Act2 Chant de Noel

 うっすらと曇り始めた窓の向こうに、ちらちらと白い雪が舞っていた。

 それを半分開かれたブラインドの隙間から眺めながら、オレは目の前で一枚の紙を広げてトントンと神経質に机を叩くジャンクフードを食べ過ぎて偉く肥え太った年上の『先輩』の声を聞いていた。

 何度同じ事を問われても頑なに己を曲げないオレにいい加減苛立っているのだろう。普段は比較的温厚な彼も不機嫌をあからさまに顔に出し、顔を斜に構えてこちらを睨みつけて来る。が、勿論そんなものはオレにとっては何の効果もない。

「本当に、どうしても出られないって言うのかよ?海馬」
「はい」
「この時期にうちが特講組むのを知ってんだろ?物理と数学はお前がいないと成り立たないんだって」
「先輩方を差し置いてオレが特講の時間を受け持つ事はできないと思いますが」
「いーんだよ別に。お前の方が成績いいんだからさ!……特講はいいぜー時給5割増しだぜ?」
「譲りますので、先輩がどうぞ受け持って下さい」
「あー!!そうじゃねぇんだって!つかさ、塾長が勝手にお前の名前でシフト組んじゃったんだって!わかんだろ?!お前の名前で生徒獲得した様なもんなんだって!オレ等だってむかつくけどさ、しょーがないじゃん!そうだろ?!」
「そんな事はオレの知った事じゃありません」
「海馬、お前なぁ!」
「代わりに正月の三ヶ日は請け負いますので、宜しくお願いします。じゃ、次のバイトがありますので、オレはこれで」
「おいちょっと待てよ!」

 ガタ、と大きな音がして痺れを切らした目の前の男が身を引いて鞄を手に取りさっさと教室を出ようとするオレの肩を掴もうとする。それを思い切り扉を閉める事で回避したオレは、室内で上がった妙な叫び声を背に速足で所々蛍光灯が切れかかった薄暗い廊下を闊歩した。

 途中幾人かの顔見知りの生徒達とすれ違い、笑顔で呼びとめられた揚句、掲示板に張られたスケジュール表を指さしながら「海馬先生、明日はお休みなんですか?デートですか?」「いいなぁ!私もクリスマスにデートしたーい!」と勝手に騒ぐ声を華麗にかわし、小脇に抱えていた仕立てのいい暖かな冬コートと、カシミヤのマフラー、そして仕上げにあつらえた様にぴたりと手に馴染む皮手袋を嵌めて、職員用の出入り口から粉雪の舞う中心街へと飛び出した。

 最近作り替えたばかりの真新しい歩道へと一歩足を踏み出せば、賑やかなクリスマスソングや華やかなイルミネーション、そして溢れんばかりの人波がオレを襲う。その流れに逆らう様に有名デパートが密集する繁華街とは真逆にある地下鉄の駅へと速足で歩く。

 次の家庭教師のバイト先である自分よりも年上の受験生が待つ家まで30分。明日の事で少々時間を取られてしまった所為で遅刻しそうだ。全く忌々しい。

 ピ、と軽快な電子音と共に改札を素通りする。ちらりと見上げた電光掲示板には『雪で徐行運転中。ダイヤが少し乱れています』と赤い文字が流れている。……やはり遅刻か。溜息を吐きながら携帯を取り出し、件の受験生の家に連絡を取る。

 子供の根暗さとは全く違う馬鹿みたいに明るい母親が、オレが遅れる事に対して全く問題ないとの返答を寄こし、ついで「今日は先生の分もケーキを用意してあるから、是非食べて行って下さいね」と余計な事まで口にした。それになるべく愛想のいい声で「ありがとうございます」と返事をすると、オレは雪の為に酷く汚れた階段を踏み締めて寒いプラットホームへと立ち尽くす。

 吐く息が酷く白い。外では無く地下の構内だというのに沁み入る様な寒さだ。けれど剥き出しの頬以外特に寒さを感じる事はなかった。先程着込んだベージュ色のロングコートと首を包む暖かなマフラー、そして元より冷え気味な手指を包む高級な皮手袋は、見事にオレを外気から守ってくれているからだ。

 ……この三つの貴重な防寒具はオレが自ら購入したものではない。二ヶ月前のオレの誕生日に城之内がプレゼントと言って寄こしたものだ。あの日以来、身に付けなければ拗ねるのでオレは常にこれらと共に外に出る様にしている。そしてこの姿を認めると奴が酷く満足そうに笑うのだ。馬鹿みたいだと思わずにはいられないが、別段悪い気はしなかった。

「………………」

 ……こんな時にそれを意識した途端オレはどこか気恥しくなり、なんとなくポケットに入れていた携帯を取り出してフリップを開く。手袋越しでは上手い操作が出来なくて、どこかたどたどしい手付きでボタンを弄りまわすと不意に一通の新着メールが飛び込んで来た。

 画面一杯に映し出されるのは『モクバ』の文字。最近帰宅が遅くなりがちでモクバを家に一人で残す事が多くなった為、緊急時の連絡用にと彼にも携帯を持たせたのだ。

 それからはこうしてマメにメールが送られてくる。大抵は特に伝えなくてもいいような些細な事ばかりだったが、生活時間帯のズレからそれさえもままならない間柄であるオレ達にとってはそれでも十分に意味はあった。
 

『ただいま兄サマ。今家に帰ったよ。すっごく寒くて死んじゃいそうだぜぃ。今日は早く帰って来て欲しいなぁ。何時になりそう?』
 

 可愛らしい顔文字が散りばめられた短い文章。何気ない言葉の中にもどこか寂しさが滲んでいる様な気がして、オレは少しだけ眉を寄せて、素早く返事を打ち、送信する。
 

『今日は昨日よりは少し早く帰れる。シチューを作っておいたから温めて食べろ。なるべくストーブの傍から離れるな』
 

 本当はもう少し温かみのある文章を打ってやりたかったが、残念ながらオレにはそういう系統のボキャブラリーの持ち合わせが無く、酷く素っ気ないものになってしまう。幸いな事にオレの周りの人間はオレの事をそういう男だと理解してくれているから、特に困った事はなかったが。

 送信完了画面を確認後、後は特に用が無くなった携帯を再びポケットへとしまい込む。すると、今度は手持無沙汰になってしまった。遠くの方で拡声器を持った駅員が何やら大声で叫んでいる。どうやらオレの待つ車両はまだ二つ前の駅にいるらしい。一体何分待たせれば気が済むのだ。今日は少しでも早くモクバの元へと帰ってやりたいのに。
 

『24日の夜と25日の午前中はあけて置いてくれよ。オレ、休み取ったからさ。オレん家でクリスマスしよーぜ。勿論モクバも一緒にさ。大したもんねーけどそれなりに豪華な御馳走用意してやっからよ!……ちなみに、モクバって何か欲しいものあるとか言ってなかったか?自社製品でよけりゃーなんでもあるんだけど……ってそんな怖い顔すんなよ。金はかけねぇって言ってんだろ!』
 

 耳障りな駅員の声から逃れようと透明な壁で仕切られた、真新しい小さな待合室へと足を進める。そして疲れた目には余りにも鮮やかに映る黄色で統一された椅子の一つにやや乱雑な仕草で腰をかけたその時だった。一度は脳の外へ追いやったもののその色から無意識に連想されてしまったのか、妙にはしゃいだ小煩い声が頭の中に響き渡る。

 それは数日前の終業式の日、仕事があるからとHR前に慌ただしく教室を出ようとした奴が去り際に残した言葉だった。

 こちらに確認を取るでもなく勝手に全てを一人で決めてしまい、殆ど事後報告になったそれにオレが是とも否とも言わない内にさっさと姿を消してしまった城之内は、後に念を押す様に同じ内容のメールを何度も寄越して、オレが首を縦に振るまで粘りに粘った。それが、先程の塾側との会話に繋がっている。

 今までクリスマスなど余り縁のないものだった。物心がついた頃には既に働き出していたオレには、冬期休暇イコール稼ぎ時とばかりに労働に明け暮れていた為、この時期に仕事を休むと言う考えが全く頭に無かった。故に突然持ち出されたクリスマスの話に大いに面食らってしまったのだ。

 最初は勿論仕事を理由に断った。年を越せるかも怪しい状態でクリスマス等と言って浮かれている場合ではない。それにオレだけでも到底受け取り難いのに、モクバにまで何かしようと目論んでいる城之内に対する遠慮もあった。奴にとってはこんな事は僅かな負担になる事も無いと分かってはいても、どうしてもそう考えずにはいられなかった。

 けれど、そんな理屈が奴に通用する筈も無く、最後には何故か向こうが泣き落とす格好で渋々了承させられたのだ。「オレも死ぬ気で休みを取ったのに」とか、「お前は本当はオレの事が嫌いだから仕事を理由に逃げるつもりなんだろ」とか、「断ったら別れてやる!」とまで言われてはどうする事も出来ない。

 何をそんなに躍起になっているのか知らないが、そこまでごり押しして来るという事はそれなりの理由や思いがあるのだろうと、オレは仕方なく……本当に仕方なく「分かった」と言ったのだ。その時の、本当に嬉しそうな顔が先程の台詞と共に脳にこびりついて離れない。

 恋人と、クリスマスの夜を共に過ごす。

 普通のカップルなら(そして少々ロマンチストなら)誰でもする事だ。分かっている。別にそれが嫌な訳でも、嬉しくない訳でも無かった。余計な拘りを無くせば多分、至極嬉しく感じるのだろう。幸せだと思うのだろう。……けれど、今のオレにとっては、それは何処か落ち付かない。

 再び大きな溜息が零れ落ちる。
 

 この時期だけ特別に替えられた発着音らしいジングルベルの音楽が、やけに大きく耳に響いた。
「これ、持って帰って下さらない?家は三人家族だし、先生にお出ししてもまだ余っちゃってて」
「え?いえ、結構です。お気遣いなく」
「そうおっしゃらないで。小学生の弟さんがいらっしゃるんでしょう?頂き物だから本当に余ってるのよ」
「……ですが」
「遠慮されてしまうと逆に悲しいわ。これからも先生にはお世話になるんだし、お願いします」

 そう言って小さなキャリーデコを持ちにこやかに微笑む母親を前に、オレは暫し逡巡した。白をベースにサイドに少しだけクリスマス風の装飾がなされているそれは、箱だけ見ても随分な高級品だ。先程口にした時点でそれは嫌という程分かっていたので余計に遠慮したかったのだが、ここまで言われてしまうと断るのも気が引ける。

 ……結局、仕方なく手を伸ばして差し出されたそれを受け取った。目の前の顔が更に緩む。

「……では、頂いて行きます。ありがとうございます」
「じゃあ、また次の金曜日に。今度は雪が降らないといいわね」
「そうですね。それでは、失礼します」
「気を付けて帰って下さいね。一日早いけれど、メリークリスマス!」

 最後まで無駄に賑やかな声に送られて分厚い豪奢な玄関扉から一歩外に出ると、そこには一面の銀世界が広がっていた。オレが室内にいた二時間の間にいつのまにか大雪が降っていたらしい。今はピークを過ぎたのか名残のような細かい雪が時たま風に吹かれて流れてくる。

 ブーツを半分ほど埋める雪をさくさくと踏みしめながら携帯で地下鉄情報にアクセスし止まっていない事を確認すると、モクバからメールが来ていないかチェックする為に受信ボタンに指を滑らせた。

 時刻はもう11時過ぎ。モクバはいつもなら寝ている時刻だが、今は冬期休暇という事も有りオレが帰って来るまでゲームや漫画で暇潰しをしながら起きている事が多い。理由が理由故に早く寝ろと叱る訳にもいかず、対処法として出来る事と言えばただ早く帰宅してやる事以外何もない。

 今日は雪の所為で常よりも大分遅いから余計に心配だ。明日からは少し対策を考えなければと思いながら画面を見ると着信は1件だけだった。しかも、差出人はモクバではない。

 ディスプレイに表示されたその名前を暫し眺め、無意識に溜息を吐きながら携帯を耳に当てると、オレは持ったキャリーデコを極力揺らさないように気を付けながら、静寂に満ちる空間にやけに大きく響く気がする呼び出し音を聞いていた。単調なコール音数を何気なく数えていると、5回目で煩い位の大声が耳を劈く。

『悪ぃ、バイト中だったよな?!オレ特に考えもなく電話しかけちまってッ!』

 普通に話していても煩いと感じるその声は、最大音量にした電話越しではさらに大きく響き渡る。思わず携帯を耳から数センチ離して「煩いっ」と一言返してやると、相手……城之内は特に悪びれもせずに素直にもう一度謝罪の言葉を口にした。ごめん。柔らかく耳に届くその言葉にオレは訳も無く携帯を握る手に力を込める。

「オレに電話をする時間があるとは随分と余裕だな。今日は目も回る忙しさなのではなかったか?」

 電話の向こうから聞こえる微かなテレビの音に奴がもう家にいるのだと言う事を知る。玩具をメインに扱う会社の社長である城之内にとって、毎年この時期が一番の稼ぎ時だ。去年は社長に就任して間もないという事もあり、一週間程寝る事も出来ずに働き詰めだったらしい。

 それを知っていたからこそ今年も同じスケジュールなのだろうと思い、クリスマスに会う事など考えもしなかったが、当の本人が無理矢理時間を作ったと言うのだからどうしようもない。尤も、前日である今日既にこんな風にゆっくりとしていられるのであれば、オレの心配も杞憂だったのかもしれないが。

『あーうん。なんかさぁ、明日が楽しみ過ぎて仕事に身が入んねぇからさっさと切り上げて来たんだ。ただでさえやる気がないのにさ、集中力も切れたらおしまいだろ?迷惑かけるだけじゃん』
「……凡骨にしては賢明な判断だな。というか、前日から浮かれるな。子供かお前は」
『実際子供なんだからいーじゃん。明日はさ、静香も家に呼んだんだ。会うの半年ぶりだからこっちも楽しみでさぁ』
「そうか」
『もーお前ってほんっと淡々としてんのな。もうちょっとこう……なんとかなんねぇ?』
「お前が騒がし過ぎるんだ。ところで、何の用だ」
『あっ、今度はそんな事言う。恋人に電話するのに一々理由が必要なんですかね?』
「オレに対してはな。用が無いのなら切る」
『ったくもー可愛くねぇな!ここで嘘でもいいから『時間が出来たのなら会いたい』とか言えないのかね』
「妄想は自由だが、それをオレに押し付けるな」
『……はいはい分かりましたよーだ』

 フンっ、と拗ねた声が聞こえ、一瞬だけ向こうが静かになる。不意にオレの直ぐ横を危うげな運転の自動車が通り抜け、その風圧で地面に積もった雪が煙となって舞い上がる。その瞬間忘れていた寒さを思い出し、オレは無意識にはぁ、と大きな息を吐いた。暖かい筈である呼気は直ぐに白い靄となって空中に霧散し、冷たい空気となって肺に入る。今は何度位なのだろう。零度はとうに越しているに違いない。

『なぁ、寒い?今外だろ』

 そんなオレの仕草をつい吐き出してしまった呼吸音で感じたのか、黙り込んでいた城之内が再び口を開く。オレはその言葉を苦笑と共に受け流して「バイト先から帰る所だ」とだけ答えてやった。

『あーえっと……オレが電話したのはさ……さっきまですげぇ雪降ってただろ?なんかテレビとかで電車やバスが混乱してるって言ってたし……もしお前がまだ家に帰りついてねぇんなら迎えに行ってやろうかなーって思って……』
「結構だ。必要ない」
『そう直ぐ拒否すんなよ。……分かってるけどさ』
「分かっているなら最初から言うな。心配されずともオレが利用する地下鉄は動いている。直ぐに帰れる」
『そっか。で、でもさ、オレも何もわざわざお前の為に出かけようって言うんじゃないんだぜ?ついでに』
「ついででも何でもこちら方面には何も用は無いだろう。大人しく家で寝ていろ」
『またそういう可愛くない言い方する!オレは、ただ会いたいなーって思っただけで』
「明日会えるだろうが」
『毎日会いたいの』
「鬱陶しい。妄想でもしてろ」
『妄想ってお前……あーもー分かったよ。余計な事はしねぇよ!』
「それでいい」
『ちっともよくねぇっ!』

 オレはただ、お前の負担を少しでも取り除いてやりたいだけなのに。

 ぽつりと呟かれたその言葉にオレは一瞬携帯を顔から遠ざけて大きな溜息を吐いた。そんな事など、わざわざ言って貰わなくとも分かっている。どれだけこいつがオレを大事にしたいと思っているか、嫌と言うほど分かっているのだ。分かっているけれど受け取れないものは受け取れない。それが何も持っていない貧乏人が持つには余りにも下らな過ぎる意地やプライドに過ぎないものであったとしても、どうしても譲る事が出来ないのだ。

「城之内」
『なんだよ意地っ張り。そういう奴のとこにはサンタが来ねぇんだぞ!』
「生まれてこの方、そんな不法侵入者など見た事が無い」
『不法侵入者言うな。ほんっと尽く夢が無いなお前っ!』
「夢で幸せになれるなら幾らでも見てやるが、あいにくリアリストでな」
『……まぁいいや。じゃーもう何にも言わねぇけど……明日は迎えに行くからな。昼間だぞ。12時きっかりな』
「いい。こちらから行く」
『招待してんだから迎え位行かせろ馬鹿。オレに来て欲しくねぇんなら桧山に行かせっから』
「下らん事に部下を使うな」
『下らなくねぇっての!お前等拾って、ついでに静香も拾って……うん、完璧だな!お前、静香の前で怖い顔やめろよ。あいつ人見知りすんだからよ』
「塾講師をやっている人間にふざけた事を言うな。お前よりよほど扱い慣れてるわ」
『あーそーですかー。くそっ、女の子相手にニコニコして人気集めてんだろこのエロ講師』
「お前と一緒にするな、この変態が」
『はっ、オレが変態かどうかまだ知らない癖に勝手な事言うなよな。襲うぞコラ』
「やってみろ、返り討ちにしてやる」

 カツン、と硬い音がしてはっと顔をあげると、いつの間にか地下鉄の駅に続く地下道の前まで辿り着いていた。目の前に見える狭く薄暗い階段を降りれば、直ぐに小さな駅にある。ここから家庭教師先までは随分と長い道のりだったが、電話をしている所為で酷く短く感じられた。少しだけ腕を持ち上げて嵌めていた時計を見るとそろそろ最終が来る時刻だ。急がなければ。

「駅に着いた。もう切るぞ」
『えーつまんねぇ。もっと話しようぜー』
「人を寒空の中に長時間立たせるつもりかお前は」
『自分でそっちがいいって選択した癖によ。オレ、一応出かける準備してたんだぜ?』
「それはそれは。有難迷惑な事だな」
『ひでぇっ!』
「心配するな城之内。お前のくれた三点セットが随分と役に立っている。お前が車で駆けつけるまでも無く十分に温かい」
『へ?』
「じゃあな」
『……え?あの。ええ?!ちょ、海馬!』
「妄想は程々にしろ。眠れなくなるぞ」

 自然と上がる口角と思わず漏れそうになる笑い声を堪えながら、オレは携帯を閉じてコートの中にしまい込み、速足で階段を駆け降りた。そして人もまばらな改札を潜り抜け、いいタイミングで滑り込んで来た最終列車に無事に乗りこむ。ここから家までは約30分。後少しで我が家に帰れる。

 結局モクバからは最初のメールが来た切り何も連絡は無かったが、大方ゲームに夢中になっているのだろう。……そういえば今冬に出た最新のハードが欲しいと言っていた気がする。アレは幾らだっただろうか。確か、このコートと同じ位の値段ではなかったか。今はとても買ってやる事は出来ないが、一月後位にはなんとかなるだろう。

 あのろくでなしの父親が、新たな借金を作って来なければの話だが。
 

 

 滞りなく予定時刻に到着した地下鉄を降り、脇目も振らず家へと向かう。途中朝食のパンが切れていた事を思い出し、マンションの前にあるコンビニに立ち寄ってパンとココアを購入した。オレは甘いものが余り好きではないから飲まないが、モクバが冬になると決まって飲みたいと騒ぐからだ。土産のケーキと共に差し出してやったらきっと喜ぶだろう。

 無人のエレベーターに乗り込み、薄汚れた銀のボタンを押す。部屋に帰るまで、オレはそれなりに幸せな気分だった。無意識にポケットの中の携帯を握り締め、僅かに微笑む。明日は12時と言ったか。ならばそれまでにある程度の事はして置こう。休みも取ったし、モクバとも少しは遊んでやれる。そんな事を思いながら、オレがいつの間にか辿り着いていた玄関の扉に手をかけたその時だった。

 いつもはしっかりと施錠されている筈のそれが簡単にくるりと回る。あのモクバがこんな不用心な真似をするだろうかと、些か不思議に思いながら音を立てない様に静かに開閉し、施錠した。次いで上がりこんだ家の中は明るいが、妙に静かだ。寝ているのだろうか?そう思いつつ常に彼が陣取っているリビングへと足を踏み入れた、その刹那……オレは、息が止まるほど驚愕した。

 何故なら部屋の中央にある炬燵の傍で、モクバが頬を紅潮させてぐったりとしていたからだ。予想に反して何故か冷たい部屋の空気。直ぐにストーブに目をやると、時間切れで電源が落ちていた。

「モクバ?!」

 オレは手にしていた荷物を近くに置き、慌ててモクバに駆け寄って抱き起こす。手袋を口に咥えて乱暴に抜き取り、少し汗をかいているらしい額に触れると火の様に熱かった。酷い熱だ。……そういえば、夕刻に貰ったメールで凄く寒い、と言っていた気がする。あれから直ぐにこの状態になっていたとすれば、返信が返らなくて当然だ。寒かったのは部屋の温度の所為では無い、モクバの体調が悪かったのだ。どうしてそれに気がつかなかったのだろう。どうして……!

 オレは急いで自らのコートを脱いで横たわるモクバの上にかけると、ストーブのスイッチを入れ、キッチンへと向かった。慣れてはいるので焦りはないが、自分への苛立ちが押えられない。水枕と氷と、薬、それに飲み物。全く手が付けられた様子の無いシチュー鍋を脇にどかし、とりあえず湯を沸かす為に薬缶をかけた。

 風邪で済めばいいが、これがもし悪性のインフルエンザだとしたら?じりじりと沸く焦燥感につい動作が乱雑になる。

 不意に背後で「兄サマ」と呼ぶ声が聞こえた。ぜいぜいとなる呼吸音と被って酷く掠れたその響きは、それでもオレを突き動かすには十分だった。

「すまなかった、モクバ。気付いてやれなくて」

 こんな時でもお帰りなさいと呟いて伸ばされた指先をきつく握り、オレは唇を噛み締めながらそう言った。そんなオレの声に微かに首を左右したモクバは「さっき迄はなんとも無かったんだ」と嘘なのか本当なのか分からない事を言う。だから、オレは悪くないとでも言いたいのだろうか。そんなのはただの気休めだ。

「……医者に行くか?」
「……ううん、大丈夫。寝てれば治るよ」
「今布団を敷いて来るから少し待て」
「……うん。……兄サマ」
「なんだ」
「……ごめんね」

 そう言って力尽きた様に目を閉じたモクバの顔を、オレはただじっと見つめる事しか出来なかった。……何故、モクバがオレに謝らなければならないのだろう。謝るのは配慮が足りなかったオレの方だ。こんな事になっているのなら意地など張らずにさっさと城之内に送らせれば良かった。雪の中を暢気に歩きながら下らない話をして何が「幸せ」だ。馬鹿にも程がある。だが、今はそんな後悔をしている時じゃない。少しでも早くモクバの辛さを取り除いてやらなければ。

 そう思い、直ぐに立ち上がったオレは、言葉通り隣の部屋へと向かい、敷布団とかけ布団を二枚分重ね合わせ常よりも暖かくなる様に仕組むと、モクバを抱いて横たわらせた。そして持参した体温計で熱を測れと言い置いて直ぐにリビングへと戻って来る。沸いた薬缶の火を消し、道具一式をテーブルの上に乗せあげると、不意に放りっぱなしになっているコートが目に着いた。小さく息を吐いて、少し濡れたそれを取り上げハンガーにかけた瞬間、ポケットの中で震えるものがある。……オレの携帯だ。

「………………」

 なんとなく気になって携帯を手に取り、フリップを開ける。その瞬間、オレはその場に数秒立ち尽くした。目の前に飛び込んで来た一通のメール。差出人は、城之内だ。酷く短い文面には賑やかな顔文字が踊っている。
 

『明日、すっごく楽しみにしてるからな!おやすみー!』
 

 パチン、と閉ざした携帯を手の中で握り締める。
 それをその場に投げ捨てると、オレはモクバの看病をするべく速足で寝室へと歩いて行いった。

 

2


 
『……どういう事だよ』
「言葉通りだ。どうしても……出てくれと言われたのでな」
『だからって、ドタキャンするって言うのかよ?オレ、昨日念を押したよな?メールも送った。見ただろ?!』
「……ああ、見た」
『じゃあどうして簡単に駄目になったなんて言うんだよ!お前、本当にいい加減にしろよ?!オレがそういう事されて傷つかないとでも思ってんのか?!』
「……仕方がないだろう」
『仕方がなくなんてねぇ!大体……!』
「………………」

 最大限に怒鳴っているらしい城之内の声が、音量を少し抑えた携帯越しに響いて来る。怒るよりも悔しいと言った感情を全面に滲ませて耳に届くそれは、オレの寝不足の頭と後ろめたさに苦しさを感じている心に鋭い痛みを齎した。けれどオレは閉ざした口を開くつもりはなかった。

 昨日降り始めた細雪は結局一晩中降り続け、目の前に見える外の景色は見事なまでに白銀に染まっていた。いつもは灰色に彩られている眼下の道も通行人が歩くのに苦労するほど雪で埋もれている。それをただほんやりと眺めながら、オレはまだ携帯の向こうで何事か喚いている城之内の声を聞いていた。吐く息は、昨夜よりもまだ白い。

 翌日の早朝。

 きっちりと扉を閉ざした部屋の前で、オレは黒い手すりにうっすらと積もった雪を払い落し、そこに身体を預けながら意を決して携帯を手にしていた。モクバの熱は少しだけ落ち着いたものの未だ高熱には変わりなく、とても動けるような状態ではない。だから今日の約束を断る為に外に出た。勿論モクバには聞かせる事が出来ないからだ。本当はメールで済ませようとも思ったが、内容が内容故に折り返し掛かって来るのが目に見えていたから、敢えて始めから電話する事を選んだのだ。

 言う事は至極簡単だ。「今日は行く事が出来なくなった」の一言だけだ。

 だが、それがどんなに奴の感情を掻き乱すか分かっていたから直ぐには切り出せなかった。

 その言葉を聞いた瞬間数秒ほど沈黙した城之内は、寝起きで半ばくぐもった声を最大限に絞り出し、「なんで」「どうして」を繰り返した。ここでオレも素直に事実を言ってしまえば良かったが、常と同じくその言葉を飲み込んで、出来るだけ淡々と「バイトが入ったからだ」と口にした。その言い方が相手の怒りを買うのだと分かっていたが、どうしてもモクバの事を言う気にはなれなかった。

 弟の看病などと言って向こうに余計な心配をかけるのも嫌だったし、オレ達の所為で奴のクリスマス自体を台無しにしてしまう事は出来なかったからだ。「クリスマスは妹と二人でやればいい」、そう静かに呟いた声に、城之内は「ふざけんな!」と叫んで自分の携帯を床に叩き付けてしまった。形容しがたい激しい衝撃音がオレの鼓膜を震わせる。

 それでも高価で丈夫な携帯が壊れる事はなく、気を取り直して床から拾い上げたのか、再び奴の低い声が聞こえて来た。重々しい溜息が、胸に痛い。

『なんでだよ。今になってやっぱり嫌になったのか?』

 深く息を吸いこむ音と同時に半ば呆れ果てた様な言葉が耳に届く。それに見えないと分かっていても無意識に首を振り、オレは少し下にずり落ちていた携帯を握り直した。そう言えば余り意識しないでここに来た所為で手袋を部屋に置いて来てしまった。マイナスを大きく下回る冷気の所為で指先が酷く冷たい。

 最近はあの手袋のお陰で凍傷とは無縁だったが、こんな事をしていたらまたぶり返してしまうだろう。けれど、部屋に帰ろうと言う気には到底なれない。

『なぁ、海馬』

 オレの声が途切れがちになる事に何か思う事があったのか、当初の興奮は少しなりを潜め、些か冷静な声が響いて来る。駄目だ。埒が明かない。どうせ何を言ったってこいつが納得する事などないのだから、ここは潔く突き離してやろうと思った。残していたモクバの事も気がかりだから、早めに部屋に戻らなければならない。……だから。

 オレはすっかり悴んで固まってしまった右手から左手で携帯を取りあげると強く握って我ながら最低だ、と思う言葉を口にした。

「オレは。オレには……お前とは違って、暢気にクリスマスを祝う暇など最初からなかった。お前がどうしてもと言うから無理矢理時間を作りはしたが……やはり生活が優先だ。今日は行けない。行く気もない」
『……それマジで言ってんのかよ』
「オレが冗談を言わない事などお前が一番良く知っているだろう」
『けどよ!……じゃあ昨日のアレは何だったんだよ?!そんな事、一言も言わなかったじゃねぇか!散々期待させといて、それはねぇだろ?!』
「昨日は昨日だ。今日とは違う」
『屁理屈言ってんじゃねぇよ!んなの納得出来るかよ!』
「お前が納得しようがしなかろうが結果は同じ事だ。こんな男が嫌だったら別れてしまえ。幸い、オレとお前の間にはまだ何もないのだしな。いい機会だろう」
『はぁ?!』
「時間がないからもう切るぞ。来ても無駄だ。家にはいない」
『おいちょっと待てよ海馬!……海馬ッ!!』

 酷い音割れと共に大きく辺りに響き渡ったオレの名前を断ち切る様にボタンを素早く押してしまう。そのままプツリと切れた会話に安堵する間もなく、触れたボタンを長押しして携帯の電源自体を落としてしまった。小さなシャットダウン音を残して暗くなったディスプレイを見つめる間もなく、その場に携帯を取り落としてしまう。汚れたコンクリートの上に耳障りな音を立てて転がったそれは、暫しその場に放置されていた。拾う気に、なれなかったからだ。

「…………………」

 少しの間手すりを背にぼんやりとその場に立ち尽くしていたオレは、不意に響いた一番奥の部屋の扉が開閉する音にはっと息を飲み、慌てて落としたままだった携帯を拾いあげるとモクバの待つ家の中へと帰って行った。扉を閉ざし、チェーンをかけると家にいる時は常に点けているライトを消し、静かに寝室へと歩んでいく。

 あそこまで酷い事を言ったのだからよもや訊ねて来ると言う事は無いだろうが、諦めの悪さに定評のあるあの男の事だ。ここへ来てしまうとも限らない。だからなるべく居留守がばれない様に注意しなければならないのだ。気取られる訳にはいかない。今の事を。

「……兄サマ、何処に言ってたの?呼んでも返事が無いから出かけたのかと思った」

 部屋に入ると目を覚ましたのか、少しだけ瞼を持ち上げたモクバが怪訝そうな顔でオレの方を見上げた。その頬は未だに赤く、時折小さな咳をしている。オレはモクバに見えない様にコートを脱ぐと直ぐに彼の元へ行き「そんな事は無い、ずっと家の中にいたぞ」と嘯いた。何もこんな所にまで嘘を吐く必要はないのだが、オレはすっかり嘘吐きになってしまった。心に重くのしかかる後ろめたさがそうしてしまうのだろうか。

「気分はどうだ?何か食べられそうか?」
「……ううん。まだ食べたくない」
「ならば水分を取れ。大分汗をかいていたからな」
「………………」
「……どうした?」

 布団の傍に膝まづき、相変わらずこちらをじっと見つめるその瞳を見つめながらオレは普段よりも少し早口でそう言った。それに何か気づいた事でもあったのか、モクバは微かに頷きつつもオレから目線を離そうとはしない。それどころか、布団から手を出してオレの冷え切った手をぎゅっと強く握り締めて来た。ただでさえ高い子供の体温なのに、熱がある所為で余計に熱いその指先に痛みさえ感じる。しかしオレは振り解く様な真似をせずにただじっと何か言いた気なモクバが口を開くのを待っていた。

 つけっ放しのテレビから聞こえる小さな音声だけが狭い部屋に静かに響いている。

「……ごめんね、兄サマ。クリスマスなのに」
「何を言っている?」
「……何って、兄サマ……今日、約束があったんじゃないの?」
「……いや?約束など、何もしていない」
「じゃあ、どうしてアルバイトを休んだの?」
「それは……クリスマス、だからだ。今日くらいはお前と共に過ごそうと思って……」
「……オレと、だけ?」
「他に誰がいる」
「サンタクロース」
「サンタクロース?……なんだそれは」
「……内緒だって書いてあったから、兄サマには言ってなかったんだけど……メールが届いていたんだ。サンタクロースから」
「何?」
「……テーブルの傍に、オレの携帯落ちてない?受信トレイの中にある12月10日のメールを見てみてよ。……そこに……」

 はっきり言って突拍子もないモクバのこの言葉に、オレは大いに面食らい、一体これは何を言っているのだろうと眉を寄せた。大分ハイテクになった世の中だが、未だ嘗てどこぞのおもちゃ企業の販売戦略以外でサンタクロースからメールが届くなど聞いた事が無い。思わず「夢でも見たのだろう」と反射的に口にしたが、モクバは頑として「嘘じゃないからメールを見てよ」とオレに件の証拠を突き付けようと躍起になった。

 仕方なくオレはモクバの言う通り、彼の携帯を拾い上げて中を見る。12月10日……また随分と中途半端な日にメールを寄こすものだと半ば呆れて受信トレイの中を探っていた、その時だった。
 

『親愛なる海馬モクバ様 サンタクロースより』
 

 やけに見慣れたメールアドレスと共に飛び込んで来たふざけた文面。チカチカと目に痛い顔文字と共に浮かび上がって来たその内容は、まさしく『サンタクロース』からのものだった。

 ただし、その『サンタクロース』の正体は、オレが尤も良く知る輩だったが。
 

『12月24日にオレの家へお兄さん(海馬瀬人)と共に招待します。オレが誰かはお兄さんが知っているので、当日あいつから直接聞いて下さい。ちなみにこのメールはお兄さんには秘密にしているので、クリスマスの日までは内緒、という事でお願いします。24日に会えるのを楽しみにしています』
 

 最後に、わざとらしい赤い三角帽子の絵文字で締められたその文章は、紛れも無く城之内が打ったものだった。誰がどう見ても不自然な文章に、思わず口元が歪んでしまう。ただ、それも一瞬の事だった。……あの馬鹿男が。モクバにこんな妙な形でコンタクトを取るとはどういう了見だ。しかも何が「お兄さん」だ気色悪い。これだから馬鹿の事は好きになれない。
 

 好きに、なる資格なんかない。
 

「兄サマ?」

 モクバの携帯を握り締め、幾度もその奇妙な文章を見返したオレは、溢れそうになる何かを堪える為に唇をきつく噛み締めた。つい先程きつい言葉で無下に追い払ってしまったお節介で心の優しいサンタクロース。奴は今頃、持っている『リスト』からオレやモクバを外しているのかもしれない。もう二度と、顔すらもみたくないと思っているのかもしれない。
 

 意地っ張りの所にはサンタクロースは来ない。そう、言っていたのだから。
 

「こんなものはただの悪戯だ、モクバ。オレはこんな奴の事など知らない。何がサンタクロースだ、馬鹿馬鹿しい」
「……でも!オレの名前も、兄サマの名前だってちゃんと……!」
「今の世の中、大して苦労せずともその位の情報なら幾らでも手に入るだろう」
「……じゃあ、オレのメールアドレスを知っていた事はどう説明するの?」
「………………」
「兄サマ!」
「……何か温かい飲み物を持ってくる。大人しく寝ていろ」

 興奮して起き上がろうとするモクバを制して、オレは手にした携帯を軽く閉ざしその場に置いてしまうと、己の言葉通り飲み物を用意する為にキッチンへと向かった。そんなオレの背にモクバは少し不満そうな声で「兄サマの嘘吐き」と呟いた。

 ああそうだ。オレは嘘吐きだ。だから……こんなにも苦い思いをしている。

 ジーンズのポケットの中に押し込んだ、電源の切れた自分の携帯をその上からそっと押えながら、オレは深く大きな溜息を一つ吐いた。
『昨夜から降り続いている大雪は今日、明日と更に勢いを増す予報です。お出かけの際には防寒対策をしっかりと心がけましょう』
『ホワイトクリスマスもここまでになってしまうとムードがイマイチですね。サンタクロースも大変だ』
『プレゼントを配る前に遭難してしまうかも知れませんね(笑)。──それでは、次のニュースです』
 

 急に響いた少し大きなテレビの音声に、オレはビクリと肩を震わせ、いつの間にか閉じていた目を開けた。どうやら炬燵の上に顔を突っ伏して寝ていたらしく、直ぐ傍ではモクバが申し訳なさそうにオレを見上げて「ごめん」と小さく謝っている。

 寝てばかりで退屈だから腕を伸ばしてリモコンを取り上げた際、間違えて音量ボタンを押してしまったのだと、掠れ声で言い訳するその顔を少し不明瞭な視界で捕らえ、オレは苦笑して首を横に振って見せた。その際、何気なく見えた時計の針は丁度午後三時を差していた。城之内が一方的に結んで来た約束の時間から大分過ぎている。

 さり気なく携帯の電源を入れ、ディプレイを眺めたが着信は無かった。それにほっとしたような、少し寂しい様な複雑な感情が沸き上がる。全ては自分の所為なのに何を未練がましく思っているのか。馬鹿馬鹿しい。

「すまない。いつの間にか寝ていたようだな。……もう昼か。何か食べるか?なんでもいい、食べられそうな物を言ってみろ」
「……うーん……ご飯とかは全然食べたくないぜぃ」
「果物類はどうだ?林檎とか」
「……林檎なら食べたい様な気がする」
「そうか。何でもいいから口にして薬を飲め。この調子で大人しくしていれば明日には大分良くなる」
「……クリスマスなのに」
「そんな顔をするな。体調が戻ったらケーキでもチキンでも食べさせてやる。なにも逃げはしない」
「でもさ、オレがこうやって風邪をひいちゃったから、サンタクロースは逃げちゃったかもしれないよ?」
「……またその話か。大丈夫だ。ニュースでもやっているだろうが。この雪の所為で仮にサンタクロースがいるのだとしたら奴等は大分手こずっている」
「そういう問題じゃないよ」
「ではどういう問題だ?分からない事を言っていないで静かにしていろ」

 未だ疲れが取れず、少し気だるさが残った身体を伸びをして無理矢理覚醒させ、額を乗せていた所為で完全に痺れてしまった両腕を僅かに動かす。その一連の動作をやや不満そうに眺めているモクバに、オレはそれ以上何も言われない様に僅かに視線をずらしつつ、酷く温んでしまった額のタオルを取り上げて傍にあったもう氷が解けてしまった洗面器の中へと放り投げた。

 そのまま水も替えようと洗面器ごと抱えて流しへと行き、冷凍庫からアイストレイを出してガラガラとそこにあける。その際、指先に僅かな痛みが走った。この温かな室内にいるのにも関わらず赤みが引かない指先。鈍く、痒みも伴う様なそれは明らかに凍傷の一歩手前だ。やはり今朝のアレが良くなかったのだろう。次に顔を合わせた時に指摘をされたらやっかいだ。……そう自然に考えた瞬間、そんな事はもうないのかもしれない、とも思った。

 どの道、暫くは顔を合わせる事などないだろう。今日が過ぎれば直ぐ年末だ。暇など、欠片も無いのだから。
 

 
 

「どうだ?」
「……うん、食べられる」
「そうか。ならば食べられるだけ食べておけ。夜にはもう少しきちんとしたものも食べられる様になるだろう」
「兄サマは?そういえば兄サマ朝も何も食べてなかったよね?昨日の夜だって……」
「オレはどうとでもなる。心配するな。昨夜は……ああ、そういえばバイト先の家からお前にとケーキを貰って来たのだった。冷蔵庫に入っている」
「オレの事じゃなくって兄サマの事を聞いてるの!」
「ケーキは食べたぞ」
「……兄サマの方がよっぽど身体を壊しそうだぜぃ。オレからうつらない様に気を付けてね」
「問題ない」
「とにかく、オレはちゃんとこれを食べるから、兄サマも何か食べて?今すぐだよ」
「……病人に叱られるとはな」
「……だって兄サマってば自分の事をすぐ疎かにするんだもん。オレ、そういうの嫌だって言ってるよね?」
「少し元気になったようで良かった」
「もうっ、はぐらかさないでよ!」

 擦り林檎の入った器を片手に未だ真っ赤な頬をしたモクバがそう言って眉間に皺を寄せるのを少しだけ温かな気持ちで眺めながら、オレは少しだけ肩を竦めて立ち上がると、彼の監視下の元自ら食事をする為に再びキッチンへと向かった。

 昨夜作りっぱなしで放置していたシチュー鍋を火にかけ、その間モクバに薬を飲ませなければと昨日それを置いた場所へと手を伸ばす。いかにもと言ったラベルが貼ってある小瓶を取りあげると、カラン、と軽い音がして錠剤が一錠しか出て来なかった。いつの間にか、薬が無くなっていたのだ。

 そういえばつい先日、他の誰でも無い自分がこの薬を大分長い間常用していた事を思い出す。しまった、新しいのを買い置きしておくべきだった。そんな事を思っても、物がない現状ではどうする事も出来ない。

 オレは仕方なく溜息交じりにそれを置いて、折角温まりかけたシチュー鍋の火を止めた。そして相変わらず見張っているつもりなのかこちらから目を離さないモクバを振り返り、仕方なしにこう言った。

「薬が切れた。買いに行ってくる」
「え?兄サマ、この雪の中出かけるの?やめなよ。外すっごく寒いよ?」
「昨日と然程変わらないだろう。まだ暗くはないし、大丈夫だ。……ついでだから他の物も調達してくるが、何か欲しいものはないか?」
「……思い浮かばないけど。あ、でも、ちょっと考えたら思い出すかも知れないから、オレの携帯貸してくれる?思いついたら電話する」
「そうか。……ほら」
「ありがと」
「近くにしか行かないから直ぐに帰って来る。何かあったらすぐ呼べ」
「うん。オレの方こそ大丈夫だよ。ちゃんと寝てるもん」
「すまないな」
「なんで兄サマが謝るのさ」

 言いながら渡した携帯をぎゅ、と強く握り締めるモクバをなんとはなしに眺めながら、オレは慌ただしくコートを羽織り、今度はマフラーと手袋もきちんと装着して少しでも早く帰って来れる様、速足で部屋を後にする。ここから一番近くのドラッグストア付きのスーパーまでは徒歩で15分位掛ってしまう。急がなければ、そう思いつつ最後に振り返ってモクバに声をかけると、彼は何か真剣な顔をして携帯を弄っている様だった。

「………………っ!」

 玄関扉を開けると、身を刺す様な冷気が全身を包み込んだ。相変わらず降り続けている雪は既に膝下15センチにまで積もっていて直ぐにジーンズの裾をずぶ濡れにしてしまう。息を吸い込むと胸の奥まで凍りそうな寒さだった。まさにホワイトクリスマスだ。ただし、全く温かみの無い風景だったが。

 オレはコートの襟をかき寄せて、雪を強く踏み締めながら道を急いだ。途中こんな天候でも外に出かけたいらしい酔狂なカップルを何人か目撃したが、それについて何かを思う事はもう無かった。こんな事がなければ自分も今頃は、などと思った所で虚しいだけだ。何も得るものなどない。

 オレのクリスマスは元からなかったのだ。そう思えば、多少は気が楽になる。
 

 
 

 30分後。少しだけ大きな買い物袋を抱え、雪に足を取られそうになりながらオレは無事にマンションの近くまで帰って来る事が出来た。雪は更に酷くなり、既に暗くなりかけた空も相まって元より悪かった視界が余計に悪い。せめて傘を持ってくれば良かったと今更な事を思いながら後数分の道のりが遠く思えた、その時だった。

 不意に、薄暗い闇の中にやけに眩しいものが二つ光った。雪に隠れて余り良く見えないが、光の形状から、その正体は車のライトだと言う事が直ぐに分かった。雪の所為で道幅が大分狭くなり、車も通り辛いのだろう。オレがここにいる所為ですれ違えないのだろうか。

 ならばと、更に急いでその光の横を通り過ぎたその時、バンッと大きな音がしてもう背後になってしまった車から誰かが降りた様な音がした。勿論オレには関わり合いの無い事だから、そのまま足を止める事無く先へ行こうとした刹那、後ろから思い切り腕を掴まれた。

 そして。

「海馬!」

 やけに大きな怒鳴り声が、冬の静寂を切り裂く様に響き渡った。

 自分を不躾に呼んだこの声が誰のものかなど考えるまでも無い。けれど、既にこの事にはすっかり諦めをつけていたオレにとってはこれは予想外の事態だった。予想外過ぎて、直ぐに足を止める事も、振り向く事も出来ない位に。

「ちょ、お前!無視すんな!!待てよ!……ちょっと待てコラ!!」

 ザッ、と耳障りな音がして、声の主が両足を広げてその場に留まり、力任せにオレの両肩を押さえ付けた。色違いの皮の手袋がコートへと食い込んで、僅かに痛みを覚える。が、それよりも痛かったのは直ぐに思わず振り向いて見てしまった相手の表情だった。怒りの様な、悲しみの様な、およそ今日と言う日にはそぐわない複雑奇怪なその顔。

「この嘘吐き男。こんなとこで何やってんだよ馬鹿。家に居たんじゃねぇか」

 限りなく低く妙な迫力を持ったその声は、けれどそれ以上オレを責める様な言葉は発しなかった。その事に思わず息を飲むと、奴……城之内はオレと、オレが持っていた荷物を見比べてはぁっ、とわざとらしい溜息を吐いた。そして、心底呆れた様な声を出す。

「……とりあえず、車入れ。雪だるまになっちまうぞ」
「オレにはそんな暇はない。家に帰る」
「心配すんな。分かってるから。もう対策済みだし」
「……何?」
「弟の事は心配すんなっつってんだよ。今頃お前よか優秀な看護人が行ってるからよ」
「は?」
「あーもういいからこっち来い!!オレがさみーっての!死ぬ!!」

 奴の言う事がさっぱり理解出来ずひたすら目を瞠る事しかできないオレに、痺れを切らした城之内は引き摺る様にして今しがたオレがすれ違った車へと歩いて行く。そして些か乱暴な仕草で扉を開けると、殆ど突き飛ばす勢いでそこへ押し込められた。高級なシートの上に白い雪が散乱する。

「城之内!」
「うっせ!拉致とかじゃねぇから大人しくしてろ!」

 思わず叫んだオレに、倍の勢いで怒鳴り返して来た城之内はオレの上にのしかかる様な体勢で自らも車内に入るとさっさとドアを閉めてしまう。急激に温まる室温。城之内にも積もっていた大粒の雪はすぐに水となってぽたぽたとオレの上に落ちて来る。

 それを避けようと荷物を持ってない手を伸ばそうとして、遮られた。至近距離に見慣れた顔が怒りの色を乗せて近づいて来る。寒さのせいで少し色を失った唇が薄く開かれた瞬間、オレは再び何か言われるのではないかと少しだけ覚悟して身を竦めた。

 しかし、その唇は声を荒げる事は無くそのままの状態でオレの上へと落ちて来た。
 

 吃驚するほど冷たいそれは、けれども酷く優しかった。

 

3


 
「……っ、は。……お、前っ……いきなり何を……っ」
「……なんかもうムカつき過ぎて何言ったらいいか分かんねーから、とりあえずキスしてやった。ってかお前冷たすぎ!生きてんのか?」
「……し、失礼な事を言うなっ」
「こんな日に徒歩で買い物とか信じらんねーな、遭難するだろ普通に。最初見た時雪女かと思ったぜ。傘位差してけよ、行く時も降ってたんだろ?」
「煩い」
「煩いじゃねーっての」

 雪解け水以外で濡れそぼった唇をぐい、といつの間にか手袋を取った拳で拭い去った城之内は、そのままその手で同じく濡れた髪をかき上げて深く大きな溜息を吐く。その仕草の所為で露わになった眉間にはこれでもかと深い皺が寄っていた。

 怒っている、と言うのは本当なのだろう。オレの手首を掴んでいるもう片方の手の力は尋常じゃなく、骨まで軋む様な気がする。オレは自らも荷物の入った袋を頭上に投げ出すと、同じ様に濡れた唇を拭って未だ全く身体の上から退く気が無い城之内を睨み上げた。

「手が痛い。それに重い。離せ、退け!」
「嫌だね。お前、オレに向かって偉そうに言える立場かよ。だからどうして何でも素直に言わねーんだよ。こんなん嘘吐いたってしょうがねぇだろ?そこまでしてオレを怒らせたいわけ?」
「………………」
「都合が悪いと直ぐに黙んだからずりぃよな。でも考えてる事なんて丸分かりだからオレが代わりに言ってやろうか?どうせオレから変なお節介をやかれるのが嫌だとか、そう言うくっだらない理由だろ。まぁ確かにお前からそういう事を聞いちゃえばそれなりの事をしてやろうと思うよ。けどさ、それの何が悪い訳?何が嫌なの?」
「……何がって」
「何回も何回も、もうこう言う事百回位言ってっけど。オレってば案外尽すタイプなんだよね。尽くすタイプってのはどう言うのか分かる?『人に何かしてやるのが大好きな人間』って意味なんだぜ。だから逆にこういう事やられっと物凄く腹が立つ訳よ」
「……だから何だ」
「だから何だじゃねーよ。要するにお前はオレに好きな事させてくれる気ねーって事じゃん。何でも嫌だ嫌だって突っぱねてさ。オレの事なんてまっったく頼りにすらしてくれない。最終的には嘘まで吐かれてさ。悲しいね。涙が出るぜ」
「そ、それは」
「お前にあーいう事言われてオレが素直に『はいそうですか、じゃー静香と二人でクリスマス楽しみます』とか言うと思う?その辺ツメが甘いんだよ馬鹿。オレがお前の嘘には敏感で、おまけにめちゃくちゃしつこいって事分かってる癖にこういう無駄な事すんだもんな。成長しねぇよなーこないだ一つ大人になった筈なのになんででしょーね」
「………………」
「唇噛むのやめろ。癖になんだろ。それに冬は荒れるから切れるんだぜ」

 再び鼻先が触れそうな程の至近距離でオレに反論の余地を全く与えず、すらすらと淀みなくそう口にした城之内は、そのままの状態で僅かに顔を上げて頭上に放り出した所為で少しだけ中身がはみ出てしまった、オレの購入物をちらりと見た。そしてそれまでとは違った声色で「何時からだよ」と訊ねて来る。

「……昨日だ。オレがバイトから帰って来たら寝込んでいて」
「あーだから夜の電話には普通に対応してた訳ね。今年の風邪は一気に来るらしいからなー。お前もこないだそうだったじゃん。昼間なんかピンピンしてた癖によ」
「……もう少し早く気付いてやれば、大事に至らずに済んだのかも知れないが」
「お、また始まったか?」
「何?」
「そうやって何でもかんでも自分の所為にしようとすんのもそろそろ卒業したらいいんじゃねぇの。お前その内オレの髪が金髪なのも自分の所為とか言い出すだろ、絶対」
「言う訳無いだろうが!お前の事など知った事か!」
「じゃーモクバの事だってお前は関係ねぇんだよ」
「それは違う!」
「違わねぇよ」
「オレは……!」
「なら逆に聞くけど、お前が四六時中張りついてれば、モクバは絶対病気も怪我もしねぇのかよ?なんの心配もなく幸せで楽しくいられるって?」
「それは」
「本当にそうだとしたら、どうしてこういうメールがオレの所に来るんだろうな?」

 言いながら城之内はいつの間にか取り出していた自分の携帯をカチリと開き、素早くボタンを操作して目当てのものを見つけ出すと、ディスプレイをオレの目の前に突き付けた。落ち着いた色合いの車内灯の所為で仄暗い空間の中に、ぼんやりと浮かび上がった眩しい光の中に現れた文字群。そこに記されたモクバの名に、オレは一瞬息を飲んだ。そして、文章自体を読んだ刹那、更に大きく目を瞠った。
 

『メールをくれたサンタクロースへ』
 

 ああそうか、だからこいつが今ここに現れたのだ。オレが外に出た隙にモクバが打ったメールによって現状が知れてしまった。まさかこんな事になるとは思わずに請われるままにモクバに携帯を手渡してしまったが、始めから『これ』が目的だったに違いない。失策だった、そう思っても今更どうする事も出来ないのだが。
 

『昨日からカゼをひいてしまって、オレは外に行けなくなってしまいました。兄も今日は一日オレの傍にいる、と言ってます。サンタクロースがどうしてオレの事を知っているのかは分からないけど(兄に聞いても教えてくれません)、本当に兄の知り合いだったのなら、兄だけでも迎えに来て上げて下さい。いつも忙しく働いて遊びもしないのに……クリスマスまでオレのせいでつまらないまま終わってしまうのは嫌だから。兄だけを連れて行くのがダメなら会いに来てくれるだけでもいいです。お願いします』
 

 そこにある一つ一つの文字から、モクバの気持ちが伝わってくる。酷く悲しそうな目をしながら「ごめんね」と何度も謝罪を口にしていたその顔を思い出し、オレは昨日の倍胸が痛んだ気がした。勿論こんな風にモクバに負担をかける気など毛頭なかった。オレは今朝の段階で今日の事は諦めていたし、これでいいと、仕方がないと思っていた。思っていた、筈だった。

 けれど本当に……心の底からそう思い、振舞っていただろうか?

「………………」
「お前ってさぁ、独り善がりで全く酷い兄ちゃんだよな。そして本当に可愛くねぇ。お前がちゃんとモクバに今日の事を説明して、オレにも本当の事をきちっと話せばこんなん全然拗れる事なかったんだぜ?お前だってこの世の終わりみたいな顔をして外歩かなくったって良かったかもしんねーし」
「……誰がそんな顔をして歩いていた」
「お前。ったく、言葉や態度は素直じゃねぇ癖に表情だけは素直なんだもんなー。そりゃお前、モクバだって何かあるなって思うだろうよ。知らぬは本人ばかりなりってな」

 あーもー可哀想過ぎてやっぱり泣けてくるわ。オレなら泣くね、絶対。

 そう言って疲れた様に頭を下げて再び盛大な溜息を吐いた城之内だったが、その後持ち上げた顔には先程の様な怒りも呆れももう無かった。代わりに浮かんでいたのは小さな苦笑。「本当にしょうがねぇ」と呟いた唇はいつの間にか吐息が感じられる程近くにあった。身体に感じる重みが、苦しさよりも温かさを連れて来る。

 違う、そんなつもりは無かった。そうは言っても結果的にこうなってしまったのだからそんな台詞などただの言い訳にしかならない。そう思い、再び唇を噛みしめそうになったの事に気づいたのか、城之内はいつの間にか自由になっていた両手でオレの頬を包んで、額を合わせて来た。すっかり濡れた前髪を掻き分けて、わざとらしく冷たい皮膚を擦りつける。

「やめろ。濡れて冷たい」
「今朝のお前の言葉よりはマシだと思うけど。それに、濡れて冷たいのはお互い様だから」
「…………う」
「お前こそいい加減に『お前とは違う』って言うのやめろ。全然違わねーから」
「何処が。全然違うだろうが」
「まぁ、外見とかなんとか細々としたもんは確かに同じとは言えねぇけど、気持ちは一緒だろ。お前が嫌だと思ってる事はオレも嫌だし、大事に思ってるもんもきっと一緒だ。……だから、さ」
「………………」
「もーちょっとだけ甘えてくんねぇかな。クリスマスプレゼントだと思って。オレ、マジにお前に甘えて欲しい」

 オレの視界一杯に自分の顔をこれでもかと割り込ませて、至極真剣な声でそんな事を言う城之内を、オレはただ見つめ返す事しか出来なかった。甘えろと言われてもどうしたいいのかなど分からない。そんなものは遠い昔に忘れて来てしまったし、今更思い出せと言われても欠片程も浮かんでは来なかった。けれど、城之内はクリスマスのプレゼントとしてそれが欲しいと言う。では、どうすればいいのか。

「……そう、言われても」
「うん」
「どう……したらいいんだ」
「え。お前、甘え方知らねぇの?」
「知らない」
「……そうかぁ。うーん、やっぱりそうだよなぁ。知らない奴に急にやれっつっても出来ねぇよなぁ」

 まぁ分かっちゃいたけどねー。

 言いながらこれまた真面目に首を捻る城之内に、オレはいい加減押し潰されているこの状況が負担になって来た。全体重を預けられている訳ではないが、圧し掛かられている事に変わりはない。冷え切っていた身体が社内の暖房と目の前の体温のお陰で温まって来たのもその妙な居心地の悪さを齎している一因だった。なんだか面映ゆい。知らず頬が熱くなって来るみたいだ。せめて起き上がらせて貰えないだろうか。

 そう思い、緩やかにシートの上に落ちていた手を上げて眼前の肩を掴んで上に押し退け様としたその時だった。城之内が何かを思いついた様にはっと息を飲み、一転して全開の笑顔を見せながら何故か嬉しそうに声で口を開く。

「じゃー、とりあえず、この身体の力抜いてみ?潰したりしねーから」
「何故だ」
「いいからいいから。言う通りにしてみろって」
「…………………」

 ホレ早く。そう促されるままに、オレは意味が良く分からないまま突っ張っていた腕の力を抜いて、そのまま僅かに入っていたらしい身体の力も抜いてみる。すると、その瞬間を狙ったかの様に城之内の両手がオレの頬から離れ、そのまま身体を抱え込む様に両腕を回して抱いて来た。四肢を上手く使い、オレに体重をかけない様に柔らかく拘束する。余りに突然の事に訳が分からず、されるがままにしていると、耳元で笑いの混じった声が聞こえた。甘く、優しい囁きだ。

「このままの状態で、両腕をオレの背中に回してみ。甘やかしてやるから」

 オレは、やはり状況が飲み込めず言われるがままに腕を伸ばした。コートを着ている所為で余計広く感じるそこに出来る限り、しっかりと。

 そんなオレに奴は更に嬉しそうに喉奥で笑ってみせると、まるで子供にする様にぎゅっと強く力を込めて抱きしめて来た。そして、あやすように背を叩く。そうしながら肩口に伏せられていた顔が持ち上がり、額と頬に唇を押し当てられた。くすぐったいような感覚が、余計に面映ゆさに拍車をかける。……なんだ、これは。

「甘えるっていうのはこう言う事。……尤も、これは物理的に、だけどね」
「……よくわからん」
「そう?気持ちいいだろ?幸せな感じしねぇ?」
「……悪くは無いが」
「オレはいつでもお前にこうやって大人しくしてて欲しいなーって思ってるぜ。ココロの方もさ。全部の力を抜いて頼って欲しい」
「………………」
「お前は、一人じゃないんだからさ」

 じわりと触れた場所から沁み入って来る体温。穏やかな声。何もかもを包まれる感覚。オレは、この瞬間、ほんの数秒だけこれまで感じていた様々な後ろめたさや、モクバに対する想いを忘れた気がした。自らが負っている全ての事を放り出して、ただ暖かさだけを感じていた。それは確かに酷く幸せな時間だった。心の底から……癒される気がした。

 ただ少しだけ強く抱き締められている、それだけで。

 未だにこれが甘やかされている事なのか、はっきりとは分からなかったけれど。酷く満足そうな城之内に、今暫くこのままの状態を維持してやろうと思った。
 

 尤も、オレもそうしたいと思う故に……身体が動かなかっただけなのだが。
「んじゃ、オレちょっと行ってくるわ。直ぐに静香連れて帰ってくっから。悪ぃけどここで少し待っててくれ」
「はい。かしこまりました、克也様。ごゆっくりどうぞ」
「よしっ、と。じゃ、行こうぜ海馬」

 あれから大分長い間後部座席で不自然な体勢でじっと抱き合っていたオレ達は、城之内の発したその声に漸く半身を起こすと、先に体勢を立て直し後ろ手にドアを開けて先に出た城之内に引かれる形で未だ激しく雪が降る外へと足を踏み出した。その際、存在すらすっかり忘れていた城之内付きの運転手に何気なく視線を向けてしまい、にこやかに微笑まれる。この至近距離だ、先程の言動は全て筒抜けだっただろう。今更ながら気づいたその事実に知らず頬が赤くなる。

「?どした?そんなに車の中暑かったか?」
「ち、違う。今、お前の運転手が……笑って……」
「あー如月だろ?大丈夫大丈夫。あいつオレ等の事知ってるし。ぜーんぜん問題無し!」
「し、知っているってお前……!」
「つか、オレん家の人間皆知ってるし。今日も皆心配してくれたんだぜ。お前がこねーなんて言うから」
「何でお前の家の人間がオレの事を知っているんだ。オレはお前の家になぞ行った事はないし、お前の会社に顔を出した事もないぞ」
「何でって。いつお前家に呼ぶか分かんなかったから、言っておいた方が楽じゃん?」
「そういう問題なのか?!……勿論友達だと言ったのだろうな」
「は?なんで?ちゃんとそーいう恋人がいるって言っておいたけど。静香にだってちゃんと言ってるぜ。お前と違って隠しごと嫌いだからな」
「な……!!」
「まぁ、全然驚かないで、って訳にはいかなかったけど。特に何も言われなかったぜ。逆にいつ連れて来るんだって聞かれた位で。如月だってそうだよ。どうせなら一緒に車で登校すればいいのにって言われてさぁ。さっきもお前を見つけたの奴が先なんだぜ?あいつ結構目がきくんだよな」
「………………」
「お前が思ってるほどオレ達の周りって冷たくも頭硬くも無いんだぜ。だからそんなに肩肘張って生きてく事なんてねーんだよ。……な?」
「……懐が広過ぎるのは、お前の周りだけだろうが。もしこれが他所に知られでもしたら……!」
「そん時はそん時。有り余る金は有効に使いましょうってね。大丈夫!お前に迷惑はかけない様にすっから」
「違う!そうじゃなくて!」
「オレが『大丈夫』って言ってんだよ。余計な心配すんじゃねぇ。とにかく早く家に帰ろうぜ。モクバ、待ってんだろ?」

 今しがた知った驚愕の事実にオレが口内に雪が入る事を覚悟で城之内に怒鳴りつけてやろうと思った刹那、それを遮る様にぐい、と強く腕を引かれた。そして、そのまま奴はもう聞く耳持たないとばかりに背を向けて、ざくざくと重たい雪を踏み締めながら歩き出す。綺麗に磨き上げられていただろう城之内の皮のブーツは泥の混じった雪の所為ですぐに汚れてしまった。仕立てのいい、気に入りだと言っていたスラックスもまた然り。

 ……馬鹿な奴だと心の底からそう思った。嘘吐きで薄情なオレの事など何も気にせずに、妹と二人……家で仲良く過ごしていればこんな酷い雪の中を歩く事も無かったのに。

 ガサリと、握り締めたビニール袋が音を立てた。それが気になったのか、徐に奴はこちらを振り向いて、オレを見る。

「荷物、持ってやろうか?」
「要らん世話だ。オレは女じゃない」
「あ、そ。それにしてもお前ひでぇなぁ。一瞬で凍えちまうのな。マジ雪女みたい」
「人に言えた義理か。鼻が赤いぞ」
「トナカイさんは一匹で十分ですー。しっかしホワイトクリスマスっつったって限度があるよなぁ。ロマンチックの欠片も無い」
「何がロマンチックだ」
「あ、そういえばまだ言ってなかったっけ」
「何を」
「メリークリスマス、海馬!」

 冷たい雪が降りしきる中、足元を汚して歩き温かくも無い手を繋いで、安っぽいビニール袋を間に挟みながら、それでも至極楽しそうに笑った城之内は、大きな声でそう言うと元々引いていたオレの腕を更に引いて強引に己の所へと引き寄せた。瞬間、軽い衝撃と共に雪塗れの頬に当たったのは笑顔のままの奴の頬で、濡れて冷たいそれはちっとも人間の肌とは思えなかった。けれど奴は相変わらず嬉しそうに笑い声をあげると、「結果オーライだからちょっと幸せ」と訳の分からない事を口にした。

「……下らない」
「あ、わざわざ来てくれたサンタクロースに向かってそういう事言う?」
「誰も頼んでないわ」
「ちなみにさっきちらっと聞いたと思うけど、今モクバのとこにいるの、静香だから。どーしてもお前等に会いたいって言うから連れて来た。兄貴より先に弟のとこ行かせるのどうかと思ったんだけど、お前居ないみたいだったし、鍵開いてたし。不用心だなーお前らしくねぇ」
「………………」
「静香が帰ってこねー所をみると、案外仲良くしてるかもよ。どーする?兄同士どころか弟と妹でデキちゃったら」
「…………何?!下らん事を言うな!」
「まぁまぁ落ち着いてお兄ちゃん。とゆー訳で、部屋では堂々とラブラブできないんです。本当は室内でこうしたかったけど。まぁどこでもいっか。さっきも思う存分満喫したしー」

 そう言いながら城之内はここが外で、マンションのすぐ前だと言うのにも関わらず堂々とオレの身体を抱き締めると、雪に濡れた唇同士を合わせて長く深いキスをした。
 

 イルミネーションも、ジングルベルも無い、雪だけは豊富なホワイトクリスマス。

 それでも、確かにオレは……オレ達は幸せだと思った。
 

 ただ、こうしているだけで。
 その後、城之内兄妹は暫しの間オレの家に滞在し、モクバを気遣いながら一時の賑やかな時間を与えてくれた。そして、モクバの体調が完全に回復し次第、もう一度ちゃんとしたクリスマスをやろうと一方的に約束をして帰って行った。

 その間、オレはモクバにどのタイミングで城之内との事を話そうかと迷っていたが、どうやらお喋りな兄に似た妹の口から既に伝えられていたらしくその言葉を出した途端「もう知ってる」「水臭い」と逆に責められてしまった。その後どんな言葉が飛び出してくるのだろうと密かに身構えたが、幸か不幸かモクバは酷く嬉しそうな顔で笑い、「兄サマをよろしく」と奴の間抜け面に頭を下げていた。……なんだか妙な気分だった。
 

「ね、兄サマ。今日は凄くいいクリスマスだったね。やっぱりサンタクロースが来てくれたからかな」
「かなりお節介焼きの煩いサンタクロースだったがな」
「でも、プレゼントくれたじゃん。オレ、凄く嬉しかったよ」
「?何かお前に贈って行ったのか?奴は」
「うん。でも、物じゃないよ?」
「物じゃない?」
「そう。物じゃないけど、大切なもの」
 

 就寝間際、まだ少しだけ熱があるモクバに付き添う形で、彼の隣に布団を敷いたオレは横になりながらその言葉を聞いていた。楽しくはしゃいだ所為か丸一日寝ていたと言うのに既に半分寝ている声でぽつりぽつりと話す声に、オレはもう寝ろ、と言って少し下にずれていたかけ布団を上げてやる。次いで額のタオルが温んでいないか確かめる為に上げた手を、柔らかく掴み取られた。少し熱い、細い指先に。

 城之内がモクバに寄こしたプレゼントとは一体何の事だろう。それが事実なら、後日礼を言わなければならない。そんな事を思いながら、オレは問う様に隣のモクバの顔を見た。僅かに口元を綻ばせて、嬉しそうに笑う、その顔を。

「……なんだか、やけに嬉しそうだな」
「うん、兄サマもね」
「……は?オレも?」
「そうだよ。自分で気付かない?外からあいつと帰って来てから、兄サマ、凄く嬉しそうに笑ってた。オレ、それが嬉しかったんだ」
「……そう、か?」
「そうだよ。だから、それがオレがあいつから……サンタクロースから貰ったプレゼントだと思ったんだ」
「………………」
「兄サマが笑ってくれると、オレはそれだけで幸せになる。だから、ずっとあいつといて?」
 

 何でもいいから、誰とでもいいから、オレは兄サマに幸せになって欲しい。
 

 そう小さく呟いて、本当に満足そうに笑ったモクバは、そのままオレの手を握り締めて小さな寝息を立て始めた。こんなに嬉しそうなモクバの顔をオレは今まで見た事がなかった。今しがた紡がれた言葉も相まって、それは確かに酷く幸せな瞬間だった。例えようも無い、幸福感に満たされるような気がする。

 これは確かに、あの男が齎してくれたものなのだろう。自称サンタクロースだった、あの男が。

「………………」

 オレは徐にモクバと繋がっていない方の腕を頭上に伸ばし、傍に置いてあった携帯を掴み取ると静かにフリップを撥ね上げた。そして、メールを開き、短い一言を打ち込んで送信する。宛名は敢えて『城之内』にはしなかった。あくまで奴は今日明日はサンタクロースでいると宣言したからだ。
 

【件名】
お節介焼きのサンタクロースへ
【本文】
ありがとう
 

 そのメールを打った数分後、やけに興奮した返信が返って来たらしいが、それを見る前にオレはモクバと共に深い眠りに落ちてしまったらしい。着信を知らせる明滅が手の中に無意識に握りこまれる。
 

【件名】
逆に
【本文】
オレがプレゼント貰ったみてぇ!!すっげぇ嬉しい!!サンキューな!
遅れてもクリスマス、すげー楽しみにしてるから!そいじゃ、おやすみー。風邪引くなよ!
 

 オレ達は世界中の誰よりも幸福なクリスマスを過ごしたに違いない。
 誰に否定されても、それだけは胸を張って言える気がする。

 その証拠に携帯を握り締めたまま朝を迎えたらしいオレは、変わらず口元に淡い笑みを湛えていたらしい。多分、いい夢でもみたのだろうとモクバには言ったが、絶対に違うと否定された。

 まぁ、でもそんな事はどちらでもいい。
 

 笑みが消えない程に幸せだったのは、事実なのだから。