Act8 最後の体温(Side.城之内)

 向けられた背中に手を触れると、少しだけ冷たかった。
 

「なぁ、海馬。オレ、もう行くんだけど」
 

 何度そう言って呼びかけても、微動だにしないそれは余り規則正しくない上下を繰り返していて、こいつが完全に起きている事を知る。起きていて、わざと寝たフリをしているんだろう。……オレともう話もしたくないってか。なんだよ。

 昨夜あの後言葉もなくこのベッドで抱き合って、もう最後かも知れないと思ったら全部に熱が入って、最後に理由を話してくれると海馬が言ったのにそんな余裕は一欠片もなかった。気がつけば二人とも倒れるように眠っちまってて、カーテンの向こう側は明るかった。ベッドヘッドの時計を見たらもう7時だった。

 出勤時間は8時半でここから園まではオレんちよりも近いからまだ大分余裕があるけれど、無言で背を向ける相手の隣にいるのも心苦しくて、オレはさっさと勝手知ったる他人の家とばかりにシャワーを浴びて、着替えを済ませてベッドの横に立っている。

 昨日始末もしないで眠った所為で、ほとんどぐちゃぐちゃのシーツの中に沈み込むように横になっている海馬はオレが触っても髪をかき上げても頑として目を開けようとはしなかった。

 なんだよ、理由を話してくれるんじゃなかったのかよ。お前最後までだんまりを続けるつもりかよ、ふざけんじゃねぇぞ。って耳元で脅しても変わらなかった。多分このまま何時間いても同じなんだろう。そん位はオレでも分かる。伊達に6年付き合ったわけじゃないしな。

 きっと、これが海馬の別れのスタイルなんだろう。

 十数分粘り続けて、漸くそう諦めたオレは、最後に少し捲れたままだった上かけを肩まできちんとかけてやって、唇ではなく頬に小さく唇を押し当てて、後ろ髪を引かれる思いというのを存分に味わいながら、身を起こそうとする。上体をあげる為にベッドに手をついた瞬間、オレは驚いて声を上げそうになった。

 手をついた場所。丁度海馬の顔の真横に当たるその部分が、明らかに多量の水分を含んで冷たくなっていたから。

 それはきっと、海馬の涙だったんだろう。乱れた髪に隠されて見えない目元は多分赤く腫れてるのかもしれない。確認しようと思ったけど、出来なかった。
 

 ── してはいけないと、思った。
 

 そうやって、声も無く泣く位なら、最後までオレの顔も見れないほど辛いのなら、なんで……別れるなんて言うんだよ。わけ分かんねぇ。
 

「海馬」
 

 ベッドを離れ、扉に手をかけながらどうせ無反応だと思いつつ、最後にもう一度名前を呼ぶ。

 やっぱり、答える声は聞こえなかった。
 

 
 

「おはよーございます」
「おはようございます、克也先生。今日も一日雪だそうですよ。憂鬱ですね」
「あーそうなんだ。いい加減止んでくれねぇかな。鬱陶しいから」
「本当に。……あ、憂鬱と言えば、一つ報告があるんです」
「報告?」

 今朝も朝から降り続いているぼた雪は見る間に足元を埋め尽くして、足首までのブーツも全く役に立たなくて、ジーパンがびしょ濡れになっちまった。室内靴に履き替ながら、しずくが垂れる足元に朝から最大限に低いテンションが更に下降するのを感じながら、オレは世界の不幸を一身に背負った顔で職員室に足を踏み入れると、いつも元気な笑顔で出迎えてくれる佐藤先生が、少しだけ暗い顔をしてオレを見た。

 オレは雪まみれの鞄を差し出されたタオルで拭いて、彼女が言いかけた言葉を待っていた。ほんのちょっとの間の後、オレが鞄を机の脇のフックにかけるのと同時に、彼女は大きな溜息を吐いて、こう言ったんだ。
 

「櫻井君が……セト君が、今日で園をやめるんですって。昨日園長先生の家にご両親がいらして……急に海外に転勤が決まったとか」
 

 その言葉を聞いた瞬間、オレは思わず大声で「えぇ?!なんで?!」と叫んでしまった。先生らしからぬその悲鳴にも、佐藤先生は特に気にもしないのか、小さな声で「本当に残念ですよね……」と呟いた。
 

 ……なんで?どうしてこんな事が重なるんだよ。オレ、何か悪い事したのかよ。
 海馬だけでなく、セトまでもオレの前からいなくなるなんて、嘘だろ?

 そう思っても、オレの手元には櫻井セトとはっきりと明記された今日付けの退園届が置かれていて、それが嘘でも何でもない事を知る。震える手でそれを取って、まじまじと眺めてみると、やっぱりそれは本物だった。当たり前だよな。
 

「セト君、克也先生の事大好きだったから、寂しいでしょうね。先生も、寂しいでしょう?」
 

 穴が開く程それを見つめるオレの背後で、佐藤先生が気遣うようにそう声をかけてくる。

 寂しいなんてもんじゃねぇよ。大ダメージだ。そう反射的に答えようとして、慌てて口を噤んだ。後10分で園児達がやってくる。セトも、最後の登園をするだろう。

 オレは、どういう顔でセトに会えばいいのか分からなかった。

 顔をみたら、泣いてしまいそうだったから。
 

 
 

「じゃ、セト君元気でね。外国のお友達、沢山できるといいね」
「うん」
「後で皆でお手紙書くから」
「……うん」
 

 どんなに名残惜しい一日でも、時間の流れは平等で、今日も瞬く間に過ぎて行った。

 夕方5時。いつもと同じ様に、ランドセルをしょった姉貴が迎えに来て、セトは皆と最後の別れをする。オレは今日一日独占状態でセトに張り付かれていたからもう何も言う事はなく、笑いながら涙を流す先生達の後ろの方で、その様子を眺めていた。
 

 ここまで来るともう寂しいとか悲しいとか思えない。

 ただ、空しいだけだ。
 

 もういいから早く帰ってくれよ。
 また降り始めた雪を仰ぎ見ながらそんな事を思ってしまう。
 

 ポケットに手を突っ込み、顔のあちこちを濡らす冷たい雪の感触につい溜息が出そうになったその時、突然足元に衝撃を感じた。驚いて下を見ると、そこにいたのはセトだった。
 

「……っ、セト!」
「カツヤ」
「………………」
「カツヤ、バイバイ」
「……先生を、呼び捨てにすんなって言ってんだろ。最後くらいちゃんと挨拶してみせろ。……さようならは?」
「………………」
「さようなら、セト君」
「……さよ、なら……カツヤせんせえ」
 

 いつものようにぎゅっとオレのズボンを握り締めて、目に一杯溜めた涙を擦り付けるように身体ごと縋りついてくるセトを、オレは身を屈めて力一杯抱き締めてやった。

 海馬にそう出来なかった分も含めて、思い切り。

 細く小さな身体から感じる体温は、この寒さを全然感じさせない程暖かだった。
 

 
 

 その夜、一人家へ帰る途中、マリンブルーの携帯に多分最後のメールの着信があった。特に躊躇もせず開いて中を眺めると、そこには最初で最後の、幾度もスクロールが必要な、長い文章が綴られていた。
 

 その中身は、約束の『別れる理由』。
 

 海馬らしい、淡々とした事務的な文章が教えてくれたのは、オレにとっては到底納得出来ないことだらけだった。それを見越していたのか、文章の始めに「貴様には理解する事ができないかもしれないが」とちゃんと前置きしてあった。なんだそれ、失礼な。

 けれど確かに海馬のいう事は何一つ理解できなくて、読んでいる内にボロボロ涙が零れてきて、止まらなくなってしまった。

 悲しさなのか、悔しさなのか、やりきれなさなのか、分からない。
 

 ── オレは、子供なんか欲しくない。必要ない。

 ── 将来的に捨てられる位なら、オレが今捨ててやる。
 

 スクロールを下にするに連れて、段々と感情的になっていくその文章に、海馬がいかにこの事について悩んで、苦しんでいたかを知ってしまって、オレはもう何も言う事も考える事も出来なくなってしまった。
 

 本当に、もう駄目だったんだ。限界だったんだ。オレの知らないところで、お前は。
 

 泣きながらどうにか最後まで読み進んで。一番下に記されていた一文まで辿り着く。そこには、まるで映画みたいな一言が書かれていた。
 

『このメールを貴様が受信したら、このメールアドレスも携帯番号も解約する。後は捨てるなりなんなりするがいい』
 

 それまでの感情的な文章が一転して、酷く素っ気無いその一言に、オレは思わず携帯を力任せに叩き壊してしまいたくなった。けれどそれは出来なくて、逆に強く両手で握り締めた。
 

 寒さに悴んだ手で、強く。
 

 
 

 それからオレは、帰り際に中身を全てクリアにした携帯を携帯ショップのリサイクル箱に放り込んだ。中に入っていた沢山の中古携帯の一番上に落ちたマリンブルーは、暗がりに紛れて色はもう分からなかった。

 家に帰って、オレはあちこち探って、昨日自分が口にした通り、海馬に貰ったものを全部纏めてゴミ袋に放り込み、そのままゴミの集積所まで持っていった。中にはまだ愛用したものもあったけれど、自分で言った事だから、未練がましい事はしたくなかった。
 

 けれど、たった一つだけ……あのダークブルーのスーツだけは捨てられなかった。
 

 すっきりした引き出しや棚の中を凝視して、いかにオレがあいつのものに囲まれて生活していたかが分かって、また泣きたくなった。全部買い直しかよ、そんな金ねぇよ。そう呟く言葉は震えていて、滑稽な位だった。

 全てを振り払うように頭を振り、オレは脱ぐのをすっかり忘れていたダウンジャケットを脱いで、その辺に放り出す。瞬間、そのポケットからころりと見慣れないものが飛び出して、オレは小さく目を瞠った。

それは、昨日のバレンタインに海馬がくれたカカオ99%のチョコレートだった。
 

『泣きたいなら食べればいいだろうがな』
 

 苦笑いを口元に浮かべ、溜息混じりにそう呟いた、あの顔。

 オレは緩やかに手を伸ばし床に転がったそれを拾い上げて、包みを破り、箱を開けた。中に綺麗に詰められた、見かけだけはとても美味しそうなチョコレート。

 その中の一つを指で摘まんで、口に放り込む。途端に、本当に吐き出したくなるほどの苦味が口内に広がった。これはすげぇ。めちゃくちゃまずい。こんなもん人に食わせるなよ、馬鹿じゃねぇの。
 

「馬鹿じゃねぇの」
 

 そう口に出して呟く頃には、チョコレートは既に溶けてなくなって、胃の中に消えていった。同時に折角止まった涙が再び溢れて、嗚咽が漏れた。まるでガキみてぇに。みっともなく。
 

 その時口にした余りにも酷すぎるその苦味は、それからずっと、オレの口の中に残り続けた。
 

 ── ずっと……消える事無く。