Act3 「気付いてたよ」(Side.モクバ)

「社長、ここの企画書の件ですが……社長?」

 オレが部屋に入り、即座にそう呼びかけても、その相手……社長である兄、瀬人は、僅かに顔をあげる気配もなかった。右手に握り締めた多分中身を見てもいない書類に目線を落とし、空いた手で最近使い始めた眼鏡の端を押さえるそのポーズは近頃よく目にするようになった、彼が何かに思い悩んでいる時にする仕草だった。

 そしてその思考の大半を占めるのは大抵城之内克也の事。

 大分前から二人が付き合っている事を知っていて容認し、傍観する立場だったオレは、時が経つに連れて徐々に笑みを失っていく兄のその顔を見つめながら、日々心に陰りを落としていた。

 今年に入ってからはそれは特に酷くなり、表立って荒れたり沈んだりはしていないものの言動全てに覇気が無く、黙り込む事が多くなったその様子を見れば状況など一目瞭然で、それを隠す事すら思いつかない彼は、周囲に余計な心配を撒き散らし、KC社内では社長がどこかおかしいという噂が末端の部下の口の端にまでのぼっている。

 その事実を彼は知らない。耳には入っているのかも知れないが、認識をするまで至らないのかもしれない。

 オレはゆっくりと兄の傍に近づいていく。わざと大きな足音を立てて、大股で。けれど、やはり彼は気づかない。

「瀬人……兄サマ!」

 思わず、肩を掴んでそう声をかけた。その位の事をしなければ、彼はオレになんか永遠に気づかないだろうと、そう……思ったから。案の定彼は突然置かれたオレの手にびくりと過敏な反応を示し今始めて気づいたと言わんばかりに顔を跳ね上げ、上を見上げた。

 この数年の間に兄と同じ遺伝子によって、オレは彼をも越す長身を手に入れた。線の細い兄とは違ってそれなりにしっかりとした骨格も筋肉もついてしまったオレは、彼と並べてしまうと年齢が逆に見えると言われる始末だ。

 兄の顔には年齢による変化がない。元々17歳の時点で完成されてしまったのだから、それも不思議ではないと磯野は言う。それもそうだと納得した。

「……モクバか。なんだ?」
「さっき呼び出しのベルを鳴らして、ノックも三回したんですけど。気づきませんでした?社長」
「……いや、全然」
「もう少し周囲に注意を払った方がいいですよ。誰が来るか分からないんですから」
「そうだな。で、用件は?」
「この間の企画書で、研究チームから二、三提案があるみたいなんですけど……見て貰えますか?」
「ああ。こちらに……」

 まるで心ここにあらずと言った風情でオレの言葉を聞いていた兄は、深い溜息を一つ吐くと、つい今し方まで握っていた書類を無造作に机の端に放り投げ、その手をこちらに差し伸べてくる。

 その際、ちらりと見えたシャツの袖から覗いた腕時計の下の白い皮膚に、不自然な変色を見つけた。明らかに内出血によって出来た痣だった。

 それを見つけた瞬間、息を呑んだオレの事になど気づきもせず、兄は淡々と書類に目を通し、数行ペンで何かを書き加えた後、再びそれをオレに突き返した。そして「わかった。そのまま通せ」と言い捨てると、もう用はないとばかりに顔を背ける。

 その時点で兄はオレの視線に気づかないフリをしているだけで、本当は気づいたのだという事を知る。さり気なく腕を隠すその仕草に、その読みは的中した。彼の視線が空をさ迷い、僅かに唇に力が入る。

 駄目だよ兄サマ。貴方はごまかしが出来ないんだ。

 ……彼はこのまま逃げる気だ。咄嗟にそう思ったオレはその手が再び別の書類を掴もうとする前に、即座にその手を捕まえた。払おうと動くそれを力で封じ、彼との距離を一気に縮める。

「……っなんだ!」
「瀬人。これ、どうしたの?」
「何が?」
「この手首の痣の事だよ」
「……なんでもない。ぶつけただけだ」
「手の甲側をぶつけるのなら分かるけど、掌側をぶつけるなんて早々ないと思うけど」
「仕事中だ」
「関係ないよ。ここにはオレと貴方しかいないんだから」

 兄はオレの指摘に酷く顔を歪め、動揺した。瀬人、ともう一度呼びかけると、観念したかの様に顔を俯ける。

 オレが兄を兄サマと呼ばなくなったのは何時からだっただろう。高校に入ってから、友人にその呼び方は可笑しいと指摘され、けれど他人のように兄を兄サマという呼称以外では呼べなくて、結局名前を呼び捨てる事になってしまった。その事に関して、兄は何も言わなかった。むしろ、そんな変化にすら気づかなかったかもしれない。
 

 自分の事に、夢中過ぎて。
 

「それ、世間ではDVっていうんじゃないの。犯罪だよ」
「なんだそれは」
「知らない?ドメスティックバイオレンス。主に家族や恋人から受ける暴力の事」
「……馬鹿馬鹿しい。そんな事あるわけないだろう」
「でも現に怪我してるじゃないか。昨日休んだのもそれの所為?」
「お前には関係ない事だ」
「関係あるよ。ないわけないだろ」
 

 幾ら強い口調で切り返されても、迫力なんてまるでなくて。元々勢いが違うから兄がオレに勝てるわけがない。
 

「モクバ」
「気づいてたよ」
「何を」
「オレ、ずっと気づいてた。貴方と城之内がどこかずれてるって事。元々ぴったり合わさる事なんて出来ないとは最初から思ってたけどね」
「………………」
「でも、二人がそれでいいって言うんなら、オレはそれでもいいと思ったよ。恋愛は自由だもの。誰とどうしようとそれこそオレには関係のない話しだし。……でもさ」
「でも、なんだ」
「一緒にいて苦しいだけなら、やめた方がいいんじゃないの」
「…………!」
「貴方は執着じみた束縛をするか、突き放すか……それしか出来ないでしょ。しかも全部相手に誤解させるやり方でしか、出来ないんだから」
 

 それは向こうも苦しめるだけだよ。
 

 オレは比較的優しくそう言ったつもりだった。けれど、どんな言葉も兄の思いを否定するという意味ではちっとも優しくなんかない。分かっていた。でも、これを言えるのはオレしかいない。他の誰にも……言う事なんて出来ないんだ。

 オレの言葉を聞いた兄は、暫く表情を変えないまま、じっと机上の一点を見つめているようだった。その視線の先には、一台の携帯が置かれていた。

 あれは確か城之内専用の携帯だ。ポケットに収めもしなければ、見えないところに隠しもしない。本当に中途半端な場所に放置されているマリンブルー。

 それをどうするのかは、オレには分からない。兄だけが、その携帯に触れる事ができる唯一の人だから。
 

「兄サマ」
 

 その呼び方は随分と懐かしいと思った。さっき咄嗟に叫んだ時も、懐かしいと思った。まだオレが彼を兄サマと呼んでいた頃は、目の前の顔は精気に満ち溢れていて、怖いものなんか何もないと豪快な笑い声と共に世界中を闊歩していた。

 その傍らにぴたりと寄り添うように立っていた城之内も太陽のような眩しい笑顔で、オレを自分の弟のように可愛がってくれた。
 

 幸せだった、あの頃。

 けれど、時間は永遠じゃない。
 

「……分かっている」
 

 少しの間の後、眼下からそんな声が聞こえてきた。静かな部屋に消えてしまうような小さな声は僅かに震えているようだった。
 

「分かってるんなら」
「分かってるから……!どうしたらいいか分からないんだ」
「どうしたらって」
「………………」
 

 それきり黙りこんでしまった兄の顔を見下ろして、オレは……オレの方が、どうしたらいいか分からなくなってしまった。

 本当は、こんなに簡単な事はない。駄目ならば、別れればいい。離れてしまえばいい。けれど、多分兄は離れたくはないのだろう。失いたくもないのだろう。でも、このままでは良くないとも彼は『分かって』いる。
 

「疲れた」
「え?」
「……もう、疲れたんだ。モクバ」
 

 余りにも悲しそうな声でそう呟いた兄の、僅かな乱れもない整った頭部を、オレは思わず抱きしめていた。
 

 けれど、抱きしめただけで……何も言う事は出来なかった。