Act5 電話越しの(Side.海馬)

 電話をかけるのがこれ程苦痛だと思ったのは初めてだった。

 昨日送った一言だけのメールの返事は返って来なかった。いつもはこちらから送った一通のメールにその10倍の量のどうでもいい内容を含んだ返信が返って来るのだが、さすがにあの内容では返信のしようがなかったのだろう。当然だ。返せないようにあの一言を書いたからだ。それが余計奴を悩ませると知っていても、他に書きようがなかったのだ。

 あの文面は本心だった。勿論全く気にしていないというわけではないが、あの日の出来事に関しては本当にどうでもいいと思ったのだ。それは怒りの為とか投げやりになったとかそういう訳ではなく、奴にそういう行動を取らせるような事をしたのはオレだという自覚があったからだ。

 本当はそれをそのまま言葉にして伝えなくてはならないと思ったが、相手に分かるように伝える方法が分からなかった。元々意思の疎通がままならない関係だったが、最近は特に酷い。伝えるつもりが無くなって来たのだろう。お互いに。
 

 それから一晩経って、オレは人払いをした社長室でマリンブルーの携帯を眺めている。
 

 時刻は正午。丁度奴は昼の時間に入る頃だ。本当は時間に余裕のある夕方以降がいいのだろうが、長く話すつもりもないから敢えて忙しいを理由に切る事の出来る今にしようと思った。……そんな事まで考えてしまう自分が心の底から嫌だった。

 ディスプレイに表示された城之内の名前を眺めながら、通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。眼下にある決裁を必要とする書類をなんとなく捲りながら、呼び出し音が途切れる瞬間を待つ。時間にして数十秒の筈なのに、それは何分にも何十分にも感じられた。

『海馬?』

 程なくして、聞き慣れた声がスピーカー越しに響いてくる。その背後に聞こえる子供のはしゃぐ声。咄嗟に返事を返す事が出来ず、携帯を握る指先に力が入る。

「……仕事中か?」
『ああ、うん。今弁当の時間。ちょっと持ち場離れらんねぇからごめんな、煩くて』
「いや、忙しいなら、切る」
『いいよ。大丈夫だから……ってコラ!プリンの取り合いすんじゃねぇ!お前の分はこっちにあるだろうが!!いやしい事すんな!……あ、悪ぃ悪ぃ。で、何?やっぱ場所変えるわ。落ち着かねぇから。ちょっと待っとけ』

 そう言うと携帯の向こうから、再び2、3のやり取りが聞こえた後、急激に奴の背後が静かになった。言葉通り、場所を移動したのだろう。沈黙が、重い。

『話って、昨日のメールの事?』
「……いや?」
『じゃ、もっと根本的な事?』
「根本的、とは?」
『……藪蛇突いて変な方向に話持ってくの嫌だからあんまり言いたくないけど……お前、オレに何か言う事あるんじゃねぇの?』
「何かって……」
『じゃ、こうして電話してきた意味は?何かあるから電話してきたんだろ』
「………………」
『なんで黙るんだよ。オレ、もうお前のだんまりにはうんざりだ』

 吐き捨てられる言葉に元々重い口が更に重くなる。やっぱり駄目だ。電話なんかするんじゃなかった。言う事を決めもしないでただ闇雲に繋がろうとしても上手く行かない事など分かっている。……そう思っても、もう遅かった。あの晩と同じ、苛立った声が心にまで響く。

 言うべき事は確かに沢山あるのかもしれない。ただ、それをどう言えばいいのかが分からないのだ。分からないから、無言になる。無言になれば、奴を苛立たせる。既に無限ループに陥っている。出口は、何処にもない。

『……今夜さ、行っていい?』
「今夜?」
『そう、今夜』
「………………」
『何もしねぇよ。ただ、話がしたいんだ。お前と』

 オレが上手く返答できないでいると、取り繕うように出るその言葉。何もしない、なんて今まで一度も言われた事はなかった。これまでだってただ話をして帰る時は当然あったし、それが不自然なことではなかった。元々セックスだけが目的の関係でもあるまいし、何故そこを強調するのだろう。やはり数日前のあの事が城之内の胸には大きく残っているのだろうか。

 ……馬鹿馬鹿しい。あんなものはただのセックスだ。恋人という関係上必然的についてくる行為の一つだ。それが多少粗暴になったからと言って何の問題があるのだろう。これからだって例え毎回そうであっても特に『気になどしない』。ただ、オレは気にしなくても、奴は気にするのだろう。しなければ良かった、悪い事をした、そんな思いに苛まれながらする行為に意味はあるのか。……オレには、そうは感じられなかった。

「オレは……」
『会いたいんだ。会って、ちゃんと……』
「今夜は嫌だ」
『嫌?駄目じゃなくて、嫌なのか?』
「ああ、嫌だ。会いたくない」

 そうだ。こんな気持ちで会いたくない。会って何が変わるとも思えない。どうせあの日の繰り返しになるだけだ。意味が無い。顔を合わせて、声をかけられて、そしてあの探るような視線で見つめられてしまったら、今度はもう視線を返す事ができるかどうかすら怪しかった。

 それを全部素直に告げればいいのに、今のオレには酷く難しい事に思えた。

『なんで?』
「なんでって……」
『じゃあ、何時ならいいの。明日?明後日?それともずっと後ならいいのかよ』
「そんな事は分からない」
『分からない?なんだそれ。馬鹿じゃねぇの。話すだけって言ってるじゃん。……この前の事は悪かったよ。ひでぇ事したと思ってる。それは謝るから、機嫌直せよ』
「………………」

 違う。そうじゃない。オレが言いたいのは……。

 否、言いたければ言えばいいのに言わないのはオレの方だ。どうして、そんな簡単な事すら出来なくなってしまったんだろう。どうして。

 長い沈黙が訪れる。オレは唇を噛み締めて、必死に次の言葉を探そうとした。けれど、何一つ思い浮かびはしなかった。

 城之内の機嫌を回復させ、この場を穏便に収めるのは簡単だ。今までの言葉を全て無かった事にして、すなまい、嘘だ。今夜は一人だから会いに来いと言えばいい。そこでまた話の続きをすればいい。そうすれば、今の苦しみからは少しの間でも逃れられる。

 けれど、やはりオレにはそれが出来ないのだ。
 


『なぁ、海馬』
 

 不意に、スピーカーの向こうから今までとは明らかに違う城之内の声が聞こえた。無言を貫き続けるオレを明らかに気遣った、柔らかな音声。それは今までに聞いた事がない程、優しく暖かな声だった。

 その声を聞いた瞬間、オレはわけの分からない苦しみや悲しさに苛まれて、胸に酷い痛みを感じた。呼吸をするのすら苦しいほどのその痛みは堪えようときつく閉ざした唇や瞼を嘲笑うように、より強くなっていく。それでも抗うように額に手を添えようとした瞬間、不意に眼下の書類にぽたりと一粒の液体が弾けて散った。

 驚いて瞳を開いてそれを見ると、印刷された色鮮やかなグラフが薄く滲み、ぼやけていた。そうだ、これはインクジェットプリンタで打ち出した書類だった、そう思い慌ててそこから退けてももう遅い。

 その大事な書類を駄目にした忌々しい液体が、自分の涙だと気づくのに、オレには長い時間が必要だった。まさかこんな所で泣くなんて、思いもしなかったから。泣く意味すらも、分からなかった。

 けれど一度溢れてしまったものは留まる事を知らず、己の意思とは無関係に次から次へと頬を濡らし、机上へと滴り落ちる。

 必死に堪えたつもりでも、僅かな嗚咽が携帯越しに聞こえてしまったのかもしれない。長い間の沈黙に怒りもせずに待っていた城之内は、不意に何かに気づいたと言わんばかりに、先程よりももっと優しい声で話しかけて来た。
 

『……お前、もしかして泣いてんの?なんで泣いてんの?……オレ、泣くほど酷い事言ったかよ』
「……ちがっ……」
『本当に悪かったよ。ごめんな。……だから泣くなよ』
 

 見当違いの謝罪を耳にしながらも、オレはその声に答える言葉を持ち得なかった。それから幾許かの言葉をかけられたが、最早相手が何を言っているのか理解すら出来なかった。

 もう駄目だ。どうにもできない。そう思えば思う程、込みあげるものが止まらない。
 

 暫く静かな室内には、オレの無様な嗚咽だけが響いていた。

 携帯の通話中の明滅が、余計虚しく目に映った。