Immoral Kiss Act6(Side.城之内)

 本当は最初から気付いていた。死にそうな顔をしていた事なんて。
 けれど、気付かない振りをした。

 何故?……そう言われても分からない。オレの事をオレが一番分からない。分かろうとする努力はとっくの昔に放棄しているから。そんな事をしなくても今日まで普通に生きてこられた。明日からも生きて……いける。それがどんなにオレ自身やあいつや周囲を傷つける事になったとしても、変わろうとは思わなかった。自暴自棄な気持ちはそのままオレの言葉や態度に現れたけれど、それでも海馬はオレの手を離そうとしなかった。
 

 ── オレも、この手を離すつもりはなかった。
「馬鹿だな。具合が悪かったのならそう言えばいいじゃねぇか。なんで朝まで付きあってんの?マジ考えられねぇ」
 

 酷く青い顔でバスルームから返ってきた海馬の顔を見るなり、オレは自分でも嫌になる程刺々しい声でそう吐き捨てた。外は既に明るく、どんよりと曇った空に場違いな程甲高い鳥の声が煩く響く。厚い遮光カーテンを引いて、その様をなんとはなしに見ていたオレは、背後でドサリとベッドの中に倒れ込んだ海馬の気持ち悪い程細い身体を見ていた。

 申し訳程度に羽織ったバスローブの白と殆ど大差ない白。見るからに不健康そうなその色を余計に悪くしたのはオレ自身だという自覚があっても、罪悪感は微塵も湧いてこなかった。……その事に、むしろ悪いという気持ちになった。オレはどこかおかしいんだ。最近は、漸くそう思えるようになってきた。けれど、だからと言って何を変える訳でもない。

 昨夜、海馬をいつものホテルで偶然捕まえて、オレはそのまま奴を連れてこの安いビジネスホテルへとやって来た。昨日は家にはオヤジがいたし、海馬の家に行こうと言ったら海馬が嫌だと言うから仕方なくその時偶然目に入ったここに転がり込んだ訳。

 まぁ別に何処にいたってやる事は一つだから場所に拘りはないんだけど、流石にビジネスホテルはまずかったかな、と全部終わってからふと思った。何故ならここは安いだけあって、隣の部屋のシャワーの音まで良く聞こえてしまったからだ。……けれど、オレは自分が思うほど大げさに気にしてなんかいなかった。そんなものを気にするような繊細さなんてとっくの昔になくしてしまったから。多分海馬もそうだと思う。

 オレ達は、どこか正常な感覚を失っている。それは人に指摘されるまでもなく、良く分かってる。

 こんな風に、体面を気にする事無く盛る事も、誰彼構わず名前や顔すら覚えられない相手と寝る事も、互いに一番どうでもいいと豪語し、ぞんざいに扱っている対象を恋人と呼ぶ事も。普通の人間から見ればかなり異常な事なんだろう。そして、それを異常と思わない事がオレ達の最もおかしい部分なんだろう。
 

『お兄ちゃん、目を覚まして。自分のやっている事、良く考えてみて』
 

 最後に静香に会ったのはもう何か月前の事だろう。その日はたまたま日曜なのにバイトが休みで、静香も時間があると言うから、バイクに乗ってわざわざ遠く離れたあいつの町まで会いに行ったんだ。そこで、顔を合わせるなり言われた言葉が、そんな下らない事だった。

 こいついつの間にこんなに生意気な口をきくようになったんだろう。そう思った瞬間、オレは自分でも分からない苛立ちを感じて、思わず声を荒げてしまった。けれど静香はそんなオレを恐れも嫌悪もしないで、ただじっと見つめていた。そして、両手でいつの間にかきつく握りしめていたオレの右手を包み込んで「お願い」と言ったんだ。確かもっと長い台詞だったような気がするけれど良く思い出せない。

 オレは、その言葉の意味が分からなかった。静香はオレに何に対しての『お願い』をしたんだろう。

 それきり、静香とは一切顔を合せていない。簡単な一言メールすらしなくなった。いつもはオレが音信不通になっても、静香の方からマメに「元気?」とか「会いたい」とか言ってきた癖に、それすらも途切れちまった。……と、言う事は、オレは静香に見捨てられちまったんだ。オレが元気じゃなくても気にしないし、会いたいとも思わなくなった。そういう事だ。……そりゃそうだよな。こんな兄貴、いない方がマシだもんな。

 そう思った途端、またどうでも良くなった。誰に見捨てられようがどうでもいい。どんなに無茶をしたって付きあってくれるダチはいるし、ヤりたくなったら幾らでも女はいるし、そして……

 オレの前から誰がいなくなっても、きっと海馬だけは相変わらずの態度でいてくれるんだと、そう思ったから。
「……駄目だ、離せ…気持ち、悪い……っ」

 そう言って、海馬が口元を押さえてベッドから降りたのは、既に何回目かの射精を終えた後だった。

 ベッドに入った時点でどこか不機嫌そうな、余り冴えない表情をしていたから少し変だと思ったけれど、それも何時もの態度と似たようなものだったから、そこには突っ込まずにさっさと始めちまったんだけど、まだ入れもしない内から酷く辛そうな顔をしていた奴は、時間が経つ程に苦し気になり、最後には死にそうな声でオレにそう訴えた。

 そして、バスルームへと駆け込んで暫く出て来なかった。多分吐いたりしてたんだと思う。様子を見に行かなかったから、よく分からなかったけれど。

 数分後、そこから漸く戻って来た奴にかけた言葉がさっきの一言で、そんな愛情の欠片もない台詞にも海馬は何も反応せず、そのまま黙って横になって動かなくなった。本当に微動だにしないから、死んだのかと思って口元に手を当ててみると、ちゃんと普通に息をしていた。けれど、もう既に意識はなかった。眠ったのか、気絶したのか、そのどちらにしても原因の大半はオレにある。

 でも、この後に及んでオレの頭を掠めたのは「馬鹿じゃねぇの」の一言だった。

 自分の言葉通り、具合が悪いのならする前に一言そう言えば良かったんだ。……まぁ、言われた所で止める、という保証はないんだけれど、それでも一応考慮する事位は出来たと思う。それなのに海馬は何も言わなかった。見るからに辛そうな顔をしても尚、オレの手を拒もうとはしなかった。それが、オレには不思議でたまらなかった。

 ……いや、違う。本当はオレは知ってたんだ。海馬はオレに何も言わない事を。オレに言っても無駄だとあいつが思っている事を。そして、言った所でオレの態度が変わるわけがない事まで、多分全部分かってたんだ。だから限界まで黙っていた。言う事すら、諦めていたんだ。あの馬鹿は。

 ああそうだな。確かに、言われた所でやっぱりオレもセックスを止める、なんて事はしない。例え海馬が目の前で血を吐いて倒れたとしても、その体を抱き抱えてまでヤるかも知れない。最悪だ。想像だけで吐き気がする。けれど、それが想像だけで留まらない事をオレはよく分かっている。

「……なんでだろうな」

 ぽつりと、少し開いたままだった口から小さな言葉が零れ落ちる。目の前で緩やかに上下するその身体を見下ろして、寒そうに身を縮めている様をただ眺めながらオレは長い長い溜息を吐いた。本来なら具合の悪そうなその様子を心配して、無理しないで寝てろよ、と優しく言い、自分がどんなに辛くても我慢してその身体を抱き締めて眠る位はしてもいいはずだ。

 だってこいつは他人じゃなくて恋人で、一番失いたくないと思っている相手だから。その気持ちにだけは嘘はない。オレは海馬を好きだと思っているし、海馬と別れるなんて考えた事が無い。考えられない。

 だったら、どうして、ほんの少しでも優しく出来ないんだろう。大事に出来ないんだろう。意味が分からない。
 

『お願い……さんを、大事にしてあげて』
 

 あの日に聞いた静香の切実な一言が、不意に心の奥底から聞こえてきた。既に欠落していた部分と共に。

 あの台詞の中に含まれていたはっきりと思い出せない名前は、きっと眼の前で眠るこいつの事だったんだろう。静香はオレと海馬の事を知っている。知っているからこそ、オレの態度を強く非難して来た。自分のやっている事を良く考えろと、あいつにしてはキツイ口調で長いメールを送って来たんだ。思い出した。

 思い出した、けれど。だからと言って、どうすればいいんだろう?

 オレはゆっくりと首を振り、突然思い出したその記憶を振りはらう様に目を閉じると、もう一度大きな溜息を一つ吐いた。そして、余り気が進まなかったけれど、海馬の身体をベッド中央まで移動させて、厚いブランケットを数枚かけてやる。ついでに熱がないか確認し、掌に触れた熱い体温を確認するとフロントに薬を貰えるように連絡するために受話器を取った。それが、オレの最大限の優しさだった。

 これでいいんだろ。

 手短に電話を済ませ、受話器から手を離した瞬間、オレは誰に言うともなくそう呟いた。
 

 その声に対する答えは……勿論返っては来なかった。