Immoral Kiss Act5(Side.海馬)

「今日はやめておこうか。流石にそんな顔をしている君を抱く事は出来ない」
「……え?」
「気づいていないのかい。酷い顔色だ。体温も少し高い。……熱でもあるんじゃないのか?」
「別に、そんな事は。体調も特に問題はないですし」
「君がそう思っていても身体はそうじゃない場合も多々あるよ。無理はしない方がいい。こちらの事は気にしなくてもいいよ、またの機会を作ってさえくれればね」
「ですが」
「こんな事をしているけれど、僕だって一応人を統べる人間さ。情だってある。それに人よりも少しお節介な所があってね」
「………………」
「この部屋は取ってあるからこのまま泊まって行ってもいいよ。それとも、家に帰ってゆっくり休むかい?最近忙しくて弟さんともろくに話をしていないと言うじゃないか。それじゃあダメだよ。幾ら仕事が出来ても基盤がしっかりしていないといつかは揺らいでしまう。そうだろう?」
「……そう、ですね」
「では今日は帰りなさい。また連絡する。今度は体調のいい時に、ゆっくりと、ね?」

 そういうと、スーツの上着すら乱さずにゆったりとした様相でソファーに座していた男は、僅かに肌蹴たオレのバスローブの襟を元に戻し、そう言って柔らかく笑った。そして後頭部に添えられた手は緩やかに首筋を辿り、決して強くない力でオレの顔を身体ごと引き寄せると至極優しい口づけを一つ落とす。

 その動きで少し前にシャワーを浴びたせいで僅かに濡れた前髪がさらりと落ちて、男の額を軽く掠めた。その髪を指先でかき上げて、「ほら、やっぱり熱があるみたいだ」と彼は囁く。そしてゆっくりとオレの身体を押し戻した。

 それに静かに溜息を吐き、言われるままに着替えをするべく隣室に向かう途中、くらりと一瞬の立ち眩みがオレを襲った。咄嗟に近くにあった壁に手を付き、転倒だけは免れる。その瞬間頭の片隅に鈍い痛みが走る。その時点でやっと、オレは自分が体調を崩している事を自覚した。そう言われてみれば、今日は朝から何処となく気分が優れなかった。そんなものはいつもの事だったので特に気にもしなかったが、思えばあれは前兆だったのだろう。

 そんなオレ自身さえ気づかなかった体調の変化を顔を見ただけでわかったあの男。KCの株主の一人で、取引先の御曹司でもあるその男は以前何かのパーティで知り合って以来、数か月に一度会うか会わないかの関係を続けている。即利益に繋がる人間ではないが、それでも多少の恩恵にあずかれる事と、奴自身の性格の良さが不快ではないので、特に切ろうとも思わなかった。

 何故ならオレの決して少なくはない枕営業相手の中で、この男が一番まともだったから。まともと言うより、馬鹿がつくほど真面目なのだ。今日も本来ならオレの体調など気にせずに契約通りこのホテルで一晩セックスをし続ければいいだけの事だったのに。数か月ぶりの約束をもあっさりと無効にし、帰りなさいと肩を叩く。

 それはまるで親が子供に言い聞かせるような仕草だったが、オレは何故か反発を感じなかった。

「その体調の事もそうだけど、少し痩せたようだね。何か悩み事でもあるのかい?会社の事では無くて、何か個人的な……とかね」
「……悩み事?いえ、別に」
「よく考えてみれば君はまだ学生だ。悩む事も苦しむ事もあるだろう。君みたいな生活をしていれば、特にね」
「………………」
「僕がこんな事を言っても説得力の欠片もないけれど、何か辛い事があるのなら一人で抱え込まずに誰かに話した方がいい。勿論僕でも構わない。悩みや苦しみは深ければ深いほど確実に身体に悪影響を及ぼすからね。頭のいい君の事だから、こんな事言われるまでもないと思うかも知れないけれど」
「……はい」
「次に会う時は、もっと生き生きとした君の顔を見られる事を期待するよ。ほら、君の好きなM&Wだっけ?アレをしている時のような。デュエルディスクを付けて闘っている君は年相応でとても好きだ」

 別れ際、そう言って再び笑った男の顔を無理矢理作った笑みで見返した後、オレは部屋を後にした。未だホテルの中で室温は温かく保たれている筈なのに酷く寒い。大きく吐き出す息が白くくゆる気さえする。

 気分的にはそれほど悪くはなかったが、足取りは何とはなしに重かった。促されて彼の元を離れては来たものの、素直に自宅に帰る気にはなれなかった。

 彼の言う通り、最近モクバとは全く話をしていない。話しどころか顔すら合わせた記憶がない。それはオレが仕事が忙しい所為で会う機会が無いという事では決してなく、モクバの方が意図的にオレを避け続けているからだ。その理由は至って単純で、モクバはオレの生活が気に食わないのだ。

 最後に言葉を交わした時、彼はオレのしている事全てを否定し、「最悪だよ兄サマ」と吐き捨てた。そして鋭くオレを睨みあげながらまるで悲鳴のような声を上げてこう言ったのだ。

『兄サマのしている事は全部おかしい。間違ってる。兄サマが今の自分の事を改めない限り、オレは絶対口をきかないから!』

 そして、荒々しく閉ざされた扉がオレ達の間を阻んだ。それきり、本当に口を利いていない。オレは生活を改める事はしなかったし、モクバもそんなオレの事を許容する事が出来ないでいた。永遠の堂々巡り。どちらかが考えを変えない限りはずっとこのままなのだろう。

 それは確かに少し悲しい事ではあったが、だからと言ってこの生活を変える事も出来ずにいた。出来ない、というよりもしようと思う気力がなかった。何も問題がないのだから変える必要もない。日々そう思い続けて過ごしていた。今日もまた、同じ事を繰り返し思う。それが、どこか変だと思いつつも、変わらずに。

「…………っ」

 上階から降りていくエレベーターの中で、不意にオレは強烈な吐き気を感じた。いつの間にか頭痛は酷くなり背に冷たい汗が滲む。いよいよ本格的に具合が悪くなってきたのか。そう頭の片隅で思いつつ、それと共に「だからどうした」とも呟いた。体調を崩したからなんだというのだ。何も死ぬわけではあるまいし、どうって事ない。問題ない。

 徐々にこみ上げてくる不快な感覚を必死に堪え、オレは何とかいつの間にか開いていたエレベーターーから外に出る。時刻はもう深夜に近い夜中だったから、周囲には誰もいなかった。煌々ときらめく明るいライトの光だけがやけに眩しい。

 さて、これからどうしようか。こんなに具合も悪いのだから大人しく家に帰って寝るべきか、それとも予定通り与えられたこの時間をこのまま外で過ごすかを考え始めたその時だった。トン、と肩を小突く衝撃と共に、酷くぶっきらぼうな声が頭上から降ってくる。

「あれ、海馬じゃん。こんなとこで何やってんの?」

 いつの間にかオレはエレベーター前の柱を背に少し身を屈めていたらしく、その声の主……城之内はまっすぐに背筋を伸ばし、少し上からオレを見下ろしていた。どうやら奴も今日はバイトだったらしい。お馴染みの、ここの地下のビアホール。

「お前またここで枕営業かよ。こんな時間にお帰りとか珍しくねぇ?泊まんねぇの?」
「……凡骨か。貴様こそ、今日は遅番か」
「ああうん。ほんとは早番だったんだけど、一人休んじまってさ。こんな時間まで働かされたってわけ。……つか、オレの質問に答えろよ。今から帰り?」
「……ああ。その、つもりだ」
「んじゃ一緒に帰らねぇ?今日は誰も捕まらなくて暇だったんだ。いいだろ?付き合えよ」
「………………」
「バイク乗って来たから後ろに乗っけてやるからさ。……な?」

 そういうと、奴はもうオレの了承を得る事もなく、オレの顔すら見ないでさっさと腕を掴んで歩きだす。この数秒間嫌というほどこの顔を見つめていた筈なのに、奴は先程の彼のようにオレの顔色の事も体調の事も一切気づく事無く、身勝手極まりない仕草で先を行く。オレの歩みが遅いのが気に入らないのか、ぐいぐいと腕を引く手に力を込めてやや速足で足を進めた。

 そんな奴の背中を見つめながら、オレも特に何も言う気にはなれなかった。きっとこいつは裸で抱き合ったとしても、オレが吐くか倒れるかしない限り決してオレの体調の悪さなどには気付かないのだろう。

 否、もしかしたら気付いていても気付かないふりをしているのかもしれない。どうでもいい、と無視をしているのかもしれない。気遣うのが、優しくするのが、面倒だから。

 そしてオレも、そんな事を決して望んでいるわけではないのを知っているから。
 

「オレ、今日ちょっとバイト先でヤな事あってむしゃくしゃしてんだ。酷い事したらごめんな」
 

 そう言いつつも手を離さないこいつは最悪な男だ。そして、その手を振りほどこうとしないオレも、同じように最悪な男だ。

 最悪な男同士、素っ気なく身体を繋ぎ合うのも悪くはない。例えそれが、どんなに虚しく下らない事であったとしても。
 

『何か辛い事があるのなら一人で抱え込まずに誰かに話した方がいい』
 

 あの男の声がどこか遠い場所から聞こえてくる。誰かに話す……確かに今のこの状況はオレにとっては辛い事なのかもしれない。けれど、誰かに話した所で返ってくるのは「じゃあやめればいい」の一言だけ。そんな毒にも薬にもならならい一言など欲しくはない。無意味なだけだ。

「しっかり捕まってろよ。落ちたって助けてやれねぇからな」

 ああ、そうだな。貴様にオレを救う気などある筈がない。恋人なのに、他人よりも遠い気持ち。冷たい言葉。それでも……オレはその身体にしがみつくのだ。振り落とされないように、繋がっている為に。……力の限り。

 バイクのエンジン音が一際大きく辺りに響く。その振動だけで、酷い吐き気がした。
 

 けれどオレは、何も言わずにただ……冷たいその背中に頬を押しつけて口を閉ざした。