Immoral Kiss Act13(Side.海馬)

「海馬くん!もう6時だよ。良く眠れた?」

 温かな指先に肩を軽く揺すられて覚醒を促される。身を起こそうと思っても、重い身体はなかなか言う事をきかず、瞳を開けるのも億劫だ。寝起きは元よりいい方ではないが、最近特に酷くなった気がする。正規の起床時刻よりも一時間早く覚醒していなければ行動を起こす事が出来ない程自堕落な生活になっていた。

 その反対に、オレを叩き起こしてくるこの男……今は勝手に恋人を名乗る武藤遊戯はその子供の様な容姿からは想像出来ないほど朝には強かった。オレが目覚める前に必ず起床して、ある程度身支度を整えてから声をかける。これが、今現在二人で過ごす朝のスタイルだった。

「……眠い」
「それは分かるんだけど、今日は大事な会議があるんでしょ?モクバくんが僕と一緒に出かけないと間に合わないって言ってたよ?最終手段で朝ご飯をここで食べるって言う手もあるけど、どうする?」
「……簡単な事だ。朝食を食べなければいい」
「それは駄目。君が食べないんなら僕も食べないからね。今日授業中にお腹が鳴ったら海馬くんの所為だよ?アレ凄く恥ずかしいんだからね!」
「……貴様は食べんと背が伸びないだろうが」
「海馬くんだって食べないと体重増えないよ?これ以上痩せたら強制的にご飯食べさせるよって僕言ったよね?そのラインを超しちゃったんだからもう駄目だよ。僕の言う事を聞いて貰うからね」

 温かなベッドの中で最後の抵抗を試みるが全く功を奏さず、殆ど強引に引きずり起こされる形となったオレは、おはようの言葉と共に頬に柔らかなキスを受けて、程いい温度に温められた珈琲を手渡される。カップは仄かに温かく、直接底に手を添えても熱くはない。

 たっぷりとミルクが入ったそれは珈琲というよりもカフェオレだったが、最初に遊戯の前で珈琲を口にした時、弱った胃にブラック珈琲などもっての外だと窘められ、以降オレが飲む珈琲と言えば殆どミルクで構成されたこの飲み物になってしまった。最初は飲み干すのに苦労したが、今では普通に飲んでしまう。慣れというのは、こんなにも恐ろしいものなのかと驚愕した。

 慣れと言えばオレの隣で同じ様に珈琲を飲むこの男の存在にも、最近は大分違和感を感じなくなった気がする。最初は城之内との余りの違いに戸惑いを覚えずにはいられなかったが、何でも強引に押し切られると逆らうのが億劫になって来る。こちらが逆らわなければ向こうが攻めてくるのは当然で、そうなるとそれが生活の一部に組み込まれ、日常となってしまうらしい。

 その結果が今のこの有様だ。

 温んだ珈琲を緩慢な動作で飲み干してカップを遊戯に押し付けると、奴は嬉しそうに笑ってベッドを下り、「朝食を持って来るね」と言いつつ駆け出した。走るな、と言っても丸無視だ。オレと居る時にこの男がのんびりと歩いてる所を見た事がない。いつも忙しない足取りでちょこまかと動き回り、オレに対して世話を焼いて来る。そんな事をしなくていいとか、鬱陶しいとか撥ね退けてみるものの、聞く耳を持たないので諦めた。

「モクバくんも一緒に連れて来たよ。隣のテーブルで皆で食べよう」
「おはよう兄サマ。今日はスクランブルエッグだぜぃ」

 数分後、その身体には少々不似合いな大きさのワゴンとモクバまで伴って遊戯は笑顔のまま帰ってくる。オレが仕方なく了承の意を示すと、二人は楽しそうに話しながら、いつの間にか持ち込まれた小さなテーブルの上に朝食を並べ始める。

 多分これは人物が違うものの、何処にでもある朝の風景なのだろう。けれど今まで自宅でこんな場面に遭遇した事のないオレにとってはまるで異空間だった。長い間見た事がなかったモクバの笑顔も当たり前の様にそこにある。

 それは酷く幸せな光景である筈なのに、奇妙な違和感を覚えた。否、今この瞬間だけではない。遊戯と共に過ごす時間の全てにだ。それを初期の段階で遊戯に素直に告げた所、「当たり前だよ」との一言で片付けられた。

『そりゃそうだよ。今まで君の生活になかったものだもの。僕は君の全てを変えたくてここに来てるんだ』

 そう言って小さな笑みを見せつつ宥める様にオレを抱きしめる遊戯の細い腕も『奇妙』だった。未だ奴は軽いキスや抱擁、ただ共に眠るだけの添い寝はするものの、性的な意味の接触は一度もして来ない。その気がないのなら何故『恋人』の枠に拘るのだと聞いてみても、明確な答えは得られずにいた。

 恋人イコール性的関係の図式が出来上がっているオレには奴の考えは分からない。しかし遊戯はあくまで恋人関係を主張し、だからこそここまで出来るのだと豪語していた。そう言い切られてしまうとオレに反論の余地はなく、やはり受け入れるしか術はない。

「海馬くん早く、折角の温かいスープが冷めちゃうよ」
「煩い、急かすな」
「遊戯はどのジャムがいい?一杯あるぜぃ!」
「うーん、迷うなー。この間ストロベリージャム、すっごく美味しかったし」
「違うのも試してみろよ。冒険は大事だぜ?」
「それもそうだね。海馬くんは?どれがいい?」

 遊戯と共に過ごす事は、奇妙ではあったが苦痛ではなかった。齎される全ての時間が柔らかで、温かい。

 いいとも悪いとも言わない内に、勝手に取り分けられたパンを渋々手に取りながら、オレは城之内とこんな時間を過ごした事があっただろうかと考える。

 しかし記憶の何処を探っても、目の前の笑顔が遊戯から城之内に代わる事はなく、重い溜息が唇から零れ落ちた。
 
 

「今日は一日会社でしょ?学校には何時登校出来そう?」

 三人で和やかな朝食を摂った後モクバを見送りオレが身支度を済ませると、時刻は既に8時を回ろうとしていた。ここから童実野校までは車で30分程要するのでギリギリの時間だ。オレは車での登校を渋る遊戯を無理矢理後部座席に押し込めると、童実野校を経由してKCへ向かう様にと指示を出した。

 それに不満を顕わにしていた遊戯だったがここまではいつもの事なので奴は直ぐに諦め、少し離れていた距離を縮めると、少し身を伸ばしてそんな事を聞いて来る。

「今週は無理だろうな。仕事の進展度合いにもよるが……早くて来週半ばだろう」
「そっかぁ……」
「……何故そこで貴様がそんな顔をするのだ。関係ないだろうが」
「だって、一緒に学校行きたいんだもん」
「行ってるだろうが」
「そういう意味じゃなくて。学校でも一緒に居たいんだよ」
「何故だ」
「何故って……好きな人といつも一緒に居たいって思うのは普通でしょ」
「……そういうものなのか?」
「そういうものだよ」

 言いながら遊戯の右手が、オレの左手に重ねられる。相変わらず柔らかくて温かなその指先は、こちらも変わらず冷たい温度を保っている指先を緩く握って体温を移してくる。モクバと変わらないな、と口にすると、あからさまに拗ねた顔をして「小学生と一緒にしないで!」と叫ぶ唇は少しだけ誘う様に持ち上げられた。

 この男とキスをする時はオレが譲歩しないと難しい。それは偏に余りある身長差の所為なのだが、遊戯は決して自分から強引にオレを引き寄せる真似はしなかった。故に、譲歩しているのはオレと言う事になる。

 手を繋いだまま、少し首を傾けて眼下の唇にキスをする。

 それはただ触れ合うだけの、今迄のオレにとってはキスとも言えないささやかな行為だったが、この男とすると何故かとてつもなく恥ずかしい事の様に思えた。

「今日も放課後君の所に行くね。会社にいる?」

 こんな風に、予定を尋ねるのも遊戯ならではだった。こちらの予定などお構いなしに、一方的に押しかけてくるあの男とは大違いだ。そう思った瞬間、自己嫌悪に顔が歪む気がする。

「………………」

 オレは奴の問いに答えを返す事なく顔をあげるとそれきり無言で前を見ていた。遊戯はそんなオレの態度に言及する事なく、同様に前を見てただ静かに口を噤んだ。

 繋がった指先だけが妙に温かく、そして少しだけ苦しかった。
「君と会うのも久しぶりだな。体調はもういいのかい?」
「……こうして食事が出来る程度には」
「若いからと言って無理をしては駄目だよ。最近は海馬コーポレーションの株価も安定していて順風満帆じゃないか。国内に更にテーマパークを作ると聞いたが、噂は本当なのか?」
「噂はあくまで噂です。今のところそんな予定は立ててもいません」
「だよなぁ。もしそんな話があればオレを素通りする訳がない」

 言いながら、目の前の男はスーツの内ポケットから真新しいシガレットケースを取り出して、その中から煙草を一本指に挟むと慣れた仕草で火を点ける。そして満足そうな顔をしながら、オレにとっては害悪でしかない煙と香りをまき散らしつつ、僅かに身を乗り出して来た。瞬く間に空になった白皿に美しく置かれたナイフが僅かにずれて、耳障りな金属音が辺りに響く。

 ここは童実野ホテル上部にある比較的高級なレストラン。以前は毎日の様に違う男とこの場で食事をしたものだが、今日は本当に久しぶりに足を踏み入れた。

 無駄に煌びやかな室内装飾や、随所に飾り付けられた高級花の噎せかえる様な匂いが酷く懐かしい。完璧に仕切られたこの席からは窓の向こうにある都会の街並みしか見えないが、至る所から声が聞こえる事から随分と混んでいるのだろう。時刻は丁度昼を過ぎた辺りだから当たり前だ。年配の女の声が大きく響くのが気にかかる。

 そう言えば、目の前で悠然と煙草を吹かすこの男と会うのも随分と久しぶりだった。この数週間、体調不良を理由に一切『営業』を行っていなかったのだから当然だが。

 付き合いのある取引先の重役の中でも比較的若く見目のいいこの男は、数年後に代表取締役になる事が決定している。情報源はコイツの父親である現代表取締役だ。その父親は最近病を患い第一線から退いている為、事実上既に実権はこの息子に譲られている。その所為か、最近妙に態度が大きくなっていた。

 以前はオレに配慮して煙草を吸わない様にしていた筈なのにこのザマだ。尤も、オレにとってこの男の会社などさして重要なものではなく、全くの無関係よりは関係がある方が都合がいい、程度のものだったのだが。

 そんな事をグラスに口を付けながら考えていると、何時の間にかこちらに伸びて来ていた男の指が無遠慮に頬を撫でてくる。ザラリとした感触。唐突に齎されたそれに一瞬身を引きそうになり、辛うじて堪えた。

「今日の予定は?」
「……夕方までは、特に」
「夕方まで?夜に会議でもあるのか?それとも、また別の営業があるとか」

 休んでいた分を取り戻さなければならないだろう?と男は整った顔には酷く不似合いな、口の端を吊りあげる笑みを見せる。所詮男を遊び相手にする人間などこんなものだ。巷では誠実で紳士的と言われている男の実態を目の当たりにしてオレは心の底から溜息を吐く。そして同時に自分も同類だと言う事に初めて嫌悪した。
 

『今日も放課後君の所に行くね』
 

 夕方までに帰宅しなければならないのは、会議があるからでも違う営業をする為でもない。遊戯が来るからだ。あの些細な一言がオレの行動を縛りつける。勿論遊戯はオレに対してなんの強制力もない。けれど、期待に背きたくないと、そう思った。

「………………」
「まあ、なんでもいいか。夕方までだと時間が惜しいな。食事はもういいんだろう?行こうか」

 オレの頬に添えていた男の指がグラスを持っていた手に移動する。そして奴はこちら側の皿に半分以上残された肉を見下ろしながら席を立った。何時もの台詞、何時もの行動。以前なら笑顔を見せてその身体に寄り添う真似までして見せたと言うのに、今日はとてもそんな気になれなかった。普通の表情を保つ事すら難しい。

 こんな状態でオレはこの男に抱かれる事が出来るのだろうか。今までなら鼻で笑い飛ばしてしまうような不安が胸に過る。

「瀬人くん」

 不意に、背を向けていた男が唐突に振り返り、そのまま強く抱き締めて来た。そして強引に唇を重ねて来る。甘ったるい不快な香りと苦い煙草の味に全身を犯される様で酷く気分が悪かった。

 感触など分からない。ただ、当然の様に込みあげる吐き気を抑えつけるのに必死だった。背に嫌な汗が流れ、自然と指先に力が籠る。運悪くそれは男の背を掴んでいた為、盛大な誤解を生んでしまう。

 深まる口付けに、嫌悪感に身が竦んだ。けれど、以前の様に逃げ出す事も、受け止めてくれる相手もいなかった。
 

 遊戯は当然学校に身を置いているし、常に地下のビアホールにいたあの男はもう……働いてはいないのだから。
 
 

 遠くで聞こえる途切れる事のない水音に耳を傾けながら、オレはぼんやりと高い天井を見つめていた。外は分厚い雲に覆われて、昼間だと言うのに酷く薄暗い。薄い紗のカーテンを引いただけのこの部屋も同じ様に薄暗く、豪奢な筈なのに陰鬱に見えた。

 以前は事が終われば身支度もそこそこに珈琲を飲んで気持ちを切りかえ、直ぐに次の行動へと移れる筈なのに、とてもそんな気分になれない。自堕落な生活がこんな所にまで沁みついてしまったのか、気だるい身体は指一本動かす事が出来なかった。

 久しぶりのセックスは己にただ不快感と苦痛を齎すだけの、全く無意味なものだった。相手が相手だからだと考えてみたものの、奴は色事に関しては手練の方で、今まで過ごした時間の中で嫌だと思う事は殆どなかった。故に奴の方に問題があるとは思えない。あるとしたら、やはりオレの気持ちの問題なのだろう。冷めたままの身体を無理矢理高められるほど辛い事はないと身をもって知った気がする。
 

── そういう事は、もうやめて。
 

 不意に、どこからともなく遊戯の声が聞こえて来る。何度目かの添い寝の時に、仕事の事を聞かれたので軽い気持ちで『営業』の話を口にしたら、奴はやけに真剣な顔をしてそう言った。
 

『それは、どうしても必要な事?それとも、それをしないと海馬くんが駄目になってしまうの?違うよね?』
『特に必要な事ではないが、嫌々してる訳でもない。むしろ……』
『じゃあどうして君は体調を崩したの?好きでやってるならそんな事無い筈だよね?』
『少し疲れていただけだ。休息をとれば元に戻る』
『元に戻るって……恋人がいるのに、他の男の人とそういう事するのっておかしいよね?』
『貴様がどう思うかは分からんが、オレに取ってはこんな事は普通の事だ』
『そうだね。今までは多分それが海馬くんの「普通」だったんだろうけど……僕にとっては全然普通じゃない、異常な事だよ。僕だけじゃない、モクバくんだってそう思ってたからこそ君から離れてしまったんじゃないか。折角元通りの兄弟仲に戻ったのに、また同じ事を繰り返すつもりなの?」
『違う、オレは』
『僕は城之内くんとは違うから、好きな人には僕だけを見て貰いたいし、他人に触らせたくなんかない。これは君の意思は関係無いよ。僕が嫌だからそう言うんだ』
『………………』
『恋人の願いとして聞いて欲しい。もう、他の誰とも浮気しないで』
 

 あの時遊戯が発した声は愚か息遣いまでも思い出し、酷く嫌な気分になる。結局オレは明確な返事を避けて誤魔化したが、今はまるで約束を破ってしまった様な罪悪感が重く圧し掛かっている。今まで、何をしてもこんな気持ちになった事なんてなかった。ましてや男と寝る事に快楽を感じる事はあれど後ろめたさを覚える事等なかったのに。

 また、胸が苦しくなる。けれど、それは決して煩わしいものではなかった。その事に再び小さく驚愕する。

 水音が止まり、浴室の扉が開く音がする。

 直ぐにオレの前に現れるだろう男に、もう言うべき事は決まっていた。
 オレの心に迷いはない。
 

「恋人が出来たから、もう……これで終わりにしたい」
 

 後何回、この言葉を他人に告げなければならないのだろう。そう思いながら口を開いた。
「煙草の匂いがするね」
「昼に取引先の男と食事をしたからな」
「そう。何を食べたの?」
「忘れた。何を食べても一緒だ」
「僕はね、今日学食でカレーを食べたんだ。だから出来れば夕食はカレーじゃないのにして欲しいなぁ。あ、ちょっと図々しい?」
「モクバと相談しろ。あいつはそろそろカレーが食べたいと騒いでいたからな」
「あ、そうなの?うーん、じゃあモクバくんに譲ってもいいかなぁ」
「二連続でカレーか。うんざりだな」
「別に海馬くんが食べるんじゃないんだからいいでしょ。君の家のカレー凄く美味しいから大好きだよ。勿論、うちのカレーも美味しいけどね。今度食べに来る?っていうか、泊まりにおいでよ」

 それから数時間後。ほぼ予定した時刻に無事帰宅する事が出来たオレは、いつもより少し遅れて邸へとやってきた遊戯を自室で迎える事が出来た。奴が学校が引けてから直ぐにこちらに来ないのは、必ず一度家に帰るからだと本人が言っていた。連日他人の家に泊まる事に対して家族は何も言わないのかと聞いた所、特に何も言わないのだと言う。全く、オレの周りには奇妙な人間が多すぎる。

 尤も、人の事を言えた義理ではなかったが。

 遊戯は入室早々ソファーに座しやり残した仕事をしていたオレの元にやって来て、軽い抱擁と頬に小さなキスをしてくる。それは既に挨拶の様なものになっていて何時もは自然と受け入れていたが、今日は昼間の件を思い、少しだけ躊躇した。しかし案の定身に着いた匂いに気取られてしまう。

 食事はともかく、寝た事には気付かれないだろうか。また、気付いた場合どんな反応を示すのか。頭に過るのはほんの少しの焦りと好奇心。特に後者に関してはむしろ知りたいと思ってしまった。

(知って、またあの男と比べるのか)

 心の奥底に潜んでいるもう一人の自分が発する冷たい声が聞こえて来る。

 しかし遊戯は表立ってその事について言及して来る事はなかった。むしろ普段よりも明るく振舞い、今日一日の出来事を面白可笑しく話して来る。けれど、遊戯は多分気付いていた。時折微笑みながら向けられる視線に揺れを感じる。触れられたままの右腕が、妙に熱かった。

 穏やかな夕暮れの一時。壊す必要もないのに、オレはどうしてもそこにヒビをいれてしまう。

「遊戯」
「うん?どうしたの、海馬くん」
「聞かないのか?」
「何を?」
「貴様はもう分かっている筈だ。オレが昼間何をしていたか」
「………………」
「『恋人』なのだろう?何か言ったらどうだ」

 最後は、感情が声に出た。己を酷く嘲る様な投げやりな声。変えてみせると奴は言った。そして少しずつ変化していく生活形態、引き摺られる様に変わっていく身体と心。それを受け入れたくも有り、拒みたくもあった。やはり、訳が分からない。オレはまだ、『あの時』から歩き出せないでいるのだろう。

 遊戯に向けた眼差しは、かなり挑発的だった。何故なら奴の目に映るオレの顔は酷く歪んで見えたからだ。遊戯は静かに瞬きをしながらオレを見ている。その瞳に感情を読み取る事は出来なかった。

「楽しかった?」
「……何?」
「昼間は楽しかった?って聞いてるんだけど」

 ほんの少しの間の後、奴の口から出た言葉はオレの予想を全く越えたものだった。浮気をした事に対して、怒るでも嘆くでもなく、ごく普通に楽しかったかどうかを尋ねて来るなんて有り得ない話だ。これは裏に何かあるのだろうか。必死に考えても然程深い付き合いでもない他人の思考を知る事等出来る筈もなく、オレはただ二の句が継げずに黙る事しか出来なかった。

 沈黙がその場を支配する。けれど、それは決して重苦しいものではなかった。その証拠に遊戯の顔には相変わらず変化はなく、その兆しすら読み取る事が出来ない。形容し難い膠着状態に耐えられず、オレが更に言葉を重ねようとした瞬間、遊戯はふっと肩の力を抜く様な笑みを見せると再び小さく口を開いた。

「楽しい訳ないよね。海馬くん、悲しそうな顔してる。だから僕は何も言う必要がないんだよ」
「……それは許容か?それとも、諦めか?」
「まさか。君は僕の態度をそう取るの?」
「………………」
「でしょ?僕もね、君が何を思って行動してるのか位ちゃんと考えてるよ。君は気付いてないかも知れないけど、言葉なんかよりも君の態度がそれをちゃんと教えてくれる。僕を怒らせたり、悲しませたりする為にそういう事をしたんじゃないってちゃんと分かってる」
「だが、貴様は許さないと言った」
「許さないなんて言ってないよ。嫌だ、って言ったんだ。勿論今だって『だから仕方ない』なんて思ってないよ。凄く嫌だと思ってる」
「だったら!」
「今までずっと続けて来た物を何の代償もなしに、直ぐにやめる事は出来ないでしょ。それ位は僕だって分かってるよ。君がどれだけ『その事』を武器にしていたかもね。城之内くんから嫌ってほど聞かされたし」
「………………」
「今日の人とは、次もあるの?」
「……いや。もう、ない」
「じゃあ、これで終わり」

 小さな掌がオレの頭上に落ちて来る。そして宥める様に優しく髪を撫で、頬に触れる。その仕草と態度にやはり感情の揺れは感じられず、オレは戸惑いながらも真っ直ぐに奴を見た。

 それはただ視線を合わせたいだけだったのだが、遊戯はそれを別の意味に取ったのか、唇を寄せて来る。自然に瞳を閉じると、今までとは違う深く長いキスをされた。唇を触れ合わせる子供だましのそれではなく、舌を絡め合うあの口付けだ。

 口内に残っていた昼間の名残を全て吸いとる様に放された口元を呆然と眺めていると、遊戯はオレの首筋に指を滑らせ、耳朶に頬を寄せるとはっきりとした声で囁いた。
 

「君が不安なら、ちゃんとした、本当の恋人になろう」
 

 肌蹴たシャツの隙間から、既に慣れてしまった温かな体温が入り込む。遊戯と恋人になる。それは即ちあの男との決別と、新たな道への第一歩だ。

 無意識に指先を探して、強く握り締める。

 多分痛みを感じるだろうその行為にも遊戯は何も言わず、不自由な体勢のままオレの身体を抱き締めた。