Immoral Kiss Act11(Side.城之内)

 息が止まる様な長いキスをする。

 艶やかで柔らかくけれど弾力のある唇を気が済むまで啄みながら、女特有の甘い香りを存分に吸い込みつつ熱いぬめりに自分の熱を叩き込む。痺れる様な快感に夢中で腰を動かせば背に強く食いこんでくる長い爪の感触と、少し耳障りにも聞こえる高い悲鳴の様な喘ぎ声が部屋に響く。

 この瞬間は確かに凄く気持ちがいい。永遠にこうしていたいと思う。けれど、一旦熱を吐き出してしまえば、全てが一瞬にして冷めてしまった。柔らかな感触も、温かな体温も、そして下半身を包む快感すらも鬱陶しい。抱き締める事はしないで、ベッドの上に着いただけの指先に、乱れた長い黒髪が絡みつくのが不快だった。

 自然と舌打ちしそうになるのを気力で押し留める。

「克也?」

 それまで夢中でオレにしがみ付いていた相手が不思議そうに見上げて来る。その視線に首を振る事で応えると、オレはもう一度形のいい唇にキスをした。感覚としての熱い口付け。

 けれど、オレはもうこの女を抱きたいとは思えなかった。
「最近随分と荒れてるらしいけど、何かあったの?」
「は?荒れてる?何がだよ」
「何がって、分かってるでしょ。結構噂になってるわよ」
「そういやーちょっと前までは大人しかったよな、オレ」
「何か心当りでもあるの?」

 そう言って、未だ素っ裸のままベッドに寝そべっていた彼女は、ベッドから降りて床に座っているオレの右手から未だ少ししか減って無い煙草を取り上げて、軽く吸う。

「ずっと禁煙もしてたのに」
「必要なくなったからな」
「煙草嫌いな彼女にフラれでもした?」
「まぁそんなとこ」

 彼女じゃねぇけどな。

 心の中で吐き捨てる様にそう言うと、オレは取られた煙草はそのままに床に置いている真新しいシガレットケースからもう一本取り出して口に咥える。それを見た彼女が火を移す様に顔を寄せてきたけれどそれには応じず、100円ライターを取って火を点けた。煙草特有のえぐい苦みと、噎せる様な濃い匂いがベッドを背に投げ出した身体に纏わりつく。

 海馬と別れてから今日で丁度二週間。この間、オレは自分が何をしていたか余り明確に覚えていない。けれど結果としてビアホールのバイトをやめ、学校にも行かずにフラフラと女の所を渡り歩いていた。途中何度か色んな輩と無意味な喧嘩をして無駄な敵を増やしたけれど、以前もこんなものだったので特に気にはしなかった。絡まれたら殴るだけだ。なんの問題もない。

 ただ、何をしていても面白くなく、つまらなくもなかった。もう、何も感じない。海馬と付き合っていた頃は不思議と自制していた煙草も自制する必要がなくなったからやってみたものの、以前と違って少しも美味しくない。ただの金の無駄だった。けれど、吸わずにいると結局海馬の事を考えてしまうからズルズルと口にしている。結局は、未練だった。

 正直、こうなる事は予測していなかった。オレが考えていたのはもっと……建設的で明るい未来の筈だった。だけど現実はみるも無残な形になっている。そんな自分を嘲笑う事すら出来なかった。

「オレの本命はさ、超が付く程の美人で背が高くて金持ちで、頭いいけど馬鹿で恥知らず、そんでもって超節操無しの、どうしようもない奴だったんだけど、結構好きでさ……それなりに大事に思ってたんだけど、オレって本命に優しくする事って出来ないわけよ」
「……なにそれ」
「なんかいるじゃん、何したって許してくれそうな人間って。オレの中では奴はそういう部類だったんだよ。まああっちもオレと同じ様な事思ってて、お互いに好き勝手してたんだけど」
「……凄い話ね」
「だろ?でもさ、やっぱそうは上手くいかなくてさ。色々拗れちまって」
「貴方とその子が?」
「っつーか、オレ達と周囲の人間が。本人もだけど」
「本人も?」
「なんか知らねーうちに死にそうになってた」
「………………」
「まぁそういう訳で、これ以上続けちゃヤバいかなって思って、オレから別れを切り出したんだけど、超あっさりOKされてさ。それでなんか凹んでる」
「どっちが?」
「オレが」
「意味が分からないんだけど……どこが問題なの?」
「どこがだろ。それも分かんねぇ。けどなんかすげーむしゃくしゃして」
「こういう事になってるわけね」

 白く細い指が、オレの煙草を取り上げて、自分の分と一緒に灰皿に押しつける。毒々しささえ感じる真っ赤なマニキュア。けれど彼女はその見た目程派手じゃなかった。オレよりも大分年上で、大人なだけだ。大体の女とは一回寝たきりで縁は切れるけど、彼女とは結構長く続いている。彼女にも彼氏がいるから、どちらも本気になり様がなかった。だから楽だったとも言うけれど。

 彼女は灰が山になっている灰皿を押し退けて、その隣に置いてあった既に暖かく温んでいる缶ビールを手に取ってこくりと飲んだ。不味いわね、と呟く声に当たり前だろ、と呆れて言うと、彼女は長い髪をかき上げてまるで探る様にオレを見る。

「で?貴方は一体どうしたいの?」
「どうしたいって?」
「その子と本当に別れたかったの?誰かの為、の話をしているんじゃないわ、貴方の話よ」
「………………」
「我が儘でいい加減な貴方が煙草を我慢してまで付き合って、別れた後もこんな風に話をしたくなるような子なんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、簡単な話じゃない」
「……そうかもしんねぇ。でもさ、オレよりももっとアイツを大事にしてくれる、いい男がいるんだ。チビで全然つりあってねーけど、ほんとにいい奴なんだ。オレみたいに適当でも乱暴でもねーし、何より浮気なんか絶対しない。どう考えてもあっちの方がいいに決まってるじゃん」

 そうだ、傷付けることしか出来ないオレなんかよりずっといい。そう思ったからこそオレは海馬を捨てたんだ。本当はそんな事したくはなかったけれど、ここままじゃどっちも駄目になると思ったから。だから。

「……そう」
「……ああ」

 オレの必死な言葉に何か感じたのか、彼女は呆れた風にそう言い捨てて、溜息を吐いた。そしてオレの近くに投げ捨ててあった自分の服を指差し、それを取って、と口にする。望み通り腕を伸ばしてそれを取り、頭上にある手に渡してやると、彼女はそれを緩慢に身に着けながらぽつりと言った。

「ほんと、男って独り善がりな生き物よね。セックスも、気持ちさえも一方的で」
「どういう意味だよ」
「言葉通りよ。自分の事しか考えていないのね」

 ま、そういう所も好きなんだけどね。

 言いながら彼女は優雅な仕草でベッドを下りて鏡の前に立ち、軽く化粧を直すと振り返る。そして艶やかに微笑むと、ぼんやりとそれを見ているだけのオレの頬にキスをした。

「貴方はまだ若いから仕方ないのかもしれないわね。でも、相手の気持ちをきちんと聞かないで勝手な行動をすると後悔するわよ。もう、してるみたいだけど」
「………………」
「恋愛は幾らでもやり直せるわ。頑張って」
「適当な事言うなよ」
「言ってないわよ。言っとくけどね、私だって今の男と二回は別れたんだからね。でも、まだ続いてる。どういう事か分かるでしょ?」
「そりゃ、男と女だからだろ」
「えっ」
「オレの本命は男だし」

 彼女の優しさなのか、悪戯めいた軽口がオレの口も軽くさせた。今まで、一度も口にしなかった言葉が余りにもあっさり出てしまった事に動揺する。それだけ、オレも弱っていたのかと思い知らされる。悔しい……悔しいけれど、もうどうにもならなかった。

「……へぇ。貴方、そっちの趣味があったの?知らなかった」
「そうじゃねぇよ」
「だって今……」
「別に男もOKってわけじゃない。そいつだけが好きだったんだ」

 そう、アイツだけ。オレが好きな男は、海馬だけだった。奴以外に好きだなんて思えない。声をかけようとも思わなかった。男に告白をしたのも最初で最後だった。それ位、オレは。

 眼前にいる彼女の存在を一瞬忘れて、オレは声に出してそう呟いた。はっと気付いた時にはもう遅い。佇んでいた彼女は驚きに目を丸くして、黙ったままオレを見ている。

 ああ、この女とも今日でおしまいか……仕方ないか。刺す様な視線を感じながら、溜息と共にそう思ったその時だった。軽快な足取りで部屋の入口まで歩んで行った彼女が、最後にくるりと振り返る。

「やっぱり、もう答えは出てるじゃない。貴方はその子が好きで仕方がないのよ。別れる事なんて出来ないわ」
「……でも、もう別れちまったし。あっちも新しい男が出来てるだろ」
「だから何?」
「何って……」
「貴方は何時からそんなにいい子になったのかしら?」
「………………」
「また連絡するわ。いい報告を聞いたら別れてあげる」

 年上特有の年下をからかう口調でそう言い放った彼女は、それきり振り向かずに部屋を出て行く。ハイヒールが立てる甲高い靴音が遠ざかるまで、オレはその場から動く事が出来なかった。色んな思いがないまぜになって胸が苦しくなる。

 ふと、もう一度吸いたくなってケースに手を伸ばす。

 けれどその中には、もう煙草は一本も入ってはいなかった。
『……城之内くん?!今何処にいるの?』
「何処だろ……オレの家じゃない所」
『皆心配してたよ。城之内くんが行方不明になったって』
「んな訳ねぇだろ。いつもの事じゃねぇか。あーでももう進級危ないよなー。もう一回二年やっか」
『城之内くん……』
「ま、そんな事はどーでもいいんだけどさ、お前こそ今何処にいるんだよ」
『何処って?勿論自分の家だけど』
「海馬のとこじゃなかったのかよ」
『海馬くん?』
「この間の言葉、フカシじゃなかったんだろ」
 

 それからまた一週間後の寒い夜に、オレは遊戯に電話をかけていた。

 その日も適当に捕まえた女と一晩過ごし、その女が出て行った後、一人残されたホテルの部屋でダラダラとしている時にふとあの顔が思い浮かんだからだ。それに遊戯を通してオレと別れてから半月以上経つ海馬がどうしているのかも知りたいと思える様になった。

 つい最近まで……年上の彼女に『あの事』を口にするまで、オレは頑なに海馬やそれに関わる周囲の情報を目や耳に入れない様にしていた。けれど結局は無駄な足掻きだった事を自覚し、今度は別方向へ進んでみようと考えた。携帯を開き、履歴を辿ってもなかなか遊戯の名前を見つける事は出来なかった。

 それを探している時に、まるで嫌がらせの様に見え隠れする『海馬』の二文字を見るのは酷く辛かった。消してしまえば良かったのに、未だ奴のデータを消す勇気は持てずにいた。

 あの教室での一件以来、遊戯とは連絡を一切取っていなかった。元々そうマメにする方でもなかったから別に珍しい事でもなかったけれど、あんな会話をした後じゃ余計に気不味くてとても話をする気にはなれなかった。

 遊戯がオレに告げたあの言葉を実行する気があるのなら既に行動している筈だ。それを思うと複雑な気持ちになる。そうなる様に仕向けたのは自分だった筈なのに、イライラする気持ちが抑えられない。何を今更、と何度吐き捨てても、その感情を捨てる事は出来なかった。

『………………』

 携帯の向こう側が沈黙し、テレビの音が微かに聞こえる。それは遊戯の言葉が嘘じゃない事を証明していて、どこかほっとした様な、そうじゃない様な不思議な気分になる。オレは遊戯に電話をかけて何を話そうとしたんだろう。途切れた会話は次の糸口を見つけられず、静かに宙を漂っている。

 そんな時間を暫く過ごした後、不意に遊戯が口を開いた。

『今から会える?』
「今から?」
『うん、今から。明日は土曜日で学校も休みだし、僕も今なら大丈夫だから。場所は何処でもいいよ』

 いつもと同じ明るく優しいその声は以前と何も変わらなったけれど、何処か緊張を孕んでいた。一つ一つ言葉を選ぶ様にゆっくりと話しかけてくるのがその証拠だ。勿論遊戯だってオレに言いたい事があるんだろう。これまでの会話でも肝心な所に一つも触れてこない事がいい証拠だ。電話なんかで話したくない、そう心の中で言っているのが丸分かりだ。

(話を持ちかけたのはオレだったしな)

 どんな会話であろうとも、遊戯と話をしたかったのは本当だ。どの道このままではどうにもならない。どこへ向かうとしても方向を定めなければオレは進む事さえ出来ないんだ。

 携帯を握り締めてカーテンが引かれていなかった窓を見る。今は冬だ、外は凍る様に寒いだろう。

「じゃあ、オレの家に来いよ。オレも今から帰る。大体同じ時間に着く様にするから」
『お父さんは?』
「オヤジは出稼ぎに行って今月一杯位帰ってこねぇよ。空き家同然」
『……そうなんだ。分かった。君の家に行くね』
「もしお前が先に着いたら近くのコンビニ、あそこで待っててくれ」

 そう言いながら立ち上がり、手早く服を着るとオレは直ぐに部屋を出た。ここは童実野駅から二十分程離れた場所だからオレの家までそう遠くない。支払いは先に済ませてあった為、ルームキーだけをフロントに返して走り出す。安っぽい自動ドアを潜り抜けると、案の定外は酷く寒かった。吐き出す息で視界が曇る。

 ポケットから取り出したバイクのキーが冷えたコンクリートに落下した。耳障りな金属音が人気のない駐車場に大きく響く。下らない失敗に舌打ちし拾おうと手を伸ばすと指先が震えていた。

 勿論それは凍える様な夜の温度の所為じゃなく、オレの心の問題だった。