Act4 土下座ですむならいくらでも

 はぁ、と大きな海馬の溜息が部屋の空気を震わせる。

 もう今夜は何度目だろう。数えるのも両手じゃ足りないほど、その音はオレの耳に嫌味なほど響き渡る。……4日目の夜。オレは勿論の事、海馬もそろそろ限界で、肌が白い分余計に目立つうっすらとした隈が、疲れ切った表情と相まって怖い位だ。……さすがのオレもこれは悪い事してるよな、と思わざるを得ない。けど、馬鹿なのはしょうがねぇよな。生まれつきだし。

「……なんか疲れたから、今日はもう寝ようか?」
「貴様がそれを言うな」
「……だってよ、お前死にそうじゃん」
「そう思うなら一つでも単語を覚えろ」
「無理。今日は一杯一杯」
「……オレは明日の夜どうしても外せない会談がある。故に明日の分まで今やるしかない」
「えぇ?!」
「だから、次の頁に行け」
「お前マジで明日いないのかよ」
「ああ」
「それ、断れないのか?」
「無理だな」
「すっげぇ困るんだけど。後2日しかないんだぜ?!」
「オレとてこの体調の中で行きたくはないわ」
「……すみません」
「いいから早く次に行け」

 そう言いつつも、また溜息。なんだかなーセンセイがやる気ねぇと、オレまでやる気なくなるんだけど。あーけど明日海馬居ないのかーマジヤバイんだけど。まだ5教科中1教科しかまともにやれてないんだけど。その1教科だって自信があるかっつーとそうでもない。こんな状態で放置されたらオレどうなんの?やっぱ留年?!……あああそんなの嫌だぁ!

「なあ、海馬。なんとかなんない?」
「煩いな。どうにもならない。大事な取引先との会談だ」
「お願いしますって、土下座してやるから」
「……貴様が土下座してどうする」
「だってよー……」
「無駄口を叩かずそこの英文を訳してみろ。中一レベルの問題だ。この位なら容易いだろう」
「……とりあえず一番最初、なんて読むの?」
「それは人名だ!馬鹿が!」
「あ、なーる。ミケか」
「どこの猫だ!それはマイクだ!!」

 うわぁ、また怒らせたよ。なぁ、海馬。やっぱ無理だよ……未だにさっぱり分かんねぇもん。後丸々二日ぶっ通しでやってもなんとかなりそうにもないって。お前だって分かってんだろ?分かってるから溜息ついてるんだろ?

「……えーっと、マイクは……夏の……バケーションってなんだっけ?……の、えと、あ、これさっき見た。計画?をたてて……」
「凡骨」
「何だよ、今訳してるだろ」
「オレの時は、英語はプリント両面二枚分だった」
「それがどうかした?」
「そのペースでは一問も解けずに終わるんだが」
「……マジで?!」
「オレは嘘は言わない」

 ……絶望的だ。

 オレはそう口にして、バタッと机の上に倒れ付した。そんなオレに、海馬も心底呆れちまったみたいで、もう何も言わなかった。
「あ、おかえり城之内。なんだよ眠そうな顔して」
「おう、ただいま……や、お前の兄サマのスパルタ教育のお陰でもー眠くて眠くて……学校必死に行ってるわけよ」
「大変だなー。で、調子はどうなの」
「全然駄目。留年決定かも」
「テスト何時だっけ?」
「明々後日」
「あー……」
「しかもさー今日兄サマ帰って来ないんだよ。……絶対絶命だっつうの」

 主に勉強は日付変わってからが本番だから、今は同じ日の夕方って事になんのかな。今日も相変わらず授業中は寝たおして気力体力を充填して、海馬邸に帰ってきたんだけど……今夜は海馬がいねぇから一人でお勉強って事になる。

 一応海馬が一人でも勉強できるように資料を作っておいてやる、とかなんとか言ってたから、全く何も出来ないって事はないんだろうけど。自習ってのは大っぴらに居眠り出来る時間と決めているオレに取って、一人黙々と勉強すんのはかなり辛い。……こんな事なら今日は遊戯ん家にでも行くんだった。一人でやるより二人でした方が絶対いいもんな。

 そうオレが鞄を放り投げながらぼやいていたら、ソファーですっかり寛ぎモードのモクバが意外な顔をしてオレを見た。……?なんでそんな不思議そうな顔してんだ?

「え?兄サマ、今日帰ってこないの?」
「え?帰ってこないって言ってたろ?」
「さっきメール来てたけど、いつも通り帰るって言ってたぜぃ。そろそろ帰ってくるんじゃないの?」
「えぇ?!だって今日は大事な取引先との……」
「よくわかんないけど、兄サマが帰ってくるって言ったら、帰ってくるぜ?もうちょっと待ってみたら?」

 そんなモクバの言葉にオレは殆ど期待しないで、けど一応大人しく海馬の事を待ってみる事にした。まあどっちにしても今日は一人で勉強するつもりだったし、昨日あれだけ頑なに「無理だ」を繰り返していたんだから、来なくってもしょうがないよな。オレは会社の事はよく分かんねぇけど、とりあえず会談とか会合とか、そういったもんが大事だって事位は分かる。

 オレと仕事とどっちが大事なの?!なーんて、ドラマの中の女みたいな台詞を言うつもりはねぇけど、今ならあの台詞を言いたくなる気持ち、ちょっと分かる。だってやっぱ、ピンチには優先して貰いたいもんな、うん。期待はしてねぇけどよ、海馬だし。

 ……ああでも、本当にテストどうしよう。

 ソファーの上で一応教科書片手にダラダラしながらそんな事を考えていたら、何時の間にかうとうとして、眠っちまってた。部屋の中暖かいし、連日夜中の3時とか4時まで起きてるんだからしょーがないよな。あーもうずっとこうやって眠ってられたらいいのに、なんて夢の中でもそう思っていたら、突然頭上から物凄い怒鳴り声が降ってきた。
 

「貴様何をダラダラ寝ている!!とっとと起きろ!!」
 

 その大声にオレはまさに飛び上がって驚いて、一瞬にして眠気が吹っ飛んだ顔を上げて、余りにも聞き鳴れてしまったその声の方向を凝視する。

 すると、そこにはちゃんと海馬が立っていた。きっちりとスーツを着込んだ、会社から帰宅したそのまんまの姿で。オレは思わず、「お帰り」も「お疲れ」も言わないで、つい思った事をポロッと言っちまった。

「お前……マジで帰って来ちゃったの?!会談は?!」
「……帰って来なかった方が良かったか?」
「や、勿論物凄く有り難いんだけど……大丈夫だったのかな……って」
「大丈夫なわけないだろう。オレが頭を下げたわ」
「ええぇ?!ちょ、マジで?!」
「大事な会談だと言ったろうが」
「じゃ、じゃあなんで……」
「なんで?言わなければ分からないのか?」

 言いながら、海馬はちょっとだけ顔を顰めてそっぽを向いた。……これは海馬が照れ隠しでよくやる仕草。って事は……やっぱり「そういう」意味?!「オレの為に」帰ってきてくれたって事だよな?!
 

 やべ、どうしよう。すげぇ嬉しいんだけど。

 思わず口元ににやにや笑いが浮かんでしまう。
 

「海馬ー!お前ってすっごくいい奴だよな!惚れ直した!大好きだ!」
「なッ……き、貴様いきなり何を言い出す?!気が狂ったか?!というか離せ!!」
「オレ今日は真面目に勉強するぜー!」
「今日だけではなく、毎日真面目にせんかッ!」

 嬉しさの余り思わずソファーから海馬に飛びついて、案の定手痛い一撃を食らったけれど、今日ばかりは全然痛いと思わなかった。……仕事ゴメンな。オレがお前の変わりに土下座したい位だよ。この借りはいつか絶対返すから!
 

 そんなわけで俄然やる気を出したオレは、その夜今迄で一番頑張った。なんていうか、ゲンキンだよな。でもやっぱ、嬉しかったり、楽しかったりするとやる気って出るんだな。今までと全然違うぜ。
 

 そんなオレの出来具合に、海馬もちょっとだけ褒めてくれた。

 お陰で明日も頑張ろうって気になったんだ。