Immoral Kiss Act10(Side.海馬)

「兄サマ、遊戯が来てるよ。お見舞いだって。ここに呼ぶ?それとも、兄サマが来る?……起きられるなら、の話だけど」

 そう言って寝室の扉を叩いたモクバの声に、オレは手にしていた書類を危うく落としてしまう所だった。遊戯だと?そう問い返す前に扉の向こうでくぐもったやり取りが聞こえたかと思うと、こちらが許可を出す前にシンプルだが重厚なそれが内側に開いた。そしてきょろきょろと辺りを見回しながら遠慮がちに中に入ろうとするのは今まで全く声が聞こえなかった遊戯の姿。その背にはモクバの細い腕が見える。大方、入ってもいいと無理矢理押されでもしたのだろう。

「あー……えーっと。お邪魔します……」

 恐る恐る足を動かしながら不自然な前傾姿勢で化け物屋敷にでも入るかの様な『来訪者』のその仕草にオレは呆れた溜息を一つ吐くと、手にしていた紙の束やペンを全てをサイドテーブルへと移動させ、シーツへと手を着き、ベッドから離れる意思を見せる。それに余計に慌てた奴は、今までの遠慮は何処へやら無遠慮にこちらに駆け寄ってくるとオレの行動を押し留めた。

「起き上がらなくていいよ!そのままで!ご、ごめん、連絡も無しに訪ねて来ちゃって!」
「……何をしに来た」
「今モクバくんから聞いたでしょ。お見舞いだよ」
「見舞いだと?オレは別に病気などしていないが」
「それはこんな真っ昼間からベッドに寝ている人が言う台詞じゃないね。先週よりもずっと酷い顔になってるよ」
「………………」

 行動を起こそうとしたオレを押える様に二の腕を掴んでいるその掌はほんのりと暖かい。つい昨日似た様なシチュエーションで、しかし全く異なる意図を持って同じ場所を掴まれた事を思い出し、その違和感にオレは一瞬目を瞠った。そして相変わらず思考を占めるあの存在に舌打ちをしたくなる。

 この場所は嫌だ。この体制も居心地が悪い。そう思ったオレはやんわりと腕を掴んでいたその掌を引き剥がし、当初の予定通りベッドを離れる事を選択した。身体を動かすとまだ痛みが走ったがそれよりもこの場で誰かと対峙するのが辛かった。

「海馬くん!」
「隣室で待っていろ。着替えて直ぐ行く」
「いいよ、そんな事しなくても。このままで」
「貴様が良くてもオレが嫌なのだ。文句を言うなら帰れ」
「本当に、無理してない?」
「ああ。オレがこの部屋に閉じこもっていたのはモクバがそうしろと言ったからに過ぎない。本来なら出社しているところだ」
「……そっか。じゃあ、隣の部屋で待ってるね。何処にいたらいい?」
「何処でも、好きな場所に座っていろ。その内何か飲み物でも出て来るだろう」
「分かった」

 普段よりも些か焦っていると自分でも思う口調に遊戯も何かを読み取ったのか、それ以上食い下がる真似はせずに素直に背を向けて隣室へと去って行った。閉ざされる扉を目で追いながら、オレは時間をかけてベッドから立ち上がり、近くに合った簡素な部屋着を身に着けて後を追う。一昨日から最低限の行動しかしていない身体はまだ大分覚束ないが、歩けない事はなかった。

 ベルトをしていないズボンが、痩せたであろう腰回りに上手く落ち着かず、歩きにくさを助長する。
 

「うわ、海馬くん何それ?」

 寝室に続く私室へとオレが姿を現した瞬間、既にメイドに茶や菓子でもてなされていたのだろう遊戯は、思わずと言った体でそれらを放り出して立ち上がり、入口に立つオレの元へと駆けて来た。先程から行動が喧しい、人の家で走るな。と言ってやりたかったが、先程よりも倍以上明るい部屋であの大きな瞳でじっと見つめられてしまうと何故か二の句が継げなくなった。

 尤も、それはただ見つめられただけでは無く、その眼差しに多少の非難が含まれていた事と、再び添えられてしまった手の温度に思考が取られてしまったからだ。しかし奴はそんなこちらの状態にも気付かずにじろじろと全身を眺めた挙句、何の遠慮もなく身体にも触れて来た。そして少し怒ったように「ちゃんとご飯食べてないでしょ」等と言って来る。

「なんだ貴様は、喧しいぞ」
「喧しいじゃないでしょ?酷いを通り越して怖いよそれじゃ」
「何がだ」
「君だよ。自分で鏡とか見てないの?冗談じゃなく本当に怖いよ」

 オレのなけなしの抗議ももろともせず、遊戯はきっぱりとそう言い放つと何を思ったらオレをぐいぐいと部屋の隅に連れて行き、そこにあった少し大きな鏡の前に無理矢理立たせた。

 僅かな傷も曇りもないシンプルなそれに映り込んだのは背後の見慣れた部屋の風景と最近全く見ていなかった自分の姿。それを目にした瞬間オレは遊戯がこの姿を「怖い」と言い切った事を非難する事は出来なくなった。

 確かにそこに映っていた人間は嫌と言うほど良く見知っている筈なのに、記憶のそれとは大分異なった様相をしていたからだ。これが仮に暗闇の中に佇んでいたら卒倒する人間が出るだろう。それほどまでに鏡の中の自分は酷く不気味な存在だった。

 元より大して肉付きの良くない上半身は痩せ細り、シャツの中で身体が泳いでいる状態だ。顔に至っては全く精気が感じられず、我ながら蝋人形に見えてしまう。横に健康そのものの男に並ばれては、その違いは明らかだ。

「ね?怖いでしょ?」
「……確かに、まともでは無いな」

 少し得意げにそういう遊戯の顔を鏡越しに一瞥して、オレは早々にそこから目を反らし既に茶器が置かれている場所の反対側のソファーへ移動しようとする。が、何故か遊戯が手を離す素振りを見せなかった為、仕方なくそこから近い場所にある一人かけのソファーへと落ち着かざるを得なかった。

 比較的広いテーブルの隅にこじんまりと収まる様子はどう見ても滑稽だ。

「……海馬くんはお茶飲まないの?とっても美味しいね、このお菓子」
「水分は取っている」
「そういうんじゃなくってさ……」

 座って早々食べかけていたのだろう菓子に再び手を伸ばし嬉しそうな顔で口を動かしながらそんな事を言う遊戯の顔をオレはただ黙って見つめていた。相変わらずこいつは何をしていても楽しそうで、幸せそうだ。先程の手の温度同様に優しくて温かなものを身に纏っている気がする。どこもかしこも冷たくて、見た目さえも酷いと称される自分とは正反対だ、そんな事を思い、少しだけ可笑しくなる。

 目線を下に向けると飛び込んでくるのは骨格ばかりが目立つ己の細い指先。その白さも相まってまるで骸骨みたいだ。こんな姿を見たら誰でもおかしいと思うに違いない。気付かなかったのは目を背けていた自分と、それさえもどうでもいいと吐き捨てて好きにしたあの男位だ。
 

『……もう飽きたから、お前と寝るの。毎回こんな面倒な事押し付けられちゃ、やってらんねーし』
 

 否、どうでもいいとは言っていなかったか。ただ「面倒だ」と言って捨てられた。それだけだ。

 実際面倒ではあったのだろう。自分がもし逆の立場だったら同じ事を思うに違いない。多少は人よりも目立つこの容姿と、金と、自由が望みで結んで来た関係だ。そのどれか一つでも失えば繋がる意味がなくなってしまう。オレでは無くとも事足りるのだ。

 不健康な生活で唯一の取り柄だった外見は見る影もなく衰えて、どんな感情であれ奴の精神的自由を奪いかけたオレはさぞかし鬱陶しいお荷物になったに違いない。それはそうだろう。自分でさえ己を持て余して、疎ましく感じているのだ。他人が、ましてやあの男がそう思わない訳がない。

「海馬くん」

 オレが一人昨日の出来事やそれに付随する様々な事柄に思考を奪われていると、不意に遊戯から名を呼ばれた。視線を向けると、そこには先程とはまた違った雰囲気を持った大きな紫色の瞳が二つ、オレを真摯に見つめていた。つい今しがた奴が抱え込んでいたティーカップや菓子の乗った皿は既に視界には入らない場所に追いやられている。その事に、何故か無意識に息を飲んだ。場の空気が知らず緊張を孕んでいる。

 遊戯はゆっくりとソファーの端ギリギリに身体を寄せると、大きな深呼吸を一つした。その仕草は昨日の城之内とまるで同じで、何か重要な事を告げる前の合図の様なものだと理解する。

「今日僕がここに来たのはね、勿論一番はお見舞いだったんだけど、もう一つ、目的があったんだ」

 この顔を、オレは何処かで見た気がする。あれは何処でだったか。確か、大分前に学校で二人きりになった時に見せた顔ではなかったか。オレと城之内の関係を恋じゃないと言い切って、「考え方を改めろと」そう言った、あの日の……。

 そこまで考えて、オレは遊戯の来訪の目的を即座に理解する。そして奴が続きを言う前に、遮る様に口を開いた。

「貴様の目的は分かっている。凡骨と別れろと、そう言うのだろう?だが安心しろ。オレはもう奴とは別れた。以降構う事も、構われる事もないだろう」
「……えっ」
「別れたと言うよりは捨てられたのだが。まあ、どちらにしても変わりはない」

 そう一息に言い切ると何故か口元に笑みが零れた。自分の口からはっきりとそう言ってしまうとやけに現実味を帯びて来る。知らず痛む胸を押える様に右手をあげる。滑稽だと、そう思った。

「別れた?」
「ああ」
「何時?」
「つい昨日の事だ。貴様は知っているかどうか知らないが、昨日奴が学校から帰って来た後に……」
「昨日の事なら知ってる。海馬くん、具合が悪くて宿泊先で寝込んでたんだってね。城之内くんはあの後ちゃんと迎えに来てくれたんだ」
「……珍しい事にな」
「その後、家にまで送り届けてくれて?そこで、別れ話を持ちかけられたの?」
「そう言う事だ」
「それだけ?」

 別に険が増している訳ではないが、徐々に色が変わっていく遊戯の瞳にオレは僅かに身を引いてやや顔を反らす。しかし、それは失策だった事に気が付いた。何故ならオレの顔を見ていた筈の遊戯の視線は少しずつ下げられて、別の場所を睨め付けていたからだ。

 緩く開いた胸元と、ボタンを閉める事さえ忘れていたシャツの袖口。そこにある鬱血の痕にオレは今更気付いて隠そうとしたが、もう遅い。

 遊戯の重い溜息が二人の間に落ちて行く。

「結局、彼は最後まで君を傷付けて行ったんだね」
「…………………」
「君も、何も言わないで終わったんでしょ?」
「…………………」
「そっか……君達はもう、恋人じゃなくなったんだね」

 じゃあ、僕が言う事は何もないよ。

 二度目の溜息の後、暫く口を開かない遊戯が諦めた様にそう言うのをオレは確信を持って待っていた。ずっと前からオレ達がこうなる事を予測して、なんとか回避させようと努力してくれたらしいこいつは、今どんな思いでこの話を聞いているのだろうか。ほら見た事かと嘲っているのだろうか、それとも純粋な心のままにこの結末に悲しみを感じているだろうか。何時の間にか俯いてしまったその姿からは感情は読み取れない。

 どちらにしても、もう終わった事なのだ。どうにもならない。
 目の前で項垂れる小柄なその姿を眺めながら、オレも投げやりな気分で嘆息しようとしたその時だった。

 遊戯の顔が再びきっちりと持ちあがり、突然思いがけない言葉が吐き出される。

「じゃあ、もう遠慮しなくていいんだね。誰も恋人がいないのなら、僕の恋人になってよ、海馬くん」
「……何?」
「僕は、君が好きなんだ。ずっと前から。本当に、好きだったんだ」

 ゆっくりと、一つ一つ言葉を区切りながらそう言った遊戯の顔は怖い位に真剣で、静かながらも妙な迫力があった。まさかここで遊戯からこんな台詞が吐き出されるとは予想だにしていなかったオレは、一瞬頭の中が真っ白になり、何も考える事が出来なくなった。

 ── 恋人になって。

 今までオレと城之内の一番の理解者であり、それ故警鐘を鳴らし続けていたこの男が、まさかこのタイミングで告白をして来るとは想像すらしていなかった。その純粋さ故に、世間の闇に犯され爛れ切ったオレの存在をずっと嫌悪していたのではなかったか。冗談の類かとも思ったがこいつがそんな器用な真似をする男だとは思えない。

 と、言う事は、その言葉は紛れもない本心なのか。

「……突然何を言っている。気でも狂ったか」
「突然じゃないよ。言ってるでしょ、ずっと好きだったって」
「だが貴様は……!」
「僕がその事を君に言わなかったのは、城之内くんの事も好きだったからだよ。あ、好きって言っても彼の場合は友達として、って事だけど。城之内くんの事も海馬くんの事も僕は好きだったし、今でも好きだ。だから君達が幸せだったら僕はこんな事を言う気はなかったよ。前にも言ったと思うけど君達を見守るポジションも、それはそれで楽しかったし、幸せだった。それは本当だよ」
「………………」
「でも君達は幸せにはならなかったし、結果的にこうなってしまった。だったら、僕だって大人しく見ているなんて事はもうしない」
「遊戯」
「これで、僕が君に会いに来た本当の目的を果たす事が出来た。今日はね、最初から告白するつもりで来たんだよ?」

 言えて良かった!

 そう言って、ふっと肩の力を抜いた遊戯は先程までの緊張は何処へやら、いつもの柔和な表情を取り戻し何時の間にか額に滲ませていたらしい汗を子供っぽい仕草で拭っていた。そのギャップに戸惑いつつも、オレはやはり混乱から抜け出す事は出来なかった。知らず胸元を掴む指先に力が入る。

 そんなオレの姿に当然気付いていた遊戯は、極力こちらを刺激しないようにと気を使いながらゆっくりと立ち上がり、すぐ傍へとやってくる。ふわりと薫る素朴な匂い。人を威圧させない小柄な体と柔らかな笑顔。己とは無縁だと思っていたその全てが、自ら近づいて手を差し伸べる。

「ねぇ、海馬くん。君は忘れちゃったかもしれないけど、僕は前に言った筈だよ。君さえ気持ちを僕に向けてくれれば、抱き締めてあげるって。確かに僕は何の取り柄もないただの子供だけど、君の事を大事に思う気持ちは誰よりも強いよ。君が今まで何をしてきて、これからどう生きようとしても、抱き締めてあげられる。それだけは、約束するよ」

 僅かな距離を置いて真剣に言い募るその声には、少しの迷いも嘘も感じられなかった。

 全てを呆れるほどの身勝手さと強引さで押し通して来たあの男とは余りにも違うその姿に、オレはどうしていいか分からずに、ただ白痴の様に目の前の顔を眺めている事しか出来なかった。ここ数日の間、色々な事が一度に起こり過ぎて最早何が正しいのか間違っているのか分からない。

 己が何を求めているのかすら分からなかった。

 そんなオレの事を遊戯は暫く何も言わずに見ていたが、やがてゆるりと身体を近づけて包み込むようにオレの頭を抱き寄せた。そして、まるで子供にするように未だ熱を持った額と頬に、柔らかな唇を押し当てる。その心地よさに思わず目を閉じると、そこにも優しいキスが落ちてきた。温かい、と素直に思う。知らず弛緩する身体が、その存在を無言のまま受け入れる。

「返事は直ぐじゃ無くていいから、考えてみて?それまでは友達としてここに来るよ。急かすつもりは全然ないから。あ、でも、必要な時は何時でも呼んでくれると嬉しいな」

 穏やかな声、優しい抱擁、柔らかな笑顔、緩やかな束縛。

 どれも、あの男からは決して得られなかった物だった。疲弊した心と体に緩やかに沁み渡る温かな体温。それがオレが真に望む物かは分からないが、今は欲しいと思った。

 それは執着にも似た渇望ではなく、緩やかな願いであり、酷く子供じみた切望だった。
「とりあえず言いたい事も言えたし、僕はもう帰るよ」
「帰るのか。意外にあっさりしているな。何もしないのか?」
「……何もって、あのね、最初は友達からって言ったじゃん。なんでそうなるのさ」
「別に恋人では無くともその位普通だろうが」
「普通じゃないの!大体そんな身体で何をどうしようって言う訳?」
「……ああ、怖いのだったな。気味が悪くて抱く気にならないか」
「そういう訳じゃなくって……。傷だらけの人に何かしようって気にはならないだけだよ。僕は君が痛いのも苦しいのも嫌だ。義務で何かするのも嫌だ。君にはつまらないかもしれないけど、僕は身体よりも心が大事なんだ」
「心だと?」
「うん」
「……良く分からん」
「幾ら頭が良くたって直ぐに分かる訳ないじゃん。ゆっくり考えればいいんだよ」

 あの後、直ぐにオレを寝室へと戻した遊戯は、強引に身体をベッドへ押しこめると、まるで年上の様に偉ぶって「おやすみ」と口にした。その変わり身の早さに既に恋人気どりか、と揶揄すると少し頬を染めて「からかわないでよ」と拗ねる素振りをする。その様がやけにおかしくて、久しぶりに純粋な笑いが込み上げた。こんな風に「楽しい」と思えたのは久しぶりだった。

 そんなオレの様子を満足気に見返して、遊戯は言葉通りそそくさと帰り支度を済ませると、あっさりと「また来るから」と言って背を向けた。それは学校で良く見る奴の仕草と寸分の違いも無く、それが返ってオレに安堵を齎した。

 緊張も不安もここにはない。
 部屋の温度は常に一定である筈なのに、何故か暖かいと感じた。それは酷く不思議な感覚だった。

「今度はもう少しマメに学校に来てよね。待ってるから」

 最後に少し遠くから聞こえるその声に、苦笑と共に「考えておいてやる」と答えると、満足そうに扉が閉まる音がした。それを最後に、部屋に静寂が戻ってくる。一人になると、心が沈んだ。こんな事も初めてだった。

 不意に近くに置いてあった携帯電話を手に取り、中を見る。
 幾つかある着信を眺めながら、無意識にあの男の名を探していた。

 もうリストから名前を消してしまおうか。

 そう思い指を伸ばしたものの、実行する事は出来なかった。