Looking for… Act6

「お帰りなさいませ瀬人様。今日お部屋を掃除させて頂いた際に、これがソファーの上に落ちておりまして…」
「……携帯?」
「はい。確かこれは……」
「城之内のだな。昨日奴を部屋に泊めた」
「やっぱり、そうだと思ったんです。……瀬人様にお預けして宜しいですか?」
「ああ、オレから奴に返しておく」
「申し訳ありません。宜しくお願い致します」

 それから暫くして、自室に引き上げようとした瀬人の元に部屋係のメイドが廊下で差し出して来たのは、見慣れたオレンジ色の携帯だった。部屋に入り荷物を近くに放り投げ、窮屈な制服をも脱いでしまうと、瀬人は手の中のそれをやけにまじまじと眺めてしまう。

 ベースの色に多少のラメが入ったその携帯は、見た瞬間瀬人が「趣味が悪い」と切り捨てた代物で、それに相手は「お前のように何の飾り気もねぇ奴に言われたかねぇ」と素っ気無く返して来た。

 確かに瀬人の携帯は機能を優先する余り外装は『いかにもビジネス用です』的なシンプルかつ機械的なフォルムだったが、オレンジラメの男からは言われたくないと、いつもの通り下らない口喧嘩に発展したのだが、そんな事も今となってはむしろいい思い出だ。片手に握り締めたそれを何気なく開き、つい目立った着信がないかと見てしまい、何もない事を確認して閉ざそうとする。

 するとまだ未開封のメールが一件ある事に気付きつい凝視してしまった瀬人は、そのメールの送信者名を見て軽く眉を寄せた。

 それはまさしく自分である表示名『海馬』からのメールだった。名前の隣に嫌に目立って明滅するブルーアイズのアイコンになんだか妙な気分になりつつ、昨日送ったばかりであるそれを開いてみる。送信時間は正午少し過ぎ……今の現状を作り上げたあの大喧嘩をする少し前の時刻だ。

 昨日はその三十分前に城之内からメールがあり、『一つ目のバイト先から真っ直ぐ行くから昼飯食わせて。ついでに今日は泊まらせて』と言ってきたので、『好きにしろ。ただしオレは3時以降じゃないと帰らない』と、一言返してやったのだ。それがこのメールである。

 その後瀬人がそのメールの文面通り3時過ぎ頃帰宅すると、城之内はやけに不機嫌な様子で瀬人を睨み、「帰ってくるのが遅い!いないならいないって言え!」と文句を言って来た。そんな相手の態度に、瀬人も「こちらはこちらできっちりメールを返していたというのに、何故そんな事を言われなければならないのだ!」とカチンと来て、そのまま言い争いに突入したのだが、なるほどこのメールを城之内が見ていないのだとすれば来ない事に苛立つのも当然だろう。

 それにしたって城之内がメールのチェックを怠った事が最大の原因ではあるのだが。

 瀬人は小さく舌打ちをしてメール画面を閉じてしまうと、そのままそのメールごと削除してしまおうかとボタンに指をかける。否、本当はメールだけではなく己のデータそのものを消してしまいたい衝動に駆られていた。どうせ自分の記憶は城之内の中になど残ってないのだ。こんな場所に、やけに目立つ形で残されているのが何とも空しい。

 この携帯を買った当初『もっとカッコいいM&Wの携帯用アイコンが欲しい。KCで配布しろ』などと我侭を言い、結果的にそれは実現する事となったのだが、配布直後即座に自分の携帯に登録されている瀬人にはブルーアイズを、そして勝手に瀬人の携帯を弄り倒して、その中に入っている自分の名前の表示アイコンにレッドアイズを設定し、城之内は至極ご満悦だったのだ。

 「一発で目立っていいだろ?」などと言いながら、むやみやたらと見せびらかして来たあの鬱陶しい程の笑顔は今思い出しても憎たらしい。

 瀬人は暫し考え込むようにその携帯をじっと見つめていた。そして呆れた様に肩を竦め、室内ライトの明る過ぎる程の光を反射してやけに煌いて見えるそれを閉じてしまうとテーブルの上に乗せあげる。よく通信料未払いの所為で意味を成さなくなる携帯とは言え、手元になくては困るだろう。さて、どうやって奴に返そうか。そんな事を思いながら瀬人はソファーにぐったりと身を沈める。

 まだ時刻は然程遅くはないとは言え、今日はもう城之内と会おうという気にはなれなかった。これから先も、城之内に正確な記憶が戻るまで、出来れば会いたくないと思った。『あの』城之内は自分が知っている彼とは余りにも違い過ぎてペースが乱されてしまう。あの態度が不快な訳でも嫌な訳でもないが、なんとなく落ち着かない。気持ちが酷く疲弊する。

 大体名前呼び自体に強烈な違和感を感じるのだ。名前を呼ばれて、何の意図もなく触れられて、唐突に突き放される。臆面もなく下世話な話を口にして屈託のない笑みを見せてくる。それが城之内にとっての日常なのに、瀬人にとっては非日常だった。世界すらも違うと感じた。
 

『瀬人!』
 

 恋人であった時よりも更に親しげな様子で口にするその名前。けれど瀬人にはそれが偉く他人行儀に聞こえてしまった。瀬人、ではなく海馬だ。貴様は一度だって名前でなどオレを呼んだ事が無い癖に。……そんな些細な事が、本当に些細な事が胸に小さな棘となって突き刺さる。

 まだ、一日しか経っていない筈なのに。

 瀬人は何もかもを遮断するように、一旦静かに瞳を閉じると暫し暗闇の中に身を置いた。

 そしてもう幾度目か知れない大きな溜息と共に再び視界を取り戻すと、徐にテーブルの上に放置したオレンジラメの携帯を手に取って、通学用の鞄の中に入れてしまった。
「城之内くんおはよう。昨日はあの後真っ直ぐ家に帰ったの?」
「はよー、遊戯。昨日?ああ、うん。瀬人連れて家に帰った」
「えっ、海馬くんを連れて帰ったの?!いきなり?!」
「?いきなりって何だよ。課題あったじゃん?あいつ頭いいから教えてもらおうかなーと思ってよ。全部手伝って貰った。ラッキー」
「あ、なんだ。そういう意味かぁ」
「他にどういう意味があるんだよ」
「えっ、ううん何でもない。それにしても良く海馬くんをそこまで付き合わせる事が出来たねぇ。忙しいとか言って嫌がられなかった?」
「嫌がってたぞ。まあでもついて来たんだからいいんじゃね」
「多分『君』にはあんまり強く出られないんだろうね。海馬くん、気の毒に」

 ほれ、と自慢げに掲げられた数学のプリント数枚を目にしながら遊戯は一人こっそりと溜息を吐いた。最初彼の言葉を聞いた時は、「さすが城之内くん、記憶がなくっても海馬くんをヤッちゃえるんだ!」と一瞬思ったりしたのだが、次の言葉を聞いた瞬間、ああやっぱりと肩を落とさずにはいられなかった。

 昨日瀬人に大丈夫安心して、なんて口にしたものの、その実城之内の様子を見ていると思った以上に事態が複雑な事を思い知る。何故なら城之内の瀬人に対するその態度は、自分や本田達に見せるそれとまるで同じに見えるからだ。自分達と同じという事は、まるっきり友達扱いであると言う証で。城之内にとっては、単に友達が一人増えたという感覚なのだろう。

 学校であんな風に気兼ねなく微笑みかけられたり、肩を組まれたりと言う経験は勿論瀬人にある筈も無く、その仕種一つ一つに驚愕したり戸惑ったりしている様は気の毒としか言いようが無い。恋人であるはずの人間からあからさまに友達扱いされてしまう事、それはされた本人に取っては例えようもないほど寂しい事なのではないだろうか。

 未だ延々と昨日瀬人と過ごした時間のあれこれを面白可笑しく語って聞かせる城之内を眺めながら、遊戯はほんの少しだけ落ち込んだ気分になる。けれどまだ彼がこの状態になってから然程時間が経っていないという事実を考えればそんなに簡単に絶望感に浸る事も出来なかった。否……浸っては、いけないのだ。

(でも、城之内くん、海馬くんの事を大分気に入ったみたいだし、このまま普通に付き合って行けば、すぐに恋人に戻れる、きっと)

 一人心の中でそう呟いて、景気付けに笑顔を見せる。城之内の言葉に相槌を打つように。うんうん、と軽く頷いて見せれば彼はますます嬉しそうに「瀬人が」と口にした。その顔が、本当に楽しそうでもしかしたら、やっぱり彼は瀬人の事が好きになったんじゃないか、そんな希望が少しだけ首を擡げて来る。本当に、全開の笑顔なのだ。弾んだ声が、聞いてるこちらにも幸せを運んでくるようで、遊戯は思わずこんな事を聞いてしまった。

「へー。凄く楽しかったんだね、良かった」
「おう、あいつなかなか面白い奴だよな」
「ね、城之内くん。海馬くんの事、どう思う?」
「え?どうって……何?」
「海馬くんとそんなに仲良くなったんだもん、好き、だよね?」
「好き?」
「そう。海馬くんの事、好き、でしょ?」

 少しだけ身を乗り出して、真っ直ぐに視線を合わせて、半ば押し付けじみた口調でそう言った遊戯に、城之内はやや驚いた顔で少しだけ首を傾げる。うーん、と小さく唸る声に、遊戯は更に距離を縮めてまるで祈るように彼から肯定の言葉が紡がれるのを待っていた。

 その僅かな沈黙の間、遊戯は周囲に少しだけ人が増えた事を感じる。ちらりと見た黒板上の壁時計は一時間目の授業の開始10分前を示している。ああもうこんな時間なのか、一時間目はなんだっけ?そんな事を思いつつ、再び視線を城之内に戻そうとしたその時だった。

「お前の言う好きって言葉の意味がどういうアレなのか分かんねぇけど。確かにイイ奴だと思うよ。ダチが増えたって感じかな。うん」
「それは、好きって事でしょ?」
「好きっつーかなんつーか。あいつ男だろ?男に対して好きとかなんとかってねぇだろ普通」
「それはそうだけど。あ、じゃあ僕の事は?好きか嫌いかで答えられるでしょ?」
「えぇ?お前の事は、うん、まあ、ダチだよな。本田とか杏子とかもそうだし。瀬人だってそれと一緒だよ。オレの答え、なんか変か?」
「え?ううん、変じゃないけど、さ……」
「なんだよはっきりしねぇなぁ。え、お前もしかして今の好きか嫌いかって、もっとマジな意味で聞いてきたの?」

 遊戯の声に城之内の顔に僅かに真剣な色が混じり始める。最初は軽口の延長でちょっとだけ今の気持ちを聞いてみようと至極単純な軽い気持ちから尋ねてしまった事柄だったが、思った通りの答えが得られない事に焦れてしまい、余計な突っ込みを入れてしまう。それが、少々マズイ方向に向かい始めた事に、遊戯は今更ながらに気付いたのだ。

 尤も、気付いた所で今更どうする事も出来なかったが。

「………………」

 相手の思いがけない切り返しに思わず言葉を失った遊戯をどう思ったのか、城之内は再び首を傾げて真面目な顔で遊戯を見る。けれどやはり得られない答えに彼はもう一度声を上げた。その声に、遊戯の血の気が一気に下がるのはその実数秒後の事だった。

「な、なんで黙るんだよ。図星か!……えー、だって瀬人の事だろ?男だろ?好きとかって問題外じゃねぇ?つーか何でオレにそんな事聞くんだよ。お前だって知ってんだろオレの好み。あてはまるわけないじゃん、あいつが」
「そ、そうだよね。ゴメン、変な事聞いて」
「や、別にいいけどよ。何をどう思ってそんな台詞出ちゃったわけ?……あ、もしかしてお前が瀬人の事を好きだとか?女よりも男が好き?」
「えっ、ち、違うよそうじゃなくて!い、今の話は忘れてッ!何でもないから!」
「そんなに慌てなくってもいーじゃん。顔真っ赤にしちゃってさ。そっかそっか、そういう訳か。すげぇ意外だけど……って、あー!!そういう事ならオレが昨日瀬人を連れ回したの嫌だっただろ。ゴメンゴメン」
「違うってば!」
「今日からは気を付けるからさ、気分悪くすんなよ。大丈夫、オレ、瀬人の事はなんとも思ってねぇから。お前の邪魔はしねぇよ」
「城之内くん、話を聞いて!」
「今の事はオレの心の中に秘めといてやるよ。お前奥手そうだからなー瀬人にもまだ言ってねぇんだろ。応援してやっから頑張れよ」
「だから……!」

 あはは、と先ほどとは全く違う意味で笑い声をあげる城之内を目の前に、遊戯は信じられない展開に殆ど呆然自失だった。まさか自分が瀬人を好きだと勘違いされるとは。思いがけないどころか最低最悪の事態である。ひらひらと手を振って、頑張れ、を繰り返す彼にこれ以上何を言っても聞いて貰えない事は明白で、これから先幾ら誤解だと言い張ってもそれは全て照れ隠しにされてしまうだろう。

 酷く気がいい分余計なところまで気を回し過ぎてたまに暴走する節がある彼の癖がこんな所に発揮されてしまうなんて。そうは思っても、もう取り返しなど付かない事態になっていて。

 遊戯は5分前のチャイムが鳴り、隣の席の友人と話し始めた城之内を眺めながら、がっくりと肩を落として自席へ帰ろうと踵を返す。がその時、背後から来た誰かに思い切りぶつかってしまい、思わずぐらりと傾いた。瞬間、後ろに仰け反るようにぐらついた身体を引き止める腕。白く細い指先が、華奢な遊戯の二の腕をぎゅ、と掴む。

「えっ?」

 その手の持ち主に心当たりがあった遊戯は、思わず息を飲んで顔を上向けた。すると……やはりそこには、彼が思い描いた通りの顔があったのだ。

「か、海馬くんっ!」

 反射的に上がった甲高い声にも、彼……瀬人は遊戯を支えた形のまま、ただ一点を見つめて静かにその場に立ち尽くしていた。

 その視線が向かう先……そこには全開の笑顔で笑い話に興じる城之内の姿があった。ぎゃはははは、と豪快に笑うその声がやけに大きく辺りに響く。

「あ、あの……海馬くん、今、学校に来たの?」

 余りにも動かないその身体と視線に、遊戯がおそるおそる声をかける。しかし、瀬人はやはり黙ったままで、やや険しい顔で目の前の光景を眺めているだけだった。
『大丈夫、オレ、瀬人の事はなんとも思ってねぇから。お前の邪魔はしねぇよ』
 

 耳を澄まさなくても自然と入って来たその言葉に瀬人は歩む足を止め、その場に縫い止められたように立ち止まってしまった。がやがやと騒がしい周囲の雑音に塗れていた筈なのに、その瞬間から一切の音が聞こえなくなったかの様だった。それ位、衝撃を受けたのだ。

 その数秒後、体当たりをして来た遊戯の事もその実誰かなど分からなかった。ただ目の前で立ち尽くす自分に人が激突し、よろけたらしいという事を見て取って、咄嗟に手を伸ばしただけだ。今も眼下で自分の名を呼ぶ声がしている気がするが、余り良く分からない。視線はただ捕らえた眼前の光景に固定され、下品に笑う城之内の声だけがやけに大きく耳に響いた。

「海馬くんってば!」
「!……遊戯」
「あの、もう、授業始まるよ?席に着かなきゃ」
「……ああ、そうだな。通路を塞いで悪かった」
「ううん、僕も良く前を見てなかったから。ぶつかってごめん、痛くなかった?」
「いや、何ともない。……席に戻る」

 無意識に相手の腕を握り締めていた手を強く揺さぶられ、多分数回目であろう自分の名を呼ぶその声に、瀬人は漸く城之内以外のものに意識を戻す事に成功し、ゆるりと動いた視界の真中に遊戯の顔を映す事が出来た。己の顔を見あげる見慣れた大きな瞳はやはり常と違って不安気に揺れている。

 その表情の意味は今の瀬人には余り良く分からなかったが、そんな事に気を回す余裕も無く、瀬人は突然降って沸いた驚愕や苛立ちを振り払うべく彼から視線を外し、直ぐに始まってしまうだろう授業に備える為に自席へと戻ろうとした。くるりと踵を返したその背に、再び遊戯の声が掛かる。

「あの、海馬くん」
「なんだ」
「ここまで来たって事は、城之内くんに何か用があったんじゃないの?」
「いや。特に無い」
「え?でも……」
「……あるにはあったが別に急ぎの用ではない。貴様も席に戻れ」

 瀬人が背を向けてしまっても諦める事無く戸惑いがちにかけられた声に、殆ど八つ当たりめいた返事を返してしまう。勿論遊戯に非などはこれっぽっちもなかったが、心中穏やかではない瀬人は、それを自覚していても態度を改める事が出来なかった。この場所から自席まで大した距離もないのに自然と歩む足は速くなる。

 いつもならそんな瀬人の事を執拗に構う遊戯ではなかったが、この時ばかりは少々不機嫌にあしらわれても引き下がったりはしなかった。すたすたと音を立てて離れていく背に思わず駆け出して追いついた彼は、新品同様の皺一つない瀬人の学ランの裾を掴み、思わず強く引いてしまう。これには瀬人も無視を決め込む事は出来ずに、立ち止まって忌々しそうな顔で振り返った。

「なんだ!」

 苛立たしげに上げられた声とその眉間に寄った深い縦皺を見て取って、遊戯は直ぐにとある一つの懸念が事実になってしまった事を知る。瀬人に激突した瞬間からマズイ、とは思ったのだ。自分と城之内は特に声を潜めてはいなかったし、最後の方など少しボリュームを上げて騒いでいたのだ。

 その直ぐ近くに瀬人が城之内目的で近づいていたのだとすれば、自分達のあの会話を……不可抗力とは言え耳に入れてしまったに違いない。瀬人にしては珍しく殆ど固まったようにあの場に立ち尽くした事を思えばそれはほぼ確実で。止めとばかりにそれを裏付けるような今のこの態度に、遊戯の中での不安めいた『もしかしたら聞いていたかも』という予感から、即座に絶望としか言いようのない『絶対聞いていた』という確信に変わってしまった。

 見つめる見慣れた白い顔がほんの僅かに俯いて、長い前髪に覆われた目元に影が出来る。

(ど、どうしよう。海馬くん絶対怒って……ううん落ち込んでる)

 瀬人がどこから話を聞いていたのかは分からないが、彼がこんな顔をしているその理由は、城之内が自分と瀬人の事を誤解して至極楽しそうに「頑張れ」と口にしたからではなく、その前段階の……多分城之内が何気なく口にした『あの』台詞を耳にしてしまったからなのだろう。
 

『えー、だって瀬人の事だろ?男だろ?』

『お前だって知ってんだろオレの好み。あてはまるわけないじゃん、あいつが』

『瀬人の事なんて何とも思ってねぇから』
 

 余りにも軽い口調で、口元には笑みさえ浮かべながら、紡がれてしまったあの言葉を。

 遊戯はまるで自分が瀬人に悪い事をしたかのような錯覚に陥り、暫く口を開けなかった。時計の針は既に8時28分で、後2分で本鈴が鳴ってしまう。バタバタと教室に駆け込んでくる時間ギリギリに登校したクラスメイトの安堵の溜息が、やけに大きく耳に届く気がする。

 黙ってる場合じゃないよ。何か言わなくちゃ。

 俯く瀬人を前に暫くの間、額に汗さえ浮かべながら逡巡していた遊戯だったが、何時までもそうしている訳にも行かないと、直ぐに覚悟を決めて、なるべく押さえた声で瀬人に向かって口を開いた。
 

「……今の話、聞いちゃった?」
「何の話だ」
「たった今、そこの席で、僕と城之内くんがしゃべってた事」
「聞こえていない。オレはついさっきここに来たばかりで……」
「嘘、聞こえてたんでしょ?聞こえたからこそ、そこで立ち止まったんじゃないの?」
「そんな事はない。勝手な思い込みで話をするな」
「……ゴメン。僕が余計な事を言ったから、変な話になっちゃって。でも!」
「だからオレは何も聞いていないといっている。貴様の謝罪の意味もわからん」
「海馬くん、待って!」
 

 確信を元に発した言葉を頑なに否定し続ける瀬人に、遊戯は思わず声を上げた。彼は絶対に全てを聞いてしまったに違いない。本当に何も知らないのなら、わざわざ席を立って近づいた相手に何も言わずに戻ろうとする筈がない。そんな複雑な表情を浮かべる理由などないのだ。だから嘘に決まっている。

 けれど……それを突き止めた所で何かが変わる訳でもなく、瀬人の表情が元に戻る事もないのだ。

「海馬く……」
「おい、武藤!海馬!席に着け!HRを始めるぞ!」

 不安感に駆られながら遊戯が三度名を呼んで、もう一度話をしようと思ったその時、何時の間にか入って来た担任が、未だ席に着いていなかった二人を見咎めて、即座に怒鳴り声を上げた。その声に、直ぐに瀬人は席に着き残された遊戯も慌てて近くの自席へと腰を下ろす。彼等の素直な行動が功を奏したのか、しんとした教室内にそれ以上叱責が飛ぶ事もなく、直ぐに何時ものHRが始まった。

 やる気が余り無いのか気だるげに出席を取り始める担任の声を聞きながら、遊戯はこっそりと後ろの席の瀬人を眺めやる。彼はやはり俯いたまま一時限目の教科の準備をしているようだった。相変わらず前髪に邪魔をされてその表情を見ることは出来ない。

「………………」

 その姿を見つめながら、遊戯は一人大きな溜息を吐いた。そして、軽く頭を抱えると、自分の余りにも軽率な言動を思い出し、酷く憂鬱な気分になった。なんであのタイミングで、あんな事を言ってしまったんだろう。幾ら後悔しても、時間を戻す事は誰にも出来ない。

 それから暫く、教室内は担任の声だけが響いていた。

 その声を聞きながら……瀬人は先ほどから密かに手にしていた携帯を音がするほど握り締め、少々乱雑な仕草で学ランのポケットにしまいこんだ。
 

 自分のものではない、オレンジラメの携帯を。