Looking for… Act12

 どうしてそんな事をしようと思ったのか、それは城之内にも分からなかった。

 ただ目の前でひたすら表情を硬くするその顔を見ていたら、何故かそうしてやりたいと強く思ったのだ。

 話したくないといいつつ拒絶の言葉だけはすらすらと吐いて、自分に身体を寄りかからせて居る癖に決して力を抜こうとしない。そして、こちらをきつく睨み上げて来る鮮やかな青。本当に綺麗だ。その色に気づいた瞬間に思ったその事を素直に口に出しただけなのに、それすらも不快だと言わんばかりに眉を潜めたその姿にほんの少しだけ苛立った。どうしてそんなに嫌な顔するんだよ、内心そう吐き捨てつつ、未だ挑む様に睨んで来るその顔や、本当に小煩い口を塞いでやろうと思ったのだ。そこまではまあいい。

 ……それを何故、手ではなく唇でしてしまったのか……問題はそこだった。
 

「やめろ馬鹿がッ!」
「いてッ!!」
 

 そんな事を瀬人の唇に触れたままの体制で考えていた城之内だったが、次の瞬間顔面全体に広がった強烈な痛みに思わず上体をバネのように跳ね上げた。城之内の突然の行動に心底驚愕した瀬人が、反射的にその顔を押しのけるべく掌を思い切り叩きつけたのだ。ジン、と痺れる様な痛みが鼻を中心にじわじわと広がっていく。それに身悶える間もなく、瀬人の身体は即座に城之内から離れてしまった。立ち上がり、扉の前から遠く離れる。乱れた靴音が、ばしゃりと雨水を跳ね上げて瀬人は横殴りの雨の中に立ち尽くした。

「っくーいってぇ!お前ッ、叩く事ないだろうがっ!」
「自分のした事を棚に上げてふざけた事を言うな!!死ね!」
「な、なんだよ。そんなに怒る事ねぇだろ。弾みだったんだから!」
「貴様は弾みで男に対してああいう真似が出来るのか!この変態が!!」
「へ、変態とか言うな!そりゃ、オレもちょっと吃驚したけど。でもよ!」
「でもも何もないわっ!最悪だ!」
「ちょ、そんなに擦る事ないだろ、人を黴菌みたいに……っつーかお前そんな所に立つなよ!こっちに来い!」
「誰が行くか!」
「もう絶対しねぇから来いって!」
「嫌だ!」
「嫌だじゃねぇって。ほら!」

 こちらから思い切り距離を開けて風雨の中必死に袖で口を拭うその姿に、城之内の中で少しだけ燻っていた怒りにも似た感情に火が点る。徐々に後ずさっていく瀬人を鋭く睨みあげた彼は、直ぐ様座っていたその場所から立ち上がり、自らも雨の中に身を乗り出してその腕を捕まえた。頬を叩きつける雨が冷たくて痛みを感じる。段々酷くなって来やがった。その体制のまま未だ真っ黒な空を見上げて、城之内は盛大な舌打ちをした。その刹那、腕を掴んだ手を強く振り解こうとする動きに、はっとする。

「瀬人!」
「オレに触るな!」
「ああもう!……ったく言う事聞かねぇ奴だなッ!!」

 こちらはただ純粋にこの冷たい雨の中に立つなと言っているだけなのに、余りにも激しい拒絶をする彼に、いい加減堪忍袋の緒が切れかけた城之内は、それ以上何も言わず、ただ強くその腕を引いた。勿論即座に反抗されたが、それでも構わず思い切り力を込めた。相反する力が鬩ぎ合い、繋がった箇所が僅かに震える。が、やはり腕力では城之内が上を行き、瀬人は敢え無く再びその腕の中に納まってしまう事になるのである。

 反動で、2,3歩よろめきながら、二人は結局元の場所へと戻ってくる。ドサリと音を立てて腰を下ろす頃には、両者とも僅かに息が上がっていて、捕らえた手と捕らわれた腕は微かに痺れて感覚が半分無くなっていた。

「……む、無駄に疲れた……お前、案外力あるんだなー今度腕相撲してみねぇ?」
「……離せ!腰に手を回すな!」
「まだ言うか。さっきのはごめんって。もうしねぇから大人しくして。頼むよ」
「………………」
「……よくよく考えたら、さっきのって……えと、アレだよな。キス?……そりゃ、男からキスされたら気持ち悪いし、嫌だよな。マジごめん。なんでオレ、あんな事したんだろ」
「………………」
「何か言えよ。寂しいじゃん」

 城之内は何時の間にか険しい表情で俯いて口を閉ざしじっと黙り込んでしまった瀬人を伺うように少し顔を傾けて横からその様子を覗き見た。栗色の髪から流れ行く幾筋もの雨水は、白い頬を伝って顎から滴り落ちている。彼はつい数秒前まであれだけ大騒ぎをしていた筈なのに、それが嘘のように身動き一つ、呼吸一つしていないかの様に沈黙している。捕らえたままの身体も、先程のような強張りは殆ど取れて、逆に脱力したかのように城之内に寄りかかっていた。この変化は何なのだろう。

 また一つ、城之内の中に謎が生まれる。

「なぁ、瀬……」
「気持ち悪いか」
「……えっ?」
「貴様が今やった事は、気持ち悪い事なのかと聞いている」
「………………」

 余りにも長い沈黙に耐え難くなった城之内が、特に話す事も決めずに話しかけようとしたその時だった。不意にそれまで無反応でいた瀬人の方が先に口を開いた。まるで呟くような小さなその言葉は、先程城之内が瀬人に向かって言った台詞の反駁だった。城之内は最初その質問の意図が分からず小さく息を飲み眉を寄せたが、まるで答えを急かすように視線さえもこちらに向けてくる瀬人の顔を見ているうちに、ようやくその言わんとする所を理解する。

「……ああうん。……そう改めて聞かれるとアレだけど……気持ち悪いだろ?」

 気持ち悪いか、と聞かれれば、気持ち悪いだろ、と応えるしかなかった。そうでない、と応えてしまえば、自分は瀬人の言うとおりの『変態』に分類されてしまうかもしれないと思ったからだ。男が男に……なんてよく考えなくても普通はしない。今までは思いつきもしなかった。少し前に遊戯と話したあの時に口にした「男に対しては好きという感情すら持てない」という言葉は紛れもない本心だったし、今でも勿論そう思っている。

 けれど。

 弾みとは言え、瀬人にキスをしてしまったのも事実で。絶対に口には出来なかったが、決して嫌でも、気持ち悪くもなかったのだ。今こうして瀬人の身体を抱きこんでいる状態も同じように嫌ではない。冷静に考えればこんな事は通常では決してありえない事態だ。しかし、やめようとは思わなかった。

 なんだか矛盾している。

 さすがの城之内も今までの自分と今の自分に盛大なズレが生じていることを自覚してはいたが、現段階ではどうする事も出来なかった。

 酷く、気分は落ち着かないけれど。

「……そうか。そうだな」
「なんで、そんな当たり前の事聞くんだよ。お前だってそうだろ?」
「………………」
「だから、すっげー嫌がったんだろ?」

 何時の間にか再開された会話に元より重い空気が更に重くなっていく気がする。瀬人は相変わらず先程の威勢は何処かに消えて、城之内にとってはもういい加減に流して欲しい話題を静かに続ける。……こいつ、一体何が言いたいんだろう。再び俯いてしまったその顔に問いかけるように同じ言葉を繰り返す。また、沈黙が訪れる。至極居心地の悪いそれに、城之内が未だしっかりと捕らえたままの瀬人の腕を握りなおそうとした、その時だった。

 雨音に紛れるように、低い声が耳に届く。
 

「── ああ。凄く、嫌だった。…最悪だ」
 

 その言葉と共に、抱きしめた体が再び硬化していくのを感じた。指先が痺れる位に冷たくなる。

 遠くで、チャイムが鳴る音がした。

 5時限目が、終わったのだ。
『海馬くん?もしかして、君達まだ屋上にいるの?!』
「あぁ。中から鍵をかけられてな。校内で遭難中だ」
『この嵐の中一時間も外にいたの?!早く連絡くれれば良かったのに!待ってて、直ぐ行くから!』
「来る時タオルを持ってきてくれ。ずぶ濡れだ」
『うん、分かった!』

 雨音の所為で遠くに聞こえたチャイムが鳴り止む前に、瀬人が突然震えたポケットの中の携帯を取り出した瞬間、聞こえてきたのは遊戯の甲高い声だった。余程携帯に口を近づけて話しているのか煩い位に響くその声に、瀬人はどこか救われた気持ちになりつつ、会話の終了と共に閉じた携帯を握り締める。

 ぽたぽたと水が流れ落ちる程濡れたそれを再び耳に戻し、ここから出たらすぐに帰れるよう運転手に連絡を取り直ぐ様ポケットにしまい込み小さな溜息を一つ吐く。

 携帯が鳴ると同時に城之内の傍から立ち上がった瀬人はそのまま扉に寄りかかり眼下の彼の方を見ようとはしなかった。城之内の方は何か言いたげにこちらを見あげる素振りをしたが、敢えて気づかない振りをした。これ以上、話す気力もなかったからだ。

 無意識に右腕で唇を擦る。何度も何度も、苛立ちを込めて濡れた布で擦りあげる。途中微かに痛みを感じ擦過傷が出来た事に気づいたが、それでも止める事が出来なかった。
 

『……気持ち悪いだろ?』
 

 遠慮がちに吐き出されたその言葉に、何故か酷く胸が痛んだ気がした。今まで特にどうとも思わなかったが、確かにそれは気持ちの悪い行為なのだ。ならば何故数分前の、そして過去の貴様はその気持ちの悪い行為をオレにしてきたのか。幾ら記憶を無くしているからと言って、感覚までも全てリセットされてしまうものなのか。もう訳が分からない。希望も持てない。

「瀬人」

 眼下から声が聞こえる。聞きなれない呼び名で呼ばれる事も、いい加減慣れてしまった。この先これまでと違う色々な事に慣れていかなければならないのだろうか。そう思いきつく拳を握り締めたその時、唇を拭っていたその腕を強く掴まれた。何時の間にか同じ様に立ち上がっていた城之内と目が合う。

「瀬人!お前、血ぃ出てるぞ!やめろよ!」
「…………っ」
「すげー嫌だったのは分かったから。悪かったよ」

 その言葉に自然と力が抜けてしまった瀬人の右手を緩やかに解放し、城之内は直ぐ様身体ごと横に移動する。そして未だ降り止む気配がない雨空を見上げて黙り込んだ。少し手を伸ばせば簡単に届く位置に互いに立っている筈なのに、その距離は酷く遠い。沈黙が冷えた身体を余計冷たく感じさせる。寒い。つい先程まではそんな事は露ほども思わなかったのに、瀬人は急にその寒さを自覚した気がした。

 不意に、ガチャリと鈍い金属音が空に響く。

 同時に聞こえた扉を叩く音と、聞きなれた遊戯の声に二人は同時に扉の前から身を離した。

「城之内くん、海馬くんっ!早く中に入って!」

 間髪入れずに内側から開いた鉄の扉。そこから勢いよく身を乗り出した遊戯は左右に立ち尽くす二人を交互に眺め、同時に濡れた彼等の手を取り思い切り中に引き入れた。鈍い水交じりの靴音や扉が閉まる重い音が、乾いた階段の踊り場に木霊する。

「うわっ、冷たっ!本当にびしょ濡れじゃない!二人とも大丈夫?!はい、これタオル。……あーこれじゃあ意味ないかも。着替え持ってきてあげれば良かったね」
「……サンキュー」
「とりあえず着替えた方がいいよ。授業はもう終わったし、教室行こうか?海馬くんも……って海馬くん?!」

 遊戯が城之内の方を向きながら城之内が派手に撒き散らす水飛沫を辛うじて避けていたその時だった。背後で同じようにタオルで水気を拭っていた筈の瀬人が、使用済みのそれを綺麗に畳み込み、無言のまま遊戯に押し付けてくるりと背を向けた。そしてさっさと階段を下りていくその姿に思わず遊戯は大声で名を呼んでしまう。その声に一瞬振り向いた瀬人はちらりと遊戯を一瞥するとまるで吐き捨てるようにこう言った。

「オレはこのまま帰る。既に車を待たせてあるからな」
「えっ?!だって鞄は?!それにそんな格好で!」
「持ち歩かねばならないものなど入っていないからどうでもいい」
「待ってよ、海馬くん……海馬くん!!」

 それきり何も言わずに呼ぶ声すら無視する形で階下に消えていくその姿を、遊戯はただ呆然と見つめている事しか出来なかった。手の中にある白いタオルは今にも水が滴りそうなほどぐっしょりと濡れそぼり、瀬人が降りていった下へと続く階段には転々と水たまりが出来ていた。

 あんな格好で運転手の元へなどいったら、一体何があったのかと追求されはしないだろうか。それよりもこの寒い陽気に風邪など引かないだろうか。瀬人を見送るべく手すりから身を乗り出してそんな事を考えていた遊戯は、不意に背後にいる全く同じ状況にある城之内の事を思い出した。くしゅん、と彼にしては可愛らしいくしゃみが聞こえる。

「あ、ごめん。城之内くんも風邪を引いちゃうよね。早く、教室に帰ろう?」

 既に気配すらなくなった瀬人の事は一先ず置いておいて、遊戯は目の前にいる彼の面倒を優先する事にした。こちらも最初に口を開いた以外、じっと黙り込んだまま立ち尽くしていて、寒そうに自らの身体を両手で抱きしめている以外は特に変化はない。しかし、タオルの隙間から見える瞳は遊戯ではなく別の方向を見つめている様だった。

 ぱさり、と頭を覆っていたそれが肩に落ちる。生乾きの金髪を乱雑にかき上げて、城之内は漸く遊戯の言葉を聞いたようにこちらを見た。

「……遊戯」
「後でここモップで拭かなきゃ駄目かなぁ……びしょびしょだね。とにかく、着替えが先だけど……城之内くん、確かジャージ、ロッカーに入れっぱなしだったよね?」
「………………」
「?……城之内くん?」

 相変わらずぽたぽたと雫が滴るその姿を眺めながら、遊戯が特に慌てもせずにいつもの調子でそう話していたその時だった。常ならば軽い調子で答えを返してくる彼が、何か思いつめたような顔をして、重々しく言葉を紡ぐ。ついで、深い溜息が一つ。項垂れたその姿も相まって酷く落ち込んで見えるその様子に、遊戯は初めて何か変だと気がついた。

 そういえば、今の瀬人の態度もどことなくおかしかった。二人きりにされた屋上で何かあったのだろうか?その態度から想像するに決して良くはない、何かが。

「……どうしたの城之内くん。屋上で、海馬くんと何かあった?」
「………………」
「黙ってちゃ分かんないよ。あ、もしかして喧嘩でもしちゃったとか……」
「……喧嘩なんかしてねぇよ」
「じゃあ、何を……」
「キス」
「えっ?!」
「瀬人に、キス、した」

 人気のない静かな空間で、途切れ途切れに吐き出されたその言葉に遊戯の瞳が驚きに大きく見張った。今彼はなんと言っただろうか。瀬人にキスをしたと、そう言ってはいなかっただろうか。もしや、記憶の一部を取り戻して、恋人関係を思い出しでもしたのだろうか。彼から突然齎されたその言葉に、遊戯の心が期待に少し弾みかけたその瞬間。

 続けて紡がれた掠れる様な小さな声に、その希望は直ぐに小さな落胆に取って変わったのだ。

「やる気でやった訳じゃなくて、ちょっとした弾みだったんだけど。あいつすげー怒って」

 ギリ、と強く拳を握り締める音がする。同時に城之内の体が、小さく縮んだ。屑折れるように、その場にしゃがみ込んでしまったのだ。そして。
 

「……なんで、あんな事しちまったんだろう」
 

 後悔に塗れたくぐもったその声は、微かに響いて直ぐに消えた。