Act2 やめて、貴方だけが頼りなの!

「全く話にならないっ!」
「いでっ!!てめこの!!教科書顔に投げつけんなっ!!しょうがねぇだろ!今何時だと思ってんだ!!」
「投げつけたくもなるわっ!この馬鹿が!!貴様には寝る暇などない!!」
「馬鹿馬鹿言うなっ!」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い!!」

 こんな賑やかさですが、現在時刻は午前2時。

 海馬から唐突に投げつけられた分厚い世界史の教科書が顔面にヒットし、眠気の為に半分何処かに行っていた意識が唐突に呼び戻された。当たり所が物凄く悪かった……いや。良かった?のか、鼻が超痛い。お前一歩間違えれば流血沙汰じゃねぇか、何考えてんだ!

 余りの痛さに涙が滲んで、ぼんやりとぼやけた視界に映る海馬の顔を睨み上げれば、すげぇおっかない目でオレを睨んでる。当の海馬も仕事の後で疲れているのかいつもより若干勢いが足りないものの、まだまだ通常モードの海馬くんだ。……真夜中なのに元気ですね。

 海馬邸滞在2日目。

 今日は……正確に言えば昨日なんだけど、海馬が帰って来たのが日付が変わる直前で、待ちくたびれたオレはその時点でもう転寝モードに入ってたんだけど、海馬がそれを見逃してくれる筈もなく、間髪入れずに始まった勉強は今の今までノンストップで続いていた。今は数学に取り掛かろうとしてるとこ。

 元々覚えが悪い脳に眠気と言う敵が既に幅をきかせている状態で新しい情報を詰め込めるわけもなく、何回同じ事を言われても全然覚えられず、ついには海馬の声を聞きながら夢の世界に片足を突っ込んでいたら、とうとう海馬がキレたらしい。仕方ねぇだろ、不可抗力だ。眠気には勝てねぇよ。

 もう今日は駄目だやめようぜ、って鼻を押さえたまま海馬に言ったら、奴は無言のままギロリとオレを見返して、冷ややかな声でこう言った。

「フン、二日目でもうサレンダーか、根性なしが。貴様がここで降りるのならオレはもう付き合わんぞ」
「えぇ?!そりゃないだろ?!お前だけが頼りなのにっ!」
「オレとて暇ではない!根性なしに割く時間はない!」
「でっ、でも、この眠気の中やっても効率が……」
「馬鹿に効率もへったくれもない!死ぬ気で詰め込め!」
「この鬼!人でなしっ!」
「やかましい!!それが嫌ならさっさとやれ!やらないのならオレは寝る!」

 バンッ!とやっぱり真夜中に不似合いな音を立てて、海馬はそう怒鳴りつける。何時の間にか手には丸めた別の教科書を持っていて、それで殴る気満々だ。

 なぁ海馬、お前はなんでそう日常生活においてもそうなわけ?パワーデッキよろしくこんな時でも力技かよ!オレはお前と勝負してる敵じゃねぇんだぞ?!

 あーなんつーか、こう怒られてばっかだとやる張り合いがなくなってくるんだよなー眠いし。それこそ昨日の本田の表現じゃねぇけど、餌皿を前にお手やお座り仕込まれてる……つーか餌皿なしに無理矢理やらされてる感じ?これじゃーお前やる気出ないだろ、常識的に。

「いてっ!だから殴んな!」
「貴様、この期に及んで何を呆けている。サレンダーか?諦めて留年するか?」
「うぅ……嫌だ」
「ならば問題に取り掛かれ。九九は分かるんだろうな」
「馬鹿にすんな!九九は言える!」
「8×9は?」
「……えっ?!急に聞くなよ!!1×1から順番に言わないと!」
「…………………」

 あ、物凄い溜息が出た。顔に絶望感が出てますよ、海馬くん。だからさー眠いんだって、やる気出ないんだって。悪気はないんだって!!

「……貴様それで良くここまで生きて来られたな」
「凄い?褒めてくれんの?」
「凄くないわ!呆れているのだ!どうしてオレがこんな馬鹿と同じクラスに在籍しなければならない!最大の屈辱だ!」
「自分で選んだ学校の癖に」
「屁理屈はいい!いいからその問題をやれ!」
「分かったから少しトーン落とせ。真夜中だぜ?」
「オレに指図をするな!」

 ああもう煩いなー。真正面から睨まれてガミガミ言われたら集中できるもんも集中できねぇってのよ。えーと何々……格子点が何?ベクトル?……ベクトルってなんだっけ?こんなん単語すら聞いた事ねぇんだけど。つかこの問題は日本語で書いてあんのか?マジで?

「……何故手が止まる」
「さっぱり分からないんです」
「何が分からない」
「問題が、何書いてあるか分かりません」
「………………」

 ばさり、と海馬の手から教科書が落ちる。……なんだよお前今頃オレのレベルに気づいたってか。遅ぇよ。大体オレ数学で二桁の点数取ったことねぇもん。分かるわけないだろ。そう威張って言ったら「威張るな!」と怒られた。お、まだ怒る気力あんのか。すげぇな!

 あーでもこのままじゃやっぱやる気出ないわ。無理です、無理。せめてこう……この問題を解き終わったら何かいい事が、とかあればちっとはやろうかなぁなんて気になるんだけどなー……って、そうだ!それだよな!!

 やっぱやる気を出すにはご褒美がないと!

 そう思いついたオレは心の中でポンッと手を打つと、急にちょっと浮上した気分で未だ大きな溜息を吐いて額を押さえている海馬を見た。……なんかめっちゃ凹んでるんですけど、大丈夫ですかね?海馬くん?

「あのさぁ、海馬」
「……なんだ」
「そんなに凹まないでよ」
「さすがに凹むわ!貴様にモノを教える自信がまるで無くなった!」
「そんな事言わないで。いい事教えてあげるから」
「……いい事?」
「そう。オレにやる気を起こさせるいい事だよ」
「……言ってみろ。一応聞いてやる」

 はぁ、ともう一回巨大な溜息を吐いて、のろのろと顔を上げた海馬に、オレは満面の笑みを見せて、こう言ってみた。
 

「何かさ、ご褒美くれよ。一問解いたらキス一回とか!……いでっ!!」
 

 そのオレの言葉が終わるか否か、ベシッ!と小気味いい音がして、海馬の奴今度は平手で殴りやがった!いってぇ〜!!一昨日のデコピンより痛ぇ!!だから殴るなよ!暴力反対!!

「貴様はこの期に及んで何を不埒な事を言っているのだ!!」
「ふ、不埒じゃないって。ほらお前良くオレの事犬って言うじゃん。もう犬でいいからさ、犬にしてくれるような事して?犬だってお手ができりゃー撫でて貰えるじゃん!そしたらやる気が出るから!」
「……一問間違える度に頬をつねってやろうか?明日の朝までに顔の形が変わるだろうがな」
「ちょ、それ逆じゃねぇか!!そうじゃなくって!オレは褒められると伸びるタイプなんです!」
「………………」
「な?な?何もヤらせろなんて言ってねぇじゃん」
「言ったら速攻その窓から放り出してやるわ」
「ギャー!!ここ2階で今は真冬ですから!」
「なら下らん事をほざいてないでとっととやれ!日本語の読み方から教えてやる!」
「ご褒美はっ?!」
「自分からそんなものを要求するな!阿呆が!!」

 ベシッ、と再びオレの頭がいい音を立てる。今度はそんなに痛くなかった。ちぇっ、なんだよケチ。いーじゃんキス位いつもしてんだし。勿体ぶってするもんじゃないだろ。それでオレの効率が上がるんなら安いもんだと思わねぇ?そうだろ?

 そんな事をぶつぶつと言っていたら、何時の間にか海馬は目の前からオレの横へと移動してきて、共に教科書を覗き込んだ。さっき眠気覚ましのためかがぶ飲みしてた珈琲の香りが至近距離に近づいた奴から漂ってきて、オレは思わずテーブルの上に置いてあった教科書を取る為に身を屈めかけたその頬に……いや、くるっと顔を回り込ませて唇にキスをした。
 

 不意を付かれたのか、一瞬海馬の肩がビクッとなる。降り落ちた前髪が、さらりと揺れる。

 その瞬間。海馬の中で何かが音を立ててぷつん、と切れたらしい。
 

「…………もういい。寝る」
 

 奴はそう静か〜な声で一言言うと、最強に怖い目でオレを睨み、すっくと立ち上がる。そのままくるりと背を向けた身体をオレは慌てて捕まえた。
 

「ちょっと待てよ!」
「貴様いい加減にしろ!そのまま死ね!オレは寝る!」
「ごめんなさい!弾みでした!」
「聞く耳持たん!離せ!!」
「ご褒美なしでも頑張るから見捨てないで!!」
「先に断りも無しに奪っておいて何を言うかこの馬鹿が!!」
 

 ……結局、その日は海馬の怒りが収まらず、やっぱり余り進展しないままに終わっちまった。なんか顔やら頭やらあちこち痛いんだけど……明日学校行けんのかオレ?

 とりあえず、明日はまず海馬の機嫌を取る事から始めないとなーああもう。

 テストなんてなくなっちまえばいいのに。
 そう思いながら、オレは殆ど明るくなった室内を見渡して、そのままそこで眠りについた。
 

 海馬の姿は、勿論なかった。