Extra 例えばこんな始まりの話

 二年の初めにこのクラスに転入してきたオレに関心を示さなかったのは一人だけだった。何時も教室の隅っこで静かに本を読んでいる、あの男。周囲と溶け込む事もなく、かと言って拒絶している訳でもなく、ただ飄々とそこにいるあいつ……海馬瀬人。

 それとなく探りを入れてみれば奴は親の存在が希薄な父子家庭で、幼い弟と二人で町外れの団地で暮らしているという。生活は極めて質素で、学校に特別に許可を貰ってアルバイトに精を出しているらしい。

「海馬くん?うーん。一言でいえば優等生かな。凄く頭が良いし、真面目だし。女の子にも凄く人気があるよ。……まぁ、本人は全然その気がないみたいだけど。なんでって?そんな余裕ないんじゃないかなぁ。色々と事情があるみたいだし」

 昼休み。何時もどこかへ消えてしまうその背をなんとなく見送りながら、遊戯と弁当を広げていた。やたらとハンバーグを欲しがる遊戯に「一つやるよ」と言いながら、オレはそこでも海馬の名前を口にした。その事に遊戯は少し不思議な顔をしながらそれでも丁寧に色んな事を教えてくれた。

「でもなんで城之内くんはそんなに海馬くんの事が気になるの?」
「なんでだろ。あいつがオレを気にしてくれないから?」
「変なの。話しかけてみればいいじゃない。別に海馬くんは会話拒否とかしたりしないよ?普通だよ?」
「そうかぁ?今まで一回も目が合った事すらねぇからさ。なんか嫌われてるのかなーって」
「意識しすぎだよー」

 大体、話しかけもしないで自分の事を気にしてっていうのおかしいでしょ。そう言って笑う遊戯の言葉に背を押されて、オレは漸く覚悟を決めたんだ。
「何か用か?」

 思い切って帰り支度をしていた海馬に声を掛けたのは、もう日も大分落ちた夕方の事だった。何かの委員会で帰りが遅くなった奴を待っていたら、運よく教室で二人きりになる事が出来た。チャンスだと思った。机の中身を出しながら鞄を手にした奴に「ちょっといいか?」と話しかけると、始めてその目がオレの顔を見てくれた。意外な事にその色は綺麗な青だった。

「いや、用って訳じゃないんだけど。お前と話した事なかったなーと思って。オレの名前知ってる?」
「城之内克也だろう?数ヶ月前に来た、転校生。前は私立校だったそうだな」
「知ってるんだ」
「自己紹介で言っていただろう。それ位は知っている」

 ふん、と小さく鼻を鳴らして、海馬は「で、なんなんだ」と続けてくる。なんなんだと言われても特に目的があって話しかけた訳じゃなく、単純に話がしたかっただけだった。だからもう用は済んでいる事になる。けれど、オレはどうしても奴に聞いておかなければならない事があった。

「えっと……あー……お前、オレの事避けてない?」
「何の話だ?」
「いやだって、ここに転入してきてもう半年になるけど、お前とだけだぜ。今まで話してなかったの」

 だから嫌われてるかと思った。そう素直に口にすると、海馬は本当に意外そうな顔をして首を傾げた。さら、と細い前髪が微かに揺れる。そんな些細な動きに目を奪われた。

「……そうだったか?」
「そうだよ!」
「意識した事がないから気が付かなかった。オレは特に用がなければ誰にも積極的に話しかけたりはしない性質だからな。気にしていたのなら、悪かった」
「や、別に責めてるとかそういうんじゃなくって、不思議に思っただけで……!そ、そういう事なら変じゃないよな!ごめん!」
「何故謝る。おかしな男だな」

 同時に目の前の口元にほんのわずかに笑みが浮かんだ。その時の空気をなんて言ったらいいんだろう。温かいというには温度が足りない気がするし、かといって冷たいわけでもなかった。どちらにしても、とても居心地がいい事は事実だった。

 もう少しこうしていたいと思う位に。けれど、そんな時間はそう長くは続かなかった。

「!もうこんな時間か。オレは帰る。ではな」
「え?ちょ、待てよ!」

 オレの背後にある時計にふと目をやった海馬は少し慌てたように席を離れ、それから振り向く事なく足早に教室を出て行った。リズミカルな足音が徐々に遠ざかっていく。一人教室に残されたオレは、ただひたすら呆然としていた。ただ普通に話していただけなのに、なんだかとてつもなく気恥ずかしい事をしてしまったように思えたからだ。こんな事は勿論初めてだった。

 好きとか嫌いとか男とか女とかそんな事は関係なく、ただこの『妙な空気』はそれから暫くオレを困惑させた。それが後に恋愛に繋がるなんて、この時は思いもしなかった。

 明日からは積極的に話しかけてみよう。そう思い、オレは軽い足取りで教室を出た。


-- End --