Act2 修復不可能(Side.海馬)

「オレ、絶対謝まんねーから。悪いのはお前だから」

 そう言う割りに奴は親切にもオレを私室のベッドまで運び上げ、あれこれと世話を焼きつつ出勤時間の今になるまで側にいたらしい。窓の外が明るくなり、細雪がちらちらと舞うのを鬱陶しげに眺めた後「今日も雪かよー外遊びとか寒いんだぜ」と言って、おざなりにコートを羽織った。

 最後の手袋を嵌める前の、暖かな手の平で寝台に沈み込むオレの背を抱き、髪をかき上げて額に触れるだけのキスをしてくる。それが鬱陶しくて手で払うと、僅かに苛立った声と共に殆ど強引に唇を塞がれた。

 呼吸をする暇など与えず、思うがままに口内を蹂躙する舌の動きに翻弄され、口の端からどちらのものとも付かない唾液がだらしなく垂れ落ちても、その行為は止まらなかった。苦しくて、握りこんで拳を作った手で覆い被さる背を叩いても余り意味がない。

 結局、酸欠寸前まで追い詰められて唐突に放り出される。柔らかなスプリングに身体が弾み、呼吸が整わず肩で喘ぐオレを冷ややかに見下して、城之内はざまぁみろ、と吐き捨てた。

「いい機会だから一日ゆっくり休めば?起き上がれねぇだろ」
「………………」
「今度は帰ってきたらちゃんとオレに連絡しろ。嘘は許さねぇからな」
「………………」
「返事は?」
「……煩い、早く行け」
「今日も来るから」
「いい」
「いいじゃねぇよ。オレが来るって言ってんの。お前の意思なんて聞いてねぇよ。ついでだから磯野にお前が体調不良だから休ませろって言っといてやる」
「……っ余計な事をするな!」
「余計な事じゃないだろ、当然の事だ。いいから寝とけ」

 じゃ、オレはもう行くから。

 そう言って、城之内はオレに背を向けて寝室の扉へと歩いていく。その間一度も振り返りはしなかったが、足取りは重かった。一応気にしているのだろう。気にする位なら最初からしなければいい。大体ここへ来なければよかったのだ。なのにこの男はいつもしてしまってから後悔する。
 

 どんなに後悔した所で、なかった事になど……出来ないのに。
 

 扉が閉まる音を聞いて、オレは胸の辺りで留まっていた上かけを引き寄せて頭まで被り、投げ出したままだった身体を軽く丸めて横になった。途端に身体のあちこちが軋んで悲鳴をあげる。

 硬い床に引き倒された所為で強かに打ちつけた肩や腰や後頭部の一部が特に酷い。容赦もなしに強引に探られ突き入れられた足の奥は未だ引き攣れる様な痛みを伴いながら濡れていた。

 指で触れると、触れた場所が赤く汚れた。血が、滲んでいたのだ。
 

 

 昨夜、送ったメールの何が気に障ったのかただ怒鳴りつけただけの電話を寄越した、その数十分後。言葉通り家へと姿を表した城之内は鬼気迫る顔でデスクに座っていたオレをやはり鋭く怒鳴りつけ、その勢いのまま椅子ごと床に引き倒し、有無を言わせずその場で犯した。

 何、とも何故、とも言えも聞けもしない状態で、ただ怒りの衝動のままでオレの上に圧し掛かってきた男は、つい数時間前まで子供に笑みを振り撒き、迎えに来る親に愛想よく返事を返す保育士だという。世の中間違っている。こんな男が、子供に何を教えられるというのか。全く馬鹿馬鹿しい。

 全てが終わった後、ぴくりとも動かないオレを見下ろして、奴は漸く口を開いた。いつ帰って来た。どうしてすぐに連絡をして来なかった、今日会えないってなんだよ、お前一人じゃねぇか。ふざけんな。まるで機関銃の様に降り注ぐ言葉を受け止めきれず、その場で意識を手放した。そうした方が楽だったからだ。

 次に目を覚ました時、場所はいつもの寝台だった。着ていたはずの服は取り去られ、体中綺麗に拭き清められていた所為か、不快感は特に感じなかった。ただ、オレをじっと見つめる探るような視線の鋭さ、何気ない言葉の中に混ざる小さな棘が、酷く不快だった。

 聞きたくない、側にいて欲しくない。だから、昨日会えないといった、それなのに。
 

 

『お前、最近変だぞ。何かあったのか?』
 

 何かあったのは、オレじゃない。貴様の方だろう。

 ……そう言いたかったが、それを言い出すのすら億劫で。オレはやはり口を噤んだ。聞こえるようにわざと大きく舌打ちされても、顔を背けた。

 何時からだろう。この男にこんな感情を抱くようになったのは。

 一年前までは決して仲がいいとまではいえなかったが、それなりに上手くやっていたと思っていた。オレもあの男も人とは少し違う境遇で育ち、考え方も性格も何もかも違うから衝突は当たり前で、それを憂う位なら最初から付き合う等と言う愚かな真似はしなかった。

 だから、原因はそんな根本的な事じゃない。もっと新しい、小さな何か。

 ……本当は、オレにはその原因が分かっていた。そしてその原因を分かっているのがオレだけというのも気づいていた。城之内にそれを告げても首を傾げるばかりでお前何言ってんだ、馬鹿じゃねぇのと笑い飛ばされるのが関の山だ。その様子は考えなくても手に取るように想像できる。

 だったら、見てみない振りをして、今まで通りの関係を続けていけばいいだけの話だ。悩む事など何もない。

 けれど、オレにはそれが出来ないのだ。

 気づいてしまったら最後、それが何らかの形ではっきりと解消されない限り永遠に気にし続ける事になる。オレは曖昧な事は嫌いだ。けれど、それを明確にしてしまったら、訪れるのは紛れもなく決別だ。どうあがいた所で終わりにしかならない。

 ゲームオーバーは見えている。否、今既にそのルートに向かって歩き始めたのだ。奴はどうあれ、オレはそれを見据えている。後一歩踏み出せば、後戻りは出来なくなる。

 こうなる前に、本当は止めておくべきだったのだ。

 けれど、人の人生を己の一存で捻じ曲げる事などできはしない。
 

『ガキってさーすっげぇ可愛いよな。馬鹿でおっちょこちょいで生意気でもさ、凄く可愛い。ああいうのみてっと、オレも子供欲しいなーって思ったりするよ。男でも女でもさ、有能なデュエリストにしたいとかさ、夢みちゃったりして』
 

 ふとした会話の中に何気なく紛れ込む、オレにとっては痛みを感じる単語の数々。城之内が大学に進学した瞬間から、少しずつ何かが変わっていったのだ。そしてそれは今年の春に確かなものとなってオレの目の前に姿を現した。

 当人にそのつもりがなくても、はっきりと見える。
 城之内がよく口にするようになった『子供』という単語。

 それは大抵のものを与える事ができるオレが、唯一与えられないものだった。
 

 それに気づいた瞬間から、既に修復など出来なくなったのだ。この関係は。