Immoral Kiss Act3(Side.海馬)

「海馬くんは、本当の恋ってした事あるの?」

 そう言って、まさに純真無垢が服を着て歩いているようなその男は、大きく零れ落ちそうな両の瞳でオレの事を見下ろした。それまでのやり取りの所為で感情が高ぶったのか僅かに濡れて光る稀有な色をしたそれは、差し込んだ日の光を浴びて不可思議な色合いを見せていた。

 誰もいない放課後の教室で二人きり。
 廊下を行き来する生徒だか教師だかの足音が酷く遠くに聞こえる。
 

「……本当の恋とはなんだ?恋愛なら、今している」
「君達のそれは恋愛じゃない」
「ではなんだ」
「ただの遊びでしょ。それとも馴れ合い?」
「随分な言われようだな。貴様に何が分かるのだ」
「分からないよ?分からないから……他人からみて、そう見えるって言ってるんだよ」
「ならばそれで構わない」
「じゃあ、やっぱり遊びなの?」
「遊びではない。少なくても、オレはそう思っている。だが、貴様にそう見えるのならそれでいいと言っているんだ。何も困りはしない」
「僕だって、君達が何をしてようが僕自身は少しも困ったりしないよ」
「ならそれでいいだろう?誰も困らないのなら、いいじゃないか」
「君自身は?」
「……何?」
「そして、城之内くんは……本当に、何も感じていないの?」
「………………」
「今、この瞬間も、君は何の痛みも苦しみも悩みも、持っていないの?」
 

 きしりと、奴がオレの座す椅子の背に手をかける。身長の関係で話し辛いからとオレを自席に座らせ、自らが立つ格好となったこの状態は、その実奴がこうしてオレを見下ろす為に予め仕組んだものだと今更ながらに気付かされる。

 表面の様子からは殆ど感じ取れないが、僅かに変わった声色やほんの少しだけ眇められた瞳には明らかに怒りの感情が篭っていた。怒りだけではない。形容し難い悲しみも共に。
 

「……僕は」
 

 その瞳が僅かに揺れる。そして、暖かな空気と共に、遊戯は小さくこう言った。
 

「君達の事が好きなんだ。だから……ただ見ているだけなのが、凄く辛い。どうして、もっとお互いを大事にしてあげないの?」
「君に少しだけ話があるんだけど、いい?」
 

 それは今年二回目の雪が控えめに舞う初冬に入ったある平日の事だった。これから年末にかけて忙しさに拍車が掛かる前に、少しでも出席日数を稼ごうと久しぶりに学校へ行くと、城之内の姿が見えなかった。

 勉学に熱心ではないあの男の事だからまたいつものサボり癖が出たのだろうと、呆れた気持ちで携帯にメールを送ってみれば、どこぞの安ホテルで昨夜捕まえたらしい知らない女と寝過ごしたという。

 『何か疲れたから今日学校行かね。お前がどうしても来いって言うなら考えるけど。そういや最近会ってないよな』

 ご丁寧に悪趣味な写真付きで返って来たそれを無感動に眺め、『別にいい』と一言返す。何も貴様に会いに学校に来ている訳ではないし、お疲れのところをわざわざ来て頂かなくても結構だ。そう心の中で吐き捨てて、溜息を吐く。

 確かに最近その顔を見ていない。声すらも聞いていない。環境的には会おうと思えば何時だって会えるのに、会わないのは面倒だからだ。面倒だと思い始めたら破局の前兆だ、と誰かに言われた気がしたが、元々さほど熱心に思いあう仲でもない。思い返せば最初からオレ達はこんな調子だった。

 これが普通の恋人だったら寂しいとか、しないから溜まっているとか、そういう理由をつけて会いに行くのだろう。しかし、生憎お互いそういう感情や欲を満たす術は他に幾らでもある。恋人でなくては満たされない等という清純さは持ち合わせてはいなかった。

 現に今だってそうだ。城之内はここにいるオレよりもどこの誰とも付かない女といる方を選び、オレも昨夜は既に名前も思い出せない男と共にいた。それで寂しさや欲は十分に満たされている。問題はない。問題はないが……何故か溜息が止まらなかった。

 そんなオレの事を何時の間にか熱心に観察していた奴がいた。武藤遊戯。城之内の事もオレの事も大切な親友だと言って憚らないその幼い体躯の持ち主は、その見かけとは裏腹に唯一この関係に苦言を呈してくる『大人』な考えの男だった。何を持ってして大人というかは個人の判断故に良く分からないが、モクバがそう言うのだからそうなのだろう。

 そんな奴の事をオレは少しだけ苦手に思っていた。しかしそれと同時に城之内とは全く違った意味で好意も持っていた。それは奴が得意気に口にする世の中の闇をまるで知らない無垢な言葉に深い嫉妬と、憧れと、優越めいたものを感じるからかも知れない。

 だがそれ以上に、馬鹿がつくほど熱心に向けられる気遣わしげな視線や、救おうとでも思っているのか、存外強く差し伸べられる手が心地よいと感じるのだ。
 

「海馬くん、おはよう。城之内くんは?今日も学校に来ないの?」
「今日も?奴は連続欠席の記録更新にでも挑んでいるのか?」
「うん、最近あんまり顔を見ないんだ」
「そうか、オレもだ。だから奴の動向をオレに聞くなどという無駄な事はよせ。貴様の方が良く知っているだろうが」
「………………」
「あぁ、ちなみに今日は女の所らしいぞ。ご丁寧に写真付きで教えてくれた。見るか?」
「海馬くん」
「なんだ」
「君に少しだけ話があるんだけど、いい?」
 

 何時の間にかオレの席へと近づいた遊戯は、そう言って至極真剣な瞳でオレを見上げた。それは常に見せる穏やかで人の心を和ませる優しい笑みの片鱗もない、この冬空のように冷たく、厳しい光を帯びていた。

 貴様もそんな顔が出来るのか。心に沸いた驚きとは裏腹にオレの喉奥から湧き上がるのはその真剣さを揶揄するような軽い言葉ばかりだ。相手の真剣さが分かれば分かるほど、有耶無耶にしたくなるのはオレの悪い癖で、本気じゃない事を逃げ口上に好き勝手しているという自覚が在る故の自己防衛反応だった。
 

 そう。何もかも本気じゃない。本気になれない。本気になるのが、怖いのかもしれない。
 

「じゃあ、放課後少し付き合って」
「今では駄目か」
「そんなに簡単に終わる話じゃないから」

 そんなオレの内心など当然分かるべくもなく、相変わらず硬い声のままそう言った遊戯に、今この場からの脱却を持ちかけてみたが、それは即座に却下された。ぴしりと、差し伸べた見えない手を思い切り跳ね付けられたような気がした。その痛みは、胸の奥底を僅かに突く。
 

「海馬くん」
 

 授業開始のチャイムが鳴り響き、妙な空気が霧散する。ざわつく周囲の動きにあわせ、自らも自席へと帰るべく踵を返した遊戯は、最後に一行こう言った。
 

「首元。ホック、最後まで閉めたほうがいいよ。痕凄く目立ってる」
 

 抑えられた声量が、いっそ冷たく心に響いた。
 そして放課後。

 約束通り遊戯と二人で教室に居残ったオレは、そこで不毛な話し合いに応じている。内容は勿論、城之内とオレとの不健全な恋愛関係についてだ。他人に首を突っ込まれる筋合いはないが、共通の友人として大きくオレ達の間に憚るこの男相手だと何故か無下にする事は出来ず、オレはもう一字一句ソラで言える位聞かされた、下らない説教めいた言葉を聞き流していた。

 その様相が一変したのは、遊戯が口にした『恋』の単語からだった。
 

 オレ達の関係は恋愛ではないと言い捨てた遊戯。
 では、本当の恋とは、愛とは、どんなものを言うのだろう?
 

「オレは、別に何も感じてはいない。これでいいと思っているから、そうしているだけだ」
「城之内くんが、君じゃない誰かの方を優先しても?本当は女の子が好きで、君の事なんかただの……」
「ああ、それでも構わない」
「嘘」
「嘘じゃない。オレとて奴を大事になぞしていない。約束をしていた日に、突然降って沸いたどうでもいい取引先と寝る事を優先する事だってある。お互い様だ。そこに問題などない。ない、はずだ」
「そう」
「そうだ」
「だったら、君達が一緒にいる理由って、なんなの?」

 ゆっくりと、まるで伸びたカセットテープのようにわざと妙なイントネーションでそう尋ねて来る遊戯の顔には仄かな笑みが浮かび、その笑みは今までに見た事がないほど酷薄なものだった。そこには常に見せる幼さの欠片もない、超然とした雰囲気があり、奴が長い間いかにこの事について思い悩んでいたかを見せ付けられたようで、オレは一瞬言葉をなくした。
 

 同時に他人事なのにこんなにも必死になれるその強さを、羨ましいと思ったのだ。
 

「海馬くん」

 遊戯の顔が僅かに近づき、椅子の背にあった手がオレへと伸びる。一時でもこんな風に真っ直ぐにオレを見て、優しく真剣に見詰め合うことが出来れば、オレと城之内の関係も少しは変わるのかもしれない。けれど目の前にいるのは城之内ではなく遊戯であり、こいつに城之内と同じ感情を持てるかというと、そうではなかった。

 また溜息が出る。
 どうして、オレもあの男もこんな簡単な事がまともに出来ないのだろう。
 

「僕にそんな顔をしたって、どうにもならないんだよ」
 

 無意識に目線を落とし項垂れて、そんなオレの頬を一瞬包んだ遊戯の指先に思わず手を伸ばそうとして制される。君は僕まで君の遊びに巻き込むつもり?僕は親友の恋人に何かしようなんて無謀で浅はかな勇気は持っていないよ。……苦笑と共にそう吐き捨てられ、持ち上げた指先は大人しく机上へと戻した。違う、今のはそんなつもりはなかった。ただオレは純粋に。
 

 ……ああ、純粋さなど、とうに捨てたのだったか。

 オレがどう思おうと遊戯には『そう』見えたのだから仕方がない。
 

「……貴様とだったら、貴様が言う一般的な恋が出来たのかもしれないな」
 

 ふいにぽつりと、自分でも意外な言葉が零れ落ちた。そう、誰とでも真剣に向き合えるこの男だったら、もっとまともな関係を築く事が出来たかもしれない。勿論確信などないが、そんな希望は持てる気がした。けれど、希望はあくまで希望でしかない。現状の解決には露ほどの役にも立たない。

「違うよ。誰とだって普通の恋は出来るんだよ。君達がそれをしないだけでさ。ね、何も難しい事を言ってるんじゃないよ?ほんの少しだけでいいから、好きとか嫌いとか、我慢とか思いやりとか……そういう根本的な感情を相手に向けてみてって、言ってるんだ。退屈な時、寂しい時、抱き合いたい時、他の誰かに手を伸ばすんじゃなくって、恋人にそれを向けなくちゃ」

 そうじゃなければ意味がない。そうでしょ?

 遊戯の声が頭上から降り落ちてくる。確かな質量と意味を持ったその言葉は、確実にこの耳に届いているはずなのに、何故かよくは聞こえなかった。聞こえない、フリをした。
 

「僕も、君が彼のものじゃなくて、君の気持ちが僕に向いてくれるなら、抱き締める位はしてあげるんだけどね。……不毛だね。けれど僕はこのポジションも結構好きなんだよ?」
 

 だから。

 静かにオレから距離を取った遊戯は、肩で大きく息をつくといつもの笑顔に戻ってこう言った。
 

「僕の言う事、少しだけ考えてみて?城之内くんにも同じ様な事、何度も言ってるんだけどね。とりあえず『そういうメール』を恋人に送っちゃ駄目だって言っておくけど」
 

 でも全然効き目がないんだ。そうぼやきながらくるりと背を向けたその小さな後姿に、オレは違う男と寝た直後に城之内の元へいく以上の罪悪感を感じ、そんな自分の明らかに歪んでしまった感覚に嫌悪を覚えた。

 また、溜息が出る。
 それにくるりとこちらを振り向いた遊戯が「幸せが逃げていくよ」と言って小さく笑う。
 

 ── 幸せなんか、元から持ち合わせていないから大丈夫だ。
 

 そう、言おうとして……最後まで、言えなかった。