Act7 終わりの挨拶(Side.海馬)

「海馬?お前……なんでここにいんの?」

 2/14日の夕方。オレは早めに社を出た後、少しだけ寄り道をして、城之内が勤める保育園へとやって来た。最後の園児が帰るのが大体6時頃だという話は前々から聞いていたので、丁度その時刻に間に合うように時間を調整して門のすぐ近くに立っていた。

 その日はタイミングが良かったのか、さほど待つ事もなく城之内を捕まえる事が出来た。その少し前、迎えに来た母親の手に引かれて門を出て行く小さな子供の「克也先生さようなら!」と言う声がやけに大きく耳に響いた。それに答える城之内の声は、聞こえなかった。

 奴はオレの姿を見つけた直後、慌てたように走ってきて、心底驚いた声で冒頭の台詞を叫んだ。それにオレは努めて淡々と「話がしたかった」と答えた。昨日は結局碌な話をしなかったから、今日こそ全てにケリをつけようと思ったのだ。

 何故今日という日を選んだのか、と聞かれれば特に理由はないとしか言いようがない。限界だった。もうこれ以上何もかもを引き伸ばすのは嫌だった。

 数日前、モクバに言われた通り、互いに苦しいだけならやめてしまえと思った。それが、一番いい方法だと信じたのだ。

 オレは驚きも露に目の前に立つ城之内に、途中の寄り道で購入した今日という日に不可欠らしいチョコレートが入った包みを取り出し、簡潔に「くれてやる」と言って投げてやった。
 

「これ、どういう意味のチョコレート?本命?それとも義理?それとも……友達?」
「どういう意味だと思う?」
「分かんねぇから聞いてんだけど」
「別れだ」
「え?」
「これで終わりにする、という意味だ。ちなみにカカオ99%だからな。食べたら泣くぞ」
 

 オレが生まれて初めて自分で『贈った』それは、普通の女が買うような甘いモノではなく、殆どが苦味で構成された代物で、店頭にあったポップには『興味のない相手に贈るのが最適』と書かれていた。

 勿論、敢えてそれを選んだのだ。
 これから別れを告げる相手に、本来の意味のチョコレートなど必要ない。

 それを受け取った城之内は、暫し唖然とした顔でオレと、投げつけられたチョコレートを交互に見て、今し方飛び出した言葉の意味を考えている様だった。

 本当はもっと緩やかな手順を踏んで、互いに納得した上でこういう結論を出すのが常識的なのだろうが、そもそもこの関係自体世間一般から考えれば非常識なものだった。だからいいとは言わないが、終わりも多少常識から外れても仕方のない事だろう。

 大体始まりは貴様からで唐突だったのだ。
 終わりをオレの方から唐突に言い出したところで不自然ではない。

 それから暫く、オレ達はやっぱり意味のない会話をずっとその場で話をして、何処までも平行線を辿るそれに嫌気が差し、どちらともなく、帰ろう、と言い出した。最初ここで別れるのかと口にした城之内だったが、余りにもそれでは寂しいと即座に前言を撤回し、最後にオレの家に行きたいと言い出した。

 判断を奴に任せたオレにそれを拒否する権利はなく、オレはただ黙って頷く事でその意向に答えてやった。
 

 
 

 最後の夜を過ごそうと二人並んで、人気のない通り道を歩いていく。肘の辺りで互いの腕が触れるのに、どちらもポケットに入れたままの手を取り出そうとはしなかった。その内城之内が一歩先を行くようになり、道路を覆う新雪を踏みしめる。

 海馬邸のすぐ傍の、壁伝いの曲がり角。

 そこで突然奴は立ち止まり、くるりと振り向いてオレを見た。そして早く来いと促して、目の前に立ったオレにまるで何でもない事の様に、さらりとこう口にした。
 

「なぁ、キスしようぜ」
 

 その顔に笑みさえ浮かべながらそう言って手を差し伸べてきた城之内の顔を極力真っ直ぐに見返して、オレは緩やかに首を振ると出来るだけ静かな声で答えてやった。
 

「それは、恋人がするものだろう?」
 

 そんな冷たい一言にも、奴の笑顔は崩れる事はなかった。
 

「もう、そうじゃないっていうのかよ。これからセックスするっていうのに」
「恋人じゃなくてもセックスは出来るだろうが」
「……ひでぇ言い方」
「事実だろう」
「ま、そうだけど」
 

 そうだ。これからずっと次の出会いを見つけるまで、性欲を処理する為にそうしなければならない事もあるだろう。それが嫌ならば早く相手を見つければいい。簡単な事だ。
 

「……オレ、今でも好きなんだけど」
 

 ぽつりと、最後の悪足掻きが闇に響く。そんな事は分かっている。分かっているけれど、もうどうにもならないのだ。オレはゆるりと息を吐いて、目の前の笑みにつられるように、ほんの僅かに笑ってやった。
 

「オレも特に貴様の事は嫌いではない」
「おかしくね?じゃあなんで別れるの」
「理由が必要なのか?」
「当たり前じゃん」
「では、最後に教えてやる。一番、最後に」
 

 そう言うとオレは奴の横をすり抜け、逆に先に立って歩き出した。これ以上この寒空の下で話をする気などない。体温が下がれば下がるほど手を伸ばしたくなる。オレの方こそ悪足掻きだ。馬鹿馬鹿しい。
 

「海馬、待てよ」
 

 呼び止める声にも振り向く気はなく、足早に門を潜りエントランスまでの長い道を一人で歩く。ここで立ち止まってしまったら、折角決めた覚悟が全部駄目になるようで、足を止める事が出来なかった。

 後数歩で扉に手が届くと言うその時、突然大きな足音が聞こえたと思った瞬間、背後から思い切り抱き締められた。余りに唐突な出来事に特に良くもなかった足元が滑り、ぐらりと身体が後ろに傾ぐ。
 

「っ何……!」
「好きだから」
「………………」
「多分、ずっと」
 

 オレの前に回した掌に痛い位に力を込めてそんな事を言う貴様は卑怯者だ。

 振り解こうともがいても一向に緩まないその力に、徐々に抗おうという気力を失っていく。次いで頬に触れる雪に塗れた冷たい金髪に、オレはもう何も言えず……震える吐息を一つ吐いた。

 雪は止む事を知らず、未だ夜の闇に降り続いている。
 

 寒いから中に入ろうと言おうとして、言えなかった。