Looking for… Act11

 何時の間にか、遊戯の姿が消えていた。

 携帯を握り締め、未だ仕事の話に没頭しながら瀬人はふとした拍子にその事に気づき、自らの置かれた状況に内心舌打ちする。思わず探るように目線だけで辺りを見回すと、こちらもまた突然降って沸いた出来事に戸惑った顔をした城之内と目が合った。

 あの日。屋上で至極些細な、以前の二人から比べれば通常のコミュニケーションよりも大分優しいレベルのやり取りを交わしてしまった日以来、メールや会話は愚か、目線を合わせるのも初めてだった。

 今の城之内に瀬人が積極的に係わり合いになる機会も気持ちもなかったし、城之内の方もあの一件以降何か思う事でも出来たのか、モクバを口実に海馬邸に来る事など勿論なかった。遊戯を間に挟んだ事もあり妙にギクシャクした空気を作ってしまった彼等は、そのままこの場に取り残される事となったのだ。

 気まずい。そうどちらもが口に出さずに思い、それを表情に出さないように必死になっていたその時、唐突に瀬人の電話が終わってしまう。パチンと携帯が閉ざされる音にはっとして瀬人を見ている事すら失念していたらしい城之内が、所在なさ気に少し身体を揺らして視線を反らした。そして誤魔化すように未だ食べかけだったパンを一気に頬張る。

 瀬人はその横に置き去りにしたままだった飲みかけのコーヒーの缶を思い、どうしようかと暫し思案していたが、このままずっと動かずに膠着状態が続いても仕方がないと一人小さな溜息を吐くと、常よりも大分緩やかな足取りで座る城之内の傍へと近づいた。問う様な視線を敢えて無視して、コンクリートに置き去りにされたままだった缶を拾いあげる。すると漸く意を決したのか、城之内が声をかけてきた。

「座んねぇの?」

 未だ気まずさが払拭されない所為か酷くぶっきらぼうに響いたその声に思わず動きを止めた瀬人に、発した本人は少しだけマズイ、という顔をして「あ、遊戯は杏子の用事で少し出てるぜ」と言葉を続けた。

「誘った手前、お前残していくのアレだからって、オレ置いて行かれたんだ」
「そうか」
「あいつ、戻って来るかもって言ってたから……どーする?ここにいる?まだ15分位休みあるけど」
「別に、どちらでも」
「じゃーここで待ってようぜ。遊戯、教室に居るか分かんねぇしさ」
「………………」

 そう言いながらとりあえず座れと言わんばかりに、城之内は自らの横を指差した。それに逆らうのも不自然だと、瀬人は無言のまま腰を下ろす。

 これは絶対に遊戯の策略だ。自分を昼に誘った時点で口元に微妙な笑みが浮かんでいた事から、予め仕組んでいた事なのだろう。何を期待しているのかは知らないが、仮に二人きりにされた所で城之内側に変化が見られない限り何か進展するとも思えない。そんな状態で置き去りにされても戸惑うだけだ。どうしようもない。

 案の定途切れてしまった会話を続ける糸口すら見つけられず、瀬人は手にした缶を握り締めてフェンス越しに見える外の風景を睨んだその時だった。不意にくしゃりと小さな音がして、城之内の手の中で多分パンが入っていたのだろうビニール袋が潰される。同時に、思いがけない言葉が投げつけられた。

「なぁ、瀬人。お前、好きな奴いるんだって?」
「……は?」
「だからー好きな奴がいるんだろ?って」

 余りにも唐突で予想だにしなかったその台詞に、一瞬瀬人の思考がフリーズする。今、この状況で何がどうなってそのような話題が飛び出すのか意味が分からなかった。勿論城之内の考えている事も分からない。一度声をかけたら勢いづいたのかいつもの笑みが戻った相手の顔を凝視して、瀬人は極力過剰反応をしないように気を付けながら、慎重に答えを返した。

「……何故、突然そんな話になる?」
「うん?さっきさ、遊戯がそう言ってたから。お前には好きな奴がいるから、余計な事するなってさ。あいつ、ああいう奴だから遠慮でもしてんじゃねぇのかな。だから、真相を聞こうと思って。そこんとこどうよ」
「どうって……それこそ貴様には関係のない話だろうが。それが余計な事だと遊戯は言っているのではないか?」
「んーでもよー」
「では仮にオレにそういう相手がいたとして、それを貴様が知ったらどうなると言うのだ。遊戯に乗り換えろとでも言うのか」
「え。そ、そんな事は言えねぇけど」
「ならば下らん事を口にするな。迷惑だ」

 ……こいつは一体オレに何が言いたいのだ。意味不明だ。瀬人は思いがけず続いてしまったその話題に内心驚愕しつつ、ふいと彼から顔を背け素っ気無く切り捨てる。よく考えてみれば、自分のいない間に彼に何か入れ知恵をしたらしい遊戯の仕業なのだろうが、強引にそんな方向に持って行った所で何にもならないのだ。

 実の無い会話は逆に疲れる。自分に対して好意の欠片もないような相手に、以前そうだったからと言ってそれを口にして認めさせる、という事を瀬人はこの期に及んでもどうしても良しとする事が出来なかった。

 何の問題もなく上手く行っていた間柄なら多少は考えたかもしれないが、当時でさえ仲のいい関係か?と聞かれれば首を傾げてしまいそうだったのだ。本当は夢でみたあの光景の様に、口には出さなくても心の奥底で嫌気が差していたのではないのだろうかとか、これを期にもっと心の平穏が得られる相手を探した方が彼にとってはいいのではないだろうかとか……そんな事ばかり思い浮かべてしまう。相手の本心が分からない以上、瀬人の思考はマイナスの方向へと傾くばかりで一向にプラスに向かう事が出来なかった。

 こんな気分のまま、まさにその相手と直接対決をしたところで平行線を辿るだけなのは目に見えている。どうしようもない、ただの時間の無駄だ。こんな意味のない会話はさっさと切り上げて、教室へ戻ってしまおうか……瀬人がそう思い、何時の間にか空になった缶を持て余していた時だった。今にも降りそうだった曇り空から、ぽつり、と雨粒が一つ落ちてくる。

「あ?雨?……うわっ!!」

 掌を上向け、城之内が呆けたようにそう呟いた瞬間、空は急激に機嫌を損ねたのか、一気に土砂降りの雨が降って来た。屋根のない給水塔の壁を背に座っていた二人は、勿論瞬時にずぶ濡れになり、慌てて屋根のある出入り口の扉へとかけて行き、扉一枚分の幅しかない狭いスペースに立ち尽くした。短時間とは言え滝のような雨に打たれた彼等は髪の毛は勿論、学ランの裾や袖口からもぽたぽたと雫が落ちる程濡れてしまった。

「ちょ、なんだよこの雨!ありえねーだろ!!座ってたから超びしょびしょじゃん。最悪っ!」
「今朝の天気予報では警報が出てはいたがな。油断した」
「や、油断っていうか前フリなしだったし。……あー、悪ぃ。屋上へ行こうって言ったのオレなんだ。巻き添え食っちまったな」
「別に」
「……あ、こういうのでは怒らないんだ?」
「何がだ」
「うん?だってお前オレが無理矢理あちこち連れ回そうとした時に大騒ぎしてたじゃん。だから」
「不可抗力の場合とそうでない場合とを一緒にするな」
「……?どういう意味?」
「分からないなら流せ。いちいち煩い」
「……わー、むかつくー。お前、そういう言い方はないよ。そんなんだと好きな奴に嫌われちまうぞ。女なんて特にそういうトコ厳しいんだからよ」
「………………」

 全く動かなくても腕同士が触れ合ってしまうほど狭い空間で濡れた前髪をかきあげつつそんな事を口にする城之内の事を、瀬人は目線だけでちらりと見遣った。顔ごと視線を向けてしまうと今置かれている状況上、顔同士が至近距離になってしまうからだ。

 折角扉の前に来たのだからさっさと中に入ればいいようなものなのだが、不幸な事に屋上の扉は外側に開くタイプのものだった。申し訳程度の屋根しかないその扉の前に二人が陣取る形となっているこの状態では、どちら共もう一度雨の中に身を乗り出して扉の前から退かなければ開くことが出来ない。既に濡れてしまっているからとは言え、バケツをひっくり返したようなこの雨の中に再び身を乗り出す事はかなり覚悟のいる事だった。故に二人はどちらもじっと動かずに相手の様子を伺っていたのである。

 そんな状況で元々良くない気分が更に下降している瀬人の気持ちなど全くお構いなしに城之内は何故か嬉々として先程の話を勝手に続ける。またか、いい加減煩わしい。架空の話を一人で勝手に続けるな。ふつふつと湧き上がる怒りと共に瀬人が一言ビシッと言い捨ててやろうとキッと城之内の顔を睨んだ、その刹那の事だった。

 ガチャリ、と不穏な金属音が背後で響く。激しい雨音に紛れてよくは聞こえなかったが、微かに身を預けていた鉄の扉が動いたのだ。それを同時に感じた二人ははっとして顔を合わせた後、取っ手に近い方にいた城之内が慌ててノブに手をかけた。

 すると、案の定、ノブは僅かにも回らなかった。

「うわっ!!誰か鍵かけやがった!!」
「っ!……この天気の所為か」
「た、多分。ここの下すぐ職員室だろ?先公の誰かだと思うんだけど。……ってチャイム鳴ったし!!ヤベェ、どうしよう」

 握り締めた拳で錆びた扉を叩いてみても当然反応などある筈もなく、途方にくれた表情の城之内が僅かに強張った顔でそう声をあげる。

 雨脚は徐々に強くなる一方で、屋根の下に佇んでいても吹き付ける風が容赦なく二人を襲う。

 扉を前に深い深い溜息を吐いた彼等はそのまま無言で立ち尽くす以外術はなかった。
「なぁ、寒くねぇ?」
「……別に」
「こーゆー日に限って気温低くなるとか、ほんと季節って意地が悪ぃよな」
「貴様は先程からどうでもいい事をベラベラと煩いな。少しは黙っていられないのか」
「こんな状況で黙ってたら嫌になるだろ。一人ならまだしも二人なんだし?喋ってた方がいいじゃん」
「オレは話したくない」
「そう言わずにさ。後1時間の我慢だから。5時限目が終わったら遊戯に連絡すっからよ。多分すぐ開けてくれると思うぜ」

 相変わらず横殴りの激しい雨の中、二人は必然的に寄り添いあうような形で扉の前に座り込んでいた。時折変わる風向きの所為で頭上に屋根があろうがなかろうが雨の中にいるのも同然で、既に諦めた彼等は水を含んですっかり冷えて重くなった制服を身体に張り付かせたまま溜息を吐いた。

 呼吸をする度に微かに空気が白く曇る事から気温は大分低くなっているのだろう。すっかり春めいたとは言え、まだまだ朝夕の気温が大分下がるこの時期の事だ。この雨だって、今朝ニュースキャスターが口にしていた春の嵐そのものなのだろう。

 そんな事を思いながら、瀬人は隣の城之内をまるきり無視する形で一人じっと黙り込んでいた。余りにも気分が重すぎて話す事は愚か、目線を合わせる事すら億劫だった。時折触れてしまう腕の感触すら今は不快だった。こうしていると、付き合う前の事を思い出す。お互いに全く意識すらしていなかった、あの頃に。

 思えば、あれからどうして自分達は恋人というものになったのだろう。気が付けばいつの間にか常に痛んだ金髪が視界の端に入るようになり、姿を見れば大半が悪口だったが声をかけられるようになっていた。最初は無視をしていたが、その余りの頻度に煩い、鬱陶しいと応戦し、それに食いついた城之内と言葉の応酬をするようになったのだ。

 最初はかなり距離を開けて、それが段々と縮まって、最後には鼻先が触れる位近くで。そして、ある日突然「うるせぇ、黙れ」と直前まで悪口雑言を吐き出していた唇で己の口を塞がれた。それに驚く間もなく好きだと言われた。意味が、分からなかった。

 それを素直にそのまま口にしたら、口にした張本人も首を傾げつつ「オレも」と呟いた。そして直ぐに「まぁいいじゃん。理由なんて」とあっさりと説明を放棄して、何もかも曖昧のまま抱きしめてきた。思えば、城之内の誤魔化しはあの瞬間から既に手法として確立されていたのだ。

 あれから、どれ位の時が経ったのだろう。然程長くない期間だったが、その間には本当に、数え切れない程の出来事があって。「期間の割にトラブルが多過ぎる」と周囲に呆れられたりしたものだった。その全てを城之内はたった一瞬で失ってしまった。あれほど騒いで、悩んで、怒っていた筈なのに、本当にあっさりと。

「なぁ、瀬人」

 己の横で、暢気に雨空を眺めながら話しかけてくるその声。何時の間にか伸びて来た大きな手。いつもの癖で思わずびくりと身を竦め、僅かに互いの距離を広げる。荒れたその指先が齎すものは常にロクでもない事ばかりで、こちらがどんな様相をしてようが無遠慮に体の何処かを触ってきたり、酷い時には直接肌に触れようとさえしてくる。『この』城之内がそんな事をするはずもないと分かってはいるものの、ついそんな反応をしてしまう自分を、瀬人は心底忌々しいと思った。

「なんだ」
「なんで逃げるんだよー。お前もうちょっとこっち来いよ」
「何故?!」
「ん?さすがに寒いかなーって。隙間空き過ぎだろ。お前手が赤くなってんぞ。こんな状態でもさ、身体くっつけてりゃーちょっとはあったかいじゃん」
「全身ずぶ濡れの状態では何をしても無駄だ」
「そんな事ないって。少なくても一人で震えてるよかましだろ」
「……オレは、男と抱き合う趣味はない!」
「抱きっ……オ、オレだってそんな趣味ねーよッ!」
「ならば近づくな!」
「こんな狭い所で無茶言うなよ。あ、ほら、屋根からはみ出てんじゃん。いーから来いって!」
「うわッ!やめろ凡骨!!」

 出来る範囲で精一杯身を引く瀬人の動きにさすがにカチンと来たのか、伸ばした手で強引に眼前の腕を掴んだ城之内は、そのまま強くその腕を引き寄せる。逃げ腰だった事と、元より腕力には差がある彼の行動に抗う素振りを見せていた瀬人だったが、結局力負けしてしまい殆ど体当たりのように城之内の方へと倒れこんだ。拍子に、濡れて重くなった前髪が乱れて額に張りつく。腕を握る骨ばった手の感触が妙に懐かしいと思った。

「あ、ごめん。強く引っ張りすぎた?本当に全身びしょびしょだなー」

 そんな瀬人の頭上……正確には仰向けになった顔の直ぐ上に大きく映りこんできた城之内がやはり暢気にそんな事を言う。自分も同じようにずぶ濡れで、重く垂れた前髪からぽたぽたと雫を垂らしている癖に、目を覆う形となってしまった瀬人の方が気になるのか、本当に何気なく空いた手で瀬人の髪をかきあげる。

 額に触れる硬い指。間近にある琥珀の瞳。倒れこんだ状態故に背に感じる余り柔らかくはない体の感触。紛れもなくこれは城之内だ。何一つ変わりがない奴そのものだ。その言葉も、態度も、何もかも違わないのに、ただ一つだけ……その瞳に映り込む自身に対する感情が違う。ただ何気なく視線を落としてくるその顔を、瀬人は殴りつけてやりたくなった。

 そんな事は、とても出来ないけれど。

「……離せ」

 暫くの間、二人は何故かそのまま互いの顔を見つめていたが、やがて業を煮やした瀬人が余りにも不自然なこの体制と、城之内の視線にいたたまれなくなり、小さく抗議の声を上げた。しかし、城之内に動く気配はない。それどころか、瀬人の腕を掴む手の力が若干強まった気さえする。ぎゅ、と握り締められた彼の指の間から、瀬人の制服に染み込んだ水分が滲んで流れた。

「城……」
「お前の目ってさー」
「何?」
「すんごい綺麗な青なんだな。こうして見ると……表現がアレだけど、宝石みてぇ」
「!!……何を言っている。いいから離せ」
「や、別に。珍しいな、と思って。それにやっぱくっついてるとあったかいじゃん。暫くこのまんまでいようぜ」
「?!冗談じゃない。離せ!」
「やだ。別にいいだろ、減るもんじゃないし」
「そういう問題ではない!オレは嫌だといってるんだ!」
「あーもー煩いなー。あんまり煩く言うと、その口塞ぐぜ」
「ふざけ……っ!」

 突然投げつけられた城之内の言葉に、瀬人がおぼろげにデジャヴを感じたその時だった。抗議をしようと大きく口を開こうとした瀬人の視界一杯に、城之内の顔が映り込む。

 その刹那、本当に開きかけた唇を塞がれた。

 多分、城之内の、唇で。

「!!………………」

 瞬間、瀬人の喉奥から引き攣った声が上がったが、雨音に掻き消されて城之内の耳には届かなかった。

 本当に、一瞬の出来事だった。