Immoral Kiss Act12(Side.城之内)

 バイクを飛ばしてボロアパートに辿り着くと、急いで階段を駆け上がる。遊戯の移動手段はチャリしかないから、オレの方がずっと早いのは当たり前で、周辺に人の姿は全くなかった。

 施錠済の扉の鍵を開け、散らかす物もなくガランとした部屋に入り込む。外と同じ位に冷えた部屋の温度に身震いし、慌ててエアコンのスイッチを入れた。長い間人の居なかった部屋はなんとなく余所余所しい。

 勿論飲食物のストックもなく、外で調達して来るしかない。仕方なくコンビニへ行こうと漸く暖かくなってきた部屋に背を向けて玄関へと向かったその時、扉を叩く音が聞こえた。応える前に扉が開いて、遊戯が遠慮がちに顔出す。

「ごめん、チャイム、鳴らなかったから」
「それ、大分前から壊れてんだ。悪ぃ」
「ドアを叩く前から城之内くんの足音が聞こえたけど、外に行く所だったの?」
「……あー。っつーか今家になんも無いの確認してさ。コンビニ行こうと思ってた所」
「大丈夫。多分そうじゃないかなぁって思ってたから、僕が適当に買って来たよ」

 「ほら」と言って遊戯が右手をあげると、中の物が一部はみ出る程膨らんだ白いビニール袋が握られていた。思わず目を瞠ると、目の前の顔は緩く微笑んで「じゃあもう外に用はないよね」と扉を閉めてしまう。それにオレは踵を返し、率先して部屋の中へと戻って行った。室内はさっきよりも大分暖かい。

 適当な所へ座れと言うと、遊戯はエアコンから一番遠い場所へ陣取って、テーブルの上にコーラのボトルを二つとその他気軽に抓める菓子やパンを沢山並べた。誰か他の人間といる時は背伸びをしてブラック珈琲なんかを飲んだりするけど、普段はむしろこんな物ばかり飲んでいる。それをきちんと把握している辺り流石だ、と感心した。親友というのも伊達じゃない。

 二人同時にコーラを手に取り、一口飲む。こうしてるとただ遊ぶ為に家に来たダチの様だ。けれど今は雰囲気も表情も少し堅い。昔の様にはいかなかった。

「この三週間、何してたの?」
「あんまり覚えてない。ふらふらしてた。お前は?」
「僕は別に特別な事はしてないよ。いつもと同じ」
「でも、海馬の所に行ったんだろ」

 コトン、と遊戯の持ったボトルの底がテーブルに触れる。同時に複雑な表情でオレを見た。最後に教室で話した時とは状況と立場が変わっているから当然だろう。あの時、遊戯は余計な事を一つも言わなかった。だからオレも廻りくどい言い方はやめにして、単刀直入に聞きたい事を聞く事にした。

「……行ったよ」

 数秒の沈黙の後、遊戯は溜息と共にそう言って両手でボトルを握り締める。炭酸が弾ける小さな音まで聞こえるほど部屋の中は静かだった。

「君と話をした次の日に、会いに行った」
「次の日……」
「吃驚したよ。海馬くんがあそこまで酷い事になってるなんて。まるで病人みたいでさ。海馬くん、歩くのも辛そうだった」
「実際、死にそうだったからな」
「……あの日は、本当にお見舞いのつもりで会いに行ったんだ。その後どうなったかも知りたかったしね。でも、海馬くんから君との事を聞かされて……」
「別れたってヤツか」
「『捨てられた』って彼は言ってたけどね」

 表情一つ変えないで淡々と言ってたよ。

 そうおまけの様に告げられた一言に、心臓を握られた気分になる。ああ、でもその表現は正しいかもしれない。一方的に置き去りにしたあの行為は、捨てたという表現の方が近い。別れを切り出した後に海馬に投げつけた言葉の数々を思い出し、オレは自然と指先を握り締めた。

「……海馬は何か言ってたか?」
「何も」
「何も?」
「『君の事』は何も言わなかったよ。前は皮肉を言う元気もあったのにね。そんな事も思い付かない位彼はボロボロだったんだよ、城之内くん」

 最初は笑い合ってキスをする事も、下らない軽口を叩きあう事も、互いの悪口や恋人らしい甘い抱擁だって普通に出来ていた筈だった。それが何時しか誰もが眉を顰める様な関係になり、それを証明するかのように会話もなくおざなりに身体を重ねるだけになってしまった。つのるのは苛立ちや絶望だけで、そこに幸福や自由を感じる事が出来なくなった。オレ達の間にあったのは、攻撃的な言葉とセックスと沈黙だけ。そして、疲れ果てた身体がここにある。

「その日、僕は海馬くんに告白したよ。恋人になってってお願いした」

 何時の間にか俯いた頭上に、トーンの変わらない声が降ってくる。ああ、やっぱり遊戯はあの言葉を実行したんだ。オレから捨てられた直後にこの優しさと温かさを持つ親友に好きだと言われれば、いかにアイツと言えど、揺らがない筈がない。

「……で、海馬は?」
「言葉では何も言わなかったけど、嫌な顔はしなかったよ。だから僕はそこに付け込んで好きにさせて貰ってる」
「アイツと寝たのかよ」
「ベッドで一緒にね」
「そういう意味じゃねぇよ」
「僕と一緒に寝ると、海馬くん……たまに泣くんだ」
「え?」
「勿論、声を上げたりはしないけどね。本人も知らないんじゃないのかな。眠ってる時だけだから」
「………………」

 何をしても何を言っても少し表情を変えるだけで目を潤ませる事すらなかったあの男が、遊戯の腕の中では泣くという。その事実にオレは強い衝撃を受けた。無意識に握り締めている筈だった指先で、左胸を強く押える程に。

「なんで……」
「城之内くんは海馬くんのそういう所、見た事無いんだ?」
「ああ。だってアイツはそんなタマじゃねぇし……想像もできねぇよ。図太さが服着て歩いてる様なもんだったんだぜ」
「表面だけはどうとでも取り繕えるもんね」
「でも!」
「……ああ、それと。この三週間は海馬くん、一度も外泊はしてないよ。物理的に無理って言うのもあったけど、全部断って貰ったんだ」
「モクバに?」
「まさか。海馬くん本人にだよ。僕が嫌だからやめて欲しいって言ったんだ。ちゃんと素直に聞いてくれたよ。勿論僕も極力彼の言う事は聞くようにしてるけどね」

 遊戯が口にする一言一言に、オレは身体を切り刻まれる様な痛みを感じる。オレが本当にアイツに求めていたものや求められたかったものを、コイツがいともあっさりと手に入れたからだ。

 遊戯とオレは正反対だ。元々オレは海馬に枕営業をやめろとか、浮気をするなとかそんなに強くは言わなかった。当たり前だ、自分だって同じ事をしていたし、出来るからこそアイツを選んだ。あらゆる自由が約束された関係。その自由が元で壊れてしまった。だから。
 

 ……だから、仕方ない。分かっている。分かっているのに、何故か酷く悔しかった。
 

「城之内くん」

 遊戯の声がオレを呼ぶ。今までの流れからすれば、それは勝ち誇った様な少し得意気な声になる筈なのに、それはあくまで冷静だった。何時もと同じ、柔らかで、温かな声が部屋に響く。

「僕は海馬くんの事が好きだ。今は何よりも大事に思ってるし、大切にもしてる。君に言った事は全部ちゃんと守ってるよ」
「……ああ」
「そして海馬くんも少しずつだけど変わってくれてる。あれだけ頭のいい人だもん。ちゃんと話せば分かってくれるんだ」
「………………」

 そして最後には「遊戯が好きだ」と言わせるつもりなんだろうか。否、既に言わせているかもしれない。余りにもコイツはいい男過ぎる。人に優しく、気遣いが出来て、そして何より包容力がある。オレがもし女だったら、オレと遊戯のどちらを選ぶかなんて考えなくても分かる事だ。それは海馬もきっと同じで。

 ……でも、奴はオレにそんな事を望みはしなかった。たまに嘲笑しながら「オレには他人の様に優しく出来ないのか」と吐き捨ててはいたけれど、そうして欲しいとは言わなかった。だからオレも敢えて『いい人』を演じようとは思わなかったし、また、演じる事も出来なかった。
 

『海馬は、お前なんて好きにならねーよ!!』
 

 あの時、遊戯に向かってあんな言葉が吐けたのは、自信があったからだ。海馬は常識的な恋よりも非常識な恋を好んでいる、そういう男だと思っていたから。だから自由だけが利点の奔放な関係より、不自由でも穏やかな恋を選ぶなんて考えもしなかった。
 

 ああ、だからあの時、遊戯にきっぱりとああ言えたのか。そして今はこんなにも悔しいのか。
 

 ……あれから色々考えて、このままじゃ何れ駄目になる事が分かったから、オレは奴と別れる事を選んだ。そして必ず後始末をしてくれるだろう遊戯に託したんだ。

 ……だから今の状態はオレの思い通りの筈だ。何も不満なんかない。これで良かったんだ。

 そう。『良かった』筈なのに、素直にそう思えない。先日彼女から言われたあの言葉が、何度も頭に響いては消えて行く。
 

「……海馬は、お前といる方が幸せだよな?」
 

 不意に、思ってもみなかった言葉が口の端から零れ落ちた。完全な敗北宣言。余りのみっともなさに舌打ちをしたくなる。思わず口を押えて顔をあげると、遊戯は今までと同じ複雑で曖昧な笑みを浮かべて、困った様に肩を竦めた。

「それは、海馬くんに聞いてみないと分からないんじゃないかな?」
「そんな事、聞くまでもねぇよ」
「……どうして君達は勝手に相手の気持ちを決めてかかるのかな……。自分の気持ちだって余り良く分かってないみたいだし」
「君達?」
「君も海馬くんもって事だよ。これ以上は敵に塩を送る事になっちゃうから言わないけどね。油断するとすぐ忘れそうになるけど、君と僕は今は立派な恋敵なんだよ?」
「恋敵って……オレはアイツを捨てたんだぜ?」
「本当に捨てたのなら、僕を通して海馬くんの事を知ろうなんて思わないでしょ?僕と彼がどうなろうと、関係無い筈だよ」
「………………」
「海馬くんは、最近は良く笑う様になったよ。でもやっぱり、夜は時々泣いてるんだ」

 最後は少しだけ震える声で、遊戯はそう呟いた。そして何時の間にか空になったペットボトルのキャップを閉めて律儀にビニールへと仕舞い込み、溜息を吐くと立ち上がる。

「もう帰るのか?」
「帰るよ。話したい事は全部言ったし」
「何処へ帰るんだよ」
「家にだよ。今日はモクバくんに譲ってあげる日なんだ。やっぱり、兄弟は仲良くして貰わないとね。君もだよ?城之内くん」

 暗にオレと静香の事を臭わせながら、遊戯はそれきり何も言わずに背を向ける。そして玄関へと続く開け放しの扉を潜ると、顔だけをオレに向けて小さく笑った。

「学校にはちゃんと来てね。来年同じクラスになれないのは嫌だから。逃げてたって、何も変わる事なんかない。僕が言うんだから間違いないよ」

 それじゃあ、おやすみ。

 その言葉を最後に、遊戯は静かに家を出て行った。また一人、静寂の中に取り残される。キャップが開いたまま半分も飲まれていないオレのコーラは炭酸が抜けてただの甘ったるい飲みモノになっていた。

 それを一口飲んで不味いと呟く。

 酷く、泣きたい気分だった。