Act3 Heartful Valentine

 靴箱を開けたら、色とりどりの箱が大量に落ちて来た。こんな狭い空間に、ましてや履物を置いている場所によくもまぁこんなに詰め込めたものだと感心しながら、オレは深い溜息を一つ吐く。毎年の恒例行事とは言え、うんざりせずにはいられない。今年は塾の方もある故尚更厄介だった。

「おはよう海馬くん!……って、うわ。今年も凄いねぇ、バレンタイン」

 大量のチョコレートに阻まれて上履きが取り出せず暫し苦戦していると、腰のあたりに軽い衝撃と昇降口中に良く響く元気な声が聞こえて来た。それに視線を下方に向けると、その声の主である遊戯の笑顔が飛び込んでくる。

 凄いと人に言う割に奴もまた大量のチョコレートを抱えていた。聞けば登校途中に下級生から直接手渡されたのだと言う。つい先日開かれたデュエル大会で優勝してからと言うもの、こいつの人気は鰻のぼりだった。それに本人は戸惑いを隠せない様だったが。

「人に言う割には大収穫だな、遊戯」
「これ?うん、去年の十倍。時期が良かったよね」
「嬉しいか?」
「嬉しいよ!チョコレートって人気のバロメーターじゃん」
「……そういうものか?」
「海馬くんみたいにさ、普段からすっごくモテる人にはどうでもいいかも知れないけどね、バレンタインって普通は戦争なんだよ?女の子にとっても、男にとってもね」
「……戦争」
「女の子は好きな人をゲットする為に奮闘するし、僕達は数を競うでしょ?だから、戦争なんだよ」
「……なるほど。では協力してやろうか?」
「人のチョコレートを貰っても意味ないでしょ!大体今年は僕、自力でなんとかなりそうですから。お気遣いなく」
「そうか」
「あ、海馬くんチョコレートを入れる袋持ってる?僕沢山あるから一枚あげようか?」
「頼む。……というか、用意がいいな」
「えへへ。少し見栄張りたくって準備してたんだ。ちょっと待ってね」

 そう言って、遊戯は身体に見合わない大きな鞄の中から手提げ付きのクラフト製の紙袋を取り出して、二枚ほどオレに差し出した。こんなにいらないと突っぱねると、奴は何故か得意気に胸を張り、「まだバレンタインは始まったばかりだよ」と小さく笑った。それに、オレは余計に憂鬱な気分になった。

 紙袋を片手で広げて靴箱の中に詰まったモノを無造作に放り込む。全く、下らない事に金と情熱を費やすものだと心底呆れる。まぁこれで当分モクバの菓子に困る事はないだろうが、基本的に甘いものが好きではないオレに取ってはチョコレートの価値などその程度の物だった。

「でもさぁ、海馬くんが貰うチョコレートっていかにも手作りって感じだよね」
「は?」
「だってほら、これなんかお店の包装紙っぽくないじゃない?こっちも、袋の包み方が独特だしさ。なんか気持ち入ってるって感じ。ほら、僕のなんかさ、いかにもお店で買いましたーみたいなものだもん」
「そう言われてみればそうだが、それがどうしたのだ」
「どうしたって。それだけ皆君の事が好きって事だよ」
「………………」
「で、本命の彼からは貰えそう?あ、それとも海馬くんがあげる方なのかな?」
「何?本命?」
「うん、本命。僕は杏子からちゃんと貰ったよ。朝一番に来てくれてさ、ちゃんと手渡しで」

 ほら、と些か自慢気に掲げられた遊戯の右手には確かに他の物よりも一回り程大きくて厚みのある箱が握られていた。少し歪んだ包装紙やいびつなリボン結びが多少滑稽だが、それが返って手作りである事を強調させて印象は良かった。なるほど、好きだという気持ちが良く分かるというのも頷ける。……しかし。

「何故朝一番に寄こす必要があるのだ。順番など関係ないだろうが」
「僕もそう思ったんだけど……ちゃんと理由があったみたい」
「理由?」
「うん。でも惚気になるから言わない」
「……気になるから言え」
「えぇ?そんなの聞いたって面白くないでしょう?」
「いいから言え。お前が持ち出した話だろうが」
「あーうん。そうなんだけど……」

 海馬くん相手にはなんか話したくないなぁ、こういう事。……そんな失礼な事を言いながら照れ隠しの様に鼻の頭を掻いていた遊戯は、何故か徐に深呼吸をした後、頬を赤く染めながらこう言った。

「一番じゃないと、取られちゃう、と思ったんだって。僕の事」
「取られ……」
「カワイイでしょ、杏子って」

 そう言って如何にも恥ずかしそうに笑うその顔こそが『可愛い』と思ったが、敢えてその事は口にせずに、オレは曖昧に頷いて同意してやった。それが余計に恥ずかしさを助長させたのか、遊戯はますます顔を赤くしてそっぽを向き、「もう、こんな事言わせないでよ!」と理不尽な言葉を口にした。

 言ったのはお前であって、オレは何もそこまで言えとは言っていない。だが、他人の幸せそうな様子を見ているのは満更悪い事ではなかった。

『良かったな』と自然に口から零れ落ちる位に。

「僕の方はご覧の通り順調なんだけどさ。海馬くんの方はどうなの?って」
「どうって……全く意識などしていなかったが。オレも奴も男だぞ?関係ない」
「そう言われると確かに関係ないかもしんないけどさ。恋愛イベントなんだから乗っちゃいけない事は無いでしょ」
「それはそうだが。しなければならないと言う事でもないだろうが」
「うーん。そうなんだけど……やっぱりほら、城之内くんってそういうの大事にするじゃない」
「………………」
「あれで結構心配症なんだよ。今週は忙しくて学校来られないみたいだから余計にさ」
「?今の話と、心配症という単語がどう繋がるのだ」
「え?分からないの?ほら、杏子と一緒なんだよ」
「何が」
「取られちゃうかもって」
「……誰が、誰に?」
「君が、他の誰かに。逆に言えば君だってそうでしょ?城之内くんの靴箱、見てみなよ」

 言いながら、遊戯が出席番号の関係でほぼ隣に位置する『城之内』の名札を指し示す。その意味を余り解する事が出来ないまま、オレは渋々言われた通りに、薄汚れた小さな鉄扉へと手をかけた。ほんの少し力を込めて指を引くと、ドサドサッと言う音と共に足元にチョコレートの山が出来ていた。その事に、ほんの一瞬目を瞠る。

「ほらね。城之内くんって社長さんじゃん?……まあ、社長さんじゃなくってもカッコいいし、女の子にも優しいから分かってると思うけど、すっごく一杯チョコレート貰ってるんだよね。去年も凄かったんだよーたまたま登校しちゃってさ。もみくちゃにされて」
「女どもにか」
「うん。海馬くんは違うクラスだったから知らないかな。うちのクラスではあの御伽くんを抜いてダントツトップだったんだよ」
「ほう」
「勿論今は君がいるからそんな事はないだろうけどさ」

 万が一って事があるじゃない?そもそも城之内くん、イベントにマメな子、好きだし。

 そう言ってオレの顔を覗き込んで来る遊戯の瞳を視界の端に据えながら、オレは足元に積もった沢山のチョコレートを見詰めていた。その幾つかにはご丁寧にハート形のメッセージカードが付いている。他人の貰いものを吟味する趣味は無い為、それらを開封しようと言う気にはなれなかったが、少しだけ気にはなった。

 そもそも奴は元々はノーマルな人間だし、オレにちょっかいをかけて来る前までは他校の女子(遊戯曰く顔やスタイルは『いい』部類に入っていたらしい)と付き合っていた。それに加えて時折女の細やかさや、些細な事でも極端に喜ぶという生態を、嬉々として口にする事も確かにある。それらの事実は遊戯の証言を鮮やかに裏付けており、だからこそオレもこの話をどうでもいい事として聞き流す事は出来なかった。

 ……言われてみなければ全く考えも及ばない事だったが。

 しかし、バレンタインはあくまで男女の行事では無いのかと、オレはこの後に及んでそこに強く拘りを持っていた。頬を染めて「好きです!受け取って下さい!」などと口にする数多の女の様に、オレも奴にチョコレートを手渡さなければならないのか。……想像するだけで微妙な気分になる。かと言って、常日頃から何かと世話になっている相手を悲しませる様な事はしたくない。

「………………」
「海馬くん?そろそろ混む時間だから教室行こうよ」

 暫しの間、眉間に皺を寄せてこの事を真剣に考え込んでしまったらしい。次第にざわめく周囲の様子と、いつの間にか城之内のチョコレートをも回収し、靴も履き替えた遊戯がかけて来た声に、はっと我に返ったオレは、「早く」と急かす言葉に促される様に遊戯の後について歩き出した。

 途中変わらずかけられる声と差し出されるチョコレートに、手にした袋の重さに比例してオレの心も重くなって行く。拒否をした所で「気持ちだから」と無理矢理押しつけられてはどうしようもない。その場に投げ捨てる訳にもいかず、結局は渋々受け取る事しか出来なかった。深い溜息が零れ落ちる。

「……最初にこんな下らん事を考えた馬鹿は誰なのだ」
「そう言わないで。気持ちだから」
「押し付けは迷惑だ」
「あはは。うん、そうだね。相手の気持ちも考えないで押しつけるのは迷惑だよね。でもさ、こういう時じゃないと気持ちを伝える事が出来ない人は沢山いるんだよ。君だって、普段から城之内くんに気持なんか伝えてないでしょ?」
「何故そこで奴が出てくる」

 先程から何かと引き合いに出される『城之内』の名に、朝方から齎されたこの騒ぎに対する不満や、かなり個人的な感情も相まって、僅かに苛立ちを感じたオレは、八つ当たりと知りつつも少しだけ声を低めたその時だった。相変わらずのんびりとした歩調で先を歩いていた遊戯が、教室の前でピタリと立ち止まり、意味有り気な顔で背後のオレを振り返る。

 そして、些か真面目な声でこう言った。

「ねぇ、海馬くん。僕はね、君とも友達だけど、城之内くんとも友達なんだ」
「……そんな事は分かっている」
「友達同士ってね、色んな事を話すじゃない?特に城之内くんとは一年生の時からの親友だから、お互い本当に沢山の事を話してるんだよ。君との事も直ぐに聞いたし、今も時々聞いてる。多分君には言えない事も、全部」
「……なんだと?」
「あ、誤解しないでね。城之内くんは君の事を悪く言ったりなんて絶対しないよ。大半は惚気話。もう『ごちそう様』って言いたくなる程デレデレ。その時の城之内くんの顔を見せてあげたい位」
「…………」
「でも、ほんの少しだけ。『寂しい』って顔をしてる時があるんだ。具体的に何がとは言わないけど。あ、勿論それは僕が感じた事で、本当はそんな事ないのかもしれないよ?……でも、なんとなく分かるんだ」

 そう言って少しだけ眉尻を下げた遊戯の顔を見詰めながら、オレは突然告げられたこの思いもかけない言葉に一瞬驚き、絶句した。それは一体どういう事だ?そう声に出そうとした台詞は、大きく響く授業開始のチャイムに飲み込まれてしまう。

「あっ、もうこんな時間!早く席に着かないと朝礼が始まっちゃう。行こう、海馬くん!」

 はっとして、同時に顔を上げたオレ達は、方々から全速力でスライド式の扉に駆け寄る生徒に押される様に駆け出した。些か乱雑な仕草で手にした紙袋をロッカーに放り込み、席に着く。どうやら間に合ったと息を吐き、鞄の中身を机の中に入れようとして、出来なかった。中に異物が入っていたからだ。

 それは何か考えなくても直ぐに検討がついた。軽く舌打ちをして左手を突っ込み、今の勢いで少しだけ潰れてしまった派手な箱を救出する。

 赤と金の余り品の良くない包装紙。ハート型のシールの上には「バレンタインデー」の文字が刻印されている。

 オレはうんざりした気持ちでそれを鞄の中に放ると、改めて分厚い教科書群を机の中に叩き込んだ。 そこにタイミング良く担任の教師が入ってくる。大分とうが立つ余り化粧っ気のない彼女は、何故か機嫌よく教壇に立ち、「今日はバレンタインだけど、皆は好きな人にチョコレートを贈ったかしら?」等と教師らしからぬ態度で軽口を叩き、出席を取り始める。

 数秒後、もはや定番になっている城之内の欠席を告げる声に、オレは思わず奴の定位置である廊下側最後尾の空席を見詰めてしまい、ほんの僅かに眉を潜めた。

 その場所は、この季節に置いていつも以上に寒々しく感じられた。
『いきなりで悪いんだけどさ、オレ、今から暫く日本を離れる事になった。アメリカでちょっと面倒な事が起きて『社長直々に』なんて言われてよ。長引きそうで嫌なんだけど、そうも言ってらんねぇから』
『……急な話だな。帰国は何時になりそうなのだ』
『分かんねぇ。とりあえずそのトラブルを何とかしねぇ事には国内でも身動き取れなくてよ』
『……そうか』
『そんなこの世の終わりみたいな顔すんなよ。大丈夫!この城之内様の手に掛ればどんな大事件だって魔法の様に直ぐ解決ってね!』
『………………』
『一ヶ月はかかんねぇから。約束する。それまでしっかり働けよ、勤労学生!』
『ああ』
『なんだよー調子狂うなぁ。オレ、お前はもっとクールな反応示すと思ったぜ。どこへなりともさっさと消えろ!清々する!とかさ』

 そう言って、黙り込んでしまったオレの顔を奴が困った様に覗き込み、宥める様に強く抱き締めて来たのは、今からちょうど一ヶ月前の一月半ばの事だった。その言葉通り、会社の方で何か大きなトラブルが発生し急遽渡米する事になった城之内は、慌ただしく、けれど律儀にオレの所に顔を出して挨拶を済まし、その足で直ぐにアメリカへと飛び立って行ってしまった。その時オレは丁度バイトに出ていて、高校受験前の特別講習の真っ最中だった。

 授業の合間にある十分間の休憩時に校内放送を使って呼び出され、何事かと階下の教員室に戻ってみれば、急ぎの用で友人が訪ねて来ている、と告げられた。その『友人』とは勿論城之内の事で、言われるままに外に出てみれば、塾の脇にある細い路地の入口に見慣れた金髪が立っていた。

 オレの姿を見るなりどこかすっきりとしない笑顔を浮かべた城之内は、急いでいるから手短に、と前置きして、冒頭の言葉を淀みなくすらすらと口にした。そして面食らうオレを苦笑しながら見上げて来て、最後に「急な事でごめん」と呟いた。それにオレが何か言う前に、奴は来た時と同じ位早急に背を向けて早足で駆け出した。きっとこの路地の向こうには、常に奴と共にある見慣れた高級車が待機しているのだろう。

 闇の向こうに沈んで行くその後ろ姿を見送りながら、オレはなんだかとても寂しい気持ちになり、吐き出す息と共に肩を落とした。

 本当に、急過ぎる事だったからだ。

『オレさぁ、誕生日には何もいらねぇから、お前と一緒にいたい。丁度次の日休みだし、泊まりに来いよ。バイトがあるんなら終えてからで構わねぇし、モクバも一緒で構わねぇから』
『オレが聞いているのはそんな事では無いのだが』
『なんで?質問に答えたじゃん。何が欲しい?って言ったろお前』
『ああ』
『だから答えただろ、何か変か?お前に泊まりに来て欲しいって言ってんだけど』
『答えになってないじゃないか』
『なってるって』
『どこが』
『どこって……んじゃーはっきり言っていい?』
『はっきり?』
『そ。「お前が欲しい」。これでどうよ』
『さっきと何が違う』
『んーダイレクトアタック加減かな。てかお前正しく意味を理解してないのな』
『……ふざけているのか?』
『これっぽっちもふざけてねぇよ。マジな話。……けど、そっかー。遠回しなアプローチは通じないかー。なるほどねー』
『城之内』
『んな怒んなよ、からかってねぇって言ってんだろ。分かんねぇんならはっきり言うよ。ぶっちゃけた話、お前とヤリたいって事だよ』
『や……何?』
『オレらオツキアイしてもう半年だろ?そろそろちゃんとした恋人になりたいかなーなんて。お前って見るからにそういう方面疎そうだから、あんまがっつくのもどうかと思ってたんだけど……そろそろ限界。そこに丁度良くオレの誕生日だろ?お前何でもくれるって言うし、だからオレはお前が欲しいって言ったんだけど。何か問題ある?』
『……問題、と言うか。そ、それはそれだろう。オレは、お前がくれた誕生日プレゼントの礼として……』
『ごめん、もうその手にはのってやれない』
『………………』
『物はいらない。海馬が欲しい。大体オレ、欲しいものとかあんま無いし、自分で買えるし。お前に金使わせるのが嫌って訳じゃないんだけど。そんな事はしてくれなくていい。……どうしても嫌だっていうんなら諦めるけど、そうじゃないのなら考えて欲しいんだ』

 城之内が渡米する更に少し前。普段通り互いに忙しい中やりくりして合わせた時間を使い、この季節には長時間居座るのに似つかわしくない公園の片隅で、缶コーヒーを片手に他愛の無い話に花を咲かせていた時の事だった。

 ふと、後二週間後に迫った城之内の誕生日の事を思い出したオレは、話の流れを途切れさせない様に気をつけながら、さり気なく誕生日には何が欲しいかを聞いてみた。奴の誕生日の日付は何の因果かオレと同じ二十五日で、丁度三ヶ月前の十月にオレは既に誕生日を終えていた。

 その日もオレはプレゼントとして奴から貰ったコートを着込み、マフラーを巻いて、然程寒さを感じずに寒空の下にいた。そのどれもがとても温かく、常に苦痛しか感じなかった冬の季節を、少しだけ幸せなものに替えてくれた。

 この礼は城之内の誕生日に。

 そう前々から心に決めていたオレは、それを速やかに実行すべく、直接本人から聞く事を選択した。 誕生日プレゼントに欲しいものを贈る相手に予め訪ねてしまうのは多少味気ない感じもするが、相手は超が付く程の金持ちで有名人。それに加えてオレは余分な事に金を使える余裕などない苦学生だった。

 故に相手の望まれないものを贈って互いに気不味い思いをするよりは、少々醍醐味に欠けるものの堅実な道を行こうと、自ら選び取ったのだ。その方が相手にとってもきっといいだろうと思ったからだ。そんな大した事のない個人的事情を胸に秘めて、オレは少し驚いた表情をしてこちらを見返した城之内の顔をなんとは無しに眺めていた。

 互いの吐き出す息と、熱いコーヒーの缶から立ち上る仄かな湯気がくゆり、常に笑顔の絶えないその顔を霞ませる。

 やや暫く、その場には妙に気詰まりな空気が流れていた。何事も派手でサプライズが好きなこの男にはこんな質問はナンセンスだったのかと、オレが少しだけ後悔し始めたその時、城之内はやけに真面目な顔で「誕生日に物はいらない」という例の台詞を口にしたのだ。

 そして最後までその意見を覆す事はなかった。
 

『誕生日には、お前が欲しい』
 

 その言葉はそれからずっとオレの心に残り続けた。あの日も結局その話は有耶無耶にされてしまい、数十分の逢瀬は息が止まる程の長いキスで締め括られた。酷く甘いコーヒーの味は冬の定番になってしまって、唇を離した後、互いに「そろそろ飽きた」と必ず軽口を叩き合った。

 オレは言葉通りの意味で口にしていたのだが、城之内の台詞の裏にはもしかしたら別の意図があったのかもしれない。その位は幾ら人の機微に疎いオレでも分かっていた。分かっていたからこそ、奴が言ったあの台詞を鮮明に心に留め置いていたのだ。

 突然の渡米宣言が出るまで、ずっと。

『………………』

 オレに別れを告げた城之内が路地の奥に消え、その姿が見えなくなってもオレは暫くその場に立ち尽くしていた。遠くで授業開始の音楽が流れ、その時間から授業を受ける生徒が慌ただしく中に入って行くのを視界の端で捉えながらも動く事が出来なかった。

 何をそんなに落ち込む事があるのかは分からなかったが、確かにその時のオレはかなりの衝撃を受けたのだ。 痛烈な寒さの中、コートも着ずに佇んで、身体が芯から冷え切って手足の感覚が無くなっても気付かない程に。
「教科書の百八十九頁。おい桜井、読んでみろ。ヘラヘラとしまりのない顔しやがって。今日が何の日であれ授業中は真面目にしていろ。余り目障りな真似をすると没収するぞ」
「先生ひでぇ。モテない男の僻みかよ」
「やかましい。とっとと立って音読しろ」
「はぁい。えっと……何ページだっけ?」

 常と同じく淡々と過ぎて行く時間の中で、オレは俯いたきり視線も上げず、ただ一つの事を考えていた。 フイになってしまった城之内の誕生日。訪れたバレンタインデー。本来ならこの二つに関連性などまるでない。更に去年までのオレならば両日とも全く意識などしない普通の日だった。

 けれど、今年は違っていた。……正確には奴と付き合いだしてから変わったのだ。オレの誕生日の時には思いもかけなかった贈り物を何気ない顔をして差し出して、クリスマスにはまるで一大イベントの様に気合を入れて準備をし、オレにも必ず来るようにと何度も念を押し続けた。

 あの時はモクバが熱を出し、当日は何も出来なかったが、後日、本来のクリスマスの日よりも派手なパーティを催した。参加者は互いの身内だけだったが、誰もが楽しく過ごす事の出来た一日だった。モクバが本当に幸せそうに笑っていたのを見て、オレも心の底から嬉しかった。オレ一人ではとてもあんな顔をさせてはやれない。悔しいが、それは事実だった。

 正月にもほんの一時間程度だったが顔を合わせて、今年一年の幸せと奴の商売繁盛を願うべく、近所の神社に初詣に出かけた。予想以上の人混みに酷く疲れたが、それでも至極充実した時間だった。二人で引いたおみくじが揃って大吉だったのもその要因の一つかもしれない。

「今年は絶対いい事がある、受験頑張ろうな!」と

 小さな紙切れを丁寧に畳んで財布の中に入れたその横顔を思い出す度に、胸の奥が温かくなる。その言葉通り、幸先のいいスタートだと思っていた。実際城之内の事がある前は、特に表立った問題は起きていなかった。毎年恒例の様にこの時期に引いてしまう質の悪い風邪も今年は不思議とかからなかった。

 だから余計に残念に思えて仕方がなかったのだ。思い入れがあった分、肩透かしを食らってどうしたらいいか分からない。あの日も今も、その気持ちが抜けないのだ。そこはかとなく意思を固めていただけに、尚更。

 勿論城之内の望むものを渡してやる事に未だ抵抗が無いと言ったら嘘になる。けれど、キスまで許してしまえば後は砦など無きに等しく、女ほど繊細な神経をしている訳でも無く、男としての秩序などはどうでも良かった。大体こんな身体に頑なに守る様な価値などある訳もない。

 幸いな事に迷惑をかける様な相手もいなかった。弟は広い心で受け入れてくれているし、父親はいないも同然、それこそ考えの範疇外だった。仮にそれを咎められたとして奴に何を言う権利があるというのか。……だからこそ。

「………………」

 ポケットに入れたままの携帯には『誕生日おめでとう』とおざなりな祝いの台詞を一言だけ入力した送信メールで途切れている。忙しいのか、あれ以来やり取りすらしていなかった。憂鬱な気分が更に少し重くなる。

 不意にがさりと耳障りな紙の擦れる音がした。少しだけ視線をあげると、どうやら遊戯が誤って机の横にかけていた件のチョコレート入りの袋を蹴ってしまったらしい。 即座に教師に突っ込まれ、顔を赤くして「すみません」と言うその顔をやや後方から眺めながら、オレは深い溜息を吐いた。

 バレンタインの、チョコレート。

 どちらにしても渡す相手が近くに存在しないのなら、無意味な事だ。ポケットの中の携帯を握り締める。分からないなら聞けばいいのだ。分かっている。「何時帰ってくる?」の一言で足りる簡単なメールすら打つ勇気が持てず、オレは結局再び携帯を手放した。

 いつの間にか時間が来て、終了のチャイムが鳴り響いても、オレは暫く視線を下方に向けたまま動かなかった。

 

2


 
「海馬くん、今日は一緒にお弁当食べようよ。皆学食に行っちゃってさ、僕一人なんだ」
「お前も一緒に行ってくればいいだろう」
「んー、でもたまには教室で食べるのもいいかなぁって。海馬くんのお弁当も興味あるし。おかずちょっと交換してよ」
「……相変わらず酔狂な奴だな」
「酷いなぁ。まぁ本音を言うと君と話がしたかったんだけど」
「話?」
「うん、話。あ、ちょっと前空けて貰っていい?ありがとう」

 そう言って、本来の持ち主が消えた目の前の椅子に逆向きに堂々と座り込んだ遊戯は、持って来た弁当の包みを手際良く開封し、箸を取り出して早速人の弁当の中身を覗き込み、これとこれとこれを食べさせて、と言って来た。特に拒否する理由が無かったので、無言でまだ口を付けていなかった自分の箸を使い取り分けてやると、本当に嬉しそうな顔で「ありがとう」と言いつつ直ぐに口に放り込んだ。そして感嘆の声をあげる。

「海馬くんってさ、本当に料理上手だよね。うちのママよりも上手いかも」
「長年やってればそれなりになるだけだ」
「偉いなぁ。モクバくんは幸せだね」
「どうだろうな。幾ら努力しようとオレはモクバの母親にはなれないからな」
「両親が揃っている事だけが幸せじゃないよ。人それぞれが幸せだって感じる事が全てなんだ。……ってこの間テレビで言ってたよ」
「ふん、受け売りか」
「そうだけど。僕もそう思うよ、本当に」
「そうか」
「もう、本気にしてないでしょ。あ、このハンバーグ、半分食べてみて。ママの手作りなんだ。ちょっと焦げてるけど美味しいよ」

 濃い藍色の箸が、オレの弁当の空いたスペースに大きく切り分けたハンバーグの欠片を詰め込んでくる。そして促すようにこちらを見上げ視線で食べろと急かす為、オレは仕方なく箸を伸ばしてそれを取り、そのまま口に放り込んだ。店では決して味わえない母親の味。

 少し苦味のある焦げと、トマトの風味が強いデミグラスソースの味が懐かしい。そんな事を思いながら黙々と箸を動かしていたオレの事を、いつの間にか手を止めた遊戯がじっと観察するように眺めていた。人よりも大分大きな紫色の瞳は、何か言葉を口にするよりも顕著に気持ちを伝えてくる。

「……なんだ?」
「話があるって言ったよね、僕」
「ああ」
「この間ね、城之内くんから電話があったんだ。何時だったかな……本当に、つい最近」
「何?」
「内容は僕達の近況とか、城之内くんの仕事の事とか、そんな普通の話だけだったんだけど、最後にやっぱり君の事が話題になって……最近全然メールも電話もして来ないって、城之内くん凄く気にしてたよ」
「………………」
「その顔を見ると本当なんだね。どうして?忙しかったから?」
「どうしてって……忙しいのは奴の方だろう?だからオレは」
「遠慮してメールをしなかったって?」
「ああ」
「それは嘘でしょ」
「何が」
「海馬くん、嘘を吐いてる。本当はそうじゃないでしょ?」
「何を言っている。何故お前にそんな事を言われなければならない」
「だって、こういう事は僕にしか言えない事だから。二人の友達の、僕にしか。……はっきり言うけど君は色々と理由を口にして、城之内くんに甘えてるだけだよ。何があったってメール位は出来る筈でしょ?」
「勝手な事を……メールを寄越さないのは城之内とて同じだろう?何故オレばかりが責められなければならない。大体、誰の所為でこんな事になっていると思っているのだ。急に仕事だと言って消えてしまったあの男が……!」

 そこまで勢い込んで口にしてオレは突然我に返り、口元を手で塞いだ。しまった、こんな事を言う筈ではなかった。しかも本人にではなく他人の遊戯に。

 カタリと音を立てて手に触れた弁当箱の蓋が床に落ちる。それを拾う事すら思い付かず、オレは暫くの間己の失態に対する悔恨の念を抱きながらじっと口を噤んでしまった。遊戯の言葉に思わず腹を立てたのは口を出された事に対する怒りではなく、ずっと胸に抱えていた城之内に対する引け目の様な複雑な思いを、容赦なく眼前に突き付けられたからだった。奴の全てに対して感じてしまう一瞬の戸惑いと躊躇。纏わりつく罪悪感。

 記念日に対する祝いの一つも満足に遂行出来ない不甲斐なさに、少なからず己に嫌気が差していた。それに腐らずに、例えただのメールでも心の籠った一言を贈ってやれば良かったのだが、それすらも出来なかった。その気まずさが今の状態を齎している。否、今だけでは無い、多分これは最初からだ。

「城之内くんが時々寂しそうな顔をするのってさ、君のそういう所じゃないのかな」

 長い沈黙の後、少しだけ表情を緩めた遊戯がぽつりとそんな事を口にした。それにいつの間にか奴から視線を反らしていたオレは、再びその顔を正面に据える。

「海馬くんは少し遠慮をし過ぎなんだよ。遠慮っていうか、距離かな。城之内くんとの距離がちょっと遠い気がする」
「……先程と言っている事が違うだろう。お前はオレが奴に甘えていると、そう言って……!」
「うん、言ったよ。甘えてるって」
「その二つは相反するものではないのか?」
「本当の意味で言えばそうかもしれない。でも、僕が言っている『甘え』っていうのは、海馬くんが城之内くんに寄り掛ってるって意味じゃないよ?城之内くんがそんな風に自分と距離を取る君を許してる事。そしてその事を海馬くんが自覚していても、直そうとしない所をそう表現してるんだよ」
「…………!」
「今だってそうでしょ。城之内くんからメールを寄越せばいいだけの話だって。メールだけじゃないよね、その恋も、約束も、いつもいつも城之内くんから。たまには……ううん、一度でもいいから、自分から行動を起こそうとは思わないの?」
「オレは……」
「だから僕はバレンタインはいい機会だよって言ってるんだよ。こんな時じゃないとなかなか気持ちが伝えられないのは女の子だけじゃないよ。誰だって一緒だよ。チョコレートとか、今日と言う日に拘る必要なんてない。何だって、何時だって、構わないんだ」

 それはただの口実に過ぎないから。勇気を奮い立たせる為の、切っかけだから。

 そう畳みかけるように口にした遊戯は、次の瞬間いきなり席を立ちオレの方に上半身を近づけると、突然なんの断りも無しに手を伸ばし人の制服のポケットに侵入すると、そこから閉ざされたままの携帯電話を取り出した。そしてまるで突き付ける様に眼前に掲げて見せる。

 ……城之内から連絡用にと与えられた携帯電話。その本来の用途を果たせないのなら、持っている意味がない。

「だから、ね?城之内くんに連絡してあげて?もしかしたら日本に帰って来てるかもしれないじゃない」
「そんな事がある訳が無いだろう」
「分からないでしょ。城之内くんの事だもん。こっそり帰って来て、君を吃驚させるかも知れないじゃない」

 サプライズ好きの彼の事だからさ。そう言って、何故か楽しそうにウィンクをして見せる遊戯の顔を、オレは暫く無言のままで眺めていた。数秒後、殆ど無意識の内に伸ばした手で携帯電話を掴み取る。

 カチリとフリップを開ける音が妙に懐かしく感じられて、それに少しだけ胸が痛んだ気がした。
『お兄ちゃんですか?えっと、ごめんなさい。私も何も聞いてないんです。いつもお兄ちゃんの方から連絡をくれるから、特に私からかける事って余りなくて……』
「……そうか」
『お兄ちゃんっていつもそうなんですよ。私を驚かせるのが大好きで、絶対自分の居場所とか言わないの。突然家の前にいるとかしょっ中で……海馬さんにもそうなんでしょう?』
「ああ、多分」
『多分?』
「少なくてもお前に対する態度とは意味が違うのだろうな、とは思っている」
『?……よく、分かりませんけど。でもそれは、違って当たり前だと思うんです』
「当たり前?」
『ええ。だって、私はお兄ちゃんの妹だけど、海馬さんは恋人でしょ?同じだったらおかしいじゃないですか』
「……それはそうだが」
『そう言えば、今日はバレンタインデーですね。海馬さんもチョコレート、一杯貰ったんだろうなぁ。今日は無理ですけど、私もバレンタインのチョコレート、贈りますね。モクバくんと二人で食べられるようにケーキにしようかなって思ってるんです。お兄ちゃんも一緒にいれば少し大きくして、三人で食べられるように作るんだけど……』
「………………」
『あ、ごめんなさい。かけて貰った電話で自分の事ばっかり』
「いや、突然すまなかった。もう切る。またな」
『待って、海馬さん!』
「……?なんだ?」
『お兄ちゃんの居場所を本当に知りたかったら、城之内邸か、本社ビルに行ってみて下さい。多分電話じゃ教えて貰えないだろうから、直接』
「直接……」
『そのどちらかに行けば、SPの人かメイドさんの誰かが必ず教えてくれると思うんです。皆海馬さんの事を知っているし、親切にしてくれますよ、絶対』
「……そうだろうか。その実、迷惑に思われているのではないのか」
『……どうして、そんな事を言うんですか?誰かに、何か酷い事でも言われたんですか?』
「いや」
『だったら、そんな事言わないで下さい。私だって悲しくなっちゃう』
「………………」
『この間のクリスマス、本当に楽しかったんです。お兄ちゃんもとっても嬉しそうで、私も凄く嬉しかった。お兄ちゃん、今までずっと一人で苦労しながら頑張って来て……途中少しだけ荒れたりして大変だったけれど、今はとっても幸せそうで、優しくて。……それはきっと、海馬さんのお陰なんです。私には内緒だって言って教えてはくれないけれど、きっとそう』
「そんな事は」
『ありますよ。妹の私が言うんだから、間違いないんです。だから、どうかお兄ちゃんを宜しくお願いします。私はいつでも二人の味方ですから。海馬さんの事も、お兄ちゃんと同じ様に、大好きだから』

 遊戯と話をした後直ぐにオレは城之内の携帯にメールを送り、反応がまるでない事に落胆し、放課後改めて電話をかけてみた。即座に聞こえて来た電源が入っていないとの音声に肩を落とし、今日はもう駄目かと諦めかけていたその時、不意に奴の妹の存在を思い出した。

 川井静香。城之内とは正真正銘血の繋がりがある妹だったが、家庭の事情から姓を別にし、童実野から遠く離れた街で暮らしている。彼女とは去年のクリスマスの際に一度だけ顔を合わせ、モクバと共に随分と打ち解けた。その時に、メールアドレスと携帯番号を教え合ったのだ。特に何かする気もなかったが、知っていて損は無いと思っていた。お陰で、こうして繋がりを持つ事が出来る。

 彼女もモクバ同様、オレ達の関係について特に驚きもせずに、極自然に受け入れてくれた。最初からまるで本当の兄妹の様に親し気な笑みを見せてオレの名を呼ぶその顔に、随分と救われたのも事実だった。

 彼女なら、城之内の居場所を知っているのかもしれない。そう思い、オレは直ぐに滅多に開かないアドレス帳を開いて、彼女の名を探し出し、今に至る。結果は余り思わしいものでは無かったが、別の意味で少しだけ温かな気持ちになった。静かに携帯を閉ざした後に、ほんの僅かに口の端に笑みを浮かべられる位に。

 城之内に会いに行こう。

 例え本人に会えなくても、居場所を突きとめる位は出来る筈だ。居場所を突きとめて、連絡が取れるようなら是が非でも声が聞きたい。とりあえず、声だけでいい。ただそれだけで、少し離れた距離が縮まるのならば。

 今日はバレンタインデーだ。本来なら女が好きな男にチョコレートを贈る日だが、女でなくても好きな相手に気持ちを伝えるという意味では男だとて例外ではない。誕生日には贈る事が出来なかったプレゼントを、これから差し出しても遅くは無い筈だ。

 覚悟はとうに出来ている。気持ちも今は追いついている。周囲も理解してくれている。そして何よりも、城之内本人がそれを強く望んでいる。だったら、オレが取るべき行動は、ただ一つだ。

 オレは急いで携帯をしまうと席を立ち、ロッカーへ向かい、中からコートとマフラー、そして手袋と、程良く膨らんだ紙袋を取り出した。慌ただしくコートを着込み袋を小脇に抱えて、机の横にかけていた鞄をひったくる様に手に持つと、教室を飛び出そうと踵を返した。常よりも大分早足で歩き始め、後一歩で廊下に出るという所で、偶然にも遊戯と鉢合わせる形となった。

「海馬くん?まだ帰ってなかったの?」

 互いに驚き、一歩身を引きつつもオレは直ぐに先へ行こうと足を進める。その背に、奴は普段と同じのんびりとした口調でこんな声をかけて来た。

「城之内くんに宜しくね。早く学校にも顔を出してって言っておいて。君のチョコレートは、僕が預かってるよって」

 そんな遊戯の言葉を背に、オレは一路階下を目指しながら、振り向かずにこう言った。

「そんなものは全部捨ててしまえ。奴には不要だ」

 それに遊戯はくすりと小さな笑いを零し、至極明るい声を弾ませた。

「そうだね。じゃあ僕が処分しておくよ。君は代わりにとびっきりのチョコレートを彼に上げてね。約束だよ、海馬くん」
 

 

 昇降口から外に出ると、鉛色の空の元、細雪が降っていた。吐く息も酷く白く、一瞬にして身が凍りそうになる。手にしていたマフラーを首に巻き、手袋を身に着け、ほっと小さく溜息を吐く。

 幸いな事に今日はこれから何も予定が無かった。時間にも少し余裕がある。さて、どちらから先に向かおうか。比較的距離が近い奴の会社か、それとも確実性の高い自宅に向かうべきか。そんな事を考えながら、やはり足早に石畳の上を歩き校門を抜けようとした、その時だった。

「そんなに慌ててどこに行くんだ?今日もバイト?」

 余りにも聞き慣れた、しかし今聞こえる筈の無い声が、直ぐ傍から聞こえた気がした。驚いて立ち止まり、視線を周囲に巡らすと、オレの立つ場所から丁度死角となる位置に、派手な金髪の男が立っていた。

 最後に別れた時から何一つ変わらない、しまりのない温かな表情。少しだけ雪に濡れて光る前髪をかき上げながら、奴はなんのてらいも無くオレの側に歩んできて、ただいま、と口にした。

「……っ城之内!」
「急いでるなら送ってやるよ。顔を見に来ただけだからさ。やっぱこっちは寒いなー。雪が降ってるとは思わなかったぜ」
「………………」
「あはは、ビックリした?驚かせてやろうと思ってたから、大成功だな!」

 奴の明るい声が仄暗い夕闇の中、大きく響く。次いで当たり前の様に差し出される右手に、オレは迷わず身体ごとその手へと縋りついた。

 正確に言えば、その腕の中に。  

 おかえり、という声は咄嗟に出ては来なかった。代わりに柔らかく抱き締めて来たその身体に、オレは素直に身を預け、自分から顔を上げて、ほんの一瞬唇を触れ合わせた。  

 雪はまだちらついていたが、少しも寒いとは思わなかった。

 触れた頬はその見かけに反し、酷く冷たかったけれど。

 

3


 
「とりあえず寒いから車に入れよ。どこに行けばいい?塾?それとも、家庭教師先?塾は分かるけど、家庭教師先はイマイチ良く分かんねぇんだよなーいい機会だから教えてくれよ。だと迎えに行けるじゃん」
「……どちらでもない」
「うん?」
「だから、どちらでもないと言っている。今日は元からバイトは休みだ」
「あ、そうなの?それにしちゃー急いでるみてぇだったけど……モクバになんかあったのか?」
「………………」
「ま、どっちにしても送るから乗れよ。オレもたった今帰国して来たばっかで、今日はもう何もしたくねぇんだ。お前もオフなんて丁度良かったぜ」

 もう禁断症状出てさぁ、マジ辛かった!

 そう言って、普段と同じ様にオレの手を取りさっさと車に乗り込もうとする城之内を眺めながら、オレは無言でその後に続き、ほんとに久しぶりに奴の車へと乗り込んだ。後部ドアから身を滑り込ませた瞬間、随分と顔なじみになった奴の運転手から「お久しぶりです」と声をかけられ、少々面食らう。それに曖昧な答えを返し、シートに座り込んだオレは、やけにはしゃぎつつ身を寄せてくる城之内の顔を変わらずじっと見詰めていた。何をどう言えばいいのか分らなかったからだ。

「で、どこに行けばいい?お前ん家?」
「………………」
「なんだよ黙り込んで。なんか元気ねぇな、また風邪でも引いてんのか?それとも他に理由でもあんの?あるなら聞くけど」
「理由……」
「あ、もしかしてモクバと喧嘩とかしたんじゃねぇだろうな。お前って見かけの割にガキだから家に帰りたくないとか駄々捏ねてるんじゃ……」
「違う。そうじゃない」
「じゃ、なんだよ。早くどこに行くか決めろよ。別に急いでねぇけど、ずっとここに居ると目立つんだよな」

 まぁどこに居たってこの車じゃ目立つけど。そう言って少しだけオレから身を離し、伸びをする様に上半身をシートの背凭れに預けた城之内は、軽く腕を組んで頭の下に置いてしまうと、顎が外れそうな程の大欠伸を一つして、滲んだ涙を指で拭った。それを傍で感じつつ、オレは所在無げに視線を空にさ迷わせた。

 先程まではあんなに勢い込んでいた筈なのに、いざ本人が目の前に現れると、その唐突さも相まって、なんだか酷く腰が引けてしまった。城之内も大分疲れているのが見て取れる。こんな調子じゃ、これからオレが何を言っても単なる我が儘にしかならない気がする。

 今日がバレンタインだからと言って、漸く会えたからと言って、無理を押して実行するのは筋違いだ。それこそ気持ちの押し付けにしかならない。

 日を改めた方がいいのかもしれない。もっと互いに余裕がある時……特に城之内の生活が落ち着いてからでいい。チャンスはこれから幾らでもある。そう、何度でもある筈なのだから。

「……では、家まで送って欲しい」
「ふーん。帰んの?」
「ああ」
「バイトもなくて、モクバも待ってるから?」
「……ああ」
「そっか、分かった」
「………………」
「あ、やっぱり分かんねぇ。お前、嘘吐いてるだろ」
「何?」
「それに、オレもはいそうですかって言いたくなくなったし……っよし!決めた!少しドライブしようぜ?如月、ちょっとその辺流してくれよ。適当でいいから」
「かしこまりました」
「っ、おい!」
「まーいいじゃん。まだそんなに遅くないし。モクバは今日バイト休みだって知らないんだろ?」
「知っているに決まっているだろう!」
「んじゃーオレから連絡してやってもいいよ。今日ちょっと兄サマ貸してくれって。バレンタインだし」
「………………!」
「あれ、違ったっけ?なんか空港でバレンタインフェアやってたけど。お前も持ってるじゃん、チョコレート」

 そう言って、オレが咄嗟に隠す様に鞄の下に置いた紙袋を指差して、城之内がにやりと笑う。それに何故か感情を刺激されて、オレは思わず「違う!」と叫んだ。何が違うのか自分でも良く分からなかったが、城之内だけには指摘されたくなかったのだ。

「違う、これは」
「分かってるよ、義理チョコだろ?オレも結構貰ったからその辺はお互い様って事で」
「やはり、貰っているのか」
「まぁね。大半がヨコシマな物だけどねー」
「……そうか」
「そんな事よりさぁ、お前はオレに言う事ねぇの?」

 嫌がるオレを無視する形で、紙袋に手を伸ばしガサガサと音を立てながら中身を見ていた城之内は、不意にそれまでとは違った声色でオレに声をかけて来た。それに思わず常と同じ口調で「何が」と素っ気なく応えてしまったオレの事を奴は少しだけ不満気に見返して、手にした紙袋をまるでゴミを扱う様に放り投げて来た。ガサリと再び耳障りな音がする。

 それに顔を顰める前に、城之内は背凭れに預けていた背を勢い良く離して、オレの目の前に顔を寄せて来た。呼吸が触れるほど近く。僅かに怒った様な表情が、視界の全てを覆ってしまう。

「約一ヶ月間会えなかった訳だけど、お前は何とも思わなかったわけ?電話もメールもさっぱりで。オレ、忘れられてるかと思ったんだけど」
「………………」
「誕生日の時もさぁ、一緒に居られなかったのはオレの所為だけど、本当に寂しかったんだぜ?お前今何してるかなーとか思ってさ。ギリギリまでなんとかしようと粘ったんだけど、結局駄目で」
「………………」
「それでお前が気を悪くしてるんなら謝る。今日不機嫌なのもその所為なんだろ?でも、オレだってどうしようもない時があるんだよ。それ位分かってくれるだろ?……だから機嫌直せよ。折角飛んで帰って来たのに、こんなんじゃ意味ねぇよ」

 なんだか疲れが倍になった感じだ。
 そう言って再び背凭れに身を預けようとした城之内の腕をオレは思わず掴んでしまう。

「…………?」

 違う、そうじゃない。何も思わなかった訳じゃない。オレはただ、悔しかったんだ。

 たった一つの記念日すら何もする事が出来なくて、祝いのメールすら素っ気ない文面でしか送れなかった。この気持ちを、お前が望むものを与える覚悟が出来た事を上手く伝える事が出来なくて、不貞腐れて、その事から逃げていたんだ。多分、今も。

 城之内の腕を掴む指先に力が入る。その余りの強さにさすがの奴も僅かに顔を顰めて、咎める視線を向けて来た。それでも、オレはもう離す事が出来なかった。多分、次の機会は暫く来ない。今言わなければ永遠に言えない気がする。何故か強くそう思い、その思いが背を押してくれた。

 自分でも想像が付かない程の勢いで。

「何だよ」
「違う」
「何が」
「違うんだ」
「だから何が」
「全部だ」
「は?」
「お前が言った事は……全て、違う」
「それ、どういう意味だよ」
「オレが今日急いで向かおうとしていたのは、お前の所だった。会えるかどうかは分からなかったが、居場所位は分かると思って」
「……えっ?」
「今日になってからだったが、メールを送った。電話もした。だが、お前は掴まらなくて、だから、オレは」

 お前の事を探しに行こうとした。自分から連絡を取ろうとした。会いたくて。会えなくても声位は聞きたくて。自分の気持ちを伝えたくて。今日と言う日を利用して、誕生日には出来なかった贈り物をしようと思って。

 そこまでほぼ一息で口にして、オレは心を落ち着かせるように大きな溜息を一つ吐いた。余りに性急で情けない言い草に、相手が呆れるかも知れないと思いながらも、もう留めてはいられなかった。

 上手く伝わっているかどうか分からない。生まれた時に素直さを母親の胎内に忘れて来たのではないかと言われる程、捻くれたものの言い方や考え方しか出来なかったから、どうすればいいのか分らなかった。でも、この男ならオレの意図する思いを汲み取ってくれる筈だ。それが甘えだと言われても、事実だから仕方がない。

 お願いだ、分かって欲しい。そう祈る様に思いながら、オレの言葉に硬直したように動かないその姿を見詰めていた。暫くしても変わらないその様子にやはり駄目だったかと、肩を落とし、掴んだ腕を離そうとした瞬間、奴は表情は変わらぬままに、逆にオレの腕を強く引き寄せて来た。驚く間もなく力任せに拘束される。

「……城……!」
「マジで?」
「ちょ……」
「マジでお前、そういう事言ってんの?」
「痛い!加減をしろ!」
「加減とか無理に決まってんだろ!お前ほんとに……ああもう!何言ったらいいか分かんねぇ!」
「な、何を興奮している!耳元でがなるな!」
「だってしょうがねぇじゃん。一番欲しい言葉を貰ったんだからよ。そっかー、お前もやっとその気になってくれたかー!やべぇもう超嬉しい!」
「は、はしゃぐな!恥ずかしい!」
「じゃー今日は真っ直ぐ帰るなんて言わねぇよな?泊まってけとは言わねぇけど、家に来るよな?今の、そういう意味だよな?」
「……お前がそう思うのなら、そういう意味だろう」
「なんだそりゃ、相変わらず遠回しな言い方だなぁ。自分は直接言って貰わないと分かんねぇ癖に、人には勿体ぶった言い方するんだからズルイよな」
「うるさい!」
「なぁ、海馬」
「何だ!」
「好きだぜ。もうずっとお前の事をオレものにしたくて堪らなかったんだ」
「…………っ」
「サンキューな」

 その言葉と同時に、拘束が緩む事もないまま、唇を塞がれた。今までもよりもずっと深さも長さも違うキスは、オレの凝り固まった色々な感情を全て溶かす様な熱を持っていた。……熱い。熱くて熱くて。この季節にじわりと汗をかいてしまう程の熱に翻弄された。

 そして呼吸がままならなくなり、溢れた唾液が顎を伝って冷たく冷えて行く頃、城之内はそれでも名残惜しげに顔を近づけながら、優しい指で濡れた唇に触れて、オレから目を離さずに運転手に指示を出す。 そしてオレの携帯電話を取り出して、モクバに帰りが遅くなる旨を言う様に迫られた。勿論拒否など出来る訳がない。

 逃げ道は、もうどこにも無かった。

 逃げるつもりも……無かったが。
「お帰りなさいませ、克也様」
「おう、ただいまー。皆元気にしてたか?」
「ええ、変わりなく。克也様も、海馬様もお元気そうで。お久しぶりです」
「やーそうでもないぜ。結構色々あってさぁ、疲れてんだ。明日からまたこっちで仕事だろ?もううんざり」
「お食事はどうなさいますか?」
「んーなんかもうあっちの食い物を色々と食い過ぎて胃が疲れた。なんか部屋で食えるもん持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
「海馬は?腹減ってねぇ?」
「いや、オレは別に……」
「だって。じゃー軽いもんで。オレの部屋にいるから早めに頼むな」
「はい、直ぐにお持ちします」
「よし、じゃあ行こうぜ」
「…………おいっ」
「なんだよ今更じゃん。照れるな照れるな」
「そういう問題ではないっ!」

 そう言って、城之内は出迎えに出ていた大勢の使用人の前でもオレの手を離さずに、そのまま軽い足取りで上階にある自分の部屋へと歩き出した。それに引きずられる形でオレもまたその後について歩き出す。

 その様をまるで見守る様に眺めている数多の人間の顔をオレは見る事が出来なかった。その実、この屋敷の中でこうしてあからさまな態度を取るのは初めてだったからだ。オレは酷く居た堪れない気持ちで僅かに顔を下向け、なるべく周囲を意識しないよう努めた。が、不意に背後からかけられた声に、思わずそちらを見遣ってしまう。

「克也様」
「うん?」
「今日は多分海馬様を連れてらっしゃるんじゃないかと皆で噂しておりました。その通りで吃驚しましたわ」
「あれ、読まれてた?」
「ええ」
「やっぱ家の人間は皆鋭いなぁ。参っちゃうよ」
「お泊りにはならないんですか?」
「…………!!」
「うん、今日はモクバ置いて来たからね」
「そうですか」
「今度また一緒に連れて来るから。そん時頼むな」
「はい」

 ……一体こいつらは何を言っているのかと、オレが殆ど絶句して思わず足を止めてしまうと、それを直ぐに察知した城之内が「何で立ち止まってんだよ」と強く腕を引いてきた。それに答える事も出来ずにオレは再び歩き出す。

 二階に着き、誰の人影も見えなくなると、心底安堵した溜息が自然と口から零れ落ちた。全く、この家はその主と同じくあけすけ過ぎて居心地が悪い。

「ああはっきり言われちゃうと、確かにちょっと恥ずかしいよなーあいつらの方がめっちゃ期待してんじゃね」
「……この家の人間はお前同様頭がおかしいのではないか」
「そういう酷ぇ事をさらっと言うなよ。否定はしねぇけど」
「しないのか」
「うん。でも、人を見る目は確かだと思うぜ?あれでいて結構人選ぶんだ、あいつら。前の彼女になんかさ、さり気無く嫌み言ったりしてわざと怒らせたりして。そういう意味でお前はかなり好かれてると思う」
「……なっ」
「皆に見守って貰えて良かったな」

 オレの手を握り締める指先の力が、少しだけ強くなった気がした。それにつられる様に顔をあげると、そこには先程と同じ眩しい位の笑顔があった。余りにも曇りないその笑みにオレは一瞬躊躇し、そしてぎこちなく口の端を持ち上げた。それが笑顔になっているかは分からない。けれど、奴の目の色がほんの少しだけ優しくなったような気がしたから、きっと笑顔になったのだろうと、そう思った。

 再び、ゆっくりと歩き出す。

 今度は周囲の目を気にする必要もなかったから、オレは僅かに二人の間にあった距離を縮め、寄り添うように歩いてやった。

 

4


 
「……えーっと。なんつーか、そんなに緊張されるとオレとしても大変手を出しにくいって言うか、なんていうか」
「なっ!……」
「いやだってお前ガチガチじゃん。そんなにガード固められると、オレどうしようもないんだけど」
「そ、そんな事を言われても……」
「んーまぁ、とりあえず、そのバスローブ脱いでみ?」
「……嫌だ」
「嫌じゃねぇって。今から何すると思ってんだよ。セックスですよ?」
「あ、あからさまに言うな!」
「この場合直接口にしたってしなくたって一緒だろ。まぁ別に、着衣のままでも問題ないんだけどーやっぱみたいじゃん、素肌」
「オレは見せたくない」
「オレは見たいの」
「こんなもの、見たって仕方がないだろう。男の身体だぞ?」
「そんな事は百も承知です。つーかそういうのはお前が決めるんじゃないの。大体、お前はプレゼントのつもりなんだろ?だったらオレの言う事を聞いてくれるのが筋じゃねぇ?」
「それとこれとは話が……」
「別じゃないから。いい加減諦めろよ」
「嫌だ」
「諦めないなら実力行使しちゃうけど」
「ちょ、待て!やめろ!」
「断固拒否します」
「城之内っ!」  

 部屋に入り先程の使用人の言葉通り直ぐに用意された夕食を口にすると、オレ達は順番に風呂に入り、寝室へと足を踏み入れた。当然オレがこの部屋に入るのは初めてで、広過ぎる室内に見合った大きな天蓋付きのベッドを見た瞬間、思わず足が止まってしまった。妙な意識をしてしまったからだ。

 そんなオレの事をあらかじめ見越していたらしい城之内は、さっさと自らも部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、オレをぐいぐいと押す様にしてベッドの所まで歩みよった。そしてその上に乗る様にと指示をする。その言葉にすら戸惑っていると、やはり無理矢理手を引かれた。

 さらりとした肌触りのいいシーツが足に触れ、高級なマットレスが二人分の体重を受けて僅かに沈む。オレの腕を取ったまま中央の方へと進んでいった城之内の上半身は裸だった。

 奴は風呂上がりにバスローブを着る習慣はなく、大抵は脱衣所に置き去りにしているジーンズだけを身につけているらしい。今は真冬だが、室内は常に適温に保たれていて、例えそのまま裸でいたとしても多分少しも寒くないのだろう。

 現に髪を濡れたままで放置している城之内は、未だ暑いと言って手で己の顔を仰いでいた。オレもまた、濡れたまま乾かさない髪から滴が滴り落ち、バスローブの肩を濡らしている。二人でそうしていたのは、ほんの数分だけだった。

 常と同じ酷くせっかちな城之内は、胸元が大分緩めのバスローブに落ち着かず、前合わせを抑えたまま次の行動に移れずにいたオレの事をマジマジと見詰め、開口一番「とりあえず脱げよ」などと品性の欠片もない言葉を口にした。それに反射的に拒絶を示したオレは、徐々に迫ってくるその身体を避けるべく身を引こうとして、うまくいかずにバランスを崩してしまう。その隙を当然見逃さなかった城之内は、殆ど飛びつく様にオレの肩を押さえつけ、ベッドへと押し倒した。すると頭の半分が柔らかな羽根枕に沈んで、身動きが取れなくなる。

 押し返そうにもいつの間にか手首を掴まれ、どうにもならなくなった。湿った暖かな空気と、少し甘いソープの香りが絡みつく。城之内が呼吸をする度にその息が肌を擽って、むず痒い様な感覚を与えてくる。

 ぽつりと、冷えた水滴が頬に落ちた。
 城之内の前髪から滴った湯の名残だった。

「……観念した?」
「しない」
「んでも、もうするしかないだろ?」
「そのようだな」
「じゃーその覚悟に免じて、お前に脱げとは言わねぇよ」
「え?」
「オレが脱がすから、いいや」
「……なっ!」
「ぶっちゃけて言うと、今まですっごい我慢してたんだぜ、オレ。その忍耐力は褒めてしかるべきだと思うんだけど」
「し、知るか、そんな事!」
「だから、今凄く嬉しい」
「………………」
「嬉しいんだ、本当に」

 城之内の大きな手がオレの頬を辿り、額に触れて、濡れた髪をかきあげる。そこに小さな口付けを一つ落とし、その唇はそのまま下へと降りて来た。こめかみを伝い、頬を撫でて、唇を軽く掠める。敏感な皮膚が触れ合う感触に思わず眉を寄せるとそれを宥める様に指が髪の中に差し入れられ、そのまま深く重ねられた。

「んっ……。ふっ……ぅ……っ」

 歯列を割られ、反射的に奥まった舌を探られて、拒否する間もなく絡められる。溢れる唾液が顎を伝い、濡れた音がやけに大きく響く様を聞きながら、オレはただその行為に付いて行くのに必死だった。

 息の継ぎ方さえ分からずに、次第に苦しくなる呼吸に漸く手に力を込めて目の前の肩を押す。それに直ぐに気付いたらしい城之内は、極めて素直に、けれど酷く名残惜しげに、オレと少しだけ距離を取った。濡れて赤く光る唇を舌で拭う仕草が妙にはっきりと目に映る。

「ごめん、苦しかった?」
「苦しいに決まっているだろう……っ」
「悪い、一応気を付ける」
「何故、一応なんだ」
「だって、夢中になると気付かなくなっちゃうし、後で怒られる前に今言っとく」
「そ……」
「なるべく、優しくするから。頑張れ」
「が、頑張れって」
「それしか今言葉が思いつかない」

 なんだそれは、お前はこの期に及んでふざけているのか。そう言ってやろうとオレは口を開きかけたが、再び見上げた目の前の顔がやけに真剣だったから、結局何も言えずに目を閉じた。城之内が微かに動く気配がする。少しだけ遠ざかった暖かな息が、今度は喉を掠めて行くのを感じながら、オレは無意識に唇を噛み締めた。

 手で必死に掴んでいた胸元の合わせは、意外にあっさりと城之内の侵入を許していた。それを掴んでいたオレの手が今はそこには無かったからだ。

 ゆるゆると、まるで確かめる様に肌に触れる城之内の指先は何処までも丁寧で、酷く優しい。今更白状しなくても、この手の事には不慣れだと分かっているからか、大分慎重になっているようだった。確かにそれは有難い事なのかもしれないが、余り繊細だと思われても、男として居た堪れない気分になる。

 女では無いのに女の様に扱われる事の恥ずかしさ。これはきっと、同じ立場にならない限り、理解される事はないのだろう。考えてみればどうしてオレはこの役割を甘んじて受け入れたのか。そうと最初から決めていた訳でも無い。望んでいたのでは勿論無い。客観的に見ても身長はオレの方が高いし、肩幅だって負けてはいない。

 けれど、城之内は最初からオレと『こう』なる事を望んでいたのだと言う。だから声をかけたのだと、冗談交じりに口にしたのを思い出す。
 

『付き合えだと?オレは男だぞ。頭は正常なのか?』
 

 一番初めに告白をされた時、オレは即座にありったけの拒絶の意思を込めてそう奴に言い放った。 金持ちの道楽に付き合っていられるか、オレはお前の遊び道具では無いと、冷たい声で存分に叩き付け、さっさとその場から逃げだそうとした。どこからどう見ても冗談にしか思えなかったからだ。

 しかし、それは驚くべき素早さで伸びて来た腕と、怖い位真剣な眼差しに阻止されてしまった。腕が痺れる程のあの力強さは今でも良く覚えている。
 

『冗談なんかじゃねぇ。オレはお前が好きなんだ』
 

 そう言って、握り締めた左腕を強引に引き寄せて何も言わずに手の甲に唇を寄せたその顔を、オレはただ見ている事しか出来なかった。……それが全ての始まりだった。

 その男が、今もあの時と同じ真摯さで、オレと顔を突き合わせている。目線こそ合わなかったものの、肌を辿る指や唇は本当に真剣そのものだ。柔らかな舌は骨格を確かめる様に肩を這い、鎖骨に降りて、時折、思い付いた様に余り色味の良くない皮膚に痕を残す。

 律儀にも「痕を付けてもいい?」と言われた時には面食らった。そんな事を一々聞かれるとは思わなかったし、どう答えたらいいかも分からなかったからだ。困惑して、好きにすればいい、と答えたら、喉元にちくりと小さな痛みが走った。一番最初の咬み痕だった。

「……ぅ、っく」

 城之内の舌や唇が肌の上の這いずる度、オレは強く唇を噛み締めた。己の口から零れ落ちる、自分さえも聞いた事がないような甘ったるい声を耳にするのが心底嫌だったからだ。気持ち悪い。咄嗟にそう思い、既にどこにあるのか把握すらしていなかった掌を引き寄せて、噛み締める事にも限界が来ていた唇をきつく塞ぐと、城之内の動きが止まった。そして、口元にある手を強く掴まれてしまう。

「なんで塞いでんの。息しないと苦しいぜ」
「……んっ!」
「もしかして、声が漏れるのが嫌だから堪えるとか、そういう悪足掻きをまだしようとしてるわけ?」
「……………」
「お前ってほんと、強情だよなぁ」

 城之内の言葉に、ありったけの力強さで首を縦に振ったオレは、その後直ぐに今度は左右に顔を振った。オレの様子に呆れた様に肩を竦めた城之内が「手を外せ」と言って、掴んだオレの手を強引に口元から外そうとしたからだ。冗談じゃないと力の限りに抵抗すると、奴はそれ以上無暗に力を込めたりはせず、代わりにそこに顔を寄せて来た。

 何をするつもりだと警戒するより早く、指先に濡れた温かな物が触れるのを感じた。考えるまでも無くそれは城之内の舌先で、力を込め過ぎて白くなっているだろうオレの手指の背をちろちろと、まるで擽る様に舐めてくる。その余りに妙な感触に、オレは思わずその手を口元から取り去った。そのままパタリとシーツに落ちたそれは城之内の唾液に塗れて少しだけ冷たかった。

 一瞬、奴の唇に透明の糸が引く。その様を思わず凝視してしまい、何とも言えない気恥ずかしさに、オレは僅かに視線を反らせた。唇を、再び強く噛み締める。

「なぁ、海馬。オレはお前を苛めたい訳じゃないんだぜ?なんでそんな風に我慢するんだよ」
「が、我慢などしていない。嫌なだけだ」
「声が出るのが?」
「……っ、そうだ」
「なんで」
「なんでって……気持ち悪いだろうが」
「全然」
「何っ」
「むしろもっと聞きたい位なんだけど。さっきも言ったけど、気持ち悪いとかどうとかはお前が決めるんじゃないんだってば。オレがどう思うかが重要なの。なんでそれが分かんないかなぁ」
「分かるか!」
「んじゃー聞くけど、お前はオレの事を気持ち悪いと思う?男に欲情して、押し倒して、突っ込みたいって思ってんだぜ。この手や舌でお前の身体を全部暴いて、泣かせたい。マジでそう思ってる」
「…………!」
「オレだってそんな自分がまともだとは思ってねぇよ。気持ち悪いと思ってる。でも、お前は?お前もオレをそう思うか?」

 言いながら、城之内はオレの手を引き寄せて、わざと擦りつけるように少し汗をかき始めた自分の胸に触れさせた。呼吸と共に動く胸筋と感じる鼓動。やけにじっとりとした感触が掌全体を包んでも、勿論不快には感じなかった。感じる、わけがなかった。

「分かった?」
「………………」

 オレの一瞬の戸惑いを奴が見逃す筈は無かった。この表情から答えを正しく読み取ったのだろう。少し厳しい顔から一転し笑顔を滲ませた城之内は、今まで幾度となく噛み締めた所為で少し熱を持っているオレの唇を指でなぞり上げて、溜息混じりにこう言った。

「んじゃそういう事で。別に絶対そうしろとは言わねぇけど、無理はするな。ただでさえ唇が荒れてんのに噛んだら切れるぞ。オレ、お前にこんな事で傷とか作って欲しくねぇし」

 距離が近い所為で一言も聞き逃す事の出来ない相手の台詞の、「荒れた唇」の一言に、今度は違う意味で赤面する。けれど、それは苦労して聞き流した。そんな事は今更恥じる事でも無かったからだ。

 少しカサ付いた、手入れなど全くしていない唇や、相変わらず綺麗とは言えない両手の指先。大分肌蹴られてしまったバスローブから見える素肌にはそれこそもっと醜い傷痕が残っている筈だ。気持ち悪いと思う。汚いとも思う。けれど、城之内が何も言わない限り、オレも何も言えないのだ。

 目の前にある、同じ様に傷痕が無数にある身体を愛おしいと思う様に、オレもまたそう思われているのだと信じる事しか出来なかった。そうでなければ、こんな事は出来ない筈なのだ。少しだけ肩の力を抜き、目を閉じる。与えられるもの以外意識しない様に思考も閉ざす。

「……はっ……あ!」

 再開された動きに、唇からはまたあの妙な声が漏れたけれど、今度は無暗に噛み締めて我慢する事はやめにした。

 した所で、結局は無駄な努力にしかならないと笑いながら言われたから。
 いつの間にか視界の端にパイル生地で出来た太い腰紐がある事に気付いた。そこにそれがあると言う事は、もうオレの身を覆っていたバスローブは大半が脇に押しやられ、その役目を果たしてなどいないのだろう。

 至近距離にあった筈の城之内の頭は既に大分下に下がり、無理矢理オレの足を割ってその間に身を落ち着けて、今は腹の辺りを辿っている。生来の肉付きの悪さ故、薄さばかりが目立つ腹筋を舌で舐め、痩せすぎ、と文句を言いつつもそこから離れる気配がない。

 一ヶ所に長く留まるのはこいつの癖なのだろうか。つい数分前までは、男故に少しも面白くない胸元にやけに集中し、それだけは女と同じ様に存在していた乳首を延々と弄っていた。お陰で少し腫れてしまって痛みすら感じる。痛い、と文句を言うと、ごめんと生返事が返って来て、やはりそこから離れようとはしなかった。

 余りにも嬉しそうな顔で人の身体を舐めまわす城之内に、オレは思わず眉を顰めて、所在無げに投げ出していた両手を使って微かに揺れるその頭を掴んでやった。しかし、それは僅かな効果も齎さない。

「っ!……しつ、こいぞ!……何がそんなに面白いんだ……っ」
「面白いっていうか、可愛い」
「ふ、ふざけた事を言うなっ」
「ふざけてないし。お前、マジで可愛いよ。乳首もここもこんなに硬くなって、ちゃんと感じてくれてるじゃん」
「ん!……ぁ、あっ!……くっ」

 もう声を抑える事など出来なかった。否、正確には堪える事すら忘れていた。徐に握り締められた欲望の証を巧みに上下に扱かれて、オレは突然与えられた強烈な快感に、ただ背を反らせてその刺激を甘受する事しか出来なかった。

「ひぁっ!……あっ、んっ……ああああっ!」

 途端に溢れ出す先走りに、触れる城之内は勿論、自分の身体さえもべたついた粘液で汚しながら、オレは城之内に導かれるまま一度目の吐精を果たしてしまう。いつの間にか奴の手を制止するように伸ばした指先を掴んだ腕に食い込ませて、ビクビクと身体全体を跳ね上げながら快感に酔う。

 吐き出した精液は至近距離にあった城之内の身体を汚し、生温かい奇妙な感触を齎しながらオレの足に垂れ落ちた。呼吸が追い付かず、息が苦しい。

「……はっ……あ……っ」

 未だ震える身体をもどかしく思いながら、意外に早く達してしまった事に一人気まずさを感じていると、何時の間にか城之内の顔が再び目の前に迫っていた。何か言われるのかと身を固めていると、奴は予想に反して少しだけ口元を緩ませて、突然キスをしかけて来た。

「ふっ……うっ……んんっ!」

 最初から舌を絡め取り、唾液を与え合う深いキス。僅かな隙も与えられず幾度も角度を変えて重ねられる唇に、オレはもう何を思う事も出来ずに、必死にその身体に縋り付いた。

 何処かで金具の擦れ合う音がする。はっとして、閉じていた目を開き、漸く解放された眼前の顔の隙間から『そこ』を見ると、オレの貧弱な足の間に色味の強い、しっかりとした作りの太股が見えた。いつの間にジーンズを脱いだのだ、と思うより早く内股の柔らかい部分に熱を感じた。しっかりとした質量があるその熱は、考えなくても城之内の──。

「…………っ!」
「海馬、力抜いて。大丈夫だから」

 その予想外の大きさと熱さに、オレの身体は一瞬にして強張ってしまう。それを苦笑と共に見下ろして、城之内はまるであやす様にオレの身体を抱き締めながら、つい先程まで嫌と言うほど触れ合っていたオレの唇に自らの二本の指を押しあてて「舐めて」と掠れた声で口にした。訳が分からず言う通りに口を開けると、直ぐにそれは中に入り自ら舌を探り当て、口内をかき交ぜる。

「ふぅ、……んぁ……っ」

 その指はそのままに、城之内自身は徐々に身を下げてオレの下肢へと降りて行く。そして、口に含ませた指を抜き去ると同時にオレの膝裏を抱え、身体の一番奥を思い切り晒し上げた。それだけでも十分驚愕する出来事だったが、奴は更にその部分に顔を近づけ、あろう事か伸ばした舌先でそこを柔らかく舐めあげる。背筋に悪寒が走る様な、今まで体験した事の無い感触にオレは思わず悲鳴の様な声を上げた。

「……ひっ!……や!やめっ……!」

 持ち上げられた足が、無意識に空を蹴る。余りの嫌悪に目元にうっすらと涙が滲んだ。まさかこんな事をされるとは夢にも思わなかったからだ。

「あっ、あ……くぅ……っ」

 自らも触れた事が無い様なその場所を城之内の舌が這い回る。襞の一つ一つが分かるような、余りにも執拗なその動きに、オレは力を抜くどころか、ますます緊張してしまう。やめろ、と何度言っても、両手で髪を掴んで引き離そうとしても、頑として城之内は動かなかった。

 ぐちゅぐちゅと、耳を塞ぎたくなるような卑猥な音が辺りに響く。持ち上げられた足が震える。濡れたその感触に慣れつつあると言う事が居た堪れない。もう嫌だ、と本気で泣きたくなったその時、不意に城之内の吐息が離れた。そして、今度は舌の変わりに濡れた指が押しあてられる。少しの間、馴染ませるように入口に触れていたその指は、次の瞬間殆ど躊躇なくオレの体内に押し込まれた。

「……っく!……あ!」

 一瞬僅かな痛みを覚えるが、それはやけにあっさりと限界まで埋め込まれ、直ぐに身体に馴染んで行く。その事にむしろ恐怖を感じたオレは、ますます奴の腕を掴む手に力を込めた。痛い、と文句を言う声など耳に入らない。痛かったらやめろ、と言おうとした言葉は、突然訪れた快感に遮られた。ビク、と勝手に跳ね上がる身体。城之内の指先が見つけたとばかりにそこを執拗に擦りあげる。

「やぁ……っ!あっ……あぁ……っ!」

 最初、声を堪えていたのが嘘の様に口から勝手に悲鳴が上がる。もう駄目だ、耐えられない。気持ちいいのか悪いのか、それすらも分からない。体内を擦りあげる指先はまるでオレの身体を知り尽くしている様に、巧みに大胆な動きを繰り返す。このままでは二度目の絶頂に追い上げられる、なんとは無しにそう感じたその時、不意にその快感は取り上げられた。

 中を犯す城之内の指が、ずるりと抜き出されてしまったからだ。

「……っ、なんっ……!」
「ごめん、オレもう限界。今度こそちゃんと力抜いてろよ。怪我させたくねぇから」

 その言葉通り、余裕のまるでない声が、追い立てるようにオレの耳元に響いて消える。何を、という前に最奥に熱を感じた。温かな体液を少しだけ綻んだそこに擦りつけ、右手を添えてぐっと力を込めてくる。

「……はっ……う……ぐっ!!」

 瞬間、身体が押し広げられる痛みを感じた。狭い穴を無理にこじ開け押し入ってくる、灼熱の欲望。今まで感じていた快感が全て吹き飛ぶような激痛に、オレは一瞬息を詰めて、背を反らした。身体は完全に硬直している。 

 拒否したい訳じゃないのに、まるで言う事をきかなかった。

「っく、きっつ……!」
「ひっ!……あっ!……あああっ!」

 この痛みから救って欲しくて、それを与えて来る城之内の背に力の限りしがみ付く。無意識に爪を立てて柔らかな皮膚に傷を付けても、そんな事に構っている余裕は無かった。考えられないほどの熱がこの身体を犯して行く。辛くて苦しくて、やはり訳が分からなくて、ただ強く揺さぶられるままに身を任せ、掠れるほど声を上げながら、それでも、オレは幸せだった。多分、奴もそうなのだろう。

 涙を流し、汗を散らして、それでも必死に縋り付く。そんなオレを城之内は多分笑顔で見下ろして、唾液塗れの少し荒れた唇に、その動きとは裏腹の酷く優しい口づけを一つ落とした。

 熱い迸りを奥に放ち、酷く甘い声でオレの名を呼びながら。
「おーい、大丈夫か?起き上がれるか、お前」
「……うるさい」
「うわ、凄い声。それどうすんだよ」
「……帰りにのど飴でも買って帰る」
「多分、無駄だと思うぜ。大体声だけじゃねぇもん。なんつーか酷い有様です」
「……何?!……っ!」
「おっと。急に起きるなよ。無理だって。こりゃー駄目だな。モロばれだぜ絶対。オレが保証する」
「ふざけるな!どうするのだ、この始末!」
「いやどうするって言われても……どうしよう」
「…………おい」
「とりあえず、モクバを家に連れてくる?どっちにしてもバレるけど」
「じょ、冗談じゃない!絶対に嫌だぞ!」
「どっちにしたって、お前が今日帰らなきゃ同じ事だろ。あいつだってもうガキじゃないんだぜ。むしろさっきの電話で分かっちゃってるかも」
「……………!」
「そんな絶望的な顔すんなよ……傷つくなぁ」
「こ、これが絶望せずにいられるか!オレはどの面を下げてモクバと顔を合わせればいいのだ!」
「別に普通でいいんじゃね」
「いいわけあるかっ!」
「だって、オレ達恋人同士なんだぜ。キスやセックス位して当たり前だろ」
「こっ……」
「あれ、まだその単語に抵抗ありますか?今更?」
「う、うるさい、黙れ!」
「やっぱりお前って超可愛い。うー食べちゃいたい!」
「やめろ馬鹿が!」

 事後のベッドの上、未だシーツすら替えてない最悪の状況の中、そんな事をもろともしない城之内はひたすら上機嫌で、対照的にぐったりとベッドヘッドに身を預けるオレの隣ではしゃいでいた。

 その様はいつもと同じひたすら明るく優しい奴の態度そのもので、先程嫌という程見せつけて来た強引で男らしい様は完全に形を潜めている。どちらも勿論城之内そのものだったが、やはりオレはこちらの奴の方が好きだった。少し遠慮がちに距離を置き、こちらを気遣う様な仕草を見せるその様が酷く愛しい。

「……あれ、なんだよ、にやにやして」
「誰がにやけている」
「お前」
「別ににやけてなどいない」
「そう?なーんか幸せそうに見えるけど」
「気のせいではないのか」
「うーん……そうかなぁ」
「それよりも、オレは帰るぞ。服を持ってこい」
「なんで偉そうなんだよ。つーか帰れないって。歩けないだろ、お前」
「なんとかなる」
「ならねぇよ」
「嫌だ、帰る」
「我が儘言うな。心配すんなって、上手くやるから。泊まってけよ」
「……だが!」
「泊まってってくれよ、今日くらい。折角ちゃんとした恋人同士になったんだぜ、オレ達」

 立派な記念日じゃん。大体、お前オレの誕生日の日は泊まるつもりだったんだろ?

 そう言っていつの間にかオレの手を取っていた城之内は、まるで全てが始まったあの時の様に、手の甲に唇を押しあてた。じんわりとした温かな熱が、皮膚に微かな余韻を残して消えて行く。

「オレ、お前に告白して本当に良かった。あの時からずっとこの瞬間を思い描いていたんだぜ」
「……意外にロマンチストなのだな」
「まぁね。夢を売る会社ですし、この位でないとその社長は務まりません」
「……そうだな」
「これからも、オレはずっと夢を追い続けて、人にも夢を見せたいと思う。まぁ、オレは馬鹿だし、どうしようもない男だけど。夢を見る能力にかけては人一倍あると思ってるし、夢を実現する努力だって、絶対に惜しまない」
「ああ」
「諦めなければ叶うって、お前が教えてくれた。それだけじゃない。色んなものをお前に貰った。オレもお前に与える事が出来た。だから今は凄く幸せだ」
「………………」
「お前もそうだろ?多分、凄く幸せだ」

 そう言って何の屈託も無く笑う城之内の顔を、オレは少しだけ眩しく思っていた。奴の言う事は何から何まで正しくて、純粋だった。だが、少しだけ思い込みが激し過ぎる。

 オレはお前に与えられるばかりで何一つ与えてやる事など出来てはいない。唯一叶えてやる事が出来たのは、なんの価値も無いこの身体一つだけだ。それをどう誇張すれば、全てオレの功績になるのだろう。

 全く、だからこいつはどうしようもない馬鹿なのだ。
 オレになど到底似合わない……いい男だ。

 けれど城之内はオレが欲しいと言った。オレもそれを受け入れた。この先どうなるかは分からないが、共に歩んで行きたいと思ったのだ。

 この幸せな瞬間が、出来るだけ長く続く様に。

「城之内」

 万感の思いを込めてその名を呼ぶ。これから先何度この名を呼べるだろう。オレの名を呼んで貰えるのだろう。そんな事を考えながら、オレは小さな溜息を一つ吐いて、それでも笑顔でこう言った。

「お前が幸せそうに見えると言うのなら、オレはきっと幸せなのだろう」

 多分、ずっと。これからも。
 

 ── 幸せでありたいと、願う限り。


-- End --