Act4 涙雨(Side.城之内)

 その日は朝から胃が重かった。

 その日だけじゃない、一昨日海馬の元に行った時からずっとだ。もしかしたらその前からだったのかもしれない。とにかく、気分は余り良くなかった。

 一昨日、奴の家を出てから園について直ぐ、オレは散々悩んだ挙句「ごめん」と一言だけの短いメールを送った。色々文章は考えたけれど何を言っても所詮言い訳にしかならないから、その言葉しか思いつかなかったんだ。

 海馬から勿論返事は返って来ない。それはしょうがないかな、と思った。いつもの事だし。

 でも、怒っているのならまだしも何もいう事がないという状態だと最悪だ。そういえば最近あいつの怒った声を聞いた事がなかった。以前は凄く些細な事でもキレて怒鳴りつけてきたし、拗ねて一切口をきかなかったりという事はしょっ中だったけど、今は本当に無くなった。

 あるのは重い沈黙と感情の篭ってない乾いた笑みだけ。目が笑ってなくて口元だけ笑ってるってある意味壮絶で怖い位だ。その時に感じる訳の分からない怖さを紛らわそうとすると自然と手がでちまう。一昨日もそうだった。

 本当はちゃんと話をしようと思ったのに、部屋に入った瞬間海馬の……多分本人はそんなつもりはなかったんだろうけど、冷ややかな目を見てしまったら駄目だった。気がついたら床の上に引きずり倒してヤっちまってた。

 むかついて頭に血が昇ってて何をどうしたのかなんて全く覚えてもいないし、気持ちいいなんて欠片も思わなかったけど、厚いシャツ越しに掴んできた海馬の爪先がオレの腕の柔らかい部分に食い込んだ痛みだけは覚えている。その痛みにすら腹が立って両手首を掴んで無理矢理押さえつけて膝を割った。

 何もかもが終わった後に、見下ろした姿を見て愕然とした。……ほとんど強姦と同じだった。それよりも酷かったのかもしれない。
 

 なんで、こんな事になっちまったんだろう。
 

 何かがおかしいのは分かるのに、その『何か』が分からない。誰にも聞けないから答えは永遠に分からない。分からない事にイライラする。イライラは、顔に出る。

「克也先生。今日ちょっと顔が怖いですよ?何かありました?」
「は?いや、別に?」
「本当ですか?さっき美香ちゃんが言ってましたよ。先生が怒ってるって」
「えぇ?そんな事ねぇんだけどなぁ。……とりあえず気を付けます」
「結構子供達ってそういう事敏感だから怖いですよね。私も気を付けないと」

 あはは、と明るい笑顔を見せてぽん、とオレの肩を叩く先生は教室を覗きに行くと言って職員室を出て行こうとする。扉に手をかけ、一歩外に踏み出して、彼女はふと何かを思いついたように振り返った。

「そう言えば、克也先生。今日傘持って来ました?」
「傘?なんで?」
「朝の天気予報で雨が降るって言ってたから。この時期に珍しいですよね」
「雨ぇ?今真冬ですよ?」
「でも確かに外、結構暖かいですよ。当たるかも」
「へー雨ねぇ……どっちにしても鬱陶しいのは変わんないっすね」
「雪は遊べるけど、雨は遊べないから。やっぱり雪がいいですよね、この時期は」
「確かに」

 言いながら、オレは窓の外に目をやった。ここ数日間ずっと厚い雲に覆われた空はどんよりと薄暗く、やっぱり気分を重くさせる。何が雨だよ。このクソ寒いのに。そう思いつつ、手元の連絡帳を開いて中を見る。結構言いたい放題に書かれている文面を流し読みし、返事を書く。

 今の親ってのはてめぇで教育もしやしねぇでクソガキを保育園に押し付けるとんでもない奴ばっかりだ。自分ばっかり優先させる、癇癪は起こす、好き嫌いは多い、やってらねんぇっての。厳しい時代を生き抜いたオレ等を少しは見習えって。

 ……そうは思ってもそのまんまはさすがに書けないから、オレにしては最大限にソフトな言葉遣いで、丁寧な字で、ペンを走らせる。貴様の字は全く分からない、メールが普及して良かったな、なんてどこかの誰かから言われた嫌味を思い出しながら、なんとか10冊書ききった。

 最後に今日の分としてパンダの判子をぽんと押して、纏めて机の上に重ねたその時、さっき出て行ったはずの先生がちょっと難しい顔をして戻ってきた。

「どーかしました?」
「セト君が……」
「またセト君ですか」
「ええ。コウジ君と喧嘩したみたいで、ぶつからなかったみたいですけど、ボールを投げたとか」
「……あー」
「今は部屋の隅っこの滑り台の下でストライキ中です。私じゃ嫌だって言って……お願い出来ますか?」
「はいはい」

 既に一日一回の恒例行事になっているセト君のストライキ。オレは深い深い溜息を吐くと、先生の後をついて教室に行き、彼女の言葉通り壁際にある滑り台の下で丸くなっているセトに近づいて膝をついた。頭に手を置くと、頬を膨らませ怒った顔でオレを見上げてくる。

「おい、セト。なーに膨れてんだ?コウジがなんかしたのか?」
「………………」
「黙ってちゃわかんないだろ。なんでボールなんか投げたんだよ」
「………………」
「あっそ。お前先生にそういう態度とんの?じゃ、もう知らねぇぞ」

 何時まで経ってもだんまりをやめないその態度にオレはいい加減呆れてガキ相手にしてる事も忘れて、そう吐き捨ててしまう。奴にしては最大限の怒りの表現なんだろう、上目遣いにオレを睨みつけるその顔が、もう一人の『瀬人』と重なって苛立ちがぶり返したからだ。

 なぁ、なんで黙ってるんだよ。黙ってちゃ分かんねぇだろ。お前も海馬もなんでオレに何も言わねぇんだ。言いたい事があるなら全部言えよ。聞かないなんて言ってねぇだろ。

 オレはなんだか凄く悔しくて、悲しくなって、泣きたくなった。ガキ相手に何考えてんだろうって思うけど、どうしても海馬を思い出してしまう。あの感情のない目でじっと見られた時の何とも言えない気持ちが蘇って、どうしようもなくなった。

 オレは思わず立ち上がり、セトに背を向けた。このまま向かい合っていたら、確実に泣いてしまいそうだったから。とにかくこの場は逃げ出そう。そう思って一歩前へ踏み出した瞬間、足に微かな圧迫感と共に暖かさを感じた。

 驚いて後ろを見ると、セトが軸にしていたオレの右足に思いっきりしがみついていた。相変わらず怒った顔で、無言のままだったけれど、必死に行かせまいと手でぎゅっとズボンを握り締める。

「な、なんだよ」
「……やだ」
「何が嫌なんだよ」
「……行くなよ、カツヤ」
「先生を呼び捨てにすんな。行って欲しくないならコウジに謝れ」
「………………」
「わかったか?」
「……わかった」
「じゃ、一緒にコウジの所へ行くぞ。ちゃんと頭さげんだぞ」

 オレの言葉にこくりと頷いたセトは、それから大人しくいう事を聞いて、喧嘩相手にもきちんと謝った。偉いぞ、って頭を撫でてやったらそれまでの仏頂面は何処へやら、凄く嬉しそうに笑って「偉いだろ」なんて言うんだ。……いや、偉くねぇよ。喧嘩すんな。

 でもその笑顔に、凄く癒された自分がいた。
 

 ああ、あいつもこんな風に単純に機嫌を直して……笑ってくれたらいいのに。
 

 
 

 その夜、全員が帰った後、園の戸締りをしてオレは最後に門を出た。天気予報はびっくりするほど当たるもんで、本当に外には雨が降っていた。

 結局傘は持ってなくて濡れ鼠になりながら駅へ向かう。二月の雨はとても冷たくて、身体の芯まで冷えてしまうみたいだった。

 こんな日こそ、普通は恋人の元へ行って、「寒いからあっためあおうぜ」なんて言うんだろうけど、今のオレにそれをする勇気はない。返って来ないメールに、もう一度送る気にもならなくて、携帯を取り出しては溜息を吐く。その繰り返し。

 けれど、駅の明かりが遠くに見え始めたその時、手の中の携帯が大きく震えた。ドキッとして、暫く開く事が出来なくて、それでも開かないわけにもいかなくて、恐る恐る眺めてみた。

 そしたらそこにはたった一言。
 

『気にしてない』
 

 ……気にしてないって。嘘だろ。気にしなきゃおかしいだろ。やっぱり何も言わないんだ。なんでだよ。

 携帯を握り締めたまま、オレはそこに立ち尽くした。降り注ぐ雨がオレも携帯もずぶ濡れにして、もう冷たいとか冷たくないとかわからなくなっちまった。

 ふと思い出したあの悲しさと悔しさがない交ぜになった気持ちに満たされて、何時の間にか涙が滲んで頬を流れたけれど、雨に紛れて分からない。
 

 なぁ、なんで?
 

 何回聞いても……答えは出ない。