Looking for… Act9

 すぐ傍に、気配がする。

 入り口側に背を向けて、入室してすぐに顔が見えないよう薄い掛布を頭から被ってじっと息を潜めている自分の傍に、そろそろと寄ってくる、その気配。本人的にはかなり静かに、気づかれないようにしているつもりらしいが、元々が粗雑な性格故にそんな努力は全く意味を成さない。

 ギィ、と軋む扉の音。中途半端に結ばれて解けかかった靴紐が床と触れ合い聞こえる摩擦音。はあっ、と大きく響く溜息。ガシガシと困ったように己の金髪を掻き回す指の動き。

 その一つ一つは些細なその音を聞いているだけで、掛布の中に潜る瀬人には相手……城之内の様子が手に取るように分かってしまう。決して聞こえる事のない心の声まで、聞こえてしまう。

── ったく面倒くせぇな。こんな事で怒るなよ。

 チッ、と小さな舌打ちが響いたと思った瞬間、掛布ごと抱きしめられた。そして、今聞こえた心の声とはまるで違った、優しい音声が耳元に落ちてくる。

「……ごめん。オレが悪かった。もう怒ってねぇから機嫌直せ。……な?」

 背を向けていて、尚且つ布越しだからその表情は勿論分からない。けれど、その台詞が嘘だという事位分かる。そんな事は微塵も思っていない癖に。オレが折れてやらなきゃ、と自分だけ物分りのいいフリをしているだけの癖に、何が怒ってないだ。ふざけるな。

 現に触れてくるその指先は本来のそれとは違ってやや無遠慮に身体を拘束しているだけで、とても優しい抱擁とは言い難い。すげぇムカつく。声には出さなくても十分に態度に出ているその気持ちに、瀬人はますます憤りを感じて殊更身を固めて唇を噛み締めた。

 瀬人のその様に城之内もいい加減嫌気がさすのだろう。暫くそうして様子を見た後、硬化が解かれないと知ると、そのうち勝手に掛布を剥いで、今度は直に触れてくる。遮るものが無くなって露になった横顔を見られるのが嫌で腕で隠そうとするものの、それよりも早く伸びてきた手に寄って捕らえられ、顔が近づく。頑なに目を開く気はない故、表情など知る由もなかったが、きっと苛立った目をしているのだろう。

 ギリ、と掴まれた腕に圧迫感が走り、それを気にする間もなく唇が落ちてくる。閉ざしたままの瞳の上に、強張った頬に、噛み締めたままの唇に。カサついている癖に酷く熱いそれが触れる。

 許しを請う為ではなく、誤魔化す為に。

 先程のごめん、はただのポーズだ。本当は酷く怒っている。怒っているけれど瀬人の怒りを長引かせるのも面倒臭いからと有耶無耶にする。そういう意味ではセックスはいい手段だ。スイッチさえ入ってしまえばその前の事など忘れてしまう。怒りや悲しみ、苦しみよりも心地よさに身を委ねてしまうのは悲しいかな人間の性だ。それを上手く利用するコイツは嫌な奴だ。

 それ以上に、そんな分かりきったものに流されてしまう自分も愚かな奴だと瀬人は思った。

 唇と同様やけに骨ばってカサついた掌がいつの間にか纏う服の間から入り込み、肌を這う。大好きだと言っていた、柔らかで暖かな胸などとは程遠い場所を探り、それだけは女のものと大きさ以外は差ほど代わりのない乳首に触れる。不器用で、靴の紐一つ綺麗に結ぶ事の出来ない指先は、こんな時ばかり驚くほど繊細に、器用に、人の欲を煽る。快感を、探り当てる。

 開いた手は短く癖のない栗色の髪を弄び、存外素直に指の間をすり抜けて行くその感覚に物足りなさ気にかき乱す。金髪でも、長くも、くせ毛でもなくて悪かったな。そう心の中で毒づいて、瀬人はその手を強く払った。それに苛立ったのか、唇を塞がれた。

 キスというよりは噛みつくように歯列をこじ開け口内を嘗め回し舌を絡め、唾液を注ぐ。苦しいと表情で訴えても気にする風もないのか余計に深く唇を合わせる始末だ。生理的な涙が滲み、極限まで眉が寄る。それは誰が見てもまるで酷く不快な事をしているような、苦悶の表情で。それを視界の中心にしっかりと捕らえていた城之内は、少しだけ不機嫌な声で「何、その顔」と言い捨てた。

 自分がオレをこんな顔にさせた癖に、なんだその言い草は。嫌ならやめればいいだろう。相手をするのが面倒なら最初から相手などしなければいい。思ってもない事を口にしなければいい。誤魔化す為にだけ抱くなどという最低な事をする必要はない。全部、やめればいいのだ。

 その気持ちは瀬人に腕力となって現れた。常ならば緩やかな愛撫に全てを任せてしまう筈の身体に急激に力が入り、のしかかる城之内の肩を押しのける。ほとんど突き飛ばすように強く弾いたその身体の下から抜け出して、瀬人は正面から彼の顔を見据え、低く唸った。
 

「嫌ならやめろ」
 

 この関係が、城之内の方から押し付けられた事から始まったものだったにせよ、そんなに嫌なのなら、面倒臭いのなら、不快を露にしているにも関わらずやめようとしない女への憧れを口にするのなら。
 

「全部、やめてしまえ!」
 

 酷く耳障りな己の声が、静かな寝室に木霊する。ヒステリックなその声に自分で苛立つ。こんな喧嘩を一体何回繰り返したのだろう。数えられないという事は、既に日常の事になってしまったのだ。……ああ、確かにこれでは鬱陶しい、面倒くさい、うんざりもする。
 

 けれど。
 

 それでも自分は……城之内の事を、嫌いではなかったのだ。
 

「………………」
 

 重い沈黙が、ベッドの上で距離を置いて向かい合う二人に圧し掛かる。その間、突き飛ばされた様相のまま、暫し無表情で瀬人の叫びを聞いていた城之内だったが、不意に緩やかに身体を持ち上げ、体制を整えるとゆっくりと瀬人の前に顔を寄せた。表情は、無くしたままで。

「…………そっか」

 不意に、キスするかと思うほど近づいたその唇が、溜息と共に言葉を吐き出す。先程とは明らかに違う素直な響きを持ったその声は、次の瞬間余りにもあっさりと瀬人に向かって最後通告を叩きつけた。
 

「じゃあオレ、お前の事全部忘れるわ。もう面倒臭いし、どうでもいいし。正直相手疲れたし。やっぱ、女の方が好きだしな」
 

 ── じゃあな。
 

 その台詞を紡いだ唇が、笑みの形に歪んで消える。待て、と声を出そうとしても、慌てて手を伸ばしても、その姿は直ぐに消えてしまった。指先が、空を掴む。冷やりとした空気が、中途半端に肌蹴た全身を包み込んだ。
 

 
 

「………………!!」
 

 瞬間、聞き慣れない音がけたたましく鳴り響いた。目覚まし代わりにセットしておいた、アラーム音。いつもはこんなものを聞く前に目を覚ましてしまう為、耳にする事等ほとんどなかったそれを、瀬人は伸ばした指先でやや苛立たしげに切ってしまう。それを握り締めたまま、彼は酷く大きな溜息を吐いた。

 少しだけ間の空いた遮光カーテンから、明るい朝の光が入り込んでくる。改めて見なくてもここは自分の寝室で、今は普通の朝だった。

「……夢、だったのか」

 口にしなくても、そんな事は直ぐに分かった。分かったけれど、口にせずにはいられなかった。未だ夢の中で伸ばした指先は硬く握られて力が入ったままだ。余りにもリアルで、後味の悪い夢。夢は夢だ。現実なんかじゃない。しかし、その内容が余りにも現実とクロスしていて、たかが、と鼻で笑い飛ばす気にはなれなかった。

 城之内が瀬人の記憶を失ってから、既に二週間が経とうとしていた。状況は変わりなく、遊戯との誤解も解けないまま、月日だけが過ぎて行く。そんな日々の中で、ふと見てしまった夢だった。

 城之内の歪んだ口元と、素っ気無い言葉が不安を煽る。夢の癖に。そう毒づいても変わるものは何もない。

 瀬人は全てを吐き出すように大きな溜息を一つ吐くと、常と同じスケジュールをこなすために身を起こした。しかし、身体が重い気がした。今日は学校に行かなければならない。その所為だと思い当たると、今度は急に笑い出したくなった。馬鹿馬鹿しい。
 

 馬鹿馬鹿しいけれど、酷く、空しかった。
「おはよう城之内くん!最近バイト忙しいの?」
「はよー遊戯。……バイト?別に、普通通りだけど、なんで?」
「昨日もメール送ったんだけど、返って来なかったから、忙しいのかなって」
「あーメールかぁ。昨日携帯見てなかった」
「あ、そうなの?それならいいんだけど」
「わりぃ。今度からちゃんとチェックすっから」
「あぁ、別にいいよ。全然大した内容じゃないから」
「でも、ごめんな」
「気にしないで。ね?」

 ハンバーガーショップで違和感を感じた次の日。いつも通りの週末の朝、城之内は教室に来て早々顔を合わせた遊戯からそんな声をかけられた。 普段からものぐさな城之内だったが、携帯のチェック位はマメに行わなければならないと常日頃から気を付けていたのにも関わらず、そういえばここ最近携帯を気にした事すらなかったという事に改めて気づく。

 今日とて遊戯から言われなければ手にする事もなかっただろう。ごそごそと学ランのポケットを探り、手にしたオレンジラメを眺めながら、城之内はこっそりと溜息を吐く。

 どうせ送っても返事なんか滅多に返って来ない事を知っている友人は遊戯を除き城之内にメールなど寄越さない。携帯自体が料金未払いの関係で止まっている事も多い為、彼等は普通家電を利用する。大体そんなやりとりをしなくても毎日顔を合わせるのだし、用事があればバイト先に出向いた方が早い。だから城之内もそれに乗じてついつい携帯をおろそかにしてしまうのだ。

 だから城之内がメールを見ない事も返さない事も、既に日常茶飯事で周囲もそれを知っていて、そしてそんな周囲に甘えている事も自覚している筈なのに、どうしてこんなに後ろめたい気持ちになるのだろう。また、何か変だ。そう思い、確かにメールの着信が一通あるディスプレイを凝視する。

「どうしたの?」
「うん。そういや最近、携帯活躍しねぇなぁって」
「城之内くんは元々携帯、あんまり見ないじゃない」
「そうなんだけど……なんとなく、もっと使ってた様な気がするんだよな」
「……あー……うん」
「この携帯だけじゃなくってさ。……うーん、こんな事言うのすげぇ変かも知れねぇけど……最近、なんか足りないんだ。それが凄く気になって、気持ち悪ぃっていうか……ああもう何言ってるか分かんねぇ」
「……変、なんだ?」
「そう。上手く言えねぇけど」
「何が変とか、全く心当たり……ない?」
「それが分かれば苦労しねーよ」
「……そっか。そうだよね」
「うん」

 それはきっと、君の中で海馬くんが欠けているから。その生活の半分を占めていた存在をまるっきり失っているから。その携帯の事だって、誰もが君にメールを送る事を諦めるのに、海馬くんだけが諦めないでメールで連絡を取り続けていた。だからこそ、面倒くさがりの君が常にそうしてポケットに携帯を入れて持ち歩いて、1時間の休み毎にディスプレイを眺める癖がついたんだよ。

 遊戯はそんな言葉を言おうとして、辛うじて飲み込んだ。言った所で、今の城之内にはあまり通用しない話だし、余計な事を言うなと瀬人から幾度もきつく言われているから遊戯の勝手な判断で口にする事は出来ないからだ。

 ああもう、もどかしいなぁ。遊戯は知らず小さな溜息を一つ吐くと城之内から視線を外す。その時、僅かにずれた視界の端に後ろの扉から入ってくる瀬人の姿が見えた。屋上のいざこざがあってから大分間が空いてしまった……久しぶりの登校だった。

「海馬くん!」

 思わずその名を叫んでしまう。周囲の雑音を掻き消す様な、高い大きなその声に少し俯き加減に歩いていた海馬ははっとした様に顔を上げ、遊戯を、そしてその傍に立つ城之内をちらりと見た。瞬間、その顔が僅かに曇り、直ぐにふいと反らされた。

「あ……」
「行って来いよ、遊戯。オレ、自分の席に戻るから」
「え?」
「久しぶりの瀬人くんとの再会だろ。ほら」
「……城之内くん、僕はね」
「いいから、早く」

 遊戯が何かを口にするより早く、ぽんとその背中を押した城之内は言葉通りさっさと遊戯に背を向けて自席へと帰ってしまう。きっと彼はあの誤解をまだ頑なに信じていて、やはり手助けをしてくれているつもりなのだ。何も変わらない。変え方が分からない。どうしたらいいかなどと考える間もなく、遊戯は促されるままに瀬人の席へと歩んでしまう。これでますます誤解を深める事等分かりきっているのに。動かなければ動かないで、どうせそそのかされてしまうのだ。

「……おはよう、海馬くん。久しぶりだね」
「ああ」

 いつもの通り、洋書を片手に窓際に向かっていた瀬人の背に、遊戯は控えめに声をかける。それに応える調子は普段よりも少しだけ沈んでいて。一向に好転しないこの状況に瀬人もいい加減光明を見出せないで落ち込んでいる事が直ぐに分かった。また、溜息が出る。

 朝晴れていた筈の空模様はいつの間にか薄雲が覆い、僅かに肌寒い風が吹き込んでくる。今日は雨かな。ぽつりと呟いたその声に、瀬人は素っ気無く、どうだろうな、と口にした。

「あの、さ。城之内くんの事なんだけど……」
「凡骨は相変わらずだろう?様子をみていれば分かる」
「うん。……海馬くんには城之内くんの方から連絡がきたりとかなかった?」
「ないな。奴が友人かどうかも分からない輩にメールなど寄越す訳がないだろう」
「そういえば、携帯開くのも忘れてたって、そう言ってた。なんか、以前に戻ったみたい」
「実際戻ったのだからそうだろう」

 そう、変わったのではない。戻ったのだ。自分の存在を認識する前の、過去の城之内に……ただ戻っただけなのだ。友達を大切にし、くだらない本を堂々と読みふけり、役に立たない携帯を放りっぱなしにするその姿に。そこに自分の姿がないのはある意味当たり前なのかもしれない。

 元々城之内が瀬人に興味を持たなければ始まらなかった関係なのだ。そもそも何に興味を持って自分に近づいて来たのかすら瀬人には分からない。聞くのが気恥ずかしいという事もあったが、その実そんな事はどうでも良かったのだ。自分に向けられる感情の理由など興味がない。それが好意であれ悪意であれ同じ事だった。

 その理由を少しでも知っていれば、解決の糸口も掴む事が出来たのだろうか。今更何を思ったところで全て後の祭りではあったのだが。
 

『じゃあオレ、お前の事全部忘れるわ。もう面倒臭いし、どうでもいいし。正直相手疲れたし。やっぱ、女の方が好きだしな』
 

 夢の中の城之内が、そう言って薄く笑う。嘘偽りの無い正直な音声で、言葉を紡ぐ。実際彼は自分の事を『忘れて』しまった。思い出す気配もない。
 

 それは、やはり。あの夢の言葉は、城之内の本心だったのか?
 

「海馬くん」
「……っ、なんだ」
「城之内くん、後一息かも知れないよ?」
「何?」
「なんか変だって気づいてるみたい。何が変だとは言わないけど……足りないんだって」
「足りない?」
「うん。きっと……君が足りないんだよ。当然だよね。有るべき記憶がすとんと抜けちゃってるんだもん」

 慰める為なのか唐突にそんな事を口にし、言外に「だから元に戻ったわけじゃない。大丈夫」と言っている遊戯に、瀬人は外を見つめる目線を横に立つ彼に向け、こちらを見る大きな瞳をじっと見下ろす。そしてぽつりと呟いた。

「……それは、本当にただ記憶が『抜けた』のだろうか」
「え?」
「奴が意図的に『抜いた』のではないのか?」
「何言ってるの。そんな事ある訳無いじゃない。大体、海馬くんが城之内くんの頭にモノをぶつけたりしなければこうはならなかったんだよ?今回の事は単なる事故でしょ。どうしてそういう考え方になるわけ?」
「だが、思い出す気がないという事は、そういう事だろう」
「気力でなんとかなるものなら、とっくにそうしてるでしょ。一体どうしたの海馬くん、そんな言い方君らしくないよ?二週間も経って、もう希望が持てなくなっちゃった?」
「………………」
「そんな風に考えてしまうのなら、城之内くんに言っちゃえばいいんだよ。あれこれ悪い方向に悩んでたってしょうがないじゃん。城之内くんだってあと一息なんだし、こういう言い方はアレかもしれないけど、潮時だと思うよ」
「オレは」
「このままで仕方ないはナシだよ。仕方なくないんだから。こんなのはおかしいんだから。ね?」
 

 ── だが、奴がそれを望んでいなかったらどうする?
 

 遊戯の言葉に瀬人は即座にそう答えようとしたが、丁度始業のチャイムが鳴り響き、それはついぞ表には出なかった。

「あ、授業始まっちゃうね。じゃあ、海馬くん……」

 慌しくざわめく周囲の音に掻き消され、遊戯の言葉は良くは聞こえなかった。そのまま、足早に二人は別れ、それぞれの席に着く。その様を遠く離れた場所で見つめる視線があった事を、二人は全く気づかなかった。