Act4 海馬邸の猫番長 (Side.海馬)

 確かに、少しだけ妙だと思っていたのだ。

 あのボロ小屋……城之内の家に持って行った時と重さが大分違っていたし、時折妙な声らしきものが聞こえていた。だが、全て気の所為だと決めつけていたのだ。だってそうだろう。こんな何の変哲もない『ただのボストンバック』に何があるというのだ。常に危険と隣り合わせの海外ならいざ知らず、たかが日本の……しかもさほど悪い関係でもない男の家で警戒する事など何もない。

 唯一の可能性として城之内の悪戯というセンが残っていたが、いくら奴でも他人の持ち物に何か悪さをして喜ぶ様な年齢ではない筈だ(それ以外の『悪戯』はまぁ多々あるが)。現にあの場所には既に両手では数えられないほど泊まっているが、ただの一度もそんな下らない真似をされた事はなかった。

 ……だからこれは、全くの偶然と言える。否、ある種意図的だったのかもしれない。
 ただし、それはオレでも城之内でもなく、この事態を引き起こした張本人……。

 口にするのも馬鹿馬鹿しいが、目の前にある『オレの鞄の中』で、何故か得意気な顔でオレを見ているこの馬鹿猫の、計画的犯行だ!!
 

「貴様……!!そこで何をやっている!!」
 

 思わず最大音量で怒鳴りつけてしまったが馬鹿猫は全く堪えた様子もなく、「にゃあ」と小さく鳴くに留まった。
「兄サマどうしたのっ?!って、えぇ?!」

 オレが鞄の中の馬鹿猫に気付いてから一分後、漸く事態を把握したと同時に思わず上げてしまった大声に丁度オレの帰宅を知って顔を見に来たらしいモクバが飛んで来て、勢い良く扉を開けた。その音に至極興味を惹かれたらしい馬鹿猫は、今まで驚く程大人しく居座っていた鞄の中から顔を出し、床に座る形となっていたオレの膝へと乗りあげる。

 その様を驚きの表情で眺めていたモクバは、一転顔を輝かせてオレの元までやって来た。そしてオレの肩を手かがりにしゃがんで馬鹿猫を覗き込む。

「兄サマ……これって……もしかして、城之内が飼い始めたっていう、あの猫?」
「…………何?」
「あ、やっぱり。この首輪、オレが選んであげたんだぜぃ」

 なんだと?そんな事は初耳だ。大体いつモクバがこの猫の存在を知ったのだ。オレはただの一言もこんなどうでもいい事をモクバに報告したりしていない。……もしや、城之内が態々モクバに伝えたのか?それとも偶発的にモクバが知ってしまったのか?……くそっ、良く分からないが腹立たしい!

「……何故お前が馬鹿猫の事を知っている」
「何故って。兄サマが大声で電話で話してたじゃない」
「は?」
「もしかして、気付いてないの?兄サマって変な所抜けてるよねー。誰にも知られたくなかったらリビングで電話するのやめたら?」
「………………」
「その後全然関係ない用事で城之内に電話した時に、ちゃんと聞いたんだぜぃ」

 モクバの言葉にオレはぐうの音も出ずに押し黙る。そして今度から仕事以外の電話は自室以外ではすまいと堅く心に誓った。物凄く手遅れな感じがするが、それはそれだ。しかし、アノ話もソノ話も全て聞かれていたんじゃないだろうな……最悪だ。

 まあでも、過ぎてしまった事は仕方がない。オレは過去を振り返らない主義だからな。

「……そういう訳で顔は見た事無かったけど猫を飼ったのは知ってたから、オレが磯野の買い物に付き合った訳。……兄サマに似てるっていうからさ、やっぱり青がいいと思って青にしたんだ。なかなか似合ってるでしょ?」
「似てないし、ちっとも似合ってないわ!オレをこんなデブの不細工猫と一緒にするな!」
「なぁオマエ、名前はなんて言うんだ?クロとかブチとかタマとかか?城之内のセンスだからなーきっとダッサイ名前なんだろうな〜」
「………………」

 そいつの名前は……大いに不本意だが『かいば』というらしいぞ。心底下らん話だがな!

 そんなオレの様々なマイナス感情が綯い交ぜになった故の苦々しい表情や台詞を鮮やかにスルーして、モクバはひょいと手を伸ばしふてぶてしく膝を占領していた馬鹿猫を取りあげる。そして持ち上げた瞬間「うわっ、デカっ!そして重っ!」と声を上げながらも嬉しそうに胸に抱き、優しく頭を撫でていた。

 こんな馬鹿猫にそんな優遇措置は必要ない。その辺に放り投げてやればいいのだ。
 大体こいつは不法侵入だぞ。勝手にオレの鞄に入っていたのだからな!

「にゃあ」
「あはは、くすぐったいぜぃ!」

 馬鹿猫も馬鹿猫で優しくしてくれる人間には愛想がいいのか普段の傍若無人さは形を潜め、ゴロゴロと喉を鳴らしてモクバへと頭を擦り付ける。やはり物凄く腹の立つ光景だ。余りにも頭に来たので奴等を引き剥がしてやろうと手を伸ばすと、それを事前に察知しモクバはさっと立ち上がり、オレから少し距離を取る。そして「苛めちゃ駄目だよ兄サマ。顔が怖いぜぃ」と釘を刺して来た。

 くっ、何故オレがモクバに注意されねばならんのだ。全く理不尽にも程がある!

「城之内も言ってたけどオマエほんっと可愛くないなー。猫ってもうちょっと愛嬌があると思ってたけど、全然ないし。でも、人間で言えばこう言う顔は男前なのかな?兄サマと一緒だね!」
「一緒にするな!」
「もー一々怒鳴らないでよ。っていうか、肝心な事聞き忘れてたけどなんでこいつがここにいるの?兄サマ、城之内の所から預かって来たの?」
「連れてくるか!こんなもの!」
「え?じゃあどうやって……」
「……オレの、鞄の中に、入っていたのだ」
「へ?」
「だから!この馬鹿猫が勝手にオレのボストンバックの中に忍び込み、ここまで来てしまったのだ!」

 だからオレは怒っているのだ!と漸く己が不機嫌な事情を弟に説明出来て、これで少しは状況が改善すると思ったその時だった。モクバは目を丸くしてオレとその前にある開いたままのボストンバッグを眺め見て、最後に自分の手の中にいる馬鹿猫に視線を戻す。そして……満面の笑みを浮かべて声を上げた。

「スッゲー!!オマエ、凄いなぁ!!良く暴れたりしなかったなー。兄サマって鞄の扱い乱暴だから放り投げたりされた筈だろ?怖くなかったか?」
「ちょ……何故馬鹿猫を褒めるのだ!」
「だって凄いじゃん」
「凄い訳があるか!!勝手に他人の鞄の中に入る猫が何処にいると言うのだ!」
「そう言うけどさ、気付かない兄サマも相当だと思うけど……だってこいつこんなに重いんだぜ?普通こんなのが自分のバッグの中に入ってたら分かるよー」
「……くっ」

 だから猫が悪くないとでも?それは可笑しいだろうが!!

 まあ……確かにオレが間抜けだった事は認めよう。人よりも少々力のあるオレの腕は些細な重量の増減など認知しない様になっているからな(この場合は気付いてはいたが、気にしなかった、が正しい)。だが、問題はそこではない。大前提として鞄に生き物が入る等普段は有り得ないだろうが。だから、この場合オレの不注意だけが責められるのはおかしい訳で……。

 ……って、どうでもいいわ!そんな事!!

 オレは沸々と湧き上がる怒りを深呼吸でどうにか逃がしながら、帰宅してから未だ脱いでもいなかったコートのポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。そして些か乱暴にフリップを跳ね上げ、ずらりと並ぶ着信に舌打ちしながら指を動かす。全くいい迷惑だ。こんなモノはとっとと持ち主に返すが吉だ。このままここに居着かれても困るからな!

「?……何してるの?」
「……とにかく凡骨にこれを引き取りに来させる」
「えー?兄サマが持って帰って来たんだから自分で返しに行けばいいじゃん。時間あるでしょ」
「冗談じゃない、そんな時間などないわ。と言うか、オレが意図的に持ってきた様な言い方をするな」
「似たようなもんでしょ」
「全然違うだろうが!」
「まあ何でもいいけど、直ぐ返しちゃうのはつまんないぜぃ。城之内もバイトだろうしさ、終わってからでいいじゃん」
「……は?奴のバイトが終わる時間は深夜だぞ?」
「それまで預かってればいいでしょ」
「オレも仕事なのだが」
「部屋でやれば?」
「っとにかくそいつがオレの傍にいるのが気に食わないのだ!」

 昨日も散々纏わり付かれて疲れているし、あの狭いボロ小屋の中でも大騒ぎなのだ。ここ置いておいたらどうなるか分からん!考えただけでも怖気が走る!

 そう即座に断固拒否をしたが、動物を目の前にした弟は強かった。モクバは馬鹿猫をギュッと抱き締めてやや反抗的な目付きでオレを睨むと、口を尖らせながらこう言った。
 

「いいよ。オレが面倒見るから。兄サマは自分の部屋で仕事頑張ってね!」
 

 ……この状態のモクバにオレが勝てる道理など有る筈がなかった。
「しっかしお前も間抜けだよなぁ。普通気付くだろうよ。猫入ってんだぜ、猫!」
「っ喧しい!大体貴様は何故直ぐに連絡を寄こさなかったのだ!!いなかったら分かるだろうが!」
「だぁって、お前が帰った後オレ直ぐにバイトだったし。かいばの姿が見えないのなんていつもの事だしさー。っつーか鞄開けっ放ししてたお前が悪いだろ。そういう所入るの好きって言わなかったっけ?」
「聞いてないわ!」
「いーや言ったね!……ま、それにしても、随分派手に暴れた事で」
 

 ここオレの家と違って広いからさー随分興奮したんだろうなー!オレも最初は興奮したもんなー!
 

 ……同じ日の深夜。再三連絡をしても繋がらず、怒りのまま送ったメールに漸く『携帯忘れて行った。なんか家が綺麗だと思ったらかいばお前が持って行ったの?』等と言う巫山戯た返事を寄越した城之内を思い切り怒鳴りつけて、「三秒で来い!!」と言って携帯を放った30分後、口元に妙な笑いを浮かべながら奴はのんびりとした様相で海馬邸へとやって来た。そして既に惨状となっていたオレの部屋をぐるりと見回し、悪びれるどころか腹を抱えて爆笑していた。

 それはそうだろう。オレも他人事なら鼻で笑う位はしたかもしれない。散乱した書類の山、あちこち傷が付けられた調度品、落ち着いた渋い色合いのカーペットに盛大にまき散らされた猫の毛に、少々綿がはみ出た高級クッション、それらに囲まれこめかみをひく付かせているオレの姿も普段ならば決して許されない程乱れている。ちなみに飾られていた花瓶や置物類は見事に破壊されつくした。被害総額を教えてやったら城之内は目を回すに違いない。

 それもこれも全部、あのクソ猫の所業だ。腹立たしい事この上ない!

「……で、かいばは何処にいるんだ?」

 そんなオレの怒りの唸り声も華麗にスルーしてひとしきり笑って満足したらしい城之内は、図らずも滲んだらしい涙を拭いながら至極のんびりとした口調で問いかけて来る。それに更に怒りを刺激されたが、これ以上怒鳴り散らす気力も体力ももう無かった。オレは、はぁと小さな溜息を一つ吐くと、うんざりだという気持ちを隠しもしないで例の馬鹿猫が居る場所を手で指し示す。城之内が立っている場所のすぐ近くにあるソファーの横に放置された黒いボストンバックを。

「暴れ疲れて元の場所に戻って寝ている」
「あ?」
「貴様の後ろにあるだろうが。アレだ」
「アレって……え、アレ?!」

 そう、あの傍若無人な暴れ猫は好き勝手した後何故かまたソレに収まってしまい、出て来ないのだ。多分大人しく寝ているのだろう。急いで空にしておいたバッグは中に生き物が入っているとは思えない程静かにその場に鎮座している。ウソだろ?と呟きながら城之内が恐る恐るソレへと近づく。そして本当に馬鹿猫が入っているのを確認すると、何故か感嘆の声を上げた。そしてまた笑いだす。

「すげーマジだよ。つーかよっぽど気に入ったんだろうなーお前の鞄」
「喧しいわ!その鞄はくれてやるからそれごととっとと持ち帰れ!」
「帰れって。御冗談を」
「何がだ!!」
「やーだって昨日はかいばが居たからなんもしてないじゃん?このまま帰る訳にはいかないでしょ。大丈夫!オレ泊まるつもりで来たし!」
「はぁ?」
「お前が口実作ってくれてラッキーって感じ。あ、お前じゃないか、かいばか。つか、どっちもかいばだからいっか」
「な、何を言っている?」
「何って。ナニしましょうよ。隣の部屋で」
「ふ、ふざけるな!!」

 そういう意味で貴様を呼んだんじゃないわ!!と座っていた椅子から立ち上がり、未だニヤニヤ笑いを引っ込めない城之内を追い出しにかかった瞬間、こう言う時ばかり素早い行動を見せるこの男はさっさとオレの腕を捕えると、馬鹿力を如何なく発揮してそのまま寝室へと引き摺って行こうとする。こうなると、オレの抵抗など無意味に近い。何より今日は馬鹿猫の所為で疲れている。最悪だ。

「あ、鞄閉めてった方がいい?でも、寝室のドアって鍵掛るから大丈夫だよな?」
「なんの心配だ!!」
「流石に最中に乱入されたら嫌だろ。この間さーオナってるとこに来られてマジ大変だったんだぜ。噛まれるかと思った」
「貴様は阿呆か!!」
「まーまー。いつもはかいばを腹にのっけて寝てるんだけど、今日はお前をのっけてやるよ」
「死ね!!」

 ……結局、そのまま寝室の扉は閉ざされ、奴はその言葉通りきっちりと鍵までかけた。それから扉の向こうの事は朝が来るまで忘れていた。例え覚えていたとしても、どうにかなるものではなかったが。
 次の日、もともと酷かった部屋の惨状が更に酷くなっていたのは言うまでもない。オレのパソコンの上で得意気な顔で丸くなる馬鹿猫を、オレは盛大な怒鳴り声と共に遠くへと放ってやった。尤も、奴は少しも堪えた様子はなかったが。
 

 ちなみに黒のボストンバックは城之内のボロ小屋の片隅に置かれ、奴の新しい寝床になっているらしい。
 

 その内、アレごとこっそりと捨ててやりたいと、そう思った。