Looking for… Act14

 瀬人が屋敷に着いたのは辺りもすっかり暗くなった午後8時過ぎの事だった。相変わらず音を立てて振り続ける雨を鬱陶しく思いながら、差し出された傘を無視する形で車から然程距離の無い玄関へと早足で歩く。

 結局昼間の一件の所為で仕事に集中できず、途中で放り出す形となってしまった。それだけでも十分忌々しいのに、気分転換にと差し出された飲み物を飲む際、擦り過ぎて傷になってしまった唇が痛んで、腹立たしさに拍車が掛かった。

 何時までこんな事が続くのだろう、もう限界だ。このまま何もかもを疲弊させて行く位なら、やはりいっその事全てリセットした方が楽になるのではないか。

 動かない指をキーボードに置いたままそんな事を考えていた瀬人は、社から家までの移動時間中その意思を着実に固めてしまい、帰ったらモクバを始めとする自分達の関係を心の底から案じてくれていた面々に、自らのこの決断を打ち明けてしまおうと思っていた。きっと猛烈な反対に合うだろうが、結局は瀬人自身の事なのだ。本人が決めた事を周囲の人間がどうこう言う権利はない筈だ。半ば自棄に近い思いだったが、それほどまでに瀬人はもう疲れて果てていた。これ以上足掻こうと言う気力もなかった。
 

「兄サマ、お帰りなさい!!」
 

 そんな心の内が素直に顔に出てしまい、大分不機嫌な様相で屋敷内に足を踏み入れた彼は、常と同じく出迎えの為に控えていた使用人の顔を眺めもせずに、さっさと自室へ引っ込んでしまおうと思っていたその時だった。瀬人の帰宅を聞きつけたのか、何故か酷く慌てた様子で姿を見せたモクバが、自室である二階から猛スピードで駆け下りて来た。

 階段で走ると転ぶぞ、その顔を見た瞬間、開口一番に言ってやろうと思ったその言葉は、彼の勢いのあるダイレクトアタックで封じられてしまう。いきなり腕の中に飛び込んで来た小さな身体に、不意を突かれた瀬人は思わず一歩後ずさってしまう。

「っ!……なんだ、モクバ!急に……っ!」
「あ、ごめんなさい。兄サマ帰ってくるの遅いんだもん。もうちょっとしたら携帯に連絡するところだったんだぜぃ」
「……特に遅く帰宅したつもりもないが、今日はお前と何か約束をしていたか?」
「ううん、そうじゃないんだけど。……あ、ゴメン、ちょっと外して」

 広い玄関ホールの中央で行われていたそのやり取りは未だ瀬人を迎える形で立ち尽くしている使用人達に見守られる形になっていて、さすがにバツが悪いと思ったのかモクバは少しだけ申し訳なさそうな顔をして、身振りで周囲にこの場から立ち去るようにと促す。そんな彼の言葉に直ぐ様それぞれの持ち場に消えていく後姿を眺めながら、モクバは改めて未だ驚きの表情のまま見下ろしてくる瀬人と向き合った。そして、直ぐに口を開く。

「あのね、兄サマ。今、城之内が来てるんだ。兄サマの部屋で、兄サマを待ってる」
「……何!?奴が何故……!」
「兄サマ、今日鞄を学校に置いて行ったでしょ。あいつ、届けに来てくれたんだぜぃ」
「鞄?……っそんなもの、誰も頼んでなど……凡骨め、余計な事を!!……鞄を届ける事が奴の用だったならば、居座る必要はないだろう。何故オレの部屋などに」
「オレが無理言って引き止めたんだ。兄サマが帰ってくるから帰らないで、話をしてって」
「オレは話す事など無い!お前が引き止めたならお前が相手をするべきだろう。オレは城之内と顔を合わせるつもりはない!」
「兄サマ。今日学校で何があったのかは、オレ、わかんないけど」
「…………!」
「城之内は、知りたい事があるんだって。それをオレや遊戯に教えろってスゴイ顔で迫ってきたけど、オレ達は何も言わなかった。だってそれは、兄サマの口からしか教えて上げられないものだから。城之内本人も何が分からないかすら分かってないみたいだけど……凄くもどかしそうにしてたよ。もー、オレあいつに「意地悪すんな!」って言われたんだぜ。意地悪なんかしてないのにさ。濡れ衣もいいとこだよ」
「………………」
「だから、もう意地張ってないで城之内に教えてあげて。兄サマだって本当はあいつに思い出して欲しいんでしょ?元に、戻りたいんでしょ?」
「── オレは……」
「兄サマは前から城之内の事、凄く疑ってたみたいだけど、城之内は本当に兄サマが好きなんだよ?そりゃ、エッチな本とかビデオとか、しょっ中見てたけどさ。そんなの、男だったら誰でもそうでしょ。彼女がいる奴だってそうだよ。だから、兄サマが心配してるような事なんて全然ないんだ。大体、兄サマに言い寄って来たのは城之内の方じゃん。何を不安に思う事があるの?」
「っだが!」
「城之内を信じてあげてよ。あいつは嘘吐きだけど、絶対悪い嘘なんかつかないんだから!」

 瀬人の腕を強く掴みその瞳を真っ直ぐに射抜いてモクバはそう言い募り、否定や拒絶を許さないと言わんばかりの剣幕で瀬人に迫る。真剣な幼い顔、掴まれた腕は力が入り過ぎて痛い位だ。
 

(……分かっている)
 

 瀬人は、モクバの言葉に心の中でそう答えを返した。そう、そんな事は分かっているのだ。自分だって、何もはなから城之内の事を信用していない訳ではない。かなり身勝手でいい加減な愛情だったが、彼が自分の事を好きだという事はその言動から嫌と言うほど分かっていたし、誤魔化してばかりいるが悪い嘘を吐かないという事も身を持って知っていた。

 大体根が馬鹿正直故に瀬人にばれない様に気持ちを隠すなどと言う芸当など出来はしない。だから、その点に関してはモクバの言葉を否定する気はなかった。
 

 けれど、『あの』城之内は。

 それらの揺ぎ無い信頼を全て覆してしまったのだ。
 

 何時まで経っても思い出す気配の無い事。男なんか好きじゃないと即答した事。自分から弾みでキスをして来たにも関わらず、気持ち悪いだろ、と言う言葉を投げつけてきた事。

 それを目の当たりにしてしまった今、過去と同じように信頼し、関係を続行させる事など出来る気がしなかった。全てを失ったから本音が出てきてしまったのではないか、幾ら頭では否定しても心ではその可能性を否定できない。だから。
 

「……オレは、今の奴を、信用できない」
 

 苦しい胸の内を素直に吐き出してしまった瀬人は、そのまま何かに耐えるように唇を噛み締めた。じわりとした痛みを感じる。城之内は知りたいと言うが、知ってどうなると言うのだろうか。ありえない、気持ち悪い、と言われて終わるだけだ。そんな事、考えなくても分かっている。

 例え城之内の体が覚えていたとしても心が忘れてしまっているのでは意味が無い。それならば綺麗さっぱり忘れて貰った方がいい。中途半端にされても苦しいだけだ。そう思い、瀬人はモクバから目を反らして嘆息した。その吐息は広い空間に幾重にも響くような気がした。

「………………」

 そんな瀬人の事を、モクバは相変わらず見つめていた。先程と変わらない表情で。真剣な眼差しで。沈黙が続く。どちらも何も言えないまま、時間だけが過ぎて行く。余りの静寂に互いの呼吸すら聞こえそうになったその時。モクバの方が諦めたように肩を竦めてこう言った。
 

「……そう。兄サマがそう言うんなら仕方ないね。後はオレがどうこう言う事じゃないし。兄サマが思う通りに城之内に話してくればいいよ。思い出さなくてもいいんなら、遊戯やモクバの言った事は嘘だ、全部お前の気のせいだって言えばいいんだ。あいつは混乱してる状態で、どういうものでも『答え』が欲しいんだから、それでもきっと納得すると思うよ」
「………………」
「でも……何があいつにとって一番の幸せかを決めるのは、兄サマじゃない。兄サマはいつも自分勝手に思い込んで行動しちゃってよく城之内に怒られてた癖に、また同じ事繰り返すんだ?オレ、もう付き合わないからね」

 後はご勝手に。オレは部屋に帰るから。

 瀬人の言葉に一瞬にして態度を変えてしまったモクバは、最後にそういい捨てると、さっさと背を向けてその場から立ち去ってしまう。足早に消えていく足音を身動き一つせずに聞いていた瀬人は、誰もいなくなったその場所で一人深い深い溜息を吐いた。

 果てしなく気が重く、それに呼応するかの様に身体そのものも酷く重い。どんな結論を出すにせよこれから自室に向かい、城之内に会わなければならないのだ。今すぐに向かったとしても、ここで何十時間立ち尽くしたとしても、それだけは変わらない。避けられないのだ、どうしても。

 瀬人は暫しその場で逡巡した後、ゆっくりと歩き出す。一歩足を進めてしまえば意外と身体は素直に動いて、常と同じ歩調で歩む事が出来た。徐々に持ち上がる顔、固まっていく意思。その奥で鬩ぎ合う相反する気持ち。逃げ出したい衝動を堪える為に握り締める右手。

 然程遠くないその部屋への距離が、こんなにも長く感じたのは初めてだった。そして、目の前に現れた扉に手をかけるのを戸惑うのも。ノックをしようか一瞬惑い、ここが自室だという事を思い出して、そのまま静かに引き開けた。立て付けのいいそれは微かな音すら立たずにただ静かに瀬人を室内へと招き入れる。

 入り込んだ室内は、酷く静かだった。城之内がいれば見ていようがいまいがお構いなしにつけっ放しにしているはずの小煩いテレビの音すら聞こえない。それを不思議に思いつつ、瀬人が一歩、また一歩と足を進めた、その時だった。

 視界に飛び込んで来た見慣れたソファーの上に、目的の男が転がっている。どこから探し出して来たのか、身の丈に合わない瀬人の室内着を身につけて、今にも落ちそうな様子で実に気持ちよさそうに寝入っている。床に放り投げてあるのは使用済みのバスタオルと浴室用のスリッパ。形容し難いほどみっともないその姿。

 瀬人の緊張感が、一気に途切れる。
 

「……なんだ、コイツは」
 

 思わず呟いてしまったその一言に、瀬人は慌てて口を噤んだ。この程度の物音で寝汚いこの男が起きるわけもないと知っているが、折角寝入っている所を起こすのは気が引けた。否、目を覚まして欲しくはなかった。彼が目を覚ましてしまったら、何らかの結末が訪れる。絶望が、現実になる。

 瀬人は暫く無言で眠る城之内を眺めていた。そして、とある事を思い出した。

 今回の出来事の全ての発端となった、あの日の事を。
 あの時も確か城之内はこのソファーに転がって盛大な寝息を立てていたのだ。モクバの話によると、数時間前に遅くなるとのメールをしたにも関わらずそれを見もせずに、「オレはバイトがあるのに遅れんな!馬鹿!」と騒ぎ立て、ついには騒ぐのにも飽きて不貞寝をしてしまったのだと言う。

 瀬人が遅れる理由となったのは、余り好意の持てない商談相手がアポ無しで押しかけて来て長時間居座った所為で、その事でただでさえも精神的に疲れていた所にその話を聞いて、余計にうんざりしてしまったのだ。

 心身共に疲労と苛立ちを抱えて自室に来てみれば、己を余計に疲れさせた相手が爆睡していた。しかも床には食べたらしいファーストフードの空ゴミや、瀬人が普段から眉を顰めている城之内お気に入りの俗に言うエロ本を投げ散らかして。これで、怒るなとでも言うのだろうか。

 結果、瀬人が眠る城之内を叩き起こし、そのまま口論の末大喧嘩をするに至ったのだが、それがこんな事になるとは夢にも思わなかった。確かにあの時の城之内の態度は最悪だったが、自分もそこまで怒る事もなかったのではないだろうか。今更そんな事を思ったところで全ては後の祭だったが。

「………………」

 眠る城之内の傍に歩み寄る。音を立てないようにゆっくりと。

 クッションを枕代わりに下に引いて、そこに半分顔を埋めるようにして寝入っている城之内の前に膝を付き、その顔を覗き込む。随分と久しぶりに見た気がするその寝顔に瀬人は思わず手を伸ばした。
 

『海馬!お前今帰ってきたのかよ!何時だと思ってんだ!!オレ、昼には来るっつったろーが!!大体お前今日休みだって言ってただろ?!何で会社行ってんだ!』
 

 こうしていると二週間前のあの時に戻ったような錯覚に陥る。 この手を眼前の肩に触れさせて強く揺り起こしたら、そんな怒鳴り声が返ってくればいい。自分が考えるにしては余りにも非現実的な思いに、自然と浮かぶ嘲笑を感じながら、瀬人は覚悟を決めて緩やかに上下するその肩に手を伸ばした。その時だった。

 瀬人の指先が城之内の肩先に触れる刹那、それまでピクリとも動かずに眠っていた城之内が目を覚ましたのだ。緩やかに開かれる寝起きの定まらない視線に瀬人は大きく息を飲む。そして、その場で静止した。

 時が、止まる。
 

「……瀬人?」
 

 痛い位の静寂の中で、掠れ声で響いたその呼び名に、瀬人の目は大きく見開きそして直ぐに身を引いた。城之内はそんな彼の態度に驚いたように直ぐにソファーから身を起こすと、瀬人を見下ろす形で見つめてくる。キシリとソファーの軋む音がやけに大きく聞こえた。

「……貴様、ここで何をしている」
「何をって。え、と。お前、学校に鞄置いていっちまっただろ?だからオレ、届けに……」
「それは、貴様の意思でか」
「えっ」
「貴様が、自分で思い至って行動したのかと聞いている」
「……そ、それは……その……」
「ふん、正直な事だ。大方遊戯にそそのかされて来たのだろうが、鞄を届けるだけならもう用はないだろう。その件に関しては礼を言う。が、オレは貴様と話す事などない。さっさと帰れ」
「な、なんだよ。顔を見るなりそんな風に言う事ねぇだろ。昼間のアレ、まだ怒ってんのかよ」
「怒ってるかだと?怒ってるに決まっているだろうが!自分で勝手な事をしておいて……!」
「じゃあ、それについて謝らせてくれよ。それならいいだろ」
「何が!」
「オレの用事。鞄を置きに来るついでにお前に謝りに来たんだ」

 城之内の顔を正面から見つめてしまうと先程の感情の昂ぶりがぶり返してしまい、ここに来るまでに折角取り纏めて来た様々な思いが、一気に何処かに消し飛んでしまう。殆ど感情のままにそう叫んで、まるで逃げるように立ち上がろうとした瀬人の腕を反射的に掴んだ城之内は、指先に力を込めてその身体を引きとめた。思わずそれを振り払おうとする動きは封じられる。

「何だ!オレに触るなと言っただろうが!」
「気持ち悪い?」
「何!?」
「オレに触られるの、気持ち悪い?キスされるのも、嫌だった?」
「今更何を言って……気持ち悪いと言ったのは貴様の方だろうが!それなのに何故オレに触れてくる!離せ!」
「オレの事はまず置いておいてさ。お前はどうだったのか聞いてるんだよ」
「オレがどう思おうが、貴様には関係ないだろう!」
「関係あるんだよ」
「関係ない!」
「関係あるって。だから教えてくれよ」
「………………」

 何時の間にか腕の分だけ離れていた距離を近づけて、至極真剣な顔でそう言い募る城之内に瀬人は思わず押し黙ってしまう。相手の意図が分からずにどう答えたらいいのだろう。正直に言えばいいのか、城之内に合わせた方がいいのかすら分からない。

 瀬人は暫く無言のまま逡巡していた。余りにも考え過ぎて頭が痛くなりそうだ。どうしよう、どうすればいい。常の彼にはない戸惑いで、苦悩が表情に出てしまいそうになった、その刹那。無言の瀬人に焦れたのか、黙って待っていた城之内の方が先に口を開いた。

「オレは……先にそういう事言ったから、すげー言いにくいんだけど。気持ち悪いとは、思わなかったぜ」
「嘘を吐くな!貴様は……っ!」
「嘘じゃないって。ごめん、オレがそういう風に言ったから悪いんだよな。オレはそうは思わなかったけれど、お前が気持ち悪かったんじゃないかって、そう思って、あんな風に言っちまったんだよ」
「?!……意味が、分からないんだが」
「オレも分かんねぇよ!でも、それだけは言いたかったんだ。お前とは、嫌じゃなかった」
「………………」
「だ、だからってやっていいとは思ってねぇけどさ。お前にとってはスゲーやな事だったろうし。って……うー、何て言ったらいいか分かんねぇけど……それで……」

 彼がよく言葉や行動に詰った時にやる仕種の一つである、ガシガシと髪をかき回す癖をこんな時でも如何なく発揮して、瀬人をちらちらと眺めながら何をどう伝えたらいいかを考えているようだった。

 そんな城之内を眺めながら、瀬人は彼が今し方発した言葉について今更ながら驚きを隠せなかった。……そう言われて見れば城之内から「気持ちが悪いよな?」と聞かれた気はするが、「気持ちが悪い!」と糾弾された覚えはなかった。その後は自分が肯定してしまった後、そのままその話は終わってしまったのだ。
 

『兄サマはいつも自分勝手に思い込んで行動しちゃって……』
 

 モクバの声が聞こえる気がする。ああ、確かに思い込んでいた部分はあったかも知れない。事実を正確に記憶していれば、そしてほんの少し冷静になれれば、その違いに気づく事が出来たかも知れないのに。

 けれど、だからと言ってどうなる訳でもない。城之内はあの時の事だけを口にしているのであって、自分が好きだとか、ましてや何かを思い出した訳ではないのだ。問題自体は些かも進展していない。そこだけは、間違いない。

 未だあーとかうーとか、煮え切らない態度で唸り声を発しているその姿を眺めながら、瀬人はこれから先どう話を持っていこうか暫し悩んだ。

 とりあえず、先程の質問に答えるべきか。彼がきちんと説明したように、こちらも本当は嫌ではなかった、それこそ貴様と同じ様に、貴様が嫌がっているだろうと言ったから、そうだと肯定してしまった、それだけなんだと伝えるべきだろうか。

 そして本当はあんな事は何も特別なものではないと、気持ち悪いどころか、好き好んでしてきていたと。オレ達はその実付き合っていたと、言ってしまえばいいのか。

 思うには簡単で声にするには酷く勇気がいるその言葉を、瀬人はなかなか言い出せずにいた。言ってしまった後の対応を現時点では考えられないからだ。肯定されても否定されても、どうしたらいいのか分からない。

 手は相変わらず城之内に掴まれていて、結構な時間が経った所為で少しだけ感覚がなくなったそれに僅かな苛立ちを感じながら、瀬人はとにかく何でもいいからこの沈黙を打破すべく口を開こうとした、その刹那。忙しなくさ迷っていた城之内の視線が不意に留まる。同時に髪をかき回す指も止まった。そして。彼は至極真面目な顔をしてこう言った。

「まあ、それはまず置いておいて。……オレ、お前に一つ聞きたい事があるんだけど、教えてくれる?遊戯やモクバに聞いてみたんだけど、どっちも教えてくれなくて、知りたかったらお前に聞けって言うんだ」
「何をだ」
「なぁ瀬人。お前って、一体何者?オレの何?」
「……何……って」
「スゲェ変な話だけど……こうしてるとさ、オレ、お前に凄く触りたくなるんだ。昼間のキス……もそうだったんだけど。お前が男だって知ってるのに、オレにそーゆー趣味なんてない筈なのに、つい、やっちまって。……それに、この間からなんか正体不明のもやもやっていうか、イライラがあって。よく考えたらそれって全部お前に関係する事みたいなんだ。だからお前なら、何か知ってるんじゃねぇかって」
「………………」
「黙ってないで何とか言ってくれよ。オレ、もう限界だ。オレだけが分からないっていうこの状態が凄く嫌なんだ。もどかしくて、気持ち悪くて!」

 ぐい、と掴まれた腕が強く引かれた。元より近くにあった眼前の顔が至近距離に迫る。悲鳴のような声と共に吐き出される吐息を頬で感じるほど近くに。

「なぁ、瀬人!」

 再び呼ばれたその声に、瀬人は僅かに顔を顰めて俯いた。違う、そうじゃない。貴様はオレの事をそんな風には呼ばない。何の目的も無しに身体に触れたり、ましてやその事に対して謝ったりなど絶対にしない。顔が近づけば当然の様にキスをしてくる。それが貴様だ。ここまで来て、身体がそこまで覚えていて、何故思い出せない。何故!

 こんな時なのに、急に取り戻した苛立ちが頂点に達する。瀬人は初めて、この目の前の顔を本気で殴りつけてやりたいと思った。記憶を失ってようが何しようが関係ない。こいつは本当に頭に来る。そう、思って。

 瀬人は殆ど無意識のうちに空いた手を思い切り振り上げていた。そして、間髪いれずに勢いをつけて城之内の頬目かけて振り下ろす。そして。
 

「──── っ!!」
 

 バシン、という大きな衝撃音が部屋中に鋭く響いた。かなり強烈な一撃だった。
 

「いっ……てぇ……!!」
 

 城之内の顔がその力に思い切り傾いで、悲鳴が上がる。ぐらりと揺れた彼は瀬人の腕を捕らえたまま、ソファーへと手をついた。そして次の瞬間、彼は思い切り起き上がり、鋭く瀬人を睨んでこう叫んだのだ。
 

「てめぇ海馬!!本気で殴ったなお前!!いてぇだろこの暴力男!!ふざけんな!!」