Act9 10年後のバレンタイン(Side.モクバ)

「明日絶対来るんだよな?忘れてないよな?」
「しつこいな、忘れてなどいない」
「なんか心配だなぁ。オレと一緒に行こうよ瀬人。二人一緒に帰れば燃料代浮くよ?一日ずらす必要もないしさ。この不景気の世の中に無駄遣いなんて馬鹿馬鹿しいって」
「何を生意気な事を言っている」
「そりゃー経営者だもの。第一に考えるのは利益の追求と経費削減でしょ。大体それ、瀬人が教えてくれたんじゃないか」
「……まぁな」
「じゃーこうしよう。KCアメリカラボ特別研究員海馬瀬人くん、私と一緒に日本に帰国するように。これは社長命令です」
「社長命令か」
「そう」
「ならば従わなければならないな」
「その通りです」
「で、出立時間は何時ですか、社長」
「んー決めてないぜ。これから手配させる」
「……計画性のない社長だな」
 

 そう言って、今は常にかけっ放しの眼鏡を外しながら、兄は小さく笑って手にした研究報告書を机上に置いた。それには既に社長の決裁印がついていて、後は厳重に保管するだけとなっている。

 その印を押したのはオレ、海馬モクバ。現在の役職は『海馬コーポレーション代表取締役社長』になっている。

 そして目の前に立つ兄は相談役という肩書きに変わっていた。けれどそれはそれはあくまで名刺上の表記であって、実権は未だ兄が握っている。

 他にも名刺の裏を返せば、びっしりと色んな名目がついているのだけど、彼が自称しているのは先程オレが読み上げた『特別研究員』。活動の拠点もここアメリカの研究施設で、やっている仕事も商品開発をメインとした様々な研究だ。

 明後日は、兄が新たに開発した新世代デュエルディスクの商品発表会。日本の本社で行う予定のそれに合わせて、オレ達二人は帰国しなければならなかった。
 

 城之内と兄が別れてしまったバレンタインの日から、既に10年の月日が経った。
 

 オレが大学を卒業すると同時に、兄はオレに社長の座を譲り渡し、自分は一人アメリカに何時の間にか勝手に計画し建ててしまった世界最大規模の研究施設へ入り浸りになってしまった。

 元々経営者よりも研究者としての考え方が強く、本人の性格からみても人望や人当たりのよさが最大の武器となる社長業より、研究員をやっている方が性に合ってると言い張り、実際その通りだった。兄が商品開発部門の主軸となった事により、KCは今まで以上に多方面へと勢力を伸ばし、今や世界の三大企業とまで言われるようになった。

 やっぱり兄サマは凄い!今期の終期決算を見た時思わずそう口にして笑われてしまった時の恥ずかしさは今でもよく覚えている。当然だろう、モクバ。そう言って心底嬉しそうに笑った兄の顔は、彼が一番輝いていた時のそれと全く同じものだった。

 城之内と別れて悩みの全てを捨ててしまった兄は、漸く本来の姿を取り戻したのだ。
 

 
 

「……アレには連絡はしたのか?」
「うん?ああ、彼女?勿論したよ。一ヶ月ぶりの帰国だからね。彼女はともかく、あの子はオレの顔を忘れちゃってるかも。切ないなぁ」
「だからこちらに余り入り浸るなと言っている。その調子では即離婚だな。お前は父親失格だ」
「ちぇ、瀬人に言われる筋合いはないよ。結婚もしない癖に。父親って結構大変なんだぜ」
「知っている。オレも一時期お前の父親だった」
「えーそうかなぁ。兄サマは兄サマだよ。父親じゃない」
「………………」
「ごめん、嘘だよ。分かってるよ。瀬人がどれだけオレの事を大切にしてくれたか、全部分かってる。そういう意味では、貴方はオレの全てなんだ。父親と母親と、そして兄と」
 

 兄の軽口につい真面目に反応して、逆に兄を黙らせてしまったオレは、慌てて真剣な声を出してそうフォローする。それをどう受け止めたのかは分からないけど、兄は特に表情の変化もなく、曖昧に頷いた。頷いて、遠い目をした。
 

 
 

 兄がオレに社長の座を譲った理由はもう一つある。

 オレが、大学卒業と同時にとある大企業の令嬢と結婚したからだ。ちなみに見合いでもなんでもなく、普通の恋愛結婚だった。大企業の令嬢だったのはたまたまだった。

 社長業をこなすには社長夫人の存在はある意味不可欠で、だからこそ兄は研究員になりたいと口にして、自ら勝ち取った人生の全てであるあの椅子をオレにくれて寄越したのだろう。

 オレは自分が結婚する大分前に幾度となく兄に結婚はしないのかと勧めたが、彼は頑として首を縦に振らなかった。そしてある日、とうとう痺れを切らしたのか、しつこく同じ事を繰り返すオレを睨んで「絶対に結婚などするものか!」と叫んで、口をきかなくなってしまった。それ以来、二人の間でその話をする事はなかった。兄は当然今も独身だ。

 その背景には城之内の事があるのかもしれないと少しだけ思ったけれど、勿論そんな事は口には出来なかった。

 あのバレンタインの日以来。彼の口から城之内に関する話は一切出てくる事はなかった。思い出話すら、しなかった。相変わらず遊戯を初めとする高校時代のクラスメイトとは何らかの繋がりをもっていたけれど、城之内だけが欠けていた。

 それは酷く不自然だった。

 相手である城之内の方はと言うと、周囲からそれとなく様子を聞いたところ、相変わらず保育園の先生をやっているという。さりげなく、本当にさりげなく結婚はしたのかと探りを入れてみたが、そんな様子は皆無だった。恋人らしい恋人もいないと言っていた。兄と、同じだった。

 結局彼等はお互いと言う人間以外に好きになる事はなく、けれど完全に断ち切ってしまった関係が災いしてどちらも繋がる術を見つける事ができなかったのだ。

 あんな奴の事なんか忘れてやる、と言わんばかりにまるで逃げるようにアメリカ行きの特別機に飛び乗った兄の背中。

 そして、それを遠い空の下から見守っていたらしい城之内。

 恋人時代、登場人物をぼかしてデート中にこの話を聞かせたところ、今の妻である彼女は「まるで映画みたいね」と言って微笑んだ。

 その笑顔が、オレの結婚の決定打になったのかもしれない。
 

 
 

 今度、オレの一番目の子供が保育園に入る年になる。その事に気づいたオレは即座に城之内の事を思い出し、あいつの保育園に入れようかな、と何気なく兄の前で言ってみた。それが、兄の前であの日以来始めて城之内、という名前を口にした瞬間だった。

 その言葉を聞いた途端、無表情だった兄の顔があからさまに変化し、彼は突然座っていたソファーから立ち上がると、昔よくやっていた、勢いよくビシッと人を指差すあの癖を丸出しにして
 

「駄目だ!あんな男のいるところへやったらサル以下の人間になる!教育も何もあったもんじゃない!絶対にやめておけ!!」
 

 ……と、力の限りに叫んだのだ。
 

 この瞬間オレは確信した。
 兄はもう、10年前の痛みを引きずってはいないのだと。
 

 
 

「ねぇ、瀬人。明後日、日本ではなんの日だか分かる?」
「藪から棒になんだ」
「バレンタインなんだよ。丁度10年目のバレンタインだね」
「……何の、話だ?」
「これから専用機に乗る前に、一緒にシティのお店に寄っていこうか?オレは貰う方だけど、貴方はあげる方でしょう?今度はすっごく美味しいチョコレートにしてあげて。流石にカカオ99%はマズイよ。もう毒物の域だよ」
「モクバ、お前……一体何を言って」
 

 日本への出発の手配をして、準備が整うまでの一時間。
 久しぶりに兄とのんびりティータイムをしていたオレは、つけっぱなしにしていたテレビに不意に流れたバレンタインのCMを見ながら、そんな事を口にした。

 勿論兄は即座に反応し、一転して強張った顔で、勝手に話を進めるオレの事を見つめたけれど、そんな抵抗はもう意味がなかった。
 

「もう十分待ったでしょ。城之内は、結婚する気がないんだよ。子供も、多分いらないと思ってる」
「モクバ」
「兄サマはずるい、そして酷いよ。何もかもを捨てたフリして、大事に持ってるじゃないか。知ってるよ。そのポケットの中にあの携帯が入ってるのを。もう使えないのに、いらないものなのに、捨てられなかったんだろ」
「………………!」
「素直にならないと体に悪いよ。もう若くないんだしさ。兄サマはいいとして、それじゃあ城之内が可哀想だよ。今からオレの大事な子供を預ける先生が幸せじゃないって悲しいぜ。そうだろ?」
「………………」
「だからさ、兄サマ。オレの言う事聞いて?言う事を聞かないと、また社長命令にするよ?」

 そう言ってオレは立ち上がり、未だ驚愕の表情でこちらを見る兄に手を差し伸べる。

 早くして、出発の用意が出来ちゃうよ。そう言ってもう一度「兄サマ」と呼ぶ。オレが兄に何か頼みごとをする時は時々出てしまう甘えたその口調に、兄が勝つ事なんか出来ないのは知っている。
 

 知っていて、それを繰り返した。何度も。……彼が、立ち上がるまで。
 

 
 

 その後、オレ達は無事日本の土を踏み、兄にとっては懐かしく、オレにとっては御馴染みの童実野町へと降り立った。

 オレの横に立ち、大きな溜息を繰り返す兄が手にする鞄の中にはアメリカで一番人気の店で買った、超高級チョコレートが入っている。今度はオレが味見して買ったから、苦いだけで少しも美味しくないカカオ99%のアレじゃない。中に少しリキュールが練りこんである、柔らかい生チョコ。

 余りにも美味しくて、オレも一つ買って貰った。後で彼女と食べようと思う。
 

 そのチョコレートを手に、兄はあの保育園へと足を伸ばす。
 時刻は丁度午後6時。保育園が終わる時間だ。
 

 あの包み紙を目にした瞬間、城之内はどう思うだろう。……それ以前に兄の姿を見て腰を抜かしてしまうかもしれない。ちょっと観察したいと思ったけれど、オレはその場にいてはいけない人間だから、我慢する。

 けれど事後報告はしっかりとして貰うつもりだ。お膳立てしたのはオレなんだから。

 ちらほらと雪が降ってくる。そういえば日本はまだ真冬だったっけ。こんな夜は久しぶりに家族サービスなんて言って、一ヶ月間留守にしてた償いをしなければならないだろう。そう思い、オレは密かに口元に笑みを浮かべた。

 幸せだなぁ、と思いながら。
 

 その夜、兄から携帯に一通のメールが入ってきた。凄く簡潔で短いそれを目にした瞬間、オレはなんだか泣きたくなった。

 ……けれど必死に我慢して、たった一言、返信をしてやったんだ。
 

『よかったね、兄サマ。お幸せに』
 

 10年後のバレンタインは、誰にとっても……凄く凄く幸せな日になった。


-- End --