Looking for… Act8

「お帰り兄サマ。あれ、まだ制服のまま……?会社、行かなかったの?」
「えっ、あ……本当だ。着替えるのを忘れていたな。会社には行ったのだが。……通りで社員の視線が妙だと思った」
「えー?兄サマらしくないなぁ。学校で何かあったの?あ、城之内に無事携帯返せた?」
「あぁ。……とりあえず、着替えてくる」
「兄サマ?」
「なんでもない」

 そう言うと、瀬人は頑なに握り締めたままだった鞄を持ったままさっさとリビングを後にする。自分の問いかけに答える余り覇気がなく、どこか呆然としたその声に、モクバは明らかに学校で何かあったのだと確信した。

 瀬人にこの様に顕著な変化を齎す人物など城之内以外に居る筈も無く、昨日今日と意図的にその話題に触れないようにして会話をして来たモクバは、知らないうちに事態が余りよくない方向に向かっている事を、今初めて気づく。当初持っていた「直ぐに思い出すよな」等と言う楽観的な考え方はあの瀬人の顔で一変した。変わりに訪れたのは密やかな不安。そんな事は口には出せないけれど、最悪の事態になったら……そんな絶望的な気持ちに襲われる。

「ったく。何やってんだよ城之内の奴」

 ああ見えて瀬人は案外後ろ向きな人間だ。豪快で常に前を見ていると豪語しているその言動からは全く想像が付かないが、それさえも本当は自分を自分で洗脳しようとわざわざ声に出しているだけに過ぎず、それすらも消えてしまった今、彼の中ではマイナス思考ががかなり大きくなっているという事だろう。兄サマが黙り込むようになるとマズイ。それを一番よく知っているモクバだからこそ、たった数秒のやり取りだけで酷く不安を感じたのだ。

 なんだかんだ言って、瀬人は城之内の事が好きなのだ。普段あれだけ馬鹿にしたり虐げたりしていても、そこには絶対の愛情と信頼があるからで。いかに瀬人とは言え興味もない人間に対してそんな無体を働く真似などしないとモクバは知っている。

 それに瀬人とて社長をしていても普通の17歳だ。仕事上のストレスなどは半端ない。それを全部吐き出すが如く城之内苛めに精を出していたと言っても過言ではない。城之内の存在は瀬人にとってある種の精神安定剤的なものにもなっていたのだろう。

 少々過激な愛情表現だけれど、それをきちんと理解して、受け入れていた城之内はやはり出来た恋人だったのだ。まあ、時折「心底イヤになった!」とモクバに愚痴を言いに来てはいたのだけど。

 その均衡が大きく崩れてしまった今、行き場の失った愛情や城之内が記憶を失ってしまった事による弊害で増大したストレスが徐々に彼に影響を及ぼし始めている。まだたったの二日。けれど既に二日なのだ。それまで一日たりとも言葉なりメールなりで会話をした事がない日はなかった彼等に取ってはまさに大事件である。

 ああもう兄サマも、普段から過激な暴力を振るうからこういう事になるんだよ!

 そう嘆いてみても全ては後の祭りである。とりあえず今は城之内の記憶を元に戻す事、もしくはもし仮にそれが叶わず、叶ったとしても時間が掛かるのものなのなら、とにかく元の通り恋人関係にしてしまうかの二択しかない。けれど、先日の様子を見るに城之内は瀬人に対して特に好意的な感情を持っているようには見えなかった。瀬人に対するそれはモクバがよく目にする、瀬人以外と一緒にいる時の城之内の態度とまるで同じだった。

 この家にいてさえもそうだったのだ。学校では、どんな光景が繰り広げられているのか想像するにたやすい。『ただの友達』扱いをされる事、それは友情というものなど信じない瀬人にとっては全くの他人と同等という意味で、その事だけでも既にダメージは大きいのだろう。何を大げさな、と思う人間もいるのだろうがそれが瀬人にとっての常識なのだ。だからこそ、やっかいなのだとも言う。

 学校で、一体何があったのか。もしや、城之内の奴兄サマに酷い事を言ったりやったりしちゃったんじゃないだろうな。そう思い居ても立っても居られなくなったモクバは、直ぐ傍に置いていた携帯を手に取って、とある人物に連絡を取る事にした。

 きっと城之内は無意識に何かやらかしたのだろう。無意識に起こす行動ほど残酷なものはない。無意識だからこそそれがその人間の本心であり、素の姿だからだ。そして、それが分かるからこそ、むやみやたらに怒れない。当然だ、何か悪い事をしている訳ではないのだから。

 忙しなく携帯を弄り、耳に当てる。数回のコールの後、聞きなれた声が確認するように名前を呼ぶのに、モクバは応えもそこそこに単刀直入に切り込んだ。

『どうしたのモクバくん。電話くれるなんて、珍しいじゃない』
「なぁ遊戯、今日学校で何があった?兄サマ、なんか変なんだ」
『えっ。海馬くんが?』
「うん。なんか制服も着替えないで一日仕事してきたみたいだし、帰って来てもオレの顔見ないでさっさと部屋出てったりしてさ。何も言わないし……これは学校で何かあったんだろうなって思って」
『……やっぱり、海馬くんすごく落ち込んでるんだ……』
「やっぱりってなんだよ。お前がそういうって事は……何か事件あったんだ?」
『事件って程大げさなものじゃないけど……でも海馬くん、相当ショック受けてたみたいだったし』
「それ、詳しく教えてよ。オレとしてもさ、やっぱフォローとかしておかないと駄目じゃん。……どうせ城之内関連の事なんだろ」
『うん。そう、だけど。……えっと、あの。今日の事は僕が悪いんだ。僕が城之内くんに余計な事言っちゃったから』
「余計な事?お前、城之内に何か言ったの?それと兄サマと、どう関係あるんだよ」
『うーん。これ、正直に話していいかわかんないけど……』

 電話の向こうでかなり戸惑いを露わにしながら遊戯がそう言ってぽつりぽつりと話しだす。やってしまった事に対する引け目からか、どうにも要領の得ない話し方にモクバは少々イラついたが頼みの綱である事は変わりないので、なんとか相槌だけで留めつつ黙って遊戯の話に耳を傾けた。

 そうする事数分。かなりゆっくりではあったが、遊戯の口から紡がれた『事件』の全貌に、モクバは最大級の深い溜息を吐いて、呻きながら天を仰いだ。

「ちょっとそれ、ヤバイじゃん。どうすんだよ……そんな事はっきり言っちゃったの?城之内の奴」
『そう。しかもその後、僕と海馬くんの事を誤解して……僕が海馬くんに片思いをしてると思ってるんだ。だから……なんていうか凄く積極的に僕達をくっつけようとしてくれちゃってさ。違う!って幾ら言っても、遠慮してるって思うのか全然話を聞いてくれないんだ。なんか、事態が悪い方に悪い方に行っちゃって、僕もどうしたらいいのか分かんないんだよ……』
「うぅ、最悪。どうするんだよ今から」
『ほんと、どうしようね。とりあえず城之内くんの誤解を解いて、海馬くんの方に意識を向けない事にはどうしようもないと思う。でも海馬くんってああいう人でしょ。なんかもう投げやりというか、諦めたというか、そういう風になっちゃって』
「そっかぁ。うん、分かった。そういう事情があったんなら、オレも少し考えてみる」
『本当にゴメンねモクバくん。海馬くんにはまた改めて謝るけどさ』
「ううん、遊戯は別に悪くないぜぃ。だって、誰も嘘なんかついてないもんな。城之内がそう言ったんなら、それが今のあいつの本心って事だろ。仕方ないよ。大体あいつをあんな風にしたのは兄サマなんだし、そこは自業自得って思わなきゃ」
『モクバくんは結構厳しいんだね。さすが海馬くんの弟だけあるよ』
「怒らせると怖いのは兄サマよりもオレの方なんだぜぃ。ま、そんな事はどうでもいいけど。学校では二人のこと頼むな。オレ、そっちはフォローできないから」
『うん。分かった。じゃあ、宜しくね』
「お前が落ち込む必要なんてないんだからな。じゃあ、また」

 パチン、と会話の終わった携帯を閉ざし、モクバはそれに視線を落として再び小さな溜息を吐くと、無言のまま席を立つ。そしてすぐにくるりと踵を返して、リビングを後にした。

 向かう先は、少し離れた瀬人の部屋。

 パタパタと響く足音が、静かな空間にやけに大きく響き渡った。
「じゃ、オレもう帰りまーす。お疲れ様っしたー!」
「お、城之内もう上がり?そっか、10時だもんな。今日これからの予定は?」
「予定?明日の朝も早いし、帰って速攻寝ますけど」
「へー直帰かー珍しいじゃん。今日は彼女からのメール、入ってないのかよ」
「ん?彼女?……オレ、彼女なんていないですよ?」
「?前の彼女と別れたのかよ。先週まで帰り際はいっつもメールみてギャーギャー騒いでただろ?」
「人違いじゃないですか?さっぱり覚えがないんですけど」
「お前自分で『超金持ちでモデル級のスタイルを持った美人だけど、めっちゃ我侭で暴力的で始末に負えない奴』ってオレに説明したじゃん。今更トボけんなー。もうしつこく写メ見せろなんていわねぇから」
「……え。誰ですかそれ、ほんとに知らな……」
「そういやーお前がその子にプレゼントしたいって言ってたブルーアイズアルティメットの縫いぐるみ。三上がワンコインでゲットしたって言ってたぞ。シフト重なる時くれるってよ」
「ブルーアイズ??」
「ま、どんなでも彼女がいるだけでも幸せってモンだよ。オレもこの間合コンでくっついた女にフラレてさぁ。毎晩寂しいのなんの……やっぱタメよりも女子高生の彼女がいいなー。誰かいい奴居たら紹介してくれよ。童実野高校には可愛い子一杯いるって言うじゃねぇか」
「女子高生なんて何処も一緒だと思うけど。考えておきます」
「おう、頼むー。じゃ。おつかれーまた明日な!」

 城之内が瀬人とひと悶着あった数日後。時刻にも関わらず、賑やかなゲームセンター店内でそんな会話を交わした彼は、ひらひらと手を振って見送る同僚をきょとんと見返した後、緩やかな足取りで様々なゲーム音が飛び交う煩いその空間を後にした。

 夕飯も食べずにみっちり6時間労働をした所為で、かなり空腹だった為、いつも立ち寄るハンバーガーショップに足を踏み入れ、お決まりのセットを頼んでほぼ指定となっている店の一番奥の窓際にある二人席に腰かける。街中にあるこの店はこの時間だろうが深夜だろうが常に人で溢れていて、眩しい位の照明や人の話し声が途切れる事はない。

 今も周囲は殆どの席が埋まっていて、その大半は男女の若いカップルだった。場所が二人席エリアという事もあって、あちこちで食べるかイチャつくかどっちかにしろよ、と思える光景が広がっている。が、そんなものは今更の事なので特に気にもしなかった。

 その只中にぽつんと一人。外の暗さゆえに窓に顔を向けると鏡の様に映り込む自分の顔を眺めながら、城之内は知らずに小さな溜息を吐いた。
 

 何かが物足りない。なんだか、おかしい。
 

 数日前から、漠然としたその感覚が今でははっきりと常に意識の片隅に存在するようになってきた。何が足りないのか、何がおかしいのか、その『何』は全く分からない。けれど、普通に過ぎていく日常生活の中で、ふとその事を顕著に感じる瞬間がいくつもあるのだ。さっきのバイトの先輩との会話も然り、今一人でいるこの時間も然り。
 

『今日は彼女からのメール、入ってないのかよ』
 

 彼女からのメール。特に珍しくもないこの言葉に、城之内はその実あの瞬間に強烈な違和感を覚えていた。オレに彼女なんていない。それがその違和感の理由の大半だったが、それ以外にももっと……そうもっと根本的な所で、その言葉そのものに対して何かがおかしい、と思わずにはいられなかった。勿論、それは城之内に存在するのは『彼女』ではなく『彼氏』であるという事実故の違和感だったのだが、それすらも忘れている彼には分かるべくもない。

(オレに彼女がいるとか、あの先輩、何勘違いしてんだろ。そんな奴いねぇっての)

 目の前にある、Lサイズのポテトをなんと無しに口に放り込みながら、城之内はぼうっとした表情のままそんな事を考える。

 大体、そんなものが居たら、寂しがり屋の自分の事だ。こんなに長い間離れているはずもない。彼女が出来たら、毎日メールして、時間がある限り会いに行って、周囲が羨ましがるほどイチャイチャしてやる。そんな事を昔から考えている城之内にとって、この数日間の無味乾燥な生活の中に、そんな存在がいるなどという事は考えられる筈もなかったのだ。

 本当に、この数日は何かつまらない日々だった。何時もと同じ様に何の変哲もない時間を送っている筈なのに、やはり何かが足りなくて。けれどそんな事を誰かに話しても分かって貰える筈もなく、仕方なく気にしないフリをして時間の過ぎるままにやり過ごして来たのだ。けれど、それもそろそろ限界だった。

 元々曖昧な事を酷く嫌う城之内はこのもやもやにも似た妙な感覚を抱え込んでいることは困難だった。明日こそ、遊戯か本田に聞いてみよう。そう思いながら、超ビッグサイズのチーズバーガーに齧りつく。

 不意にその時、足を組みなおそうとして、ガタリと向かいの席の椅子を蹴ってしまった。狭いテーブルの向かい側。誰も居ないカップルシートの片側。……あれ、なんでオレ一人なのにこんなところに座ってんだ。今更ながらにその事に気づいた城之内は、顔を顰めてその席を凝視してしまう。
 

『オレはハンバーガーなど食べないといっているだろうが!』
『まーまーたまにはいいじゃん。庶民の食い物も結構イケるんだぜ。お前ナゲット結構好きな癖に。あーんってしてやろうか』
『やめろ馬鹿!死ね!大体ここは……二人が座る席じゃないだろう!』
『なんで?カップルシートだもん。カップルが座って何が悪いんだよ。男女のみ、なんて表示されてねぇぜ』
『そういう屁理屈だけは一人前だな』
『屁理屈じゃねぇの。正論なの。はい、ウーロン茶とアイスコーヒーどっちがいい?』
『……アイスコーヒー』
『了解。オレにも一口ちょーだい。うん、美味い!』
『おい……先に飲むな!』
『ウーロン茶も一口飲む?』
『いらん』
『そういわずに。はい』
『いらないと言っている!しつこいな!!』
 

 自覚無しに頭の中で再生される知らない映像。どう考えてもこの席で、自分はこの場所に座って、知らない誰かと楽しそうにハンバーガーを食べている光景だ。その映像にいる向かい側の席に座っている筈の人物の姿はまるで透明人間の様に大半が透けていて分からない。声すらも、どこかぼやけてはっきりとは聞こえない。

 けれど会話の内容から相手はかなり親しい人物だという事が分かる。この場所がカップルシートという事や、互いの飲み物を交換するなどという戯れをしているのだから、そういう意味での相手に違いない。だが、自分にそういう相手がいたという自覚も記憶も勿論無い。大体口調からして『彼女』ではないだろうこれは。じゃあ、一体何なのか。

 なんだろ、これ。なんなんだろ、この記憶。

 ハンバーガーが無くなって、残された派手な包み紙をくしゃりと握り潰して、誰も居ない空間に視線を向けたまま城之内は息を飲む。

 本当にオレはどうしちまったんだろう。気持ち悪い。

 たまらずふい、とその場所から目線を反らせて、城之内は逃げるようにさっさと席を立ってしまう。とにかく、この場所から一刻も早く立ち去りたかった。自分の知らない、けれど自分のものであろう記憶に翻弄されるのが怖い。意味不明の恐怖に駆られ、城之内は足早に店から出るべく歩き出した。靴音が、店内の賑やかさにかき消される。
 

「ありがとうございましたー!」
 

『ほら、早く帰ろうぜ。手ぇ、繋ぐ?』
 

 店から出る一瞬、明るい店員の挨拶に答えるように振り向いて、同時に何故か差し出してしまった左手が空を掻いて、城之内は小さく顔を歪めた後、直ぐに力いっぱい走り出した。
 

 何もない左手を、痺れるほど強く握りながら。