緯を忘れちまったのかよ。優秀な頭脳は不都合なことは全部消去するように出来てるのかね。そりゃすげぇや。超めでたいよな。羨ましいよ。

 この一週間の為に、ちょっと無理して仕事やって、身体も無理してオレとセックスしまくって、やった事もないもん色々やって、それで最後は喧嘩すんの?馬鹿じゃねぇ?いやもう馬鹿だろ絶対。大馬鹿だこいつ。

 余りにも馬鹿で、その馬鹿さ加減に本気でむかついたオレは、やっぱり全然こっちを見ない海馬に腹が立って、無言のまま側に行って横からその体を抱き締めた。

 すげぇ怒ってる割にはそれには全然抵抗しねぇで、けど応じる気配もなくってまだパソコンを見てたから、オレは強引にそれを閉めて、無理矢理海馬の顔を押さえつけると、力任せにキスしてやった。ついでにそのまま押し倒す。

 ガタッ、とコタツが揺れて、上に乗ってた海馬のコーヒーカップが下に落ちた。幸い中身はなかったから床が汚れる事はないみたいだ。

「な……貴様!いきなり何っ……!」

 何をじゃないんです。ナニをするんです。

 ベルトをしてない事を幸いにあっさりとズボンの中に進入し、前じゃなくって直接後ろを探った手に、海馬が小さく悲鳴をあげる。さすが今週は慣れたもんで、濡れてなくてもあっさり入る。なんかちょっと熱持って腫れてるみたいだけど別にいいや。

「やめろ凡骨!」

 へーやっぱりやめろって言うんだ。やめねぇよ馬鹿。お前、オレを怒らせたんだぜ。いいよ、そんなに言うならオレはバイトに行ってやる。会社にでもなんでも行けばいいだろ。行けるんならな。行けなくなっても、知らないけど。自業自得だ。
 

 
 

 結局、海馬の抵抗空しく、オレはその場で美味しく奴を頂きました。……美味しくっていうのはちょっと違うよな。腹いっぱいなのに無理矢理詰め込んだ、みたいな。胸焼けがして、物凄く気分が悪い。苛立ちが収まらない。何時の間にかむかつきが寂しいって気持ちを超えていた。

 好き勝手やった後、時間になったから海馬をそのまま放置して、オレは結局バイトに行く。時間よりも大分早く家を出たから、いつもよりもゆっくりと寒い冬空を歩いた。白い息が風に紛れて後ろに流れていくのを目で追いながら、オレは自販機でコーヒーを一つ買った。

 そう言えば、海馬が淹れてくれたコーヒーを飲んでくるの忘れてた。キッチンテーブルの上に置きっ放しだ。

 紅潮した顔で涙を流しながらやっぱりオレを睨んだその顔が、頭から離れない。
 

「……ちくしょう、なんだよ。オレが悪いみたいじゃねぇか」
 

 ぽつりと呟いたその言葉は、横を走る電車の音に紛れて消えちまう。

 余計、虚しくなった。
「最後の夜なのに遅番かよ。ついてねぇな、城之内!」
「……うるせぇ」
「お前、オレと顔合わせる度に機嫌わりぃよな。また喧嘩か」
「喧嘩してねぇ日がねぇよ」
「へー。……お前等、一週間で良かったな。それ以上続いたら血ぃ見そうだ」
「そうかもな」
「おや、意外に素直に同意しちゃって。マジなんかあったのかよ」
「別に」
「あったんだろ?」
「………………」
「言えよ。聞いてやっから。法律的な相談なら尚いいぜ。勉強になる」
「あーもーお前うるせぇよ」
「はいはい。あ、コーヒー飲む?」
「いらねぇ」

 既に日はすっかり落ちて、辺りはもう薄暗かった。町の外れの交差点で交通整理をしているオレは、赤く光る誘導棒を手に全然やる気なく仕事をしていた。日曜日の午後って人多いよな。どいつもこいつもデートデートでいちゃいちゃしやがって、ぶっ殺す。そんな不満をなるべく顔に出さないようにして、道を聞かれたら一応笑顔で対応して。……馬鹿くせぇ。本当に馬鹿くせぇよこんな事。

 どんな気分で仕事をしても、時間はしっかりと流れて行って、そろそろバイトも終わる時間、いつものように予備校帰りの本田がオレの元へとやって来た。さすが受験直前の日曜日。休みだとか休みじゃないとか関係なしに一日授業か。こいつこれから塾にも行くんだぜ。あの本田が塾に!……人って変われば変わるもんだよな。頭の中身は変わんねーけど。

 それにしてもこいつ、オレの事どっかで見てんのか?って思う程色んな意味でタイミングいいんだよな。この間の朝もそうだったし、今もそうだし。そんなに時間ないのに話聞くとか、お人よしにも程があるぜ。つか、オレの周りって皆そうだけどさ。……あの馬鹿も含めて。

 ほらほら、ってしつっこく本田が促すから、オレは腹を決めて奴に思った事を全部ぶちまけた。多少話すに気まずい事はぼかしたけど、それでも大意は伝わったと思う。本田はオレの性格を嫌という程知ってっし、余り細かい事まで話さなくても、大体は分かってくれた。

 けど、その後の反応は、オレが考えていたものと大幅に違ってた。

「うーん……それはちょっと、違うと思うぜ」
「なんでだよ」
「だってお前考えても見ろよ。既に3年付き合った相手だぜ?仮に今までそういう経験がなくてもシュミレートぐらい出来るだろうよ。喧嘩すんのなんて、予想範囲内もいいとこだし。だからあいつが嫌々同居とか考えらんねぇって。てめぇで数千万出して買ったんだろ、あの部屋。幾ら金持ちだってそんな無意味なことするかね」
「で、でもよ、それにしたって酷くね?普通寂しいだろ?」
「確かにオレが同じ状況になったら寂しくなるだろうよ。……でもよ、オレはお前と違うから、お前みたいに素直に『寂しい』とか『寂しいから仕事行きたくない』なんて言えねぇよ、柄でもない」
「……う。それはそうだけどよ……」
「お前、海馬に何を期待してんのか知らねぇけど。あいつがそういう事言ったり、態度で示したりする男に見えんのか?」
「え?」
「オレには想像できないね。無理無理。……だからよ、何でもかんでも見たままで判断しねぇ方がいいんじゃねぇの」

 なんでオレのほうがお前より海馬の事詳しく語らなきゃなんねぇの?

 そう言って苦笑いを浮かべた本田を、オレは半ば呆然と眺めていた。……オレ、今まですげぇ自分基準でモノ考えてたけど、もしかしたらオレが普通じゃなかったのか?

 海馬は言わなかっただけで、本当はちょっとでも寂しいと思ってくれてるとか?
 

「だからさ、オレはお前に言ってるだろ。努力してんのはお前だけじゃないって」
 

 本田の声が耳に痛い。……うるせぇ。てめぇに言われなくても分かってんだよ。あいつがどれだけ努力したかとか、我慢したかとかなんてさ。分かってんだよ、全部。
 

 分かってる、のに。……オレ、今日何をした?
 

「城之内」

 本田の声がオレを呼ぶ。答えようとしても、声が出てこない。やべ、なんか泣きたくなって来た。自分の馬鹿さ加減に、悔しくて。

「城之内!おい!」

 うるせぇな。話しかけんな。今顔上げたらやべぇんだって。ちょっと待ってろ!そう言うに言えなくて、オレは道路の一点を見つめたまま肩を掴んでくる本田の腕を払いのけようとした。その時だった。本田がオレの耳元で、ありえない人物の名前を囁いた。笑いを含んだ声で、心底嬉しそうに。
 

「海馬、迎えに来てるぜ。さみしんぼうの城之内くん?」
 

 へ?と間抜けな声を出して振り向くと、本当に……そこに海馬の姿があった。道路の向こう側の信号の下で。寒そうな白いコートに両手を突っ込んで、いつもの偉そうな態度でオレを睨んで……オレの名を呼びもしないでただじっと立ち尽くしてる。

 その目の前を幾人もの人が通り過ぎ、その動きで少しだけ髪が揺らめいていた。吐き出す息が白くくゆる。

「……あ」
「ほら、もう7時だぜ。バイト終わりだろ。さっさと帰れよ。最後の夜は『存分に』楽しまなくっちゃ」
「本田!てめぇ!」
「さーて、お邪魔虫は蹴られない内に帰りますかね。あ、今度酒一杯奢りな。話聞いてやったんだからよ」

 とん、と背中を強く押して、本田は言葉通りさっさと駅に向かって歩いて言ってしまう。一人残されたオレは、光る誘導棒片手に棒立ちになって海馬を見ていた。信号は赤。向こうには、渡れない。

 赤から青に変わるまでの数分を、こんなに長いと思った事は始めてだった。
「すげー寒い。死ぬ!な、そこの自販でちょっとコーヒー買っていこうぜ」
「家に帰ればあるだろう」
「今飲みたいの」
「缶コーヒーは糖分と脂肪分が……」
「ブラックにするから!お前はどうする?」
「いらん」
「じゃ、オレの一口やる。えーと小銭小銭……」

 言いながら、オレは片手でジャケットの内ポケットを探って100円玉と10円玉2枚を取り出そうとする。結構奥に潜っちまってすげぇ取り出しづらいんだけど、もう片手はしっかりと繋がってるから使えない。うー、あともうちょっと!

 その合間に海馬が横で「金はちゃんと財布に入れろ。貧乏人はそれで金をなくすんだ」と口を出す。あーもうこいつ最後までうるせぇ。うるせぇけど、言ってる事は確かに正しい事ばっかだから、ちょっと遅すぎるけどオレは素直にいう事を聞く事にした。小銭全部取り出して、海馬にジーパンの後ろに入っていた小銭入れを取って貰って、それにちゃんと入れて元に戻した。これでいいだろ、って言ったら、黙って頷いてそっぽを向く。お、ちょっと可愛いじゃん。

 手にした小銭でコーヒーを買って、これは仕方ないから手を離して、プルトップを空けて一口飲んだ。……うちで飲むコーヒーよりは確かに遥かにマズイけど、体はあったまる。ふうっ、と大きく息を吐いて、缶を海馬に押し付けた。いらないって突っ返すのを押さえつけて、飲め、と言うと、嫌々ながらに口をつける。ごくりと小さな音がして、白い喉が上下した。なんかちょっとエロイ。

 ぼんやりと灯る街灯の下で二人きり。ここは裏道だから、誰も通る人はいない。

 それをいい事に、オレは缶コーヒーを手に顰め面をしている海馬の体を抱き寄せた。警戒して一瞬固まった背を、別になんにもしねぇよ、って言って宥めて手からコーヒーを奪って全部飲んだ。一番小さい缶を買ったから直ぐになくなる。

 空になったそれを近くのゴミ箱に投げ捨ててオレは本格的に腕に力を込めると、ぽつりと我侭を言ってみた。

「……オレさー、家に帰りたくないんだけど」
「オレは帰りたい。寒いしな」

 それに即座に帰ってきた素っ気無い一言に、オレはちょっとだけ苦笑した。けど、さっきのようにむかつきはしなかった。もう、分かったからさ、色々と。
 

 あの後、信号が変わった瞬間に海馬の元に駆け寄ったオレは、何をどう言ったらいいかわからずに、暫く無言で立ち尽くした。そんなオレを海馬はただじっと見つめて、小さな声で一言「帰るぞ。迎えに来た」って言ったんだ。そしてそれっきり、何も言わなかった。

 あれからお前どうしたの、とか、会社に行ったのかよ、とか、色々聞きたい事はあったけど。それを聞くにはまず謝らないと駄目だと思って、謝ろうとしたんだけど、結局「ごめん」の一言が言えなかった。多分海馬もオレに謝らせる気がなかったのか、他愛のない話を先に始めて、うやむやになってここまで来た。
 

 最初で最後の、二人で帰る……帰り道。

 後20分歩いていけば、オレ達の部屋に着く。
 

 帰りたくないのは本心だ。だってこのまま部屋に帰って寝ちまったら明日が来る。楽しかった一週間が終わってしまう。

 嫌で嫌で、でも何処で何してたって時間は過ぎて行くんだよな。だったら、寒い外になんかいないで、あったかい部屋の中で一緒に過ごした方が有意義だ。うん、お前は正しいよ。

「蜜柑、さ。明日貰ってってもいい?」
「好きにしろ。オレは何もいらない」
「……すげー楽しかったよ。ほんと、楽しかった。最初はどうなるかと思ったけどさ」
「そうか。それは良かったな」
「お前は、楽しかった?」
「………………」
「オレと暮らして、楽しかった?」
 

 ── オレと暮らすのが嫌なのか?
 

 マンションのパンフレットを突きつけて、そう言って顔を曇らせたお前を今思い出して、オレは、やっぱり泣きたくなった。

 馬鹿だな、ホント馬鹿だよ。あの時、言われたんじゃねぇか。そしてオレは思っただろ。お前そんなにオレと暮らしたいのかって。そんな事も忘れてたのか。本当に馬鹿なのは、やっぱりオレの方じゃねぇか。マジで死ね。むかつくよ。

 いっその事、海馬、オレをぶん殴ってくれないかな。だとちょっとはすっきりするのに。そう思い、いつの間にか黙り込んじまった海馬を見る。抱き合ってる状況だから、正面からじゃなくって、ちょっと斜め下から。
 

「オレはどうでもいい。貴様が楽しかったんなら、それで」
 

 ……そこでそういう事言うんだ。駄目だもう。反則だ。
 

「オレ、お前のそういうとこ嫌い」
「そうか。今更だな」
「素直じゃねぇから、嫌いだ」
「お互い様だ」
「嫌いだけど……大好きだ」
「意味がわからん」
「オレも分かんねぇ。もう、帰ろうぜ」
「そんなに8時からの特番が気になるか」
「そうだよ!!ってなんで知ってんだ?!」
「一人でぶつぶつ呟いてただろうが」
「独り言まで聞いてんな!もう行く!早くしろよ!」

 こいつ分かってて言ってやがる!マジむかつく!!つか特番なんて忘れてたっつーの!

 抱きしめた身体を押しのけて、ポケットに入れようとする手を掴んで、オレは大股で歩き出そうとして、ちょっと後ろを振り向いた。何気ない顔してるけど、直ぐにオレの動きについてこないところをみると、多分少し辛いんだろうなって思い直して、オレは極力ゆっくり歩いてやる。

「特番に間に合わないぞ」
「……別にいいよ」
「DVDには予約したけどな」
「……お前さぁ、親切すぎるから」
「最後だからな」
「最後いうな。ずっとしろ」

 無理だって分かってるけど、言うだけはタダだから。

 家に帰るまでの20分、オレはもう何も言えなかった。何か言ってしまったら、堪えていた涙が堪えきれなくなりそうだったから。馬鹿みたいだけど、情けないけど、本当に寂しくなったんだ。
 

「ただいまーってトイレトイレッ!」
 

 扉を開いて何気なく口にしたその一言と同時に、オレはついに涙を流してしまった。慌ててトイレに駆け込んだけど、多分、海馬は気づいたかもしれない。

 でも、きっと何も言わねーんだろうな。

 オレがトイレから出て行くと、多分コタツに淹れたてのコーヒーと蜜柑が置いてあるんだ。
 

 チャンネルを、例の特番に合わせてさ。