Act9 Summer days(Side.城之内)

「ちょ、お前!何さり気なく横に座ってんだ!何時座ったんだ!」
「……何時とは?たった今だが」
「気配感じなかったぞ?!何者だよ!」
「貴様が携帯を弄りながら呆けているのが悪いんだろうが。ちなみに遊戯とはすぐそこで会ったぞ。相変わらずだったな。貴様も変わりが無い様で何よりだ」
「ああうん、特には……って!お前そんな事よりも先に言う事があるだろうが!」
「言う事?」
「そうっ!普通出先から帰って来たら何て言う?!」
「何って……ああ、そうか」
「ほれ、早く言え」
「……ただいま」
「お帰り」  

 大学内でも一番大きな講堂の最後部、扉側の席。既に夏季休暇に入り、やる授業と言えば単位が足りない奴等が慌てて埋め合わせをする為に開かれる特別講習位で、当然の事ながら該当しているオレもバイトの合間を縫ってこの期間だけはマメに講義を受けに来ていた。

 三日間で最初と最後に取られる出席点呼にさえ間に合えば、後は簡単なレポート提出をすればOKで、内容さえダチにリークして貰えば講義を受けても受けなくても自然と単位が発生する、そういうものを極力選んでいたものの、今日出席しているこの講義だけは合間に小テストがあるから仕方なく顔を出していた。

 朝から夕方までのフルコースで、途中メシを食いに学食に行ってランチメニューをかっ込んだ後、既に重くなった瞼を擦りながら早めに寝てもばれない様な席を陣取ろうと講堂に行き、目当ての席に座ってメールを打ち始めた、その数分後の事だった。 

 何気なく隣に座った男が海馬だと気づいたのは。 

 や、確かにこんだけ席が空いてるのに何人の隣に座ってんだとか、肘めっちゃ当たってるんだけど少し遠慮しろ、とかは思ったけれど……まさかコイツが海馬だとは思わねぇじゃん。

 何時までも気付かないオレに、奴は多分面白く思ったんだろう。くくくっ、と小さく喉奥で笑う声がして、その声でオレは初めて隣に座る男の顔を見たんだ。そしたら……なぁ?!

 つーかお前も来たら来たで声かけりゃーいいだろうが!性格悪いんだよこの野郎!

 そう思っても、半年ぶりに恋人に会えた事は単純に凄く凄く嬉しくて、かと言ってここは大学の講堂で、周囲には徐々に人が増え始めたから大っぴらに喜んで再会のキス!とかする訳にも行かなくて、仕方なく机の下で強く手を握る程度で留めておいた。

 まあ、続きは幾らでも後から出来るし、海馬も今日大学に来たって事は会社にも多分行くつもりないんだろうし、そんなに焦らなくてもいいかなって。そんな事を自然とにやけた顔で考えていたら、隣から何気なく手が伸びてきて、ぎゅっと頬を抓られた。……いてぇよ馬鹿。

 オレへの誕生日のプレゼントとして、海馬が購入した大須にあるマンションで一月末の一週間限定同居をしたオレ達は、その後海馬がアメリカへ出張に行っちまった所為でこうして顔を合わせたのはその実半年ぶりだった。

 勿論その間にはメールとか電話とかしてたけど、やっぱり物足りなくて「お前一回帰って来いよ」と散々言ったりしたんだけど、奴は頑として首を縦に振らなかった。なんでって聞いたら「面倒だから」とか言いやがって、本当にあったま来る。

 元々半年の予定だったから我慢してたけど、予定が伸びるのもよくある事だから、この七月中に帰って来ねぇようだったらモクバに頼み込んでアメリカまで殴り込みに行く予定だった。そんな時だった、オレの前に奴がひょっこり現れたのは。

 しっかしマジむかつくよなーつい昨日までフツーにメールのやりとりしてたんだぜ?昨日の夜なんか『明日から特講始まる。お前も来ないとヤバイんじゃないの』ってメールしたら『そんな暇は無い。まだアメリカだ』って返って来て、あーこりゃ絶対帰国延びるな、モクバに言ってアメリカに行くっきゃないなって思ったばかりで……それが何をそ知らぬ顔で隣に座ってる訳?

 今打ってたメールだって海馬に宛てたものだったからその本人が横に来た所為で無駄になっちまった。まあいいけど。

「……帰るなら帰るって言えよ。お前、絶対わざとだろ」
「いや?昨日の時点では確かに暇が無かった」
「嘘吐け。暇が無いのになんで帰って来てんだよ。もしかして一時帰国とかじゃねーだろうな」
「残りは本社でやっても構わないものだったからな。帰国する事にしたのだ」
「そんでも一言ぐらい言え。ビビるだろうが」
「なんだ煩いな。帰って来て欲しくなかったのか?」
「……んな訳ねぇだろ。そうじゃなくって……」
「ではいいだろうが。ごちゃごちゃ言うな」
「……むかつくー」

 海馬にわざと見せ付けるようにぷうっと頬を膨らませると、奴はさも可笑しそうにまた笑って、オレから講義の資料を奪ってパラパラと捲っている。お前、午前中の出席はどうなんの?って聞いたら、その辺は抜かりが無いって返って来た。

 ……こいつ休学届け撤回して来るついでに何かやって来ただろ。怪しい奴。

 あーでもやっと今日からは頻繁に会えるのかー!これでもう我慢出来なくなって浮気を考える必要もねぇし(してないけど)、寂しい寂しいって管巻いて周囲に迷惑かける事もねぇし(無視されてたけど)幸せだなぁ。つか、遠距離恋愛にも限界ってもんがあんだろ。アメリカと日本とかアホだろマジで。

 そんな事をオレがやっぱりにやけた顔でぼーっと考えていたら、資料をすっかり読み終えた海馬が視線だけは下に落としたままオレに話しかけて来た。今までなんか気恥ずかしくて隣を見るのを躊躇ってたんだけど、さすがに顔をあっちやこっちに向けて会話すんのもちょっとなぁ、と思って、ちら、と視線を隣に向ける。

 久しぶりに見た海馬は、全く持って全然何の変わりもなかった。

 まあアメリカにバカンスに行った訳じゃねぇから焼けてるとか、そういう変化を期待した訳じゃーないんだけど。余りにも変わりがないから半年顔を見てない、なんて事を忘れちまいそうになる。外は三十度近い暑さなのに相変わらず長袖のシャツなんか着ちゃってすげー涼しい顔してるのがちょっとムカつく。……あ、微妙に髪は伸びたな。マジ微妙だけど。

 それに気付いたオレは、思わず手を伸ばしてその微妙に伸びた部分を引っ張ってやろうとした、その時だった。不意に漸く顔を上げた海馬が、今度はちゃんとオレを見て口を開いた。

「時に凡骨、今日はこれからの予定はどうなっている」
「予定?今日はバイトもねぇし、暇だけど」
「ならば好都合だ。付き合え」
「そりゃいいけど……お前帰国したばっかりじゃー疲れてるんじゃねぇの?帰ってゆっくり休んだら?」
「別に何処かに行こうという訳ではない。貴様がオレに付き合えばいい」
「あーうん、で何処に付き合えばいいんですか」
「大須」
「はい?」
「大須のあのマンションだ。モクバが夏季休暇に入ったからな。その間は家に帰るんだそうだ。だから使ってもいいと」
「えっ?また?!つか、泊まり?!マジで?!」
「なんだ嫌なのか」
「嫌じゃねぇよ!OKに決まってんじゃん!」
「今日はモクバもいるらしいがな。貴様に会いたいと言っていたぞ。物好きな」
「やりぃ!じゃー早速準備を……」
「何もいらないだろうが。全部ある」
「いや、服とかさ」
「貴様何日居座るつもりなんだ。とにかく、そのままでいい。帰りに買い物だけしていく」
「………………」

 だからなんだってお前はそう何もかも突然なんだよ?!

 そう突っ込みたかったけれど、折角機嫌がよさそうなのに損ねて「全部ナシだ!」と言われるのも嫌だから、オレは素直にはいはいと頷いた。二度とないと思っていた同居生活が半年後にまた実現するなんて嘘みたいだ。自然と浮ついてしまう気持ちを必死に押し隠して、オレは再び姿を現した教授の顔を眺めると、早く講義が終わる事だけを考えて勢いよく資料を広げた。

 隣の海馬は、少し眠そうな顔で携帯を弄っていた。

 

2


 
「なぁ、お前ってアメリカでどうしてたの?」
「質問の意味が良く分からないが……一人暮らしだ」
「やっぱりな。どーりで手馴れてると思った。この半年でお前かなりグレードアップしただろ」
「何が」
「だから、家事スキル。もう何でも出来るだろ?」
「オレは元から何でも出来る」
「あーそうですか。で、今日は何作ってくれんの?」
「オレが作るのは決定か」
「そのつもりで買い物してんだろ。あ、ビール買って」
「買わない」
「ケチ」 

 特別講義終了後、オレ等は海馬の言葉通り大学を出てすぐ電車に乗って、大須の一駅前で下車すると、駅の裏口にあるどデカいショッピングモールへとやって来た。ちなみに大須にはつい一ヶ月前にKCマートの支店が出来たんだけど、頑なにそこに行くのは嫌だと言う海馬の意見を尊重した結果だった。……まあ良く考えたら確かにKCマートの従業員だって社長が視察がてらに顔を出したら嫌だもんな。しかも客として買い物かごを持って……とかさ。

 そういや半年前にはこいつを玉子の特売に行かせたっけ。顔が見られるのが嫌だとか大騒ぎした結果、遊戯に押し切られてヘアサロンに連れ込まれて女装とか言う愉快な事態になって、夜に散々怒鳴られた挙句に気絶させられたんだ。

 懐かしいなーっつか、あんま思い出したくない記憶だけどよ。でもマジあの格好はヤバかった。何時の間にか保存しておいた写メ消されててもう残ってねぇけど。あー生で見たかったなーもう一度やってくんねぇかなぁ。

「凡骨、何を呆けている。置いていくぞ。というか貴様が来ないと話にならんだろうが」
「え?!ちょ、お前歩くのはえぇよ!つーか何でオレ荷物持ち?!」
「当然だろう。金を出すのはオレだ。結構似合ってるぞ」
「ふざけんな。カートを押す姿なんて似合ってたまるか!」
「煩い奴だな。そこのビールを買ってやるから」
「マジ?やっりーってお前それ餌付けだろ!誤魔化されるか!」

 とかなんとか言いつつも、オレ一人の給料では到底買えない庶民にはちょっと高級なメーカーのビールを一ダース買って貰って、結局オレはほいほいと海馬の後を付いていくハメになる。……お前、オレに何日居座るつもりだ?なんて口を尖らせたけど、お前こそ何日分の食材買い溜めすんだよ。結構やる気じゃねぇか。つーかこれ、どうやって持って帰んの?物凄い量なんですけど。

「それは心配ない。後で運ばせる」

 ……誰にだよ。磯野?磯野にか?!

 そんな心配をよそに涼しい顔で更にカートにモノを放り込んでいく海馬の後ろ姿を、オレはもう何も言わずに見つめながらばれないようにこっそりと小さな溜息を吐いた。なんかもう全ての動作がサマになっちゃってまぁ……順応性もここまで来ると見事としか言いようが無い。お前やっぱり今すぐ社長やめちまえ。こっちの方が似合ってるって、絶対。

「さて、買い物は済んだし……帰るか、凡骨」
「はぁい。……ってマジで荷物置いてきてやんの……大丈夫かね」
「心配ない。多分オレ達より早く家に着いている」
「どういうシステムだよ」
「気にするな。行くぞ」
「ちょ、街中でオレよりも堂々と振舞うな!立場ねぇだろうが!」

 そんなこんなで一時間。食品売り場だけでも半端ない広さのショッピングモール内を闊歩して、さっさと必要な物を買い揃えてしまった海馬は、財布から颯爽とブラックカードを取り出してとてもスムーズに会計を終えた後、やけにすっきりした顔でオレを振り向いた。

 ……うーん、何かこんな光景見に覚えあるなー。すっげぇ昔……まだ女と付き合ってた時に、デパートで有り得ない量の服やら靴やらバックやらをやけ買いして、ストレス解消していた『彼女』の表情とそっくりだ。ちょ、変な方向に進化しないで海馬君!

 半ばぐったりとしながらその後を付いて行くオレは、ふと目にした駅構内に溢れる人並みにはっと我に帰った。現在時刻は17時半。ものの見事に帰宅ラッシュと重なる時間だ。

「……うわーこの時間に電車に乗るのかよ。ラッシュだぞ」
「たかが一駅だろうが。どうという事はない」
「……お前、なんか逞しくなったなぁ。アメリカで揉まれて来たのか」
「別に変わった生活をしていた訳ではない。一人で行動する事は多かったが」
「庶民派のオレが負けそうなんですけど」
「安心しろ。まだ現金で切符を買った事は無い」
「なんの安心だよ?!ていうか庶民派ってそう言う意味じゃないから!」

 言いながらさっさと先を行く海馬の手を捕まえて、大混雑の改札を潜り抜けると、オレ達は直ぐに来た満員電車に乗り込んで、漸く大須へと向かった。駅に着くまでの十分間、ぎゅうぎゅう詰めのお陰で物凄い至近距離にあった目の前の唇にさり気なくキスをする。周囲の人間は皆潰されない様に必死でオレ等の事なんか見ていなかったから、バレる心配はないだろう。された本人は、ちょっとだけご立腹だったけど。

「貴様、ドサクサに紛れて何をやっている」
「あ、ぶつかった?満員電車だからしょーがないよな……って痛っ!足踏んでる!足!」
「こういう場所でそういう真似をするな馬鹿が!」
「分かったから足痛いって!」
「満員電車なのだから仕方ないのだろう?」
「ごめんなさい!」

 ギリギリと全体重をかけて踏み潰される右足がかなり痛くて涙目になったけど、オレはちょっとだけ……いやかなり幸せだった。半年前のあの楽しかった一週間が……まあ一週間じゃねぇかもしれないけど……がまた始まると思うだけでワクワクする。今度はオレもちょっとは出来るってとこ見せてやんねぇとな。グレードアップした海馬君に勝てるかどうかはまた別だけどさ。

 それから数分後、人波に押されるように大須駅に降り立ったオレはなんだか懐かしい気分になって、暫しその場に佇んで深呼吸を繰り返した。

そんなオレに、海馬は素っ気無く「早くしろ」なんて言いやがった。
「兄サマ、城之内、おっかえり〜」
「ゲッ!お前……モクバ?!」
「なんだよ人の顔見るなり変な顔してー」
「いやだって……えぇ?!背ぇデカッ!」
「えへへー。オレ、高校でバスケ部入ったんだぜぃ。だからかな?ちょっと背、伸びたんだ」
「いやそれちょっととかじゃねぇだろ。この間オレと同じ位だったじゃねぇか。そこに兄貴と並んでみろ!」

 駅から家までは徒歩で15分。オレは上機嫌でもう何から何まで懐かしいマンションまでの道のりやエレベーター、そして見慣れた玄関ドアまで辿りつき、海馬から言われてインターフォンを押して待っていた。そして数秒後、勢いよく外側に開かれたソレの影から笑顔と共にひょっこり現れたのは、なんだか微妙に見知らぬ顔……じゃねぇ、顔はよく知っているものの記憶の中のソレとは大分変わっちまったモクバ君。

 Tシャツにジーパンのラフな格好で、暑いのか長髪を一つに纏めてアップにした涼しい髪型でオレを見る奴の顔……ちょ、目線がオレよりも高いんですけど?つーかいきなり男前!思わずビビッて後ずさりしちまったオレを怪訝そうに見返して「どうしたんだよ、早く入れば?」なんていうその声も、なんだか最後に会った時よりも大分低い。

 恐るべし成長期。……ちょっと前までは遊戯と必死になって背比べしてた筈なのに、中三から急に伸び始めて今や海馬と殆ど同じ位に伸びちまってる。……うう、流石は兄弟。遺伝子の力は偉大だなぁ。

「何をしている凡骨、邪魔だ!」
「いてっ!蹴る事ないだろー。暴力反対!」
「煩い。玄関ドアの所で立ち止まるな!」
「だっ、だってよーモクバが育ってて……」
「半年も経てば育つに決まっているだろうが。いいから退け!」

 そんな感慨に浸る暇もなく、暴力的な兄サマに背後から強烈な蹴りを入れられて、オレはつんのめるように玄関ドアを潜り抜けた。何時の間にか記憶もちょっと薄れていたその部屋は、見た瞬間それと直ぐに思い出せる程出て行った時のままだった。思わずぐるりと首を回して物珍しげに部屋全体を眺めちまう。モクバってインテリアの拘りねぇのかな。まあいいんだけど。

「はー。全然変わりねぇなぁ。あ、コタツは?」
「邪魔だから片付けた。家にあるよ。あれ結構よさそうだね。冬にはいいな」
「だろだろ?コタツに蜜柑って冬の醍醐味だよなー」
「夏に暑苦しい話題はよせ。貴様は邪魔だ。その辺に転がってろ」
「ちょ、ひでぇ。早速邪魔もの扱いかよ」
「準備は出来てるよ兄サマ。オレも手伝うぜぃ」
「そうか。ではこっちに……」

 何年経っても超仲良しな海馬兄弟はそんな事を言いながら、オレをのけ者にして二人楽しそうにキッチンブースへ向かってしまう。ちくしょう、嫉妬なんかしてねぇぞ。

 しっかし頭の位置が殆ど同じじゃねぇか。やっぱりモクバ、デカくなったなぁ。ガタイがいい分すげー迫力なんだけど。半年でそんなに伸びるモンなのか?……まあ海馬も急成長っていやぁ、急成長してたけどよ、そういえば。こっちは相変わらず貧相な事で。あんまベタベタしてっと、そのうち「兄サマ大好き!スキンシップしよう!」なんて言われて押し倒されても知らねぇぞ。

 そうぶつぶつ言いながらオレは言われた通りにソファーに陣取り、あれこれと喋りながら手際良く手を動かす兄弟の姿を眺めながら、手持ち無沙汰にそんな事を考えていたその時だった。モクバが木製の丸盆に缶ビール二つと硝子のコップ、そして小皿につまみを持ってオレの前までやって来た。

「城之内、ビール飲む?待ってる間暇だろ?」
「おっ、気がきくなぁ、モクバ。兄サマとは大違いだぜ」
「ほう、貴様……野菜と一緒に刻んで欲しいか」
「嘘です!」
「はい、これグラス。テレビのリモコンはそっち。雑誌はそこ」
「……お前、なんか妙に慣れてんのな、高校生の癖に」
「副社長だって色々あるんだぜ」
「なるほど……」

 痒い所にまで手が届き過ぎるこの対応も海馬とそっくりだ……こいつも誰かの為にマメに働いたりするようになるんだろうか。うーん願わくば兄サマと同じ轍を踏まないようにして貰いたいな。オレみたいなのに引っかかると大変だしな。って自分で言う事じゃねぇけど!

 でも一人暮らしって言うと、醍醐味はアレだよな。家に彼女とか引っ張り込むの!見かけも大分男らしくなったし、バスケ部なんてモテる部活に入ってるし、彼女の一人や二人、絶対いるだろ。……すげぇ気になる。どっかに形跡残ってねぇかな。奴等は料理に夢中だし、ちょっと探ってみっか。

 そんな下世話な事をにやにやしながら考えていたオレは、出されたビールを冷たいうちに一気に一缶飲んでしまうと、背後を伺って二人がこちらに注視していない事を確認し、ソファー周辺やベッド、そしてトイレに行くフリをしてさり気なくバスルームなんかもチェックしてみた。……けど、残念な事にそういう痕跡は全くなかった。

 チッ、まだかよ。つまんねぇな。そう内心盛大に舌打ちをしながら、オレがソファーまで戻って来ると、間髪入れずにゴツッと鈍い音がして頭上からサラダてんこ盛りの硝子製の大皿が降って来た。……いや、ソレを持って来たらしい海馬が意図的にオレの頭へと落下させやがったんだけど。

「痛っ!何だよ?!」
「凡骨。貴様さっきから何をこそこそ嗅ぎ回っている。じっとしている事も出来なくなったか」
「コソコソなんかしてねぇよ、別に」
「嘘吐け。ベッドカバーを捲くったりしていただろうが」
「……やーモクバが女連れ込んだりしてねぇかなって……」
「?!下世話な事を言うな!下種が!」
「思春期なんだから察してやれよー兄サマ」
「黙れ!皿ごと口に突っ込むぞ!」

 未だ硝子皿を頭に乗っけたまま、ぎゃあぎゃあと言い争いをしていたオレ達をモクバはキッチンに立ったまま、やや呆れた顔で眺めていた。なんだよその顔、むかつくなぁ。

「城之内って相変わらずだね。どうしようもないなぁ。兄サマ、もう別れちゃえば?」
「ちょ、馬鹿にすんな!……それはそうと、お前今日まさか泊まりとかじゃないよな?」
「え?泊まりだよ。久しぶりに兄サマと寝るんだぜぃ」
「うっそ?!ちょっと待てよ!つーかオレはどうすんだ?!」
「床で寝れば?」
「ありえねー!お前空気読めよ!恋人が半年ぶりに再会したんだぜ?!夜なんてどうするか解ってんだろうがよ!大体高校生にもなって兄サマと寝るな!」
「オレ子供だから分かんない。それにオレが誰と寝ようがオマエには関係ないだろ?」
「解るだろうが嘘吐けよ!……っかー!むっかつくー!生意気過ぎる!」
「兄サマー城之内が苛めるー」
「何?やっぱり刻むか」
「言い付けんな!ああもう! 」

 お前今日泊まりとかマジかよ?!それ絶対嫌がらせだろ!っつーか海馬も飄々としてないで何か言えよ!……ってモクバ至上主義のお前が言う訳ねぇけど。 

 あーもー脱力するー。今夜なんも出来ないとか我慢できねー。 オレがそう言ってテーブルに突っ伏して心底凹んでいると、さすがに気の毒に思ったのか、海馬が料理を置きがてらこそっと耳元で「今夜だけだ」と囁いてきた。本当だなっ!て言い返すと「多分な」だって。駄目だこりゃ。もう期待しねぇ。

 まあいいか、一晩位。よくねぇけど。超不満だけど。一応ハタチなんだし、少しは大人になるか。そう必死に自分に言い聞かせて、オレは二本目の缶を開けてぐいっと一気に飲み干した。

 漂ってくる肉が焼ける香ばしい匂いに、いつしか頭の中は食欲で一杯になっちまって、暫しの間オレは食い物の事だけ考える事にした。

 

3


 
 ……静か過ぎる室内に、カチコチと小さな時計の音がする。

 もっとよく耳を澄ますと、外の通りを時間なんか関係なく爆音を響かせて走っていくバイクの音や、絶えず室内環境を快適にする空調の音。そしてすうすうと規則正しい寝息が二つ頭上から聞こえてくる。勿論海馬とモクバのものだ。

 モクバの奴、まさか口だけだろうと思ってたらマジで兄サマと一緒に寝やがって!「お前、デカくなったから一緒に寝るの無理だって」って言ってやったら、「元々二人で寝る事を前提に買ったクイーンサイズのダブルベッドでしょ、余裕余裕」だって!

 ……まあその通りだったし、実際寝ても余裕があったからどうしようもねぇんだけどよ。あいつ、これ見よがしに海馬にべったりくっつくどころか抱き締めて「おやすみなさーい」だよ!どんだけ!どんだけお前憎たらしいんだよ!つーかお前らマジ兄弟の限度超えてるって!

 そんなこんなで消灯して一時間。オレは床に敷いた素材だけは最高級のふかふかマットレス仕様の簡易ベッドで眠れずに天井を仰いでいた。一晩位、と思ったけどやっぱ一晩でも無理だ。だって半年ヤってない相手が隣に寝てるんだぜ?!我慢しろって方がおかしいだろ常識的に考えて!

 ……かと言って、海馬は心地よくお休み中。更にその身体をモクバががっちり捕まえてちゃーヤれるもんもヤれなくて、オレのイライラはつのるばかり。そういやイライラすると交感神経が活発になって眠れなくなるってこの間の講義でやったなぁ。悪循環じゃねぇか!ああもうこのままじゃ一睡もしないで朝になっちまう!

 暫しそんな事をぐるぐる考えながら上かけの中に潜り込んで悶々としていたオレは、いい加減うんざりしたのと、暑くて喉が渇いた所為でガバリとそこから起き上がった。ベッドサイドに置かれている電子置時計はまだ一時ちょっと過ぎだ。あー朝まで遠過ぎて悲しくなってきた。切ねぇ。

 ゆっくりと立ち上がり、足音を立てないようにキッチンに向かうと硝子のコップを片手に浄水器からイオン水を汲んで一気に飲み干す。一杯じゃ足りなくて、二杯目も一気に飲んだ。

 ……けれど喉の渇きが収まらない。当然だよな、渇いてるの……喉じゃねぇもん。何時まで経っても引かない熱にどうせ何もデキないんなら諦めてシャワーでも浴びて、そのまま一回か二回抜いて来ようかとも思ったけれど、それも何だか空しい気がして結局オレは再び自分の寝場所へと戻って来る。

 ベッドに入る前にちらりと眠る兄弟の姿を見たら……お?モクバの奴、あんなにしっかり抱いていた海馬を離して反対側を向いて寝てる。流石に夏はああやって寝るのは暑いよなー。

 そんな訳で今丁度二人は背中合わせの状態だ。

 海馬もモクバに背を預けて、オレのベッドが置いてある方を向いて、ぐっすり寝入ってる。すげぇ久しぶりのこの寝顔。ちょ、無防備過ぎる……なんかすっごく……これを言うとマジ怒るから言えないけど……可愛いんだよなー。ってやべぇ。そっちの方向の事考えたら収集がつかなくなる。背中を向けてるといっても、隣にはモクバはいるんだし、無理は出来ねぇよな。あーもう早く寝ないと、早く!我慢して目を反らして、ベッドに入って……。 

 ……って、オレにそんな忍耐が在る訳もなく。

 結局、これを「チャンス」と捉えてしまった素直なオレは、そのまま身を屈めるとそっと、本当にそうっと、海馬の唇にキスをした。勿論単に唇をくっつけるだけじゃ満足できなくて、普通に舌を入れて。で、入れたら絡めないとつまんないから絡めてってやってたら、普通にいつものディープになった。

 流石の海馬も呼吸を邪魔されたら寝てる訳にもいかなくて、途中でびくっとして起きちまった。起きたんなら好都合。もっとやる。頬を押さえつけて、口の端から零れる唾液まで丁寧に舐め取って、歯列をなぞる。海馬は微妙に抵抗したものの、嫌がる様子もないからそのまま調子こいて夏かけの中に手を突っ込んだら、ここで漸くストップが掛った。震える手で力任せに引き剥がされて、オレと海馬の間に透明の糸が光る。かなり抑えてはいるものの、どうしても聞こえてしまう海馬の少し荒くなった息遣いが室内に微かに響く。

 ……あーあ、もう駄目だなこりゃ。最後までやるっきゃない。つーか我慢とか無理。そんなオレの状態を海馬にジェスチャーで伝えると、海馬は物凄い顔でオレを睨んで、背後のモクバを気にしながら首を振った。そして、少しだけオレに顔を寄せると、耳元でかなり小さな声で口を開く。

(……凡骨!……貴様何を考えている!大人しく寝ろ!)
(無理。眠れねぇもん。下でやろ?)
(出来るかっ!絶対無理だ!モクバが起きたらどうする!)
(声出さなきゃ大丈夫だって。それに今更なんだから万一バレたっていいじゃん)
(身内にセックス現場を目撃される程恐ろしいものはないわ!一晩ぐらい我慢しろ!)
(我慢できないっつってんだろ!)
(逆ギレするな馬鹿が!静かにしろ!大体モクバは眠りが浅いんだ。これでも起きる!)
(話の分かんねぇ奴だなっ!お前がそのつもりならオレにだって考えがあんだぞ!)
(何でもいいから離せ!寝ろ!)
(離さねぇよ。よっと……!)
(うわっ?!馬鹿!やめっ……!)  

 モクバの動向を一応気にしながらオレ達は暗闇の中、ベッドの端で小声で争った挙句いい加減頭にきたオレの手によって、海馬を下にある簡易ベッドへと引きずり落す事に成功した。どさりと大きな音がして、引っ張りながら座ったオレの上に落ちてきた海馬は、信じられないッ!って顔をしてオレをめっちゃ凝視する。その隙に、オレはがっちりその身体を捕まえた。モクバの動く気配はない。

 オレは海馬の身体を捕まえる腕はそのままに、伸び上がって眠るモクバの様子を一応確認する。かけ布団が捲くれた所為で良く見える広く逞しくなったその背中は規則正しい上下を繰り返していて、完全に熟睡モードだ。 うん、これなら心配ない。そろっと捲くれた上かけを戻して元の状態に戻ると、オレは海馬に頷いてみせる。

「うん、ぐっすり寝てるじゃん。大丈夫だって」
「大丈夫なわけあるか!絶対しないからな!」
「お前やる気なくても別にいーよ?ここに転がってくれれば。勝手に入れるから」
「……最低だな貴様!」
「半年もおあずけ食らったんだぜ?オレの忍耐力を褒めてしかるべきだろ」
「それはオレもだろうが!」
「あ、お前も我慢したんだ。っつーか、我慢って思ってたんだ。偉いなー!」
「ああ、偉いだろう。だからオレを見習って明日まで我慢しろ。後数時間位どうとでもなるだろうが!」
「残念。オレ、そこまで我慢強くないんだー」
「残念じゃないわ!いいから離せっ!」
「はいはい。じゃあ大人しく寝ようか、海馬君?腰上げて」
「ちょ、ズボンから手を離せ!引くな!ボタンを外すな!」
「いい加減観念しろよ。はい、これ枕。口に当ててろよ。一応上かけかける?」
「だからやめっ!…………んぐっ!」
「今日は意地悪しねぇから、頑張ろうな」

 ……とまぁ、こんな調子で海馬の抵抗をもろともせずに、オレはちゃんと目的を達成しました。海馬、めちゃくちゃ苦しそうだったけど、最後まで枕外さなかったし、上かけも多少捲れた程度で跳ね飛ばしたりはしなかったし、多分声は漏れてねぇんじゃねぇかな。分かんねぇけど。

 しっかし暑かった。夏に閉所プレイってのは厳しいよな。死ぬかと思った。

 多分、もうやらないだろうけどな。
「あれっ、城之内早いね。おはよー」
「お、おう。久しぶりに外泊?したからよ。ちょっと早く目が覚めちまったんだ」
「へー。城之内にもそういう繊細さはあるんだぁ」
「どういう意味だよ。それよりも海馬は?」
「兄サマ?まだぐっすり眠ってるけど。起こす?」
「や!今日何も予定無いなら寝かせてていいんじゃないか?」
「?なんで声裏返ってんの?」
「べ、別に裏返ってなんかねぇよ。朝メシどうする?」
「あ、いいよ。オレやるよ。どーせパンとサラダとスクランブルエッグぐらいだし。シャワー浴びたら用意するぜぃ」
「……はは、お前もいい嫁になりそうだなー」
「嫁じゃなくて婿だろ」
「分かってて言ってんの。もう行くから退いて」
「はいはい……って!あーっ!びしょびしょだしっ!お前どういう洗い方したらこうなるんだよ?!」
「細かい事は気にすんなー珈琲は淹れてやっからよ」

 やっぱり兄弟だよなー神経質なところはそっくりだ。でも、そう言えば海馬はこういう事に関しちゃ何も言って来なかったな。なんだかんだいいつつあいつ結構我慢してたんだなーって今更感慨に浸ってもどうしようもねぇけど。

 次の日の朝、オレは爽快な気分のまま一番に目が覚めてかなり機嫌よく汚れたもんを洗濯機の中に放り込んで証拠隠滅を図りつつ、鼻歌交じりでシャワーを浴びた。昨夜のうちに……と言うよりももう時間的には早朝に近かったんだけど、海馬はこっそりと元の位置に戻って再び寝ちまってまだ夢の中だ。最中にも事後にも逐一モクバの様子を気にしていたけれど、どれもちゃんと眠ってたから大丈夫だろ。今顔合わせた時も何も言われなかったし。

 でも海馬、あの後一応身じまいはしたけど結局あのまんま寝ちまったんだよな。バ、バレないよな?匂いとかで。うわ、表現が生々しい……後で絶対殴られるぞこりゃ。

 あーしっかしたまにはスリリングなのもいいよなぁ。声出せない分余計燃えるもんな。まあ確かに布団被ってっていうのは酸素を確保する面においてはかなり大変だけどよ。狭いし暑いし見えないし。でも総合的に考えたらかなりよかった。また機会があったらやりてぇなぁ。まあ、二度はないとは思うけど。

 さて、モクバ君がシャワーを浴びてる間に兄サマにおはようのキスでもしに行きますか。

「海馬。かーいーば!おはよーございます。もう朝ですよ!」
「………………」

 背後の水音を何とはなしに聞きながら、オレはさっきの言葉通り珈琲メーカーだけ作動させて濡れた頭はそのままに、未だベッドの中で爆睡中の海馬へと近寄って、かなり控えめに声をかける。その際、一応確認の為にこっそり匂いを嗅いでみたけど、仄かに甘い海馬の香りがするだけで、格別アレな匂いはしなかった。うん、一安心。

 つーか何でこいつ男の癖に何でこんな匂いするんだろ。コロンとかそういう類のものは嫌だとか言ってたから、体臭なんだろうな。元の匂いが甘いって犯罪だよな。そんなんだから駄目なんだよ。なんて言うの、誘われるっつーの?そんな感じ。

 まあ滅多な事がなければ必要以上に他人を傍に寄せるなんて事しねぇから大丈夫だとは思うけど。中には空気読まない馬鹿やそれ目的で近づくジジイとかいるからよ。だから接待だのなんだのはヤバイんだって。幾ら言っても分かんねぇけど。一回そーゆー目にでも合わないと無理なんだろな。合って貰っちゃ困るんだけどさ。

 それにしても起きないなー。元々帰国して疲れてた所に更に追い討ちかけたもんな。仕方がないか。……とりあえず珈琲淹れてから再チャレンジすっか。  そうオレが諦めて海馬に背を向けたその時だった。背後で僅かに音がして、かけ布団が少し動く。どうやら海馬が起きた気配にくるりと振り向くと、未だ眠そうで半分閉じた状態だけどこっちを睨む目とかち合った。常と同じ青い瞳は少しだけ赤くくすんで、透き通るみたいな白い瞼周辺はちょっとだけ腫れぼったい。

 うわ……完全に寝不足ですって顔だ。やべぇ。勿論睡眠時間が足りない所為もあるけど、大半は……の所為だよな。って!何時の間にか腕掴んでるんですけど!怖っ!ギリギリと爪を立ててくるその様子に、どう考えてもご立腹の海馬君に、オレは背筋に冷たいものを感じながら、それでも一応そ知らぬフリをして挨拶してやろうと口を開いた。

 けど、やっぱり超怒ってました海馬君。痛い痛い痛い!マジ痛いって!

「いてててて!……お、おはよう、海馬君」
「………………」
「あの、腕すっごく痛いんで、離してくれないかなー……なんて」
「………………」
「もしかしなくても、昨日の事怒ってるんだろ?反省してます、ごめんなさい。謝るから離して。マジ痛いから」
「……貴様。絶対に悪いと思っていないだろう」
「あら凄い声。それマズくない?っていうか、そんなに声枯れるほど出してたっけ?」
「誰の所為だ!死ね!モクバにどう言い訳するのだこれを!」
「か、風邪でも引いたって事にすれば?大丈夫、怒鳴ってりゃわかんないって」
「馬鹿が!」

 うっわ超怖ぇ〜いつもの涼やかなハスキーボイスとは違う、地を這うような掠れ声。これで怒ってたのね。なるほど、こりゃ誤魔化しようがないわ。けどそんなにマジ怒りする事ないじゃん。起きて早々元気だな。……と言っても元気なのはその態度だけで、身体はあんまし元気じゃないみたいだ。可笑しいな、お前寝てただけで特になんもしてないじゃん。

 ……って言ったら、余計睨まれた。そういう問題じゃねぇのか。

「とにかくさ、モクバももう出てきちゃうし、起きてメシ食おうぜ。あ、その前に珈琲かな?」
「誤魔化すな!」
「誤魔化してねぇって。後でちゃんと反省するから、もう他人がいるところではやりません……?って、どした?」

 オレの腕を握り潰さんばかりにギリギリと締め上げていた海馬が、オレの言葉を聞きながら不意に表情をガラリと変えた。え?何?今度は何だよ?そう思ってオレは一転して驚きに固まってるらしい海馬の目線を追うように、ゆっくりと後ろを振り向いた。その途端その視界の中に飛び込んできた人物に、オレは何故海馬がそんな顔をしたのか理解すると共に……またやっちまった!と青くなった。

「へー。昨日オレが横に寝てんのに、我慢できなくて仲良くしちゃったんだー兄サマ達」
「モ……モクバ!お前何時の間に風呂から出たんだよ?!」
「うん?今っていうか、ついさっきだけど。気付かなかった?そこで頭拭いたりしてたんだけど」
「……じゃ。今の話はぜーんぶ……」
「うん。聞いた」
「ぎゃあ!マジでっ?!」  

 最初の悲鳴は海馬と被った。うっわーやらかした!マジやらかしたよおい!恐れていた事がついにっ!海馬なんて目ぇ見開いて固まっちゃったよ……どうすんだこの状況。いや本当……どうしよう?オレはもう怖くて海馬を見てる事も出来ずに暢気にドライヤーを使い始めたモクバの事を見守るしかなかった。

 ちょ、お前何そのお気楽な態度!もうちょっとこう……兄サマに対するフォローとか、そういうのをしろっつの!話題転換とか何でもいいから!なぁ!

 そんな事を冷や汗ダラダラで願っていたオレの気持ちが通じたのか、漸く一通りの作業を終えたモクバが、使い終わったバスタオルをきちんと畳みながらくるりとオレ等の方を向いた。そしてさらっとこんな事を言う。

「まあでも、知ってたけどねー。オレ眠り浅いから。あのシチュエーションでやるとか勇気あるなぁとは思ったよ?」

 もう駄目だ、死ぬ。殺される……!

 あはは、と軽く笑いながらキッチンへ向かうその後ろ姿を呆然と見送りながら、オレは脳内で走馬灯のように駆け抜ける二十年の軌跡を振り返りつつ、キリスト信者じゃねぇけど心の中で十字を切った。  

 次の瞬間、物凄い痛みがオレの腕を襲った事は、言う迄もない。   
「そういやモクバ、今日お前はどうすんの?出かけんの?」
「オレ?うん、これ食べたら支度して家に帰るよ。これでも結構忙しいしね、部活もあるし。明日から強化合宿なんだぜぃ」
「あーなるほど。だからココ貸してくれるってか」
「別に今日も居ていいんだけどー……邪魔しちゃ悪いしね。って、もう遅いか」
「!…………」
「うわっ、珈琲吹くなよ海馬!きったねーなぁ。……おいモクバ。それ以上兄サマの傷に塩を塗んな。後が大変だから」
「そんな気にする事ないじゃん。大した事無いよ」
「……お前は大した事ないだろうけどさー……空気読め」
「あはは。ごめんごめん。さて、帰る準備しよっかなー」

 全て完璧に整えられた朝の食卓で、真っ先に目の前の皿を空にしたモクバが上機嫌で席を立った。さすが成長期のスポーツマン。オレも結構食う方だと思ってたけど、モクバのこの勢いと量には適わない。

 普通は大人数で食べるサラダボールを一人で平らげ、パンは自分で好きに切った食パン数枚とフランスパン半分。卵数個分のスクランブルエッグは直ぐに無くなり、パンと一緒に飲んでいたたっぷりのオニオンスープと、お前それはジョッキかよ?!なマイコップに並々と注いだ牛乳をも飲み干して、最後にはちゃんとフルーツまできっちり食べた。……あの、お前の兄サマまだパンを半分も食べてないんですけど。早過ぎるだろ。

 そんな量をありえないスピードで食べつつも、やっぱお坊ちゃま。食事の仕方は上品だ。テーブルに僅かにも物を落とさず、口の周りも一切汚さない。時間をかけて食ってもその辺に散らかすオレとは大違いだ。ちくしょうめ。

 そのモクバの様子を、こちらも少々呆気に取られて見詰めるというよりも見とれていた海馬君は、さっきの……つーか昨夜の大失態に対する複雑な感情を無理矢理優秀な頭脳の奥底に押し込めて、漸く平静を取り戻しかけていた。が、空気の読めない弟の一言でまた思い出したのか、すげぇ怖い顔でオレを見る。

 うう、そんなに睨むなよ。お前に思いっきり爪を立てられた右腕、痣になってんだぞ。反省してんだからいい加減許してよ。

 景気よく鼻歌を歌いながらリビングへと向かうモクバの背中を恨めしい気持ちで眺めつつ、オレはケチャップをこれでもかとかけたスクランブルエッグをスプーンで掬って口に入れた。それをいかにもゲテモノだと言いた気な目で一瞥すると、海馬は何時もの倍の時間をかけてオレの半分の大きさのパンをゆっくりと咀嚼した。

「あーところでさ、お前は今日どんな予定?」
「……大学には行くが」
「あ、ちゃんと行くんだ。一日?」
「さぁ。何もなければその予定ではいる」
「オレはバイトがあるんだけど」
「別に聞いていないが」
「いい加減機嫌直して話聞いて。今さ、交通整理の兄ちゃんの他に短期の仕事でホテルでウェイターやってんだぜ。結構割いいのな、ああいうトコって」
「また随分と場違いなバイトを始めたものだな。そそっかしい貴様に務まるのか」
「金貰えるとなりゃー真面目にやるぜ。まだ一つも食器壊した事ねぇよ。結構サマになってんだぞ」
「貰えなくても真面目にやれ」
「嫌味ったらしいなぁもう。つーわけで、今日オレ夜バイトだから。学校から真っ直ぐ行くな?」
「そうですか」
「何その言い方。ああもうほんっとしつこいよお前」

 オレの言葉にいちいちそっぽを向いてツンツンした態度で答える海馬に、オレは盛大な溜息を吐きつつ、残りのパンを頬張った。うわ、ジャムつけ過ぎて超甘……ってオレジャムなんか付けてねぇよ!海馬だな!

「ちょ、お前ッ!こういう下らねェ意地悪すんな!」
「何の事だ」
「何で人のパンに勝手にジャム塗ってんだ!」
「親切心だ」
「嘘吐けよ!塩胡椒振ってんの見てただろお前!うわまっず!しょっぱいジャムとか最悪ッ!」

 野菜サンドを作るつもりで盛大に塩胡椒を振っていたパンに、甘いイチゴジャムをたっぷりと。……その味はすさまじかった。幾ら味オンチのオレでもこれはマズイ。……つーかさー仕返しのやり方をもう少し考えろよ!小学生かお前は!

 ……一見至極理性的でオトナな印象のある海馬だけど、時たまこういうとんでもないガキっぽい悪戯をしてくる事がある。そういう所が可愛いっちゃー可愛いんだけど、その顔と普段の行動から照らし合わせるとそのギャップが逆に恐ろしい。

 まあ、そんだけ昨日の事に怒ってる事はよーく分かったけどな。うーん、後でもう一回ちゃんと謝らないと駄目かぁ。そんな事を思いつつオレは盛大に顔を歪めながら、捨てるのも勿体無いと手の中にある激マズパンを最後まで食べ切ると、冷めて湯気も出なくなった珈琲を煽って一気に飲み込む。

 うえ……まだ味残ってる。酷すぎる。

「ちょっと二人共。そういう事はオレがいなくなってからにしてよ。見てて恥ずかしいよ」
「うるせぇモクバ!兄貴の躾がなってねーぞ!こいつどうにかしろよ!」
「オレは兄サマの味方だもん。いい気味だね」
「……ムカつくー」
「自業自得じゃん。あ、じゃあ兄サマ。オレもう行くから。また会社でね!」
「気を付けてな」
「うん。あんまり喧嘩ばっかりしないでよ」

 嫌になったらいつでも実家に帰っておいでねー?なんて台詞を残して大きなスポーツバックを肩に担いだモクバは、オレ等にひらひらと手を振って部屋を出て行く。小さな音を立てて扉が閉まり、自動ロックが掛かると、漸く……漸く室内に海馬と二人きりになった。

 本来なら凄く喜ぶべきだけど……この状況だとただ気不味い。

 海馬、相変わらずそっぽ向いてるし。ま、でもこういう状況って慣れてっし。二人きりになればこっちのもんです。現に海馬の意識はさっきよりもオレに向いてる。モクバがいなくなったから気にする要素が一つ減って、その分こっちに回って来たんだろ。全く単純だよなーこいつ。

 オレは手にした空のカップを手放して、その手で……っていうより腕でそっと、未だ頑なにこっちを見ない海馬の肩に手をかけて強引に引き寄せた。そして間近に迫った耳元に多少の熱っぽさを含んだ声でこう囁いた。

「な、やっと二人きりになったぜ。怒ってないで、仲良くしよ?」

 その声に、すかさず額に軽い一撃が飛んで来たものの、白い顔が振り向いた。

 ペチッ、という軽い痛みを伴う小気味のいい音が消える前にオレは笑った形のままの唇で、すぐ側にあった海馬の頬にキスをした。

 その後、勿論唇に。

 

4


 
「お前、あっちにいた時も電車とか地下鉄とか、一人で乗ったりした?」
「当たり前だろうが。日本じゃあるまいし、プライベートでは一々車など呼ぶか」
「危ねぇなぁ。あっちは日本よりも怖いだろうが」
「何が」
「何がって。痴漢とかさーお前こっちではまあデカイ方だけど、あっちではそうでもないし細いし、格好の的になりそうな気がするんだけど。つか、オレならやる」
「馬鹿か貴様は。……まあ無くは無かったが、慣れた」
「慣れんな!」
「煩いな。ああ、だから貴様はさっきからこの暑苦しい体制でいるのか」
「暑苦しいとか言うな。オレは結構キビシイんだぞこれ」

 なんだかんだと揉めたものの、結局一緒に家を出たオレ達は当然昨日とは逆のルートで大学へと向かっていた。今日の講義は二回目で開始時間が少し遅かったから通勤ラッシュのピークからは逃れる事が出来たけど、週末と言う事もあってこんな時間でも凄く混んでいた。

 車内に入って扉のまん前に陣取ったオレ達は、続々と乗り込んでくる他の乗客から逃れるように座席横の隅に移動し、扉を背に海馬を立たせて、その身体を囲う様にオレが手を付いて向かい合う形になった。当然満員電車だからオレは周囲に押されて結構痛い思いをしていたんだけど、当の海馬は涼しい顔でオレを見ている。

 この分だと朝から汗だくになりそう。超辛い。

 まあオレはこんなの当然慣れてるけど、常に車移動で混雑とかとは一切無縁だった海馬はあっちでどうしてたのかなって気になって聞いてみたら、やっぱりそれなりに大変だったみたいだ。つーかマジ危ないって。あっちの男は怖いんだぞ。その辺にぽつぽついる外人だって怖ぇじゃねぇか。お前そんな調子だと襲われても知らねぇぞ。

 ってオレが超真面目に言ったら「回りが皆貴様と同じだと思うな」って素っ気無く言われた。ひでぇ。なんだよそれ。……まあ海馬を襲った所ですげぇ返り討ちにあって終わるだけだけどな。向こうでは知らんフリして銃とか持ってそうだし。

 しっかしこいつ自覚が足りねぇんだよな。まあ鏡を見て「オレってカッコいい」なんて思う方がちょっとアレなんだろうけど、ある程度は自分の見かけがどう思われてるか知るのは必要だろ。なのにどうよこの興味の無さ。本人曰く、自分があらゆる場面で注目されるのは社長という肩書きがあるからだ、なんて言ってるけど、お前が社長だって気付く方が少ないっての。

 大体社長だろうがなんだろうが、ぶっさいくな奴にセクハラとか痴漢とかしようとするかよフツー。常識を考えろ。女だって女であればいいってもんでもないだろうに。何でそれが分かんねぇかな。手を出される要因は、所詮は顔とスタイルなんです。あとは……なんだろ、雰囲気?

 だってこの蒸し暑い中駅まで歩いてオレなんかすっかり汗だくなのに、海馬汗一つかかないし。お陰で今朝と同じあの甘い匂いが鼻を擽って落ち着かない。間近でこの匂い嗅いでみろよ。ヤバイって。オレが態々暑いのを我慢してこのポーズを取ってるのは防止策の一つでもあるんだけど、本人は凄ぇ不満そうだ。

 最近は日本でも男を狙う痴漢とか一杯いんだし(オレでもやられる事あんだぞ)、たまに公共機関を使う気があるんならちったぁ学習しろっての。慣れてどうすんだ。つか慣れるってなんだよ?!

 盛大な溜息が零れ落ちる。それを怪訝な顔で見下してる海馬に、オレは改めてはぁっと大げさに息を吐くと、その顔を見返した。

「お前の周りが、お前を過保護にすんの、凄く分かる気がする」
「どういう意味だ」
「そのまんまです。少しは自衛して下さい」
「では、自衛の為に蹴ってやろうか」
「ちょ、オレは壁になってやってんだろ!」
「どうだか、昨日のような事があると一番危ないのは貴様だ」
「うっ……まだ言うし。もうしないって」

 オレがそう言うと同時に、電車が大きく揺れて停車した。その反動で思いっきり顔が近付いて額が触れる。 チャンス!と思って昨日と同じくキスしようとしたら、残念、思いっきりガードされちまった。隣で慌しく出入りする人の流れを感じながら「なんだよー」って口を尖らせたら、「オレが言っているのは今の事だ!」と怒られた。

 あ、そっか。昨日の車内のアレの事ね。分かんなけりゃいーじゃんね。ああ、こういうとこが反省してねぇって言われるとこなんだな。分かってんだけどさ。……って、さっきよりも人増えてるんだけど!マジ痛ぇ!周囲から押されるままに頑張って踏ん張りつつも、結局無理で腕の支えも虚しく海馬にギリギリのとこまで近付く事になってしまったオレは、今度はわざとじゃねぇぞってちゃんと断って奴の両側に付いてた手を下ろしてしまう。

 腕の長さの分辛うじて離れていた身体は今度は寸分の隙間もなくくっついて、本当に密着状態になった。 うわ、ちょっとこれヤバイって。オレの後ろには露出度が高い、いい匂いのする化粧の濃いOL風の女がいたけれど、全く持ってどーでも良かった。

 この状態で女よりも男が気になるとかもう末期だよな。……ここまで来ると、ちょっとオレって男として問題があるのかも……なんて思っちまう。それもこれも全部こいつの所為だ!オレは悪くない!

「……さっきから何を一人でぶつぶつ言っている。気色悪い」
「お前の所為でオレの大事な人生観狂ったかも、って思って虚しくなったの。何が悲しくて……」
「フン、嫌なら離れろ。どうでもいいが近付き過ぎだ」
「満員電車の中でそれを言う?慣れたとか言ってる癖に。後一駅じゃん、頑張ろうぜ」
「嫌だ」
「嫌だじゃねぇっての。つかお前、もしかして帰りも電車使う?」
「当たり前だ」
「……もうさー庶民の生活満喫しなくていいから車呼べ。いや、呼んで下さい」
「何故だ。その必要は無い。大体貴様がその条件を出したんだろうが」
「あるって!あの条件撤回するからマジでオレの言う事聞いて!」
「意味が分からん」

 それから大学前の駅に着くまで、オレはずっと海馬に一人では電車に乗らないように説得に掛かったが、ついぞ海馬はうんと首を縦に振らなかった。こいつまだ拗ねてんな。ああもう一人で夕方のラッシュとか考えただけでゾッとするってーの。分かれよ!

 一瞬、ちっとバイト考えようかな……なんて思ったけど、前にそれで盛大な喧嘩をした事を思い出して、オレは仕方なく言葉を飲み込んで、もう一度同じ言葉を繰り返した。

 けれど海馬は煩げにオレの声を振り払っただけだった。

 可愛くねぇな!
「なーお前、あっちで浮気とかしなかった?」
「……何の話だ。昨日から似たような事を一々煩いな」
「だから、浮気。やっぱ半年って長いだろ?」
「ほう、人に聞くという事は自分はしていたと言う事なんだな」
「ちがっ!オレはしてねーって!」
「では何故先にオレに聞く」
「いやっ、だって……機会的にはお前の方が多そうだし」
「何の機会だ!」
「え?ほら、あっちの取引先の奴とパーティとかなんだとかあるだろ。外人好きじゃんそういうの。だと流れ的にそうならないかなーって。お前あっちの奴にモテるしさー特に男」
「貴様は企業パーティを乱交パーティか何かと勘違いしていないか?言っておくが酒癖が悪いのは日本人の方だぞ。というか何故男だ?!」
「そうなの?」
「貴様と話していると腹が立つわ。黙ってろ!」
「そんなに怒るなよー。してても怒らないからー」
「ふざけるな!馬鹿が!」

 いでっ。こいつマジで拳骨出しやがった。ったく暴力的だよなー。だって彼氏としては一番気になるとこじゃんか。目の届かない所で何やってるかとかさ。

 大体さー海馬って隙がなさそうに見えて隙だらけなんだよな。本人自覚まるっとないけど。自分は絶対大丈夫!なんて自信持ってる奴ほどヤバイってのがなんで分からないかね。ったく世話が焼けるぜ。

 そんな事をぶつぶつ呟きながら、オレは殴られてジンジン痛い頭を押さえて呻いていると、何時の間にか目の前に遊戯が立っていた。ここは大学の講堂でそろそろ特講が始まる時間だ。遊戯とは同じものを取っているから鉢合わせるのはある意味当然で、遊戯もそれを狙ってたんだろう。奴はちゃっかりと空いていた海馬の隣の席に鞄を置いてキープする。

「城之内君、海馬君、おはよう!今日は一緒に大学に来たの?」
「まぁな」
「おーおはよー遊戯。いでででで」
「どうしたの城之内君、頭押さえちゃって」
「暴力的な恋人に朝からDV受けてたの」
「えー?また海馬君に変な事言ったんでしょ。あんまり怒らせちゃ駄目だよ」
「良く分かるな」
「ちょ、お前海馬の味方かよ!親友だろオレ達っ!」
「貴様の普段の素行が知れるというものだ」
「ひでぇ……。オレはただ心配してるだけなのに」
「余計な世話だ」
「それは余計なお世話だよ」

 ちょ、遊戯まで一緒になって二人で綺麗にハモる事ないだろ!なんだよそれ?!はいはい、どーせオレは駄目人間ですよ。けどさ、海馬には保護者っつーもんがいないんだから、オレが変わりに心配してやってもバチは当たんないと思うんだよね。

 ……まあ、どっちかって言うと保護されてんのはオレの方だけど。駄目じゃん。

「で、海馬君と城之内君は今どうしてるの?」
「んー?昨日から大須」
「えっ、また同居始めたの?今度は無期限?」
「いや?モクバが合宿から帰ってくる迄の数日間だ」
「えぇ?!マジで!オレそんな事聞いてないけど?!」
「当然だ」
「海馬君、よっぽど城之内君と一緒にいると大変なんだね……」
「あぁ、体力面でな」
「分かる気がするー。だって海馬君が居ない間、城之内君ずーっと落ち着かなかったもんね」
「ちょっ、遊戯っ!お前余計な事言うなよ!」
「ほう、それで浮気か」
「浮気してねぇって!」
「あ、それは大丈夫。僕と本田君でちゃんと見張ってたから」
「どうかな。この男は人の目を盗むのは上手いからな。そして妙なところで度胸がある」

 言いながらちらっとこっちを見た海馬の目は凄く怖い。うっ……また昨夜の事ですか。もーお前マジしつこいよ。そんっなにモクバに声聞かれちゃったのが嫌なのかよ。だからそんなの今更だって。ま、多分向こう三ヶ月はネタにされるんだろうけどな。

 しっかし余計な事言うなよ遊戯!オレは浮気はしてねーって言ってんだろ!……そりゃー健全過ぎる程健全な青少年ですから?ちょっとは思いましたよちょっとは。でもまあヤんなきゃ死ぬって訳でもあるまいし、我慢した後の一発目は最高に気持ちいいって言うし(実際気持ち良かった)ちゃんと我慢してたんだよオレは。褒めて然るべきだろそこは!

 って、あいつ等オレをほっぽって仲良く談笑始めやがった。酷過ぎる。

 でもやっぱり手の届く所に恋人がいるっていいよな。勿論こっちにいたって海馬はここに来る事は殆どねぇんだけど。それでも日本にいればオレがKCに行けば大体は会えるし(たまに門前払い食うけど)、そうでなくても結構メディアの露出もあるから何してるかって分かるし。外国にいる時とは大違いだ。何よりひょいっと手を伸ばすと触れるのが凄くいい。……例えその手をハエを叩くみたいにそっけなく叩き落されても、だ。

 あー退屈。つーかお前遊戯に構ってないでオレに構えよ。拗ねるぞ。こういう日に限って夜中までバイトだもんなぁ。ホテルのバイトなんてしなきゃ良かった。つか、海馬がちゃんと帰ってくる日を言えばきちんと時間空けたのに。いっつも突然だから調整がつかねぇっての。ふざけんな。

 今日のバイトは確か何とかっていう大企業の五十周年パーティとかで、何でも三日間ぶっ続けで童実野ホテルの一番でっかいホールを借り切ってやるらしい。オレ等バイトはそのパーティの給仕をする訳だけど、その名目からしてお堅いおっさんばっかりで綺麗なお姉さんもいないようなつまんねーパーティなんだろうな。先輩がオレに押し付けたぐらいだから相当だ。

 あいつ自分ばっかりなんとかっつー女優の映画主演記念パーティだの、若いカップルの結婚披露宴だの、美味しいところとりやがって超ムカつく。うあーなんか超憂鬱になってきた。バイト行きたくねー。

 しっかしおっさんだらけのパーティーかー。そういう所に、例え男でも海馬みたいなのが紛れ込んだらそりゃー色めき立つよな。女がいねぇと余計目立つし。あいつ仕事の時は猫被るから従順な態度と言葉遣いをしちゃって可愛いでやんの。だから問題なんだよな。……まあ仕事でいつものあの高慢ちきで嫌味な態度とってたらヤバイけどよ。

 うーん、どうせなら海馬がいるようなパーティーとかに潜入してみてぇな。オレの知らない世界でどうしてるか近くで見てみたい。だって会社関連の事に関してはオレは当然蚊帳の外で、なんも分からないから。だから余計な心配とか勘ぐりとかもしちまう訳で……。

「凡骨、何を呆けている。講義が始まるぞ」
「へっ?えっ?もうそんな時間?!」
「……貴様は寝てもいないのに何故口の端から涎を垂らしているのだ。汚いな」
「あわわ、ちょっとぼーっとしてただけだっつーの!今日夜バイトだし、体力温存しとかねぇと。レポート用のノート取りはお前に頼んだ!」
「嫌だ」
「お願い。貴重なオレの煙草一本あげるから」
「吸うな。馬鹿になる。そんなもの何時覚えた」
「この半年の間。口寂しくって……って!馬鹿とか言うなよ!」
「寄越せ。没収する」
「えぇ?!少ないバイト代から捻り出した貴重な一箱!」
「オレは煙草は嫌いだから吸ったらキスはしない」
「嘘っ?!……うー……じゃあ、はい……」
「偉いな。後で煙草分の珈琲を奢ってやる」
「嬉しくねぇ……」

 チッ、薮蛇だった。くっそーまだ数本しか吸ってねぇのに。オレは大きな溜息を吐きながら、笑顔で手を差し出してくる海馬にまだビニールさえ付いたままの煙草を差し出して、涙を呑んだ。
「凡骨、予定が入った。午後から抜ける」
「えぇ?!夜は?!」
「分からん。遅くなる。貴様もどうせバイトだろうが」
「そうだけど。何処行くんだよ、会社?」
「まぁ、そんな所だ」
「何だよ曖昧だなー。日付変わる前には帰って来てくれよ」
「努力する。……あぁ、でもその前に……」
「うん?」
「いや、何でもない。そういえば鍵を渡すのを忘れていた。無くすなよ」
「お前、オレを幾つだと思ってる訳?」
「年は関係ないだろうが。何時だったか家の鍵を落として泣きを入れて来ただろう。もう忘れたのか」
「何年前の話だよ!」
「とにかく。複製出来ないタイプだから絶対に落とすな。いいな」
「はーい。じゃあ今夜は早く帰ってきてね、ハニー♪」
「死ね!」
「ここはダーリンってちゃんと返せ……いでッ!」
「下らん事を言う暇があったらとっとと昼食を終えて講堂へ戻らんか!オレはもう行く!」

 ベシッ!とスゴイ音がして、オレの額に結構ゴツイ電子ロックのキーとそれに付けられたブルーアイズのキーホルダーが激突する。いってぇ〜お前投げる事ないだろうよ!これだって立派な金属だぞ?当たると超いてぇんだ!なんでそうすぐに暴力を振るうんだよこのDV男!

 額にくっきりと跡を残し、ポロリと掌に落ちてきたそれを受け止めながら、オレはそう悪態を付きつつ肩を怒らせて早足で去っていく海馬の後姿を眺めていた。

 短い昼食休憩も終わる午後一時前。

 他の学生に混じって学食の片隅で向かい合って昼メシを食べようとしていたオレ達だったが、不意に鳴り響いた海馬の携帯でそれは全部台無しになった。海馬は携帯を取った途端小難しい顔をして立ち上がり、オレから大分離れた場所で多分会社の人間と仕事の事でなにやら話をしているみたいだった。

 時折オレを気にするようにチラチラとこっちを見る仕草が妙に可笑しくて、オレは一応注文を終えて後は食うだけだった日替わり定食を目の前にしても食べないで待っていた。本当は物凄く腹が減っていて直ぐにでも口に入れたかったんだけど、なんとなく一人では食べる気にならなかった。だってそうだろ。折角二人でいるのに一人で食事って寂しいじゃんか。

 そんなオレの事をやっぱり時たま気にしながら、海馬は電話の相手に怖い顔で何かを言いつけながら、ジェスチャーでオレにそれを食べろと言って来た。この時点で既に十分過ぎていたから流石に悪いと思ったんだろうな。律儀な奴。

 海馬って、なんていうか普段はめちゃくちゃ傍若無人な癖に変な所に余計な気を回すんだよな。ほんと、そういう所が今でも凄く不思議に思う。オレ的には気を回すより先に暴力と暴言をやめて欲しいとこなんだけど、分かってて付き合ってんだから文句は言わない事にする。言いたいけど。

 まぁとにかく、海馬から食べろと指示されてしまったら、オレには箸に手を伸ばす以外に選択肢はなく(こういうとこが犬って言われるんだよな。完全にご主人様に「よし!」って言われてるみてぇじゃねぇか)、口だけで海馬に向かって「いただきまーす」と言った後、いつもよりも大分遅めのペースで食べ始めた。それを奴はやっぱり電話をしながら眺めている。

 自分は食事をしてる様をじっと見られるのを嫌がる癖に、海馬はオレの食事をする様をよくガン見する。 というか、オレが食べる量の半分も食べないから暇を持て余してオレの食いっぷりを見ている事しかする事がないんだろうけど。んでも、見てるだけならまだしも口を出してくるから始末におえない。

 『早食いは胃に悪い』とか『よく噛め』とか『人間を主張するなら食べ方ぐらい人間らしくしろ。犬食いはするな』とか、いちいちうるせーのなんの!マジ食った気しねぇ!

 ……でも言う事は一々尤もだし、無視すると怒るから結局オレは海馬の言う事を大人しく聞いてやる。お陰で周囲のダチに食べ方が上品で気持ち悪い、と言われるようになった。……気持ち悪いって……オレにどうしろっていうんだよ?

 でも確かに綺麗な食事の仕方ってのは見てて気持ちがいい。海馬レベルになるとそれはもう次元の違う話だけど、同じもんを食べても凄く美味そうに見えるんだから不思議なもんだよな。 箸一つ、茶碗の持ち方一つでこんなに違うんだって事をオレはあいつを見て初めて知ったんだ。まぁ、知ったからと言って何が変わるって訳じゃないんだけど。

「………………」

 今もまた、海馬は電話に集中しながらオレの方を監視するようにじっと見ている。暇人だな、おい。とっとと電話終わらせろ。そう思いつつ、炊き込みご飯をかき込もうとして、寸でのところで留まった。……だって海馬の顔こえぇんだもん。チェックが厳しすぎる。

 そんなこんなで二十分。定食だけじゃなんとなく足りなかったオレが追加で頼んだ味噌ラーメンに七味を振り始めた時点で漸く海馬の電話が終わり、渋い顔をした奴が席に戻って来る。そしてオレに素っ気無く告げたのが、さっきの「予定が入った」の一言だった。散々人を待たせておいていなくなるのかよ?!と思いつつ、これもいつもの事だから直ぐに諦める。

 うーんいい方に考えれば二日連続で大学に来れた事自体が奇跡のようなもんだからな。今日は一緒に通学できたし、ま、いっか。

 そんな事を思いながら、オレは手にした合鍵をテーブルの上に置くと、ちょっとだけ伸びちまった味噌ラーメンに手を付ける。もう目の前に海馬はいないのに、馬鹿食いをする気にはなれなかった。うう、慣れって怖い、こんなのオレじゃない。そう思いつついつもの倍の時間をかけて完食する。

 あーでも今日は夜海馬もいないのかー折角「お帰り」って出迎えて貰えると思ったのに。くっそー明日はオレもバイト休んで、海馬もなるべく仕事を断って貰って夕飯は絶対一緒に食ってやる!絶対に!

 ふとその時、遠くで十分前の予鈴が鳴り響いた。やべ、午後一番に出欠があるんだった。急がないと意味なくなる!慌てて立ち上がり、あたふたと空の食器が乗ったトレーを返却口に返し、こっから少し距離がある大講堂へ行く為に足を速める。

 途中トイレから出てきた遊戯と合流して一緒に並んで階段を上がっていく。オレはその時、海馬から預かった合鍵をテーブルの上に置き忘れた事に全然気付いていなかった。その存在すら、すっかり忘れちまってたんだ。そしてあろう事か、オレはそのまま大学から直にバイト先に行ってしまう。

 鍵がない事に気づいたのは、もう空も暗くなった……夕方の事だった。

 

5


 
「……えっ?!無い!」
「どしたー城之内。まーたネクタイ無くしたのか」
「や、そうじゃなくって……嘘、ヤバイ!鍵がねぇ!」
「鍵ぃ?車の?」
「家の!ど、何処に落としたんだろ……えっと大学……?……いや、確か持ってた筈……うあぁ!思い出せねぇえええ!」
「家の鍵?!ばっかでーお前、帰れないんじゃねぇの?」
「……マジだよ!どうしよう?!探して来るには時間がないっ!めっちゃくちゃ怒られる!」
「とりあえず鞄と服ひっくり返して探してみろよ。案外とんでもない所に入ってるかも知れねーじゃん」
「うぅ、そうだよな。後何分?」
「大丈夫、十五分あるぜ」
「よしっ!……なぁ、探し物を見つけるおまじないってなんだっけ?鋏に糸ぐるぐる巻きながら探すんだっけ?」
「お前何訳の分からない迷信持ち出してんだよ。落ち着けよ」
「だってお前マジ半端なくヤバイんだって。殺されるって!」
「家の鍵なくしたぐらいで殺す馬鹿がどこにいんだ」

 直ぐそこのKC本社に君臨してんだよその馬鹿は!

 授業を終えて即バイト先である童実野ホテルに直行したオレは、従業員用ロッカールームでバイトのユニフォームであるタキシードに着替えながら、ジーパンのポケットから落ちたライターを見てふと海馬から預かった鍵を確認しておこうと思い立った。

 無くすなって念を押されたし、今日は海馬も遅いからないと家に入れないし……なんて思いながら上着のポケットや鞄の外ポケットを探る。……そしたら、どこに手を突っ込んでも肝心の鍵がねぇでやんの!ちょ、無くした?!オレは全身の血が引いていく感覚を覚えながらそれこそ必死になって思い付くところ全てを探った。

 それを横目でニヤニヤしながら見ている同僚のアドバイスに従って鞄の中身を全部ぶちまけて底板まで外して確認し、服も全部最後はパンツの中まで確認したけれど影も形もない。どうやらどっかに思い切り落として来てしまったらしい。

 瞬間、海馬のまるで悪鬼さながらの顔が浮かんで、オレは怖気上がった。怒られるだけならまだしも、絶対に殴られるぞこれ。しかも砂にされそうな勢いで!ヤバイ、怖い、どうしよう!

 辺りを盛大に散らかして、その真ん中で呆然とするオレを相変わらず面白そうに眺めながら、同僚はいかにも他人事です、な口調でさらりと言った。

「そんなに絶望するような事かね。コピーキー作ればいいじゃねぇか。後、同居人がいんならそいつ帰ってくるまで待ってればいいだろ」
「……そんな簡単な問題ならこんなに必死にならねーよ。コピーキー作れない奴なんだと。渡される時念を押された」
「あらら。まあとにかく、知らせた方がいいんじゃねぇの?誰かに拾われて悪用されたら事だぜ」
「……うぅ、今はヤだ。バイト前にテンション下げたくねぇ」
「十分下がってるじゃねぇか。おいおいしっかりしてくれよ。今日は普段よりも大規模なパーティでお偉方が集まるんだからよ」

 多分物凄く嫌な空気だぞ。

 そんな事を言う同僚の言葉に、オレはますます気分を下降させて、散らかした中身や服をとりあえず鞄に適当に放り込むと、力任せにロッカーを閉めた。ガン!と鈍い音がして、微妙に取っ手の部分が凹んだ気がするけどそんなのはどーでもいいや。

 真っ黒の肌ざわりが大分いいジャケットを着て、予めセットされてる蝶ネクタイをつけて、ちょっと髪を大人しくするとオレでも一応立派なウェイターに見えるんだから服って不思議だ。まあ面接の時に金髪は駄目だとか言われたけど、その後何も言われないからどうでもいいんだろ。オレも染める気ないし。

「よっし、気合入れていくかー!ダルイけど」
「オレもう超やる気ない……家にも帰りたくない、どうしよう……鍵ぃ……」
「バイトの間は忘れろよ。なるようになるって」
「そうかなぁ」
「ま、頑張ろうぜ。今日は特別手当出るって言ってたし」
「マジで?!ちょっと嬉しいなー。ちょっとだけど」
「だろ?……っと、結構集まってんな。開始7時とか言ったのに」
「年寄りは気が早ぇんだろ。あーもーマジジジイばっかり……」
「大企業のパーティーなんてそんなもんだって、大抵重役なんてジジイじゃん」

 支度を終えて早速会場へと向かったオレ達は、既に準備を始めている数人のスタッフに混じってセッティングが終わっているテーブルの最終チェックをしていた。チェックだけだから特に忙しくもなく、暇な時間をぽつぽつと入り始めた『お偉いさん』を観察する事にあてていた。

 人間観察をするにはホテルって場所はなかなかいい。それこそ色んなジャンルの人を見る事が出来るから。今日みたいに普段はお目に掛かれない面子が揃う時なんか特にだ。会社社長なんてどいつもコイツも狐か狸みたいないかにも何か悪さしそうな顔をして、気色悪いったらありゃしねぇ。

 そんなおっさん達相手にしなきゃなんないんだから、海馬が事ある毎に嫌だ嫌だっていうのも凄く分かる。あくまで笑顔で、油ギッシュな汚ねぇ手握ったりしなきゃなんないって最悪だろ。うわー嫌だ。気持ち悪い。

 と、周囲を見渡しながら心の中で思ってたその時だった。

 オレの横で全く同じ様に暇を持て余していた一人が、不意に視線をある一箇所に留めて不思議そうに首を傾げた。そして次の瞬間上げられた人差し指と共に、オレにかなりの衝撃を与える事になる。

「……お?ちょっと見てみろよ城之内」
「なんだよ。綺麗なねーちゃんでもいたのかよ」
「いや、綺麗なねーちゃんじゃーねぇけど。あいつがいる。ほら、なんだっけ。海馬瀬人」
「はい?」
「だから、海馬瀬人だって。ほれ、あの隅っこにいる。違うっけ?」
「!ちょ、ほんとだ!海馬ッ!」

 驚いて目を見開いた所為でかなり広くなった視界のど真ん中に、マジで見慣れた海馬の姿があった。 このクソ暑いのに何故かいつもの白スーツじゃなく濃い紺色の上下を身に付けて、近くにいたオッサンとなんか普通に話してる!その背後にはいつもの黒服のSPがちゃんと控えててなんか妙に目立ってる。

 ……まあ一番目立ってるのはその若さと顔なんだろうけど。ジジイばっかのこんなトコでは確かにあいつすっげぇ目立つもんな。めっちゃ輝いてるよ。つーかお前、学校途中で帰ってこんなパーティに出てたのか!

『……あぁ、でもその前に……』

 けど、よく考えてみれば確かにさっきなんか言いかけてやめてたっけ。多分今の状況とあの時の台詞から考えるに「その前に貴様と顔を合わせる事になるかもしれない」とでも言うつもりだったんだろう。……でも、オレ、海馬にホテルでバイトしてるとは言ったけど童実野ホテルとは言ってねぇし、なんで分かったんだ?あいつの事だから直感か何かで気付いたんかな。どーでもいいけど、それって怖い。

 ……しっかしさぁ。お前、パーティに出るなら出るってちゃんと言えよ。きっとオレにヤな顔されるから言葉濁してたんだろうけど、こうやって出会っちまったら意味ないじゃん。しかも何?夜遅くなるとか言ってなかったっけ?つー事は二次会三次会まで出るつもりだって事だろ。二次会からは多分無礼講で、普通で言ったら酒飲みになる。接待か。接待なのか!お前そのジジイ達と一緒に何処行くって?!ふざけんなよ!

 オレが内心そう喚きながらじっと海馬の方を見ていると、さっきからずっと話をしてるらしいオヤジが偉く馴れ馴れしく肩を叩いたりしてやがる。まあ、別に何か下心があって、とかじゃないだろうけどどうにも顔つきがやらしいからすげぇ不愉快だ。海馬もやっぱり同じなのか、顔は一応笑顔だけどちょっと引き気味だ。へーお前でもそういう顔すんのか。初めて見る。

「城之内。おい、城之内!何ぼーっとつっ立ってんだ。グラスの用意するぞ」
「へ?あ。はーい。もうそんな時間か」
「お前の腕時計は何の為にあるんだよ。いいから早くしろ、チーフに怒られっぞ。ったく、そんなに珍しいのか?海馬瀬人。まぁ、生はなかなか拝めねぇけど」
「や、別にそうじゃねぇけど」
「ま、オレ等とは全く違う世界の人間だからな。珍しいっちゃ珍しいかも。さーて仕事仕事」

 あー違う世界の人間かぁ。世間一般ではやっぱそう見られるのかね。今一応一緒に住んでて、ついでに言えば昨日寝込みも襲ったんだけどな。そっか。確かにこうして違う立場から見れば、別世界の人間ではあるよな。あっちは世界随一の大企業の社長さん。オレはただの貧乏学生。分かってますよ、そんな事。でもはっきりと自覚しちまうと、ちょっとだけ寂しかったりもするんだな。まあいいけど。

 先に立って歩き始める同僚の後ろを追うようにオレも会場奥の厨房に繋がる扉へ向かう為に足を踏み出す。 その時、最後にもう一度、と思って海馬を振り向くと奴は相変わらず例のオヤジと話をしているようだった。手を振ってアピールしてみようかと思ったけど、多分気付かないだろうから諦めた。まあいいや。後でさりげなく海馬のところに行ってみよ。

 会場には大分人が増え始め、騒がしくなってきた。耳に届くオッサンのガハハ笑いに顔を顰めながら、オレは後ろ手にそっと扉を閉めた。
「くっそ、なんであいつの周りには人だかりが出来てんだよ?!」
「お前さっきから何ぶつぶつ言ってんの?あのテーブル、ワイン空になってんぞ。あそこはロゼな」
「あっ!また!ったくいい加減にしとけよ!」
「城之内!いい加減にするのはお前だっつーの!」
「なんだよ?!」
「なんだよじゃねぇよ、働け!」
「だってよー」
「ほら、チーフこっち見てんぞ。さっさとしねぇと給料貰えなくなるぜ」
「分かった分かった。……で。何って言ったっけ?」
「お前なぁ……」

 何とかっていう企業の五十周年パーティが始まって一時間後。

 オレは他のバイトと一緒に会場中を飛び回りながら、何とか同ホール内にいる海馬に接触を試みようと思ったけれど、予想通りというかなんというか海馬の周りから人は途切れず、オレは奴の傍に近付く事すら出来なかった。さすが今もときめく上昇企業海馬コーポレーション。他企業のお偉方はここぞとばかりにコネを作ろうと躍起なんだろうな。

 こういうパーティってそもそもはそういうもんだって、誰かから聞いた気がする。まあ多分海馬からなんだろうけど。それにしてもうざってーな。一応立食パーティだろうが。メシ食えよ!勿体ないだろ?!っつーか相手の迷惑を考えろっての。空気読めジジイども!

 しっかし、面白くねぇ集まりだよな。聞こえてくる話は当然の事ながら自社の自慢話や商談めいたやりとりばっかで。上っ面だけヘラヘラして頭を下げるいかつい顔をしたオッサンを見てると胸糞が悪くなってくる。これも仕事の内だと思えばまあしょうがねぇんだろうけど、オレなら絶対に嫌だね、こんな事。海馬、オレよりも百倍短気なのによく耐えられるな。ちょっと感心した。本当にちょっとだけだけど。

 人に埋もれて頭頂部しか見えない海馬の事をちらちらと確認しながらオレは休む暇なくテーブルと厨房を往復する。グラスにワインやビールを注いでみたり、使用済みの皿を速やかに回収したり、足りなくなった料理を追加したり、やる事は山ほどある。

 窮屈な服装で全身に汗をかきながら必死にそれをこなしていると、何時の間にかパーティー終了の挨拶が始まった。明るかった照明は一気に半分に落とされてセッティングされたステージの上でハゲが偉そうに何か喋ってやがる。話の内容からして締めの挨拶らしい。

 え?もう三時間経った?オレまだ自分の存在すら海馬に伝えてねーんだけど。つか、このまま逸れちまったら、オレ今日どうすんの?汚れた皿を持ったままぽかんとしながらマイクに向かう司会者らしき男の顔を眺めながら、少し焦ってそんな事を考えていると、突然オレの背中を強く小突く奴がいた。

 うおっ、さぼってんのバレたか?!と慌てて足を動かそうとすると、今度はタキシードの裾を思い切り引っ張りやがる。それにはさすがにイラっと来たオレは、うるせぇ!とばかりに思い切り後ろを振り向いた。すると、物凄い至近距離に何時の間にか海馬が立っていた。

 ちょ、突然なんだよ?!

「ぅわ?!海馬ッ!お前何時の間にッ!」
「煩い、静かにしろ。貴様、ウェイターの癖に皿を持ったままサボるな。邪魔だ」

 弾みでガチャリと音を立てて揺れた皿をさりげなく支えてくれながら、海馬は至極不機嫌な顔でオレを見る。わーご機嫌超ナナメ。こりゃこの数時間でよっぽどストレス溜めたんだろ。見てるだけで怖い。今の海馬君なら視線で人殺せますよ。くわばらくわばら。

 んでも、やっと周りから人いなくなったんだな。海馬の方がオレに先に気付くとは思わなかったけど、ちょっとだけ嬉しかったりして。って、喜んでる場合じゃねぇや。とりあえず言う事は言っておかないとな。そう思ったオレは、未だにむすっとした顔でこっちを睨んでいる海馬に少しだけ近付いて、周りの空気を読みつつ口を開いた。

「おい海馬。お前、なんでさっきここに来る事教えてくれなかったんだよ。会社とか言っちゃってさ」
「オレは会社とは言っていない。貴様が勝手にそう思っただけだろうが」
「屁理屈こねんな」
「……オレだって好きでこんな席に顔を出した訳ではない。最初は断ったのだが、アメリカ帰りで少し挨拶をしなければならない連中がいてな。その為に仕方なく出てくれと懇願されて……」
「あーそうですか。そりゃ分かったけど、挨拶が目的ならもう終わったんだろ?直ぐに帰れよ」
「馬鹿だな。こんな形式上のパーティなどは茶番に過ぎん。これからが本当の意味での『パーティ』になるんだ」
「それって、もしかしなくてもご接待的なナニか?」
「まぁ、そういう事になるだろうな」
「行くのかよ。そんなとこに。ジジィしかいねぇじゃん。しかも本格的に酒入るんだろ?」
「……話をつけたい相手に誘われている。滅多に会えない男だからな。チャンスを逃す手はないだろう」
「ちょ、誘われてって……!」
「き、貴様何を考えている。そういう意味ではないわ!とにかく仕事に戻……」

 薄暗がりの中で、小声でこそこそとそんな話をしていたその時だった。不意に海馬の姿を見付けたらしい比較的若い男がさりげなくオレ等の傍に寄って来て、何やら小声で話しかけてきた。すると海馬は即座にオレから顔を背けてたった今見せていた凄みのある不機嫌顔は何処へやら、まるで別人の様に柔らかな表情で相手の言葉に答えている。

 明らかに内緒話をするような感じでこそこそと話すもんだから、こっちには殆ど聞こえて来ねぇけど、よくよく耳を欹てていると「次の会場に……」とか、「……企業の相談役が……」とか、まあ一応仕事の話をしているのはよく分かる。  けど次の瞬間ステージ上のスピーチが終わって、盛大な拍手と共に明るくなった場内で、急にクリアに聞こえた会話にオレは思わず持っていた皿を取り落としそうになった。

「アメリカでは大分世話になったと彼が言っていてね。今月末にでも帝都のホテルで食事会を兼ねた会合を開きたい、と言ってきかないんだ。どうだろう?」
「その件は後日改めてお返事を差し上げます、と先日部下を通してお伝えした筈ですが」
「ああうん、聞いているよ。けれど……ねぇ、分かるだろ?僕もほとほと困ってるんだよ。取り合えず次の会場に本人が来ているから、直接話をしてくれないだろうか?」
「……話位なら」
「そうか。それは助かるよ。じゃあまた後で」

 ぽん、と凄く馴れ馴れしい態度で海馬の肩を叩いたその男は、来た時と同じ唐突さで再び踵を返して帰って行く。……なんだありゃ、いけすかねぇ野郎だな。オレが声には出さずに心でそう呟くと、海馬は苦々しく舌打ちをして叩かれた肩をはたきながらオレの方を振り向かないで唸る様に呟いた。

「厄介だな……」
「何、今の話に出てた奴、お前、嫌いなの?」
「あぁ。なるべく係わり合いになりたくない男だ。今日は来ないと言っていた筈なんだが」
「お前、さり気なくハメられてんじゃねぇの。二次会……っていうのか?それ行くのやめちまえよ。何があるか分かんねぇぞ。なんだよホテルって。やらしい事目的じゃないだろうな、オイ」
「貴様じゃあるまいし、何でもソレに結びつけるな。しかし、次の会場に行かない訳にはいかないのだ。そいつはともかく、さっきも言った会いたい男がいるからな」
「でもなーんか雰囲気がなー。スケベそうってか、気持ち悪い。オレ、ああいう奴嫌い。あんな奴を部下に持ってる男なんて碌なもんじゃねぇよ」
「奇遇だな。オレも嫌いだ。仕事以外なら絶対に係わり合いにはなりたくないタイプだ。……それはともかく貴様は持ち場に帰れ。さっきから貴様を見ている奴がいるぞ」
「ゲッ!チーフめっちゃオレの事睨んでる!ヤベェ!……あ、それはそうと海馬……あれ?海馬?」

 まるでギロッ!と音がしそうな程怖い目でオレをガン見してるチーフにビビって飛び上がった瞬間、オレは海馬に肝心な事を言うのを忘れた事に気付いて慌てて海馬の名前を呼んでみたけど、何時の間にか奴はどっかに消えていた。

 ちょっと!オレ鍵ないからお前がいないと帰れないんだけど?!どうすんだよ?!

 あ、でもアナウンスで二次会場は上のフロアの……とか言ってる。っつー事は童実野ホテルから移動はしねぇんだな。良かった。じゃあ、仕事終わったら待ってよう。うん、そうしよう。

 チーフのこれでもか!って程の怖い視線に耐えながら、オレはそそくさと皿を持って早足で厨房へと駆けていく。途中何度も海馬の姿を探してざわついた場内を振り返ったけれど、結局見つける事は出来なかった。

 

6


 
「っかー!疲れたぁ!今日はハードだったなぁ!」

「…………そうですね」
「うはは、めっちゃ凹んでる。どんだけ絞られたんだよ。だからボーっとすんなっつったろ」
「だってよぉ……オレ悪くねぇもん」
「やーあれはどうみてもお前が悪いぜ。ま、心を入れ替えて明日からまた頑張りな」
「いや、それが……」
「どした?」
「明日から来なくていいって言われた。綺麗さっぱりクビです」
「嘘?!マジで?!……あーあ、ご愁傷様……」
「短い間だったけど、お世話になりました。まあどうせ今週末でバイト終わりだったけどな」
「そっかー。お前がいないとオレが目ェ付けられるから困るんだけど、お疲れさん」
「あん?今何てった?」
「何でもないっす」
「あー今日はもう最悪だった。鍵も無くすし、バイトはクビになるし……」
「ほんと、可哀相だなお前。どっかで飲んでくか?家に入れないんだろ?」
「いい。同居人待つ事にすっから。じゃ、またな!童実野駅前交差点で会おう!」
「あはは。またなー」

 海馬と別れてから二時間後。会場の片付けに奔走する傍らでチーフに呼び出されてしこたま怒られたオレは、そのまま解雇通告を頂戴して項垂れてロッカールームに戻って来た。うぅ畜生、それもこれも全部海馬の所為だ!と思いつつこれで明日はお休みだー、なんてちょっと浮かれていた。そんな事は絶対に口には出来ないけどな。特に海馬には。

 よーし後でたっぷり嫌味を混ぜてお前の所為でクビになったぞって報告してやる。……まぁ多分「自業自得だ」って一蹴されて終わるんだろうけど。どっちにしても怒られる展開が見えるって嫌だよなぁ、つまんねぇ。

 あーでもこのバイトも今日で最後かー結構楽しかったな。こんな事でもしなきゃ一生タキシードなんて縁ねぇし、まあいい経験だったぜ。明日からはまた交通整理の兄ちゃんで頑張ろう。

 と、綺麗さっぱり踏ん切りをつけて、オレは同僚に軽い挨拶をした後ロッカールームを出る。ジーパンとTシャツのラフ過ぎる格好は、ほんとホテルって場所には似合わねぇ。ま、別に利用する訳じゃないしいいんだけど。 んでも、この姿でうろちょろしてっと摘み出されるか?うーんどこで海馬を待ってよう?

 そんな事を考えながら、オレはぶらぶらと従業員専用フロアを抜けて、エレベーターの前に立つ。エレベーターの動きと共にランプが光る表示板を眺めながら、パーティ会場だった十階の大ホールの上にある十五階の、いわゆるVIP系が利用するフロアをガン見する。

 勿論そこにはパスカードがないと入れないし、仮にそんなものが必要なくてもオレがこの格好で行ったら速攻排除されるのは目に見えてる。っつー事はフロント前で待つしかねぇのか。どうもあそこは居辛くて嫌なんだけどしょうがない。そう決めたオレはさっさと一のボタンを押し、無人のエレベーターに乗り込んで壁際に背中を預けて腕時計を見た。

 あ、もう十一時半か。結構な時間だな。幾ら二次会だからってそろそろ解散する頃だろ。それにしても疲れたなー。

 誰も居ない空間でオレははぁっ、と大きな溜息を吐くと、何時の間にか到着して開いたエレベーターのドアを潜ろうと、一歩足を踏み出した。その時だった。

「!…………」

 目の前の少し離れた場所に、見慣れた二人組が佇んでいる。片方はなんの偶然か待とうと思っていた海馬その人で、もう片方は……あー!あいつさっき海馬に馴れ馴れしく喋ってやがったいけすかないスケベ男!つか、あいつまた海馬になんか言い寄ってる。海馬の表情から言って多分すげぇヤな事言われてんだろうな。あっ!何腕掴んでんだよ馬鹿!

 そんな事を思いつつもオレは反射的にエレベーター前にある大理石の支柱に身を潜めた。なんて言うか、奴等の格好を見ているとオレなんかが気軽に声をかけられないような、そういう雰囲気があったからだ。

 これが普通の街中とかなら特に考えもなく飛び出していくんだけど、場所は有名ホテルのエントランスだ。下手に首を突っ込んで、海馬に迷惑が掛かると困る。

『ま、オレ等とは全く違う世界の人間だからな』

 こんな時に同僚のあの言葉が蘇る。違う世界の人間。普段は勿論そんな事を考えはしねぇけど、ふとした瞬間にそれを強く感じる事がある。今がまさにその状況だ。オレが飛び出して行く事で海馬に何か不利な状況が生まれたらと思うと、なかなかその勇気が出ない。そうでなくても何かと色んな雑誌のネタにされる事が多い奴だし、こんな下らない事でスキャンダル扱いもされたくねぇ。

 ……あーでもあいつすげぇむかつく。あんな奴に一分一秒でも触られたくない。つーかぶん殴りたい。……どうしよう。オレは目の前の状況を歯噛みしつつ睨みながら直ぐに踏み込んで行くか否かを必死に考えていた。海馬は相変わらずあのクソ男にしつこく何かを言われていて、一応表情は取り繕ってるもののブチ切れる寸前だ。このままだとあいつ絶対手ぇ出すぞ。いや、あそこまでくると足かな。や、どっちにしてもそれもヤバイ。

 海馬が相手ぶん殴って騒ぎになるのと、オレが飛び出していくのとどっちがマシだろう?既にいつでも飛び出せる状況で身構えながら、オレが最後の選択を自分に突きつけたその時だった。クソ男の空いていた左手が海馬の腰に回る。その刹那、オレの中で何かがブチッと切れる音がした。

 あ、もう駄目だ。オレ限界。……何言われたっていいや。出てってやる!

 そう思ったが最後、オレは直ぐに支柱の陰から飛び出して奴等の下に一目散に駆け出した。そしてここがどこかも、相手が誰かも全く忘れて、大声で叫んでしまう。

「海馬!」
「!……城之……」

 その声に海馬が驚いて振り向いたと同時にオレは即座に捕らえた海馬の腕を思いっきり引いて、クソ男の腕から引っぺがすとその勢いのままオレの背後へと押しやった。スニーカーのゴム底が床を擦り、キュッと派手な音がする。そして飛び出した時の勢いのまま一瞬の出来事で何が起こったか分からないと言いたげな相手を、不良時代に磨いたかなり凄みのある表情で相手をガン見してやった。そりゃもう思いっきり。

「な、なんだ君は!何を?!」
「何をじゃねーよ!てめぇ、こんな場所で海馬に手ぇ出してんじゃねぇ!」
「君には関係のない事だろう!ここは君……いや、お前の様な小汚いガキが来る場所じゃない!分を弁えたまえ!しかも海馬社長を呼び捨てだと?!一体……!」
「はっ!エロオヤジが分を弁えろとかふざけた事言ってんじゃねーよ!」
「何だと?!」

 オレは奴を睨んだまま思わず普段の調子で思い切り噛み付いてしまう。だって超腹立つんだぜコイツ。近くで見たら余計キモイし!ぶん殴ってやりたい!海馬を呼び捨てにして何が悪いんだよ。おいそれと口に出来ねぇけど、コイツはオレの恋人なの!死ねよマジで!

 互いに物凄い顔で睨み合いながら、オレとクソ男がそう言い争っていたその時だった。それまでオレの後ろで黙って様子を見ていた海馬が、徐にオレの肩を掴んで脇に退ける。

 あ、やべぇ、オレ関係者みたく振舞っちゃ駄目だった?ここは全くの赤の他人として助けに入るべきだった?!今更ながらにそう思い、マズったと若干身を引いたその瞬間、海馬は直ぐに肩に触っていたその手でぎゅっとオレの手を握り締め、わざと相手に見せ付ける様にほっとした表情をしてこう言った。

「迎えに来てくれたのか?城之内」
「えっ?!」
「何っ?!海馬君、このガキ……いや、男と知り合いなのか?!」

 オレは一瞬思いっきり驚いて、同じように物凄く驚いた相手と一緒に大声を上げてしまう。ちょ、海馬?!お前こいつの前でそんな事言っちゃっていいのかよ?!マズくない?相手めっちゃ不審な顔でオレとお前見比べてるけど……どうすんの?!

 そんなオレの動揺をよそに、海馬はさっきまでのしおらしさ?は何処へやら、急にいつもの憎たらしい笑顔を浮かべながら、物凄く堂々とまるで何かの宣言か!って程はっきりきっぱりこう言った。

「えぇ、知り合いです。ついでに言えば同じ大学に通っていて、現在同居している相手です」
「同居?!同居って……」
「帰るぞ城之内、終電が無くなる。では、失礼致します、工藤専務。会長には申し訳ないと伝えておいて下さい」
「ちょ、帰るって、終電って……海馬君……いや、社長!」
「オレも一応大学生ですよ、専務。普通に恋人がいて当たり前でしょう。何か問題がありますか?」

 まるで仕上げに「ふふん」とでも言いたげな雰囲気でそう言い切った海馬は、相手を軽く一瞥するとそのまま……オレの手を握り締めたまま、奴にくるりと背を向けて歩き出す。その手に完全に引かれる形でオレも海馬の動きに従う様に足を一歩踏み出した。

 クソ男はそんなオレ等をみて何かぶつぶつと文句を言っていたけど、完全に迫力負けというか、ビビリ負けというか、とにかくそんな感じで全然オレには聞こえなかった。カツカツと軽快な海馬の足音が広いエントランスに木霊する。奴は本当にそのまま帰るつもりなのか一度も後ろを振り向かないで回転ドアをオレ付きで華麗に潜り抜けて外に出た。途端に蒸し暑い熱帯夜の空気がオレ達を包み込む。

 オレは一度だけそっと背後を伺う様に背後を振り向き、眩しい位に明るいホテル内をちらりと見た。クソ男は未だあの場所に立ったまま、すげぇ顔で携帯片手にペコペコと頭を下げていた。

 いい気味だ。バーカ。

 

7


 
「……なぁ、マジで電車で帰んの?車は?荷物は?」
「別にいい。財布は持っている」
「でも、その格好で?」
「普通のスーツだろうが。何かおかしいか?」
「や、それはそうだけど……オレと一緒に?」
「同じ家に帰るのに何故別行動をしなければならないのだ。貴様は馬鹿か」
「ちょ!馬鹿って言うなよ!…あ、つーか早くしないとマジ終電ヤバイ。とにかく行こうぜ」

 海馬と一緒に童実野ホテルを飛び出して五分後、念の為少し離れた場所にある別のホテルの前で、オレ達はそこに居るだけでジワリと汗をかきそうな熱気の中で立ち止まった。半袖のオレはともかく、首元まできっちり絞めてネクタイやジャケットまで着ている海馬は物凄く暑いんじゃないのか、と心配したけど当の本人は涼し気な顔をして汗一つかいていない。未だ握り締めたままの指先も冷やりとしていた。

 オレは色々と言いたい事や聞きたい事があったけれど、なかなか言うタイミングが掴めなくて意味も無く周囲を見渡してしまう。それにイラッとしたのか、海馬は少し眉を寄せてオレを見る。その眼差しにオレは何故か慌ててどうでもいい事を確認してしまう。すると海馬はますますむっとした顔で素っ気無く答えて来た。

 わーやっぱりまだご機嫌ナナメですか。オレはとりあえずそれを上手く受け流して、言葉通り終電に間に合わねぇとマズいから、海馬の手を引いたままさっさと歩き出した。こっから駅までは歩いて十分位だから……あ、結構余裕あるや。

 不意に海馬が上着のポケットから携帯を取り出して、何処かに連絡を取り始めた。「大須に帰る」とか「今日はもういい」とか言ってる事から多分運転手にでも連絡取ったんだろうな。

 ……おいおい、やっぱ運転手さん待ってたんじゃねぇか。こんな時間まで散々待たせておいて、用なしとか可哀想過ぎる。だったら電車で帰らないで車で帰ったほうがいいじゃん。何で断るの?そうオレがポケットに携帯をしまい込む海馬の顔を覗きながら言うと、海馬はふん、と鼻で笑って素っ気無く言った。

「奴はそれが仕事だ。何が可哀想だ」
「でもよ、ちょっとは悪いとか思わねぇの?」
「別に。それなりの給料を払ってやっているのだから問題はない」
「まぁ、そりゃそうだけど……」
「大体貴様が始めに言い出した事だぞ。大須にいる間は貴様に合わせろと言ったんだろうが」
「時と場合に寄るだろ!なんでもかんでも……!」
「煩いな。オレは中途半端は嫌いなんだ」

 口を動かさないで足を動かせ!そう言って今度は先に立って歩き出す海馬の背中を見つめながら、さすがのオレもカチンと来て押し黙る。……なんだよもう可愛くねぇな。何をそんなに怒ってんだよ。やっぱオレが出てったのまずかったのかよ。言いたい事があるんならはっきり言え。

 そう口の中でぶつぶつと愚痴を言っていると、不意に前を見て足を動かすだけだった海馬がこっちを振り向く。相変わらずちょっと怒った白い顔を条件反射で見詰めながら、オレは小さく「何だよ」と聞いてみた。

「……さっきは……」
「あ?何?やっぱオレ顔出しちゃ駄目だったのかよ?あーそれは余計なお世話でしたね!」
「違う」
「じゃあ何だよ。文句があるならはっきり言えよ!」
「誰も文句を言うとは言ってないだろうが!」
「そんなふくれっつらして睨んでおいて文句が無いとか嘘ばっか言ってんじゃねぇ!大体なぁ、幾ら仕事だからって、こういうのやめろっつったろうが!オレ前から煩く言ってただろ?それ無視した途端これだよ。ふざけんな!あんなクソ男にベタベタ触られやがって馬鹿が!」
「………………」
「お前、あん時オレが出て行かなかったら、あいつをぶん殴って騒ぎになるか、言う事聞いて連れてかれるかそのどっちかだったろうが。だったら……オレが顔を出したほうがまだましだろ?!そりゃ、オレみたいな奴と知り合いだとか思われたら嫌かもしんねぇけどよ!オレだって色々考えて飛び出してったんだ。そん位分かれ!」

 ここ数十分のイライラも相まって、オレはかなり過剰に海馬の言葉に反応して、思わず大声で怒鳴りつけてしまう。だってそうだろ?一応助けてやったのにありがとうも言わないで睨むとか人間としてやっちゃいけないだろそれは!今の運転手さんの話だってそうだよ。お前は人の気持ちを考えなさ過ぎんだ、この我侭野郎!

 全部を口に出しちまうと間違いなく大喧嘩になる事は目に見えてるから、今の部分はぐっと喉奥に飲み込んで出さないように必死に堪える。海馬はオレから反撃が来るとは思わなかったのか、怒り顔から驚き顔に変化して何か言いかけたままオレを見た。

 暫く、オレ等の間には嫌な沈黙が訪れる。何だよ、何か言えよ。黙ってちゃ分かんねぇだろ。なんかすげぇ悪い事した気分じゃん。オレは場を取り繕う為にワザとらしい大きな溜息を吐きながらちらちらと海馬を見て、奴が口を開くのを待っていた。怒鳴っちまった手前、なんかオレからまた何か言うの、気不味くて。

 そう思いつつ、ちょっと先に見える信号を眺めて、オレは自分の腕時計を見た。時間はまだある。でもそろそろ先に行かないと微妙に間に合わなくなるかも、と考え始めたその時だった。それまでずっと黙ってオレの顔を眺めたままだった海馬が、また元の表情に戻って思い切りオレを怒鳴り付けて来る。

「オレが言いたかったのは、タイミングが遅かった事だ!何故もっと早く出てこない!」
「……へ?」
「貴様エレベーターで降りてからすぐ柱の影に隠れただろう!何故隠れた!オレを待っていたんじゃなかったのか!」
「……え?!だって……やっぱほら、変な奴と知り合いとかだと、お前の株が下がるかなーとか……」
「ほう。貴様はこのオレが『変な奴』とおいそれと付き合うと思っているのか。セックスとか、果ては同居まで気軽にするような、そういう人間に見えるのだな!」
「!ちがっ……そういう意味じゃなくて!お前がどうこうじゃなくってオレが!」
「ではどういう意味だ!貴様とオレは同じだろう!何処が違う!同じ年で、同じ学校に通い、同じものを食べたり使ったりしていただろうが!それが何だ?!貴様はそんな下らん事を思っていたのか!」
「海馬!」
「もういい、良く分かったわ!勝手にしろ!」

 そういうと海馬は自分で掴んでいたオレの手を勢い良く振り解き、一人今までの倍のスピードで歩き始め、その姿はあっという間に人混みに紛れて消えてしまう。ちょ、早っ!今から追っても追いつけねぇ!つーかもう信号赤になってるし!くっそヤベぇ、見失った!この信号駅前だから待ち時間長いんだよな、どうしよう。ちょっと走って近くの歩道橋渡った方が早いか……?いや、待ってんのと大差ねぇか。もう早く信号青に変われ!

 オレはもう殆ど地団太を踏みそうな勢いで眼前の赤信号を睨み付ける。ああ、この時間差だと海馬の奴絶対に駅の構内に入ってんな。財布持ってるって言ってたから改札で立ち往生する事もねぇし多分さっさとホームに行っちまう。

 別に同じ終電に乗って同じ家に帰るんだから問題はねぇんだけど、この時間の終電って馬鹿の酔っ払いが多いから別々の車両に乗って、海馬絡まれたらやっかいだし。今度はさっきと違って殴ろうが蹴ろうがなんでもいいけど……っていやいや、よくないか。そりゃ傷害事件だ。

 つか今あいつなんてった?オレが飛び出すのが遅いって?!お前の怒りはそこだったのかよ!予想外過ぎて分かんねぇよ、おい!

『ではどういう意味だ!貴様とオレは同じだろう!何処が違う!』

 なかなか色の変わらない信号を仰ぎながらオレは大きな溜息を一つ吐いた。今の回想の延長でその後に叩き付けられた海馬の台詞が蘇る。まさか海馬がそこに怒るとは本当に思っていなかった。普段のあいつの様子からはそんな雰囲気は微塵も感じられなかったし、オレに向かってよく「この貧乏人が!」と憎まれ口を叩く事が多かったからだ。

 そりゃ尤もだから、いつも聞き流していたけどさ。でも、よくよく考えたら海馬は本気でオレの事……いわゆる「貧乏人」であるという事を馬鹿にしたりは絶対にしなかったし、むやみやたらに金や物をくれた事も無い。オレが奢ってやるっていうと素直に奢られたりもしてたし、オレがバイトをサボろうとすると物凄く怒ってた。今思うとすげぇ事だと思う。あいつはその辺の駄菓子屋で売ってる飴玉を買う気分でマンション一つ買えちまうような超大金持ちなのに。

 オレとあいつはこうして恋人でいるけれど、多分生きている世界は違う。それはごく当たり前の事として考える事すらしなかったし、人からそう言われても当然だから何とも思っていなかった。あいつも勿論そうだと思ってた。

 けれど、海馬はそうじゃなかった。

 『区別』をされた事……もっと言えばオレがそれにちょっと引け目を持ってた事を思いっきり見抜いちまったんだ。そういう考えを持ってるって事が気に食わなかったんだろうな。でも、実際そうなんだからしょうがないじゃん。そうだろ?

 ああでも、大須のマンションにいた時だけは違ったか。同じ部屋に住んで、一緒に寝て、近所のスーパーで買ったもん(しかも安売り)を料理して食べて、自分で洗濯や洗い物までして、果てはふつーにコタツに入って蜜柑食べたりして……確かにオレと変わんねぇか。それどころか小銭を大事にしろとかメシはご飯一粒まで残さずに綺麗に食えとか、車を蹴って終電乗るとか、オレよりも庶民じゃねぇか。

 そもそも同居を言い出したのは海馬だったんだよな。全部オレに合わせてくれたんだと思ってたけど、実際はあいつすげー楽しんでた。だからまたちょっとの間でも一緒に暮らそうって言ってくれたんだもんな。海馬にとってこんなのはただの遊びじゃねぇのかと思ってたけど、奴は意外に真剣だったんだ。

『えぇ、知り合いです。ついでに言えば、同じ大学に通っていて、現在同居している相手です』

『オレも一応大学生ですよ、専務。普通に友人や恋人がいて当たり前でしょう。何か問題がありますか?』

 そういや海馬、あのクソ男に向かって思いっきり大暴露してたっけ。奴の事だからてっきりオレの方を無視するかと思ってたのに、あれにはビビッた。

 ……そっか。お前はあっちの世界よりもオレのいる方に来てくれたんだな。人塗れの熱帯夜に酔っ払いだらけの最悪な終電に乗って、一緒にワンルームマンションに帰るって、そう言って。

  ……くそっ、またやっちまった。どうしてオレは海馬の気持ちを分かってやれねぇんだろう。

 あいつは凄く分かりやすくそれを態度に出していたのに。半年経っても繰り返しだ。なんだよそれ。馬鹿もここまでくると救えねぇよ。もう駄目だ。

 オレは、漸く気付いたその事に思いっきり凹んじまって、その場に立ち竦んでしまう。何時の間にか信号は待望の青に変わり、周囲の人間がだらだらと歩き始めているのにどうしても足が動かない。どうせもう海馬はいないし、終電が行ったって歩いていけば一時間もかからねぇで家に着くし。反省がてらそうするのもいいかもしんない。うぅ、なんかもうどうでもよくなって来た。あぁでも、海馬が一人じゃちょっと心配だよな。どうしよう。

 そんな事を項垂れて考えながら、オレは周囲の人間から邪魔だと身体を小突かれつつも頑としてその場を動かなかった。その時だった。

 ベシッ!と派手な音がして後頭部に痛みが走る。

 そして何だと思う間も無く、頭上から思いっきり怒鳴り声が降って来た。

「貴様何をここでぐずぐずしている!終電に乗り遅れるだろうが!」

 その言葉が終わらない内に再び頭に痛みが走った。それと同時に強く腕が引かれ、強制的に引きずられる。勿論オレにそんな事をするのは海馬以外にはいなかった。あいつは結局オレを置いていく事が出来なくて、信号を渡りきった癖に帰ってきて、オレの腕を掴んだんだ。凄い力で。思いっきり。

 オレ達はそのまま無言で駅へと辿り着き、本当にギリギリのところですし詰め状態の終電に飛び乗った。 酒臭いし汗臭いし蒸し暑いしで超最悪だったけど、人口密度のお陰でまるで抱き合うようにぴったりとくっついていられたからちょっとだけラッキーだった。

 相変わらず怒ったまま何か言いたげに睨んで来る海馬に、オレは今漸く悟った事をうまく説明して謝ろうと思ったけれど、どう言えばいいのか分からなかったから、とりあえず耳元で小さく「ごめんな」と言ってみた。

 そしたら海馬はちょっとだけ機嫌を直して、オレをあんなにきつく詰ったにも関わらず、自分から唇に小さなキスをしてくれた。 丁度よく周囲は皆オレ達に背を向けたり、立ちながら眠っていたりしたから、オレ等が何をしてるかなんて気づく奴は誰もいなかった。

 調子に乗って舌を入れようとしたら、さすがにそれはマズかったのか、海馬は思いっきり向こう脛を蹴りやがった。っくー!マジ痛ぇ!オレは痴漢じゃねぇっての!涙目で睨んだら、海馬はさも可笑しそうにオレを見て、ざまぁみろ、と小声で言った。

 か、可愛くねぇ!この野郎チョーシこきやがって!そんなにお望みなら痴漢してやる!と、大いに意気込んでオレは早速実行に移した。

 そんなこんなで大須駅に着くまでの数十分はオレにとって色んな意味でかなり美味しい時間だった。

 まあ、やった分ボコボコにやり返されたけど。

 そんでも、十分お釣りが来る位に、楽しかったんだ。   
「あ、そういえば……オレ、お前に話があったんだけど」
「……なんだ」
「あーあー全身ずたぼろぐちゃぐちゃになっちゃって。やっぱ夏休みの終電ってきっついよなー。高級スーツが台無しだぜ。あ、裾が捲れてる」
「捲ったのは貴様だろうが!警察に突き出してやる!この犯罪者が!」
「ちょ、そこまで言う事ねぇだろ。ちょっと触っただけじゃん。だって海馬が珍しく誘ってくるからぁ」
「死ね!」
「ごめんって。それにしたって殴る事ないだろ。すっげぇ痛かったんだぞ」
「当然の報いだ。仕上げにホームに突き落としてやりたいと思ったわ!」
「まーまー落ち着いて。それでね、あの……話っていうのは……」

 それから大分時間が経ち、漸く辿り着いた大須駅の入り口でオレ等は向かい合って、大きな溜息を吐いていた。互いに人に揉まれた所為で酷い有様で、よくまぁあの過酷な状況に海馬が耐えられたもんだと感心する。それを素直に口にすると、海馬はめちゃくちゃ疲れた顔でオレの顔を睨んで「もう二度と乗るものか」と言った。

 あはは、やっぱりね。オレも嫌だもんな。まぁ、海馬が嫌だって言ってるのは何も終電の事だけじゃないんだけど。

 そんな海馬の顔をにやにや笑い付きで見ていたオレは、このタイミングでふとある事を思い出した。……そう、そうなんです。このゴタゴタですっかり忘れてたけど、オレまだ海馬に合鍵無くした事言ってなかったんだ。今回の出来事の全ての元凶であり、ある意味海馬を救った救世アイテムでもあった、あの合鍵。

 まあこうやって一緒に帰ってきたから特に支障はねぇんだけど。やっぱマズイじゃん、ちゃんと言っておかないと。散々叩かれた後で更に痛い思いをするのはいやなんだけど、どーせ直ぐに分かる事だからこっちから言って謝ったほうがいいよな。うん。

 そんな事を思いながら、オレはちょっと身体を引き気味にして、勢いよく頭を下げつつ自分の犯した失態を謝ろうとしたその時だった。チャラ、と小さな音がして、オレの目の前に何か光る物が掲げられる。

 それは、ブルーアイズのキーホルダーが付けられた、あの合鍵だった。
 何でお前が持ってるんだよ?!はぁ?!

「えぇ?!」
「……貴様の話とはこれの事か」
「え、あ、はいっ!それです!っつーか何でここにっ……!」
「オレがあれほど無くすなと言ったのに……案の定無くしたのか貴様はッ!」
「ご、ごめんなさいっ!ぶたないでっ!」
「この馬鹿が!」
「仰るとおりです海馬サマ!」

 ぎゃー怖ぇ!すっげぇ怖ぇ!

 オレは思わず海馬の攻撃に頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまう。絶対殴られる!っつーか蹴られる!どっちの衝撃も物凄いことを身を持って知っているオレは直ぐに来るだろう痛みに耐えようと身を思い切り硬くした。……けれど、何時まで経っても海馬の手も足も、飛んでは来なかった。変わりに降って来たのは大きな溜息一つと、珍しい忍び笑い。

「……へ?」
「これは偶然拾った遊戯がキーホルダーからオレのものじゃないかと判断して大学から連絡を寄越してな、童実野ホテル行く前に奴と会って、受け取ってきたのだ。食堂のテーブルに置き忘れていたそうだぞ、凡骨」
「ゆ、遊戯が?」
「今度は犬は犬らしく、無くさないように首から鎖で下げておかねばならないな。全く貴様のいい加減さには呆れ返る」
「あの、怒ってねぇの?」
「怒る気も失せた。貴様には今日一つ借りがあったしな。今度は『絶対に』無くすなよ」

 絶対に、にわざとらしく力を込めて、海馬は合鍵を投げて寄越す。小さなブルーアイズが薄暗い駅の街灯にキラリと光ってオレの手の中に落ちてきた。しっかりとキャッチすると今度はちゃんと鞄の内ポケットの中にしまい込む。

「よーし、じゃあ鍵も戻ったし、帰ろっか、海馬。あ、でもその前に腹減ったからコンビニに寄る!」
「コンビ二は反対側だろうが。嫌だ」
「そんなこと言わないで。そーいやゴムも切らしてんだよね。ここんとこ必要なかったから買って無くってさー昨日ので使い切っちゃって。今度からはちょっと多めの奴を……いでッ!」
「そういう事をベラベラと喋るな!」
「今更恥ずかしがるなよー」
「そういう問題ではないわ!もういい!一人で行けっ!」
「一緒に行ってくれる気あったんだ?」
「もう無くなった!離せ!」
「またまた〜モクバのお陰で冷蔵庫の中空っぽだったし、明日の朝飯も買ってこーぜ。今のコンビニって生鮮食品とか売ってんだぜ?知ってた?」
「どうでもいいわそんな事!オレには必要のない情報だ!」
「大須にいる間はお前ふつーの大学生なんだから、何でも知っておいた方がいいぜ。あ、夜食にカップ麺もな?」
「そんなものばかり食べているから貴様は馬鹿なんだ」
「ふーんだ。その馬鹿と付き合ってる奴も馬鹿なんですー」
「やかましい!」

 そんな事を言い合いながら、結局オレ等は肩を並べてマンションとは反対方向へと歩いていく。

 遠くで非常識な打ち上げ花火の音がする。どっかの馬鹿が面白半分にやってんだろうな。ったく近所迷惑な。でもその花火の音を聞いた途端、オレもなんだか懐かしくなって、この夏の間に一回海馬とやろうと思った。 花火だけじゃなくて、海とか、夏祭りとか、沢山の楽しい夏の行事を一緒に楽しみたい。

 だってオレ等はまだ学生で、今は夏休みなんだから。

「な。オレ明日は一日休み。どっか行こ」
「海馬ランドの視察になら連れて行ってやるが?明日夏季限定アトラクションの公開がある」
「それはお前の仕事だろ。仕事じゃなくってー海とかさ!」
「童実野埠頭に行って何が楽しい?」
「だー!港じゃなくって浜辺!海水浴!」
「断る。この暑いのに好んで外にいる奴の気が知れん」
「うーんじゃ、映画とか!」
「貴様とは趣味が合わない」
「っかー!じゃあどうすればいいんだよ?!」
「クーラーの効いた涼しい部屋でDVDでも見ていればいいのではないか?」
「……あ、それもありかも。ビールもあるし、後はつまみかなっ。どーせ今日は眠れないし?」
「オレは寝る。疲れた」
「つれない事言うなよ海馬君。半年分の埋め合わせはきっちりしてやるぜ」
「結構です」
「可愛くねぇ」
「お互い様だ」

 少し汗をかいた湿っぽい手を繋ぎながら、薄暗い街灯を頼りにコンビニへ。高級スーツの海馬と一枚500円のTシャツを来たオレは、誰がどう見ても妙な組み合わせだけど、同じ部屋に一緒に帰る恋人同士。

 明日は何をして過ごそうかな……明後日は?その次は?オレの夏休み計画は楽しい事が一杯だ。

「な、モクバに夏休み中はずっと合宿行ってろって言って?」
「無茶を言うな。……が、アレも家に帰るとは言っていたがな」
「マジで?!じゃーマンション使えるじゃん!」
「……そうだな」
「今度はオレもちゃんと家事やるからさ、出来るだけ長くしようぜ。同居生活」
「口ばかりの癖に調子のいい事を言うな」
「あ、分かる?でもマジでちゃんとやるよ。お前と一緒にいる為なら」 

 そう、何でもするよ。出来る事なら何でも。

 まあ何やっても、お前にはかなわないけど。

 期待に胸膨らませる夏休み。オレの二十歳の夏は、海馬と一緒に凄く楽しく過ぎて行った。 秋になり、また同じような生活に戻らなくちゃならない時が来ても、今度は勿論泣いたりはしなかった。

 だって、今はオレもお前も会いたいと思えばいつでも会える場所にいるって分かるから。
 海馬の突拍子もない『誕生日プレゼント』から始まったこの大須の同居生活は、この時から徐々にオレ達の間で『イベント』ではなくなって来て、モクバが高校を卒業すると同時にあの部屋は正式にオレの部屋になった。

 そして、海馬も家よりもマンションに帰る事が多くなり、オレ達は事実上ちゃんとした同居人になったんだ。

 まあ相変わらず家事の大半は海馬が一気に引き受けてオレは暢気にご相伴に預かってるだけなんだけど、最近は早く帰宅した方が家事をするっていう暗黙のルールが出来た。

 それでも、オレのサボりは変わらずに海馬に怒られる事になるんだけど、ちっとも怖くないから大丈夫。

 あー幸せ。幸せすぎて怖い位。
 この幸せが一日でも長く続きますように。

 オレはまだ腕の中で眠っている海馬の寝顔を眺めながら、今日も一日頑張ろうって気合を込める。

 そして、幸せそうに寝こけているその唇に、小さなキスを一つ落とした。