Immoral Kiss Act7(Side.海馬)

『お前ってさ、飼い馴らされた挙句捨てられた野良猫みてぇ。オレ昔っから捨て猫とか捨て犬って放って置けなくてよ。よく公園の隅で餌やったりしてたんだぜ?でも、そういう猫って環境が環境だったからこっちにも何も期待してねぇって感じで、餌は食うけど全然懐かなくって。大抵傷だらけで、今にも死にそうだったりするんだけど、手出しできねぇし……で、最後には絶対居なくなるんだ。猫って自分が死ぬ時は身を隠すっていうけど、そうじゃなかったらいいなぁっていつも思う』
 

『……お前は猫じゃなくて人間だからそういう事はないと思うけど。懐かなくてもいいから黙っていなくなったりすんなよ。ムカつくから』
 

 ザァザァと煩い雨音が部屋に木霊する中で、オレは高熱が出て気だるい身体をもてあましながらただ何となく横になっていた。眠ろうと思ったが、既に何時間も眠っていた所為で頭が冴えてしまって眠れない。何かしようにも、起き上がる事さえ億劫なこの状況ではなす術も無く、オレはただこうして時間を無為に費やす事しか出来なかった。

 近くにある一人がけの小さなソファー椅子の上に放置されているジャケットからくぐもった携帯の着信音が鳴り響いているが、取る気にもなれなかった。今、何時なのだろう。少し頭を動かせば見える筈のデジタル時計を見る気力さえない。

 先程まで……いや、今の時間が分からないからその表現が正しいのかどうかは分からないが……珍しく傍にいて、奴にしては多少親切な態度で傍にいた城之内はもういない。今日は平日で奴が顔を出さないと進級が危うくなる授業がある日だったから、多分学校へ行ったのだろう。行け、と促したのはオレだったが。

 昨夜、城之内に連れられて入った安いビジネスホテル。その一室にオレはまだ身を置いていた。正確には、そこから動く事が出来ずにいた。枕営業の相手から指摘された体調不良は、その実オレが思うよりもずっと状態は深刻で、それでも気にせず城之内に付き合った結果、見事悪化してしまったらしい。

 風邪なんて、セックスでもして汗を大量にかけば勝手に治る。そんな馬鹿げた事を言う奴は沢山いるが(大方口実として口にしているだけなのだろうが)、それは間違いだと声を大にして言える。当たり前の話だったが。そもそもこれが風邪なのかどうかも分からない。

 最近はずっと、健康体とはどのようなものだったか……と必死に思い出さなければ分からないような状態が続いていたから、今更熱が出ようが吐き気がしようがどうでも良かった。まさか動けなくなるとは思わなかったが。

 そんなオレを心底呆れた眼差しで一瞥した城之内は、苦々しい口調で「お前、馬鹿じゃねぇの」と一言吐き捨て、普段なら決してしない「面倒な事」を一通りしてくれたらしい。

 気がつくとベッドの隅に投げ出したままだった身体はきちんと中央に収められ、在るだけのブランケットをかけられた状態で、額には一応冷たく濡らされたタオルが置かれ、傍のサイドボードには開封した跡がある薬の箱とプラスチック包装の残骸、底に少しだけ水が残った硝子コップがあった。……薬を飲んだ記憶などオレにはなかったが。

 その事にオレが少し驚いて身動ぎすると、未だ部屋に居たらしい奴が立ち上がり緩慢な動作で傍までやって来て「気分はどうよ」と、と訊ねてきた。素直に最悪だ、と答えたら「だろうね」と苦笑しつつ肩を竦めた。あくまでそれは苦笑だったが、奴の笑みを見るのも久しぶりだった。

「……何故、貴様がここにいる」
「なんだそりゃ可愛くねえ。それがわざわざ居残って看病してくれてる相手に言う言葉か」
「誰も頼んでなどいない。さっさと消えろ」
「気分悪いんだろ。しゃべんな」
「おい」
「うるせぇ」

 病人は黙って寝てろ。ウザイ。

 そう一言吐き捨てて、それきり城之内は黙り込んだ。いつの間にかその身体はベッドの端に収まり、どこか神妙な顔付きで空を睨む。……言葉は常と同じ乱雑で素っ気無いものだったが、そんな動作も表情も見るのは初めてだった。大体奴がセックス以外の目的で傍にいる事自体が余り無いからだ。

 いつもは用が終ればさっさと部屋を出て行くし、ヤりたくなったらこちらがどんな状況であれ押しかけてきて居座った。そこにはオレの意思など関係ない。そういう奴だと思っていた。そしてオレもそれに対して特に思う事はなかった。むしろ、面倒が無くていいとさえ思っていた。……例えそれが虚勢であったとしても確かにそれで良かった筈なのだ。なのに、何故。

「……幾ら居座ろうが今日はもう出来ないぞ。限界だ」
「しねぇよ。ヤッてる最中にゲロられたら萎えるし。オレ、胃液嫌いなんだ」
「好きな奴などいるか。馬鹿が」
「お前、こういう時位少し黙っていられねぇの?うるせぇっつってんだよ」
「だから出て行けと言っている。学校にでも行って来い。このままだと留年だぞ。貴様にそんな金があるのか」
「言われなくても行くぜ。でも、時間まで居たっていいだろ。外すげぇ雨だし」
「………………」

 ギシ、と安いベッドが軋む音がして、城之内が座っていたその場所に仰向けに寝転んだ。その身体の一部がオレの足の上に乗る形になり少し重かったが、それを訴える気力もないので気にしない事にした。

 それきり、部屋は静かになる。一人きりの静寂とは違い、二人きりの沈黙は酷く居心地が悪い。それを破ろうにも煩いと言われてしまった手前こちらから声を出すのも憚られて、結果二人で黙り込んだ。雨音だけが、耳に煩く聞こえて来る。
 

 そんな、長い長い沈黙を経た後だった。城之内が、冒頭の台詞を口にしたのは。
「……なんの話だ?」
「別に。特に深い意味はねぇけどよ」
「貴様が猫に情をかけるだと?……どうせ気まぐれに相手をして、気が済んだらそこにそいつが居た事さえ忘れていたのだろうが。猫だとて馬鹿ではない。そんな奴になど誰が懐くか。貴様は見限られたんだ」

 誰が捨て猫で何がムカつくだ。多分、そう言いたいのはきっと猫の方だ。同情だけで目に留め、飼う気もないのに餌付けをし、他に興味が出来ると放って置く。貴様がしているのはそういう事だ。それで、己の前から消えるとムカつくだと?一体何様のつもりなんだ貴様は。いい加減にしろ。

 奴はあくまで猫の話をしているのに、オレは心の中で酷く憤慨し、そう声に出さずに吐き捨てた。そして口にした台詞にその感情全てを込めて投げつけた。何故こんなに腹立たしいのかは分かっている。オレもその例えに一理あると思ってしまったからだ。

 飼い馴らされた挙句捨てられた生き物……捨てられたのではなくオレが葬り去ったのだが、確かにその状況は自分に似ている。否、そのものだ。

 人としての正常な感覚がどこか鈍ってしまったのも、貞操観念など芽生える間もなく性行為を強要され、誰彼構わず寝るようになったのも、全てはオレを引き取ったあの男の教育の賜物だった。首輪を嵌められ、時には部屋に軟禁され、仕置きの方法は普通ではお目にかかれない鞭だった。その様相は「飼い馴らす」という言葉に相応しい。実際は馴らすなどという生易しいものではなかったが、傍から見れば同じ事だろう。

 その事実をオレに興味など無い城之内が知るべくも無いが、知らずにその言葉が出たのだとしたらきっと奴にはオレが「そう見えた」のだ。今まで他人に気取られた事等無かった故に、オレは密かに驚愕した。そして、酷く惨めな気分になった。

 奴の例え話になぞらえれば、オレはその内奴が気まぐれに手を差し伸べた数多の捨て猫と同じ様に、その前から姿を消す事になるのだろうか。それとも奴が先に興味を失って姿を消すのだろうか。

 「いつも」のようにあっさりと。最初から何事もなかったかの様に。

 ゆっくりと、軋む身体を反転させる。同時に歪む視界に眉を寄せた。気持ちが悪い、吐きそうだ。しかしもう、吐ける物すら残っていない。
 

(分かっていたじゃないか、そんな事)
 

 そう。何時切れてもおかしくないという事など、一番初めに奴の言葉に耳を傾け、形だけの恋人関係になった時に、既に分かっていた事だった。
 

『好きだ、愛してる、恋人になろう。だけどオレは自分のスタイルを変えるつもりはないし、お前も変えなくていい。このままでいいから恋人って関係になりたい。そういうのに憧れてるんだ、オレ。お前なら、できるだろ?』

『他の誰にも出来ない事だけど、お前なら出来る気がした。だから、好きになったんだ』
 

 そんな訳の分からない理屈を振りかざし「じゃ、そういう事で」という至極あっさりした一言から始まった恋人関係。なんだそれはと思ったが、オレも他人の事が言えるような人間ではなく、今更まともな恋愛などするつもりも出来る自信もなかったから、こいつの様な男が丁度似合いだろうと思ったのだ。

 それ以上でもそれ以下でもない。利害関係の一致における恋愛関係。そのバランスが崩れたら、どちらかが相手の存在にメリットを感じなくなったらそれで終わりだ。分かっている。
 

 分かっている、のに。

 どうして……今更それが苦しいなどと思うのだろうか。
 

 不意に体制を変えた所為で視界に入った時計を確認する。17時30分……いつの間にか夕方だった。それに大きな溜息を吐きつつ、本日のスケジュールを頭の中で確認する。

 幸いな事に今日は特に重要な会議も面談も、オレの決裁を要する事柄も無かった。連絡もせずにいる所為で少し騒ぎになっているのかもしれないが、ままある事なので周囲も余り気にしないだろう。等間隔で鳴る着信音はその所為だ。まぁいい。その辺はモクバが適当に処理をしてくれる。オレは後で悪かったと一言口にすればいいだけだ。

 そんな事を思いつつ、体内にこもった熱を吐き出しながらオレはもう少しだけ休もうと目を閉じる。これからの事を思うと酷くうんざりしたが、それももう慣れたものだった。なにもかもどうでもいい。諦めれば楽になれる。仕事の事も、私生活の事も全て。

 そう一人ごち、今度こそ本格的に眠りに付こうとあれこれと考えを巡らせる事を放棄したその時だった。

 不意に鍵が掛かっている筈の扉の向こうで物音がして、ガチャリとロックが外れる音がする。従業員か?まさか無断で客の部屋に入るような真似はしないだろうし……などと動かない身体を忌々しく思いながらオレは視線だけでその方向を見遣った。

 するとそこには全く想像もしなかった男が、今朝と同じ様相で居心地悪そうに佇んでいたのだ。

「……城之内」
「お前まだここで死んでたのかよ。もう夕方だぜ」
「貴様、何をしに……」
「何って」

 驚きの余りその声は少々咎める様な響きを連れていたのかもしれない。けれど奴は常に見せる無表情のままゆっくりとオレの傍に歩んで来た。そして、右手に持っていたらしい白いビニール袋を掲げてみせると、少しだけ穏かな声でこう言った。
 

「今にも死にそうな捨て猫に餌をやりに」
 

 気まぐれっつーか、今日は遊戯に言われて来たんだけど。あいつ優しいよな。オレとは大違い。

 そんな事を言いながら城之内は無造作に傍にあった椅子を引き寄せてどかりと座ると、自ら持参したその袋の中身……多分薬や飲食物の類を幾分丁寧に取り出しながらやっぱり小さく苦笑した。それはオレに向けたものなのか、それともらしくない自分の行動に対してだったのかは分からないが、何故か今までのものとは違って見えた。……それは全て、下らない事を考えていた故の錯覚なのかもしれないが。

「とりあえず、いつまでもここでくたばってたってどうにもなんねぇだろ。家に帰ろうぜ。送ってやるから」

 冷たい指先が、熱で火照った頬に触れる。ほんの僅かに濡れているそれは雨の所為だと奴は言った。けれど、オレの耳にもう雨の音は聞こえない。

「外すげぇ寒いからさ、覚悟しとけよ」

 手も足も、凍るみたいだ。そう言って、城之内は何故かそのままオレの身体に手を回し、腕に力を込めて抱き締めてきた。何の真似だと聞いてみても、答えは無い。鼻先に押し当てられた冷たく硬い肩の感触。無遠慮に背を抱く指先。そのどれもが性的な匂いが一切しない、ごく普通のもので、オレは酷く戸惑った。意味が分からない。奴が何をしたいのかも、全く。

「海馬」

 次いで耳に届いた聞き慣れた低い声に、オレの戸惑いはますます深くなった。その声が、今自身を抱き締めているその身体が、ほんの僅かに震えていたから。それは奴が口にした通り、至極寒いだろう外の気温の所為なのか、それともそれ以外に要因があるのかは分からなかったが、確かに小刻みに震えていたのだ。

 どうした。何があった?

 そう単刀直入に聞くのも憚られて、オレは暫し言葉を失った。そして。

 仕方がないので、こちらも同じ様に意味も無くその身体を抱き締めてやった。
 

 冷たい雨の匂いがする、気紛れなその身体を。