Immoral Kiss Act9(Side.海馬)

「何処行ってたの?また、どこかのホテル?」

 家に帰って早々、随分と久しぶりに顔を合わせたモクバの口から飛び出したのは、そんな冷たい一言だった。モクバはオレが帰宅したと聞くや否や、彼自身も会社から帰宅した所だったのか、スーツの上着だけを脱いだ姿で屋敷の奥から姿を現し、オレと珍しく屋敷の中まで付き添って来た城之内を睨めつける。

 他の使用人がいる前でそんなあからさまな言葉を使われるのに抵抗がない訳ではないが、ホテルに居たのは事実だし、また、その場にいる誰もが同じ事を思っているという事を知っていたから、オレはモクバを制する気にはなれなかった。尤も、そんな余力も残されてはいなかったが。

「あー悪ィなモクバ。実はコイツ体調崩しちまったみたいでさ、ちょっと動けなかったんだ」
「……えっ」
「本当は今日の朝のうちに連れ帰ってくる予定だったんだけど、オレも学校があったし……こんな時間になっちまったんだよ」

 未だ自力で歩くのが困難なこの身体をおざなりに支えるだけだった城之内が突然モクバにそんな事を言い出したので、オレは些か驚いて常と変わらない無表情な横顔を見詰めてしまう。

 いきなり何を言ってるんだこいつは。そもそもここは貴様の出る幕じゃない。いつもの様にとっととオレを置き去りにして帰ればいいだけではないか。そう思い、掴まれている肩を振りほどこうとするも、強く力の込められた指先は離そうという素振りすら見せなかった。何がなんだか分からない。力の入らない身体を無理に捻ろうとすると、くらりと視界が歪んだ。途端に辛うじて体重を支えていた足がかくりと折れる。

「それなら、連絡位……兄サマ!」
「こりゃ駄目だな。話は後でしてやっからとりあえずコイツは休ませた方がいいんじゃねぇの?」
「……じゃあ、兄サマの部屋に」
「ついでだから運んでやるよ」
「……なっ!」
「自力で行けねーんじゃしょうがねぇだろ。今女しかいねぇみたいだし、黙っとけ」

 暴れるなっつっても、そんな気力ないだろうし。そう小さく鼻で笑って奴はオレをそのまま担ぎ上げ、危な気のない足取りで歩き出す。不安定に揺れる視界に気分の悪さが助長され、目を開けている事さえ苦痛になったオレは、そのまま大人しく口と目を閉ざし奴の腕に身を委ねた。

 城之内が再びオレの前に姿を現してからというもの、全てが予想外で対応しきれない。まさか離れていた数時間で何か変化を及ぼすような事があった訳ではあるまいし、一体どうしたというのだろうか。……尤も、あったとしてもきっとオレには関係のない事なのだ。奴に何か影響を与える程オレの存在は重くない。

 そう思うと、自然と溜息が唇から零れ落ちる。

 歩きながら小さく言葉を交わす二人の声は、いつの間にか耳に届かなくなっていた。
「……今日の昼間に、兄サマの取引相手……まあ、言うなら枕営業の相手なんだけどさ……その人から電話があって、兄サマがちゃんと家に帰ってるかどうかの確認されたんだ。オレは兄サマのスケジュールなんて大まかな所しか分からなかったし、なんでその人がそんな事を聞くのか分からなかったから、素直に何処にいるか分かりません、って言ったんだけど……」
「……ああ」
「なんか、その人が……兄サマの様子がおかしいって。だから、ちゃんと管理してあげて欲しいって、オレに言うんだ」
「………………」
「なんで小学生のオレが高校生の兄サマの管理なんかしなくちゃいけないんだよ……こんなのっておかしいだろ」

 気が付くと、薄暗い部屋の片隅に明るい光が差し込んでいるのが見えた。ぼやける視界を良く凝らして見てみれば、それは隣室から入り込む室内灯の明りだった。どうやら二人はオレを寝室であるこの部屋に落ち着かせた後、隣の私室に移動をして話をしている様だった。同室にいない事も寝室と私室を繋ぐ扉を開け放しにしている事も、大方オレへの配慮なのだろう。寒々しいビジネスホテルの安ベッドに比べれば大分居心地のいいこの場所に横たわっていると、ほんの少しだけ気持ちが安らぐ気がする。

「お前、海馬と余り口をきいてないんだって」
「うん。声どころか、顔もほとんど合わせないよ。だからオレは兄サマが何をしているのかなんて伝え聞いた事と、モバイルに流れてくるスケジュール表でしか把握してない」
「なんでだよ。お前等、あんなに仲が良かったじゃねぇか」
「……なんでって。それはオレが聞きたいよ。最初に離れて行ったのは兄サマだ。オレの事なんか全然振り返らないで、好き勝手して……。オレも何度か兄サマにお願いをしてみたけれど、聞く耳なんて持ってないんだ。そんな人に、どうやって歩み寄れっていうの?」

 少し興奮気味に響いてくるモクバの言葉。壁を隔てた向こう側で交わされるその会話は、オレが久しく触れないようにしていた事柄だった。触れた所で諍いになるだけだし、オレもモクバも何を言っても相手の言葉を受け入れようとはしなかった。

 それには少なからず言い分はあったが、話した所で理解を得られるとは思わなかったから、オレは避ける事で意思を示した。そしてモクバもそれに倣った。ここ最近の兄弟間の溝はそうして深くなっていったのだ。

 それを思い出し胸が少し苦しくなる。
 昨夜取引先のあの男にかけられた言葉が、更に重くのしかかる気がした。

 知らず苦い気持ちを飲み込む様にきつく唇を噛みしめ、顔を隠す様に少しだけかけ布団を上に上げようとしたその時、不意にそれまで相槌を打つだけだった城之内が自らモクバに話しかけて来た。それも、思いもかけない言葉でだ。

「……それって、オレの所為?」
「え?」
「アイツが元からああなのは知ってっけど、ここんとこ酷くなったんだろ?それって、オレの所為かなって」
「……何か心当たりでもあるのかよ」
「いや、別にねぇけど。他に原因がないんなら……」
「オレはお前と兄サマの事までは知らないよ。勝手にやってたんだろ?今まで」
「………………」
「大体お前達って恋人同士だったの?オレにはお前も、他の枕営業の相手も、兄サマにとっては全部一緒の様に見えたけど」
「オレは、」
「お前だって、兄サマの事を『そういう風』に扱ってたんだろ?そんなの、恋人じゃなくってただのセフレじゃん」

 まるで吐き捨てる様にそう言ったモクバは苛立たし気に飲み物が入っていたらしいカップを乱暴にソーサーに叩きつけた。オレが居る傍でオレも関係する話を勝手にされるのは不愉快だったが、内容に偽りが有る訳ではないので飛び出して行こうという気にはならなかった。

 しかし、突然城之内があんな事を言い出したのには驚いた。今日は奴の何もかもが理解出来ない。どうしてオレの素行の要因が自分だなどと考えたのだろう。これまでそんな事は一言も言わなかったし、奴とて自分が悪い等とは露程も思ってはいなかっただろう。だからこそ、昨夜ああいう態度に出たのだし、オレも何も言わなかった。なのに、何故。

「……だよな」

 暫しの沈黙の後、溜息と共に絞り出した様な城之内の声が微かに聞こえた。耳障りな陶器の音が先程よりも幾分穏やかに響き渡る。

「オレもさ、色々考えて……やっぱこのままじゃ駄目かなって思い始めたんだ」
「何が」
「全部。お前には関係ねぇ事だけど」
「……兄サマの事なら、関係あるよ」
「オレは海馬の保護者でもなんでもないから、海馬の事はアイツが自分でなんとかするべきだろ。ここで言ってるのはオレの事だ」
「言ってる意味が分からないよ」
「オレもまだあんま良く考えてねぇんだけどさ……でも、お前にはこれ以上迷惑かけない様にする」
「……迷惑かけないって、どういう事?」
「まあぶっちゃけて言えば───」

 そこから先は声を潜めてしまったのか、良く聞き取る事が出来なかった。ただ、モクバの驚く様な声と、それを制する様な城之内の囁きが僅かに聞こえただけで、それきり二人の言葉はただの雑音になり言葉としてオレの耳に届く事はなくなった。

 やがて一人分の足音が室内を移動し、扉が閉まる音がする。どちらかが部屋を出て行ったのだろう。そして、もう一つの足音がゆっくりとこちらに向かってくる。敢えて目を閉じていたオレは、聴覚と近づいて来る気配のみでその存在が誰か探ろうとした。しかし特に考えずとも『それ』が誰かは分かっていた。踵を引きずる様な怠惰な歩き方をするのはあの男しかいないからだ。

 オレは思わず息を潜めて奴の動向を窺っていた。そんなこちらの様子に気付いているのか否か奴はオレの身体に手が届く位置までやって来て、まるで覚悟を決める様に大きく息を吸って吐き出した。そんな仕草も今まで見た事がなかった。

「……なあ、海馬、起きてんだろ?」

 低く、小さな声が広い部屋に僅かに響いて消えていく。それに応えようか否か一瞬惑っていると、奴は再び息を吸って今度ははっきりと聞こえる声でこう言った。
 

「別れようぜ、オレ達」
 

 その言葉には何時もの軽い響きは、微塵も含まれてはいなかった。
 その単語を耳にした時、思わず身体が反応した。己の意思とは裏腹に跳ね上がった肩の振動に口元まで上げていた上かけが下にずり落ちて、図らずも顔を奴に晒してしまう。一体何を言っているのか分からない。知らず激しさを増す動悸に忘れていた吐き気が込み上げた。

「別れよう、だと?」

 動揺を無表情の下に押し込んで、気力で上半身を持ちあげる。目眩で視界が定まらないが冴えた表情でこちらを見る城之内の顔だけは確かに見えた。普段と同じ口調、同じ声、そして何の変化もない飄々としたその態度は余りにも見慣れ過ぎていて、今の台詞が本当か嘘かまるで分らない。

「ああ」
「何故だ」
「何故って……もう飽きたから、お前と寝るの。毎回こんな面倒な事押し付けられちゃ、やってらんねーし」

 はぁっ、とあからさまな溜息を吐きながら城之内は乱暴にベッドの端へと腰を下ろした。そして心底嫌そうな顔をして同じ趣旨の言葉を繰り返す。お前といるのがもうダルくなった、男は堪能したしもういいかなと思って、ぶっちゃけマジ面倒臭い。色んな奴には白い目で見られるし超迷惑、割に合わねぇ。痛んだ金髪を乱暴にかき混ぜながら淀みなくそう言う声に、嘘は無い様な気がした。

 ああ、だからか。貴様が妙な事をやり、そして言い出したのは。

 先程の意味の分からない抱擁も屋敷まで着いて来た事も、そしてモクバと二人きりで話した事も、全てこの結論に至った上での行動だったのか。道理でやけに優しく感じた。これが最後だと言うのなら、納得もする。結局、同情と好奇心だけで構われた捨て猫は、再び捨てられる運命にあったのだ。

「……そうか」

 城之内の言葉に僅かに動揺はしたものの、オレの口から出たのは酷く静かな許容の言葉だけだった。こんな事は最初から分かっていた事だ、今更驚く事もない。言外にそう言いながら、オレは何故か不満そうな目の前の顔をじっと見つめる。

 その眼差しが気に入らなかったのか、城之内は僅かに眉間に皺を寄せると少しだけ身を乗り出して、いきなりオレの腕を掴んで引き寄せた。その余りの力強さに身体が浮き、上かけが勢い良く捲れ上がる。前のめりになった身体は不自然な形で城之内の肩へと激突した。突き出た骨同士がぶつかり合い、酷い痛みを感じる。

 痛い、と言う間もなく、そのまま仰向けに押し倒された。ぐらりと揺れる視界が気持ち悪い。それに思わず顔を顰めると、構わず唇を塞がれた。相変わらずの冷たいキス。入り込む舌が、どこか異質な物の様で吐き気が酷くなる。

「……っ、んぅ……やめろっ」
「最後に一回だけヤらせろよ」
「……な……」
「昨日のお前、結構可愛かったぜ。嫌がられるってのも結構燃えるもんなんだな」
「……あっ!」

 退けようにも全体重をかけて圧し掛かられればどうする事も出来ず、敢え無く城之内の意のままにされてしまう。力任せに夜着の前を掴まれてボタンがはじけ飛ぶ様を忌々しそうに見詰めながら、奴は昨夜の名残の残る身体を遠慮なく暴き立てた。

 未だ熱を持つ乳首を躊躇いなく吸い上げて、歯を立てる。オレは声をあげる気力もなく枯れた喉が無様に鳴るのを手で口を塞いで堪えようとする。けれどそれも直ぐに奴の指に絡め取られて、頭上へと固定された。これではまるで強姦だ。

 なるほど、こんなのは恋人がする事じゃ無い。モクバの見解は正しかった。尤も、一つだけ違ってはいたが。

 オレを抱いていた男達は誰一人としてこんな風に傷付ける真似をした事は無い。誰もが平等にオレに優しく、丁寧だった。大事だと言ってくれた。目の前のこの男の様に、乱暴で適当な扱いをされた事など一度もない。強引に事を進められた事さえなかった。

 大きく膝が割り開かれ、潤いも何もない後ろに指がねじ込まれる。腫れが引かないそこはたった一本の指でさえも受け入れ難く、酷い苦痛を感じた。内側からどろりと何かが溢れる感覚。そう言えば後始末をしていなかった。嫌悪感に膝が震える。

「── くっ、あっ!」
「何か、言う事はないのかよ」
「……言う、事?」
「お前はオレがこんな事を平気でやったり、てめぇの都合だけで拾ったり捨てたりするのをなんとも思わないのかって聞いてんだよ」
「いっ!!……あぁっ!!」

 冷静な口調とは裏腹に驚く程昂ぶっていたらしい城之内は、指を抜かないまま何時の間にか取り出していた雄を強引に中へとねじ込んだ。幾ら慣れているとは言っても無茶をされれば傷が付く。限界まで押し広げられた肉が強く軋んで、激痛と共にぬめりを帯びた。鼻につく鉄錆の匂い。全ての感覚が遠くなる。

 こんな状況で貴様はオレに何を答えろと言うのだろう。嫌だと縋れとでも言うのだろうか。確かに、この男を失うのは惜しかったが、縋った所でどうにもならない事などそれこそ嫌と言うほど分かっている。元々城之内の興味本位から始まった関係だ。興味が無くなれば捨てられるのは当然だ。それを受け入れたのはオレの方であり、何も言う事などありはしない。

 自由な関係を望んでいたのだろう?ならば好きにすればいいのだ。自由とは、そういうものだ。

 好きだも愛してるも、キスもセックスも、互いを繋ぎ止める手段にはならない。唯一オレ達が他人にしなかった事は傷付ける事だけだ。傷付け合う事しか出来ない恋人。そんなのは恋じゃないと言ったのは誰だったか。

 衝撃を堪えるだけでなく、言葉も封じる為にオレはきつく唇を噛み締めた。それがオレの答えと分かったのか城之内はそれ以降何も言わず、ただ無心にオレを犯し続けた。

 何度目かの絶頂の後、力の限り抱き締められた痛みを最後に、オレの意識は闇に沈んだ。
 

 最後に名を呼ばれた気がしたが、よく、分からなかった。
「兄サマ」

 次に目を覚ました時、オレの視界に映ったのは随分と久しぶりに近くで見たモクバの顔だった。今は何時なのか、オレはどうなったのか、そしてあの男は何処に行ったのか、聞きたい事は沢山あったが上手く言葉が出て来ない。もっと良く弟の顔を見ようと身じろぎすれば、身体の奥が強く痛んだ。

 あれは、夢ではなかったのだ。

「大丈夫?全く、城之内も無茶するから」

 そんなオレの事を呆れた様に見下しながら、モクバは今までの素っ気なさ等なかった様に優しくオレの髪を撫で、その手で額に触れると「まだ大分熱が高いね」と溜息を吐いた。

「城之内はあの後直ぐ帰ったよ。もうここには来ないって言ってね。あ、後始末はアイツがちゃんとしてくれたから、誰も何も見てないよ」

 それは暗に先程ここで何があったか知っていると言う事か。それなのに何故モクバは今まで避けていたオレの下に突然来る気になったのだろう。羞恥や混乱にざっと全身の血の気が引く様な気がする。知らず表情にも出たのだろう、モクバはこちらをじっと眺めながら肩を竦めてこう言った。

「……城之内がオレに言ったんだ。最後だから兄サマと二人きりにさせて欲しいって。好きにするかもしれないけど、見逃してくれって。オレはいいよってアイツに許可出したんだ。だから……」
「………………!!」
「ねえ兄サマ、こんな事、本当に終わりにしようよ。これが最後のチャンスだぜ?オレはもうこれ以上兄サマに辛い思いをさせたくない。……ううん、兄サマにとっては辛くはないかもしれないけど、兄サマの身体が可哀想だ」
「………………」
「本当は兄サマだって、こんな生活、やめたいと思ってるでしょ?」

 何時の間にか全て新しく変えられていた上かけの下にあった左手を温かな両手が包み込む。柔らかな子供の手。確かな力を持って握り締められた指先から、モクバの思いが伝わってくるような気がする。

 そう、確かにオレは疲れていたのだ。セックスをするのが好きだった、それは事実だ。だが、楽しむ為では無く、ビジネスの為にする行為は決して楽しいものではなかった。自分は男好きで淫乱だからこのやり方は性に合っている。むしろこんな簡単な事で巨額の富を手に出来るのなら安いものだ。今まで、そう信じて生きていた。実際そうだとも思っていた。けれど、それは単なる虚栄だったのだ。悲鳴をあげる身体がそれを如実に物語っている。
 

 疲れた、もうどうでもいい。そう思い始めてどれ位の時が経っていたのだろう。
 

「暫くはゆっくり休んで、その間に考えて。兄サマが本当にしたい事はなんなのか。オレは……兄サマが今の生活を改めてくれるのならなんだってするよ。兄サマの事が大事だから。大切にしたいと思ってるから」
「……大切?」
「当たり前だろ。オレ達は、たった二人の兄弟なんだから。……尤もオレだけじゃなくて、皆が同じ事を思ってるけどね。兄サマは皆の大事な人なんだ。だから、自分を粗末に扱わないで。兄サマ位の力があれば身体なんか使わなくても十二分にやっていける。KCはそんな軟な会社じゃないよ」

 だから真面目に考えて、お願い。

 そう言ってオレの手を握り締めるモクバの手は微かに震えている様だった。その細い指先を眺めながらオレは何故か目の前の彼の事では無く、素っ気なく去って行った城之内の事を考えていた。

 オレが真っ当な生活に戻ったらあの男も元に戻るのだろうか。否、あれのいい加減さは元々だ。オレが関係する訳もない。訳もなく、腹の底から笑いたくなった。何故だかおかしくてたまらなかった。二度捨てられた捨て猫が死にもせずに成長し、再び目の前に現れたらどんな気分になるのだろう。そんな埒もない事を考えながら目を閉じる。
 

 目を開いたら涙が溢れる気がしたから。

 オレは弟に預けた左手はそのままに沈黙を貫いた。