Looking for… Act13

 ── 気持ち悪いだろ?

 そう口にしたのは、瀬人がそうだろうと思ったからだ。自分は気持ち悪くはなかったけれど、普通は男からのキスなんて絶対に気持ち悪い筈だ。現に元から強張っていた白い顔は、キスをした瞬間酷く歪んで、まるで弾き飛ばすように掌を叩きつけて来たし、触れてしまったその箇所を血が出る位強く擦って拭おうとしていたじゃないか。

 そんなに嫌がる事ないだろ。そう、思ったけれどそれが普通の反応だと言う事も分かっていた。自分だって男からそんな事をされたら殴り飛ばす位はしてしまうだろう。分かっている。分かっているのに、何故か……何故か分からないけれど、してしまったのだ。そして、嫌がられた事に多大なショックを受けたのだ。

 馬鹿みてぇ。

 視界一杯に広がるくすんだ床を見つめながらそう呟く。自ら滴り落ちた水で出来た水溜りに映る自分の顔に少しイラつく。一体なんだってんだ。この間から変な事ばっかりだ。嫌なのはオレの方だ、訳分かんねぇ。

 ぎゅ、と掴んだ腕に痛みを感じ、俯いていた所為で頭に血が上ってくらくらし始めたその時だった。不意に、すぐ傍に立っていた遊戯の腕が伸びて来て、二の腕を掴んでくる。そして、さほど力を入れずに引きあげる素振りを見せ、城之内はそれに従った。ゆっくりと、立ち上がる。

「城之内くん。とりあえず、教室に行こう?ここ職員室の近くだし、先生が出てきたら困るよ?」

 優しく語りかけるようなその声に頷く事で答えを返し、先を行く遊戯の後についていく形で階段を降りていく。濡れたゴム底がバシャバシャと嫌な音を立てるのに眉を顰めながら、徐々に生徒の騒ぎ声で騒々しくなって行く空気にどこかほっとした。肌に感じる暖かさと目に眩しい教室の明かりに、城之内は漸く俯けた顔をあげる。

 この教室には幸か不幸か他の生徒は誰も居なかった。机の上に置き去りにされた鞄がちらほらと有る事から皆たまたま外に出ているのだろう。教室の隅にある瀬人の机の横にも彼が所持してきたらしい鞄がかけっ放しになっていた。本当に、あのまま帰ってしまったらしい。

「本田くん達は君と海馬くんが二人して午後からの授業をサボったと思ってて……掃除でもないし、先に帰っちゃったんだ。えっと、城之内くんのロッカーってどれだっけ?」
「……いい、自分でやっから」
「じゃあ僕、濡れた床を拭いて来るね。教室まで続いてるからすぐバレちゃうし……」
「待てよ遊戯」

 とりあえず城之内を教室に引き入れて、ロッカー前まで連れてくると遊戯は直ぐ様掃除用具入れを開けてモップを取り出しながらそう言った。立て付けの悪い細い鉄の扉がギシギシと音を立てて閉ざされる。その様を特に見るでもなく、視線をどこかぼんやりとさ迷わせていた城之内は、不意にしっかりと遊戯を見て、先程よりもかなり強い口調でその名を呼んだ。

「何?」
「お前、さっきオレに言ったよな。オレは瀬人の事を知ってる筈だって」
「………………」
「あいつ、一体何なんだよ。オレの何?お前や本田と同じように、友達だったのか?」
「……何?突然どうしたの?」
「何でオレ、あいつの事分からないんだ?友達なら知ってる筈だよな?でもオレには全然覚えが無い。KCの社長だって事も、モクバの兄貴なんて事も、クラスメイトだった事さえ分んねぇよ!何で!?お前、何か知ってるんだろ?!知ってるんなら教えてくれよ、頼むから!!」
「城之内くん」
「……嫌じゃなかったんだ」
「え?」
「あいつにキスした時、嫌だって思わなかったんだ。こんなの、おかしいだろ!瀬人は男なのに!他にも、なんか覚えが無いもんが時たま頭ん中チラついて、気持ち悪くて……オレ、もう何がなんだか分かんねぇよ……!」

 真っ直ぐな瞳で遊戯を睨むように捕らえながら、苦し気にそう叫んだ城之内を驚きのまま見返して、遊戯は思わず手にしたモップを強く握り締めてしまう。

 やっぱり一部の記憶を失ったのは一時的な事だったんだ。現に彼は思い出しかけているじゃないか。

 遊戯はじっとその姿を見つめたまま、暫くの間逡巡した。ここで答えを与えてやるのは簡単だ。実は君は海馬くんの恋人で、一時的にそれを忘れてしまっていて。断片的な記憶は全てそれに起因するもので、キスをしてしまったのも多分それの一環で、本当はキスどころかもっと先まで進んでるんだよ、と。

 けれどそれを伝えた事で、城之内にどう影響するかまでは予測は付かない。ああそうだったのかと納得されてしまうか、ありえない、と全否定されてしまうか。そのどちらに転んでも遊戯にとっては余り好ましくない結果だった。第一瀬人がそれを望まないのだ。幾ら本人に乞われた所で、やはり一番重要な事を自分の口から伝える事は出来なかった。

 遊戯は気持ちを堪えるように小さな溜息を一つ吐くと、柄を握り締めた手の力を少し緩める。そして、幾分柔らかな声で城之内の名を呼んだ。

「城之内くん。今日はこれからアルバイト?それともオフ?」
「は?」
「どっち?」
「え?……あー、今日はシフト入ってねぇけど……って!!そんな事どうでもいいじゃねぇか!オレの質問に答えろよ!」
「そう。じゃあ海馬くんの鞄、海馬くんの家まで届けてあげてくれるかな」
「何言ってんだよ遊戯!お前っ……」
「ごめんね。やっぱり、僕の口からは何も言う事は出来ないよ。城之内くんが本当に知りたいと思ってるんなら、直接海馬くんに聞いてみて欲しい」
「なっ……無理だよ!」
「どうして?喧嘩した訳じゃないんでしょ?だったら会いに行けるでしょ。それに、してしまった事が本当に悪い事だと思ってるなら、ちゃんと海馬くんが許してくれるまで謝らなくちゃ。こういうのって時間が経てば経つほど気まずくなるし」
「でっ、でもよ……」
「城之内くんだって、このまま放って置いたら気になるでしょ?僕にどうしても行って来いって言われたって、言っていいから」
「………………」
「ね?」

 遊戯が戸惑いがちの琥珀の瞳をしっかりと捕らえてお願い、と小さく小首を傾げてやると、城之内は殆ど仕方なくといった風情でほんの微かに頷いて見せた。必要なのはきっかけであり、真実ではない。そう思った遊戯はその顔を見て笑顔で大きく頷くと、今度こそ階段の後始末をする為にドアに向かって歩き出した。

「大丈夫。直ぐに分かるよ、絶対」

 そう力強く口にして、最後に「早く着替えてね」と言い残すと、遊戯の小さな足音は、モップが床を擦る音と一緒に遠ざかった。

 一人残された城之内は、未だすっきりとしない気持ちを抱えたまま、とりあえず濡れたこの制服を脱いでしまおうと自分のロッカーに手をかけた。

 雨はまだ強く降っていて無人の教室に耳障りな音を響かせていた。
『あ、モクバくん?今日ね、城之内くんそっちに行くんだけど、大丈夫?』
「えっ。今日?ああうん、家は別にいつでも大丈夫だけど……なんでお前がわざわざ電話寄越すんだよ。そういえば兄サマ今日学校行ったんだっけ?また何かあったのかよ」
『うん、今日のは結構大事件、かな』
「えぇ?!」
『海馬くんはまだ帰って来てないの?』
「兄サマは多分仕事をしてから帰るだろうから、夜まで帰って来ないぜぃ」
『そっか。じゃあ海馬くんが帰ってくるまで城之内くんを引き止めておいてくれる?絶対二人を合わせて欲しいんだ。もう少しなんだよ!』
「何が、もう少し?」
『城之内くんが、海馬くんの事思い出しそうなんだ。あ、それで、城之内くんが色々と聞いてくるかも知れないけど、全部知らない、で通して。多分モクバくんも言われてるかも知れないけど、海馬くんが……』
「うん。分かってる。オレから余計な事は何も言わないよ。でももうちょっとなんだ?良かったー。オレどうなるかと思ったぜぃ。兄サマ大分落ち込んでたし。城之内はアレから顔見せなかったしさ」
『僕も気が気じゃなかったよ。誤解されるし』
「あはは。お前にも苦労かけたなーありがと」
『まだ、分からないけどね。ここから先は僕達は触れないから』
「大丈夫じゃないかな、きっと」
『僕もそう思ってるけどね』
「……あ、タイミングよく来たみたいだぜぃ。後は任せろよ、上手くやっておくからさ」
『うん。頼むよ、モクバくん』
 
 

「よ、モクバ。久しぶり」
「城之内!久しぶりー!って、何だよお前ずぶ濡れじゃん!傘はっ?」
「一応傘は差してきたんだけど、学校出る時からこの状態だったから、あんま意味無くてよ。……瀬人は?」
「兄サマならまだ会社だよ。そのうち帰ってくるから、とにかくその格好をなんとかしろよ。風邪引くぜぃ」
「……あー。いないんならいーや。鞄持って来ただけだから。これ、瀬人に渡しておいてくれよ」
「え、それだけ?兄サマに会いに来たんじゃないの?」
「ああうん。まあ瀬人に用はあるんだけど。居ないんなら……こんな格好だし」
「今更何言ってんだよ。だったらお風呂にでも入って待ってれば。寝ててもいーし。この時間に来たって事は今日はバイトないんだろ?泊まってったら?」
「や、でもよ……」
「いーからいーから。お腹も減ってるだろ?なんか持ってきてやるから、『いつもの部屋』で好きにしてていーぜ。お風呂使えるようになってるし。こっちこっち」
「………………」
「あ、濡れた制服後で出せよ。すぐクリーニングするから。ああもう何ぼーっとつっ立ってるんだよ。早くする!」
「いてっ!分かったよ!」

 ぽん、と言う効果音で表現するには余りにも強い一撃を背中に浴びて、城之内はモクバに促されるまま歩き慣れた廊下を、いつもよりも大分ゆったりとした歩みで歩いていく。

 結局あの後着替える事もせずに教室を出てしまった城之内は、濡れてずっしりと重い制服姿のまま海馬邸へとやって来てしまった。大きな門から大分距離がある玄関まで何度も戸惑うように往復してしまい、ついには帰ろうかと背を向けて一旦外にまで出てしまったが、遊戯と堅く約束してしまった事もあり、結局は逃げ出す事も出来ずにインターフォンというには高性能な機械に手を伸ばしてしまった。

(瀬人と会ったって、何をどう聞けばいいんだよ……)

 先を行くモクバの小さな背中を眺めながら城之内は未だ邸内に足を踏み入れた事を後悔した。確かに遊戯に言ってしまったとおり、ここ数日間に己の身に起きた不可解な現象の原因を知りたいとは思う。それに瀬人が関わっているという事は、周囲の様子から既に明白だ。全てを明らかにする為には瀬人本人と話をしなければならない。それも分かっている。

 けれど、自分は瀬人を多分傷つけてしまったのだ。こんな状態で一方的に自分が抱えている疑問をぶつけてしまうのは気が引けた。それに、あんな事があった後で直ぐに顔を合わせるというのも酷く気まずい。やっぱり嫌だ、帰りたい。今からでも「今日はいいや、帰る」と言って逃げてしまおうか。そう思い、少し距離が離れたモクバに声をかけようとしたその時だった。

「なぁ、モクバ。やっぱりオレ……」
「駄目だよ、城之内。遊戯と約束したんだろ。兄サマと話をするって」

 城之内が言葉を発するより早く、くるりと後ろを振り向いたモクバは、その先を封じるように声を重ねた。まるで城之内からその台詞が出る事を予期していた様に。

「え?、な、なんでお前がそれを……」
「オレは何でも知ってるんだぜぃ。逃げようったってそうはいかないよ」
「に、逃げようとなんてしてねぇよ。つか、知ってる?……お前、何処まで知ってるっていうんだよ」
「さぁね。それは内緒」
「……っ!知ってるんなら……」
「うん?」
「知ってるんなら教えろよ。お前も遊戯も自分達ばっか知ってるフリしやがって!意地悪すんな!」
「意地悪とか言うなよ。オレも遊戯もお前に意地悪なんてしてないぜぃ。大体、お前それを聞きにここまで来たんだろ。お前こそオレに聞くとかそういうズルするなよ」
「だって……!……もーいいや。分かったよ」
「城之内」
「……なんだよ」
「兄サマは……瀬人は、最初からオレの兄サマだよ。そりゃ、ちょっと似てないかもしれないけど本当に血の繋がった兄弟なんだ。嘘なんか言ってない」
「………………」
「ここからはもう分かるだろ。じゃあオレ、ちょっと行って来る」

 最後に当初の威勢の良さとは裏腹にモクバは少しだけ目を伏せてそう口にすると、城之内を一人残して別方向へと足早に消えてしまう。ここから少し歩いた先にある階段を上がれば、豪奢な白木の扉が現われる筈だ。この家に来た時には、必ず利用するあの部屋の。

 モクバの言葉にすっかり脱走する気力も失った城之内はそのままのろのろとした歩みで階段を昇って行き、件の部屋まで辿りついた。常と同じく施錠などされていない取っ手に手をかけ、難なく開いたその間から滑り込む。人の気配を感じると自動で点灯する明るいルームランプに照らされて、瀬人の鞄を抱えたままの彼は、大きく溜息を吐きながらその中央へと歩んで行った。

 塵一つ、生活感すら薄い見慣れた室内。瀬人の鞄を中央にあるテーブルの横に置き、濡れた身体のままオフホワイトのソファーに腰を下ろすのも気が引けて、とりあえず言われた通りシャワーでも借りようと寝室へ続く扉にへと向かう。日本の屋敷の癖に土足で歩き回れる怖いくらい磨き上げられた床に滴り落ちる雨水を悪いと思いつつ、閉ざされたそれに手を伸ばそうとした瞬間、視界の中に入ったあるものに目を瞠った。
 

「!!……ブルーアイズ」
 

『海馬くんはブルーアイズの持ち主なんだ。レアカードってだけじゃなくって、ブルーアイズそのものが凄く好きみたい。ああ見えてブルーアイズグッズとか、結構持ってるんだよ』
 

『お前がその子にプレゼントしたいって言ってたブルーアイズアルティメットの縫いぐるみ』
 

 殺風景な室内にひっそりと、けれどさり気なく存在感を主張しているその存在。扉の横にあった青硝子で出来た置物の一つを凝視しながら、城之内は背に冷やりと汗を掻いていた。ブルーアイズ、覚えの無い彼女、知っている筈なのに知らない男、どう考えても一致するそれらの符合。けれど。

 やはり覚えが無い。思い出せない。

「ああもう!何なんだよ!」

 急激に覚えた悪寒にも似た居心地の悪さを払拭すべく、城之内は直ぐにそれから顔を背けて思い切り良く扉を開けた。暖かな空気が冷えた身体に纏わりつく。

 どこか居心地の悪いそれを払う様に首を振り、彼は直ぐにシャワールームへと飛び込んだ。