真夜中のHappy Birthday Act2

「ただいま磯野。兄サマはまだいるよね?」
「はい、期日が迫っている決裁だけは済ませておきたいと仰って、すぐに済むとは言っておられましたが」
「もう、それ朝も言ってたよ。時間にはちゃんと間に合わせてくれるのかな」
「約束の時間を先程私にご確認なさっていたので大丈夫ですよ」
「そっか。じゃ、オレ家に帰って準備してくる。城之内も迎えにいかないといけないし」
「城之内様?」
「うん。だって今日の夕食はあいつも一緒なんだ。兄サマの誕生日と帰国お祝いだもん。兄サマが一番喜ぶのは城之内がいてくれる事だよ。だから今日迎えに行くってあいつに連絡しておいたんだ」
「そのようなご予定だったのですか。しかし、変だな。城之内様はつい先程お見えになりましたよ」
「えっ。城之内、来てるの?」
「はい。瀬人様にお会いしたいとの事でしたので、社長室までお連れしました。まだ、中にいるのでは?」

 学校から真っ直ぐに帰ってきたのか通学鞄を背負ったままKC本社に顔を出したモクバに、出迎えた磯野が口にしたのは予想外の一言だった。

 今日10月25日は兄瀬人の誕生日で、モクバは大分前からこの日が来るのを楽しみにしていた。普段は生活時間帯の違いから余り共にいる事ができない分、互いの誕生日位は夕食とそれ以降の時間を共に過ごして欲しいとモクバは願い、毎年それは確実に叶えられてきたのだ。

 今年もモクバの誕生日である7月7日に無事その約束は果たされて、後は今日を残すのみとなった。念には念をとモクバは数日前行われた国際通信で瀬人に「絶対に帰国を遅らせないで」と懇願し、無理矢理首を縦に振らせた程準備は万端だったのだ。結果、瀬人は無事前日に日本に帰り、こうして自分の傍にいる。

 しかし、瀬人は何故モクバが今日という日に拘ったかという事までは頓着していないようだった。余りにも忙しい日々の中で完璧な記憶力および情報処理能力を誇っていた瀬人の脳も、自分の誕生日という一年で尤も記念すべき日の事をすっかり忘れ去っていたらしい。今も多分、忘れているだろう。

 「どうせだから驚かせちゃえ」と目論んだモクバもあえてその事には触れずに話をしていたのだから当然だった。

 去年までは兄弟二人だけの楽しみだった、誕生日。しかし今年は敢えて城之内を入れてやろうとモクバは思った。一年に一度しかないこの日は「兄弟」にとっての記念日じゃなく、「家族」としての記念日だと思ったからだ。厳密に言えば城之内は表面上も戸籍上も赤の他人であり、海馬家の一員では勿論ない。けれど、兄と恋人関係にある、という事は家族も同然なのだ。そこには表面的なものや書類上の事実など関係なかった。

 兄にとって大切な存在ならばモクバにとってもそれは同じで。そんな気持ちを向けられる相手、それがモクバが考える「家族」というくくりなのだ。だから今日城之内も共に夕食に呼び、その後の時間を一緒に過ごさせてやってもいい、と思った。そうする事によって兄が喜ぶのであれば、それが一番の誕生日プレゼントに違いない。それがモクバの考えた事だったのだ。

 それを実行するために、モクバは普段はバイトバイトであちこち飛び回り滅多に連絡がつかない城之内に確実に伝わるだろう方法で今日の夜の事を伝えたつもりだった。結果は知る術がないのでわからなかったが、尤も信頼を寄せる相手に頼んだのだから大丈夫だろうと思っていたのだ。

 その連絡がきちんと伝わっていれば、城之内は今日の7時にモクバが指定した場所で待っているはずだった。こんなに早く、しかも家ではなくKC本社に現れる事など予想外だった。モクバが瀬人に黙って、もしくは瀬人の代わりに城之内と連絡を取り迎えに行くというこの方式は今回が始めてではない。よって知らずに無視をしたという可能性は限りなく低かった。

(……待ちきれなかったから、一足早くここに来たとか?でも、城之内が「約束」を破ることなんて滅多にないし。そもそもあいつ、兄サマの帰国予定とか今日が誕生日だって事を知ってるのか?)

 喜びの顔から一転少し気難しい顔できゅっと眉を寄せたモクバの顔を、彼に情報を提供した本人である磯野は少し困った顔で眺めていた。何故ならモクバにまだ伝えていない事が一つだけあったからだ。

 先程城之内が海馬はいるかと口にした時のあの剣幕。普段の、表現は悪いがヘラヘラした様子は一切なく、まるで荒れ狂う怒りを必死に抑える様に強張った表情で短く発したその言葉に、磯野は彼の機嫌の悪さとその要因が瀬人にあるのではないかと思ったのだ。彼らに何かあったのかもしれない。

 それをモクバに伝えるべきか否か、磯野が内心迷っていたその時だった。

 物凄い足音と共に廊下の遙か向こうから全速力で駆けて来る男の姿があった。スーツ姿の人間しかいない社内にはかなり場違いなデニムジャケットとジーンズとスニーカー。誰、と判断するまでもない。その男は紛れもなく城之内だった。今までに見た事もないような怖い顔をして、しかもその一部分は赤く腫れている。その様子にモクバはぎょっとして目を瞠った。

「!!……城之内!」

 城之内は酷く激怒している様子で周りも見ずに走ってくると、モクバや磯野がそこに立ち尽くしているのにも関わらず強引にその間を突っ走り、思わず上がったモクバの声にも振り向かずに入り口に向かって駆けて行く。

「あっ、城之内!!待てよ!!」

 その姿が自動ドアの向こうに消える瞬間もう一度モクバが叫んだが、彼は振り向かずに出て行った。モクバはその後を追うかどうか一瞬迷い、即座にあの勢いでは到底追いつかないだろうと悟って走りかけたその足を下ろしてしまう。そして、ぽつりと呟いた。

「どうしたんだろう、なんか、顔が腫れてたみたいだけど」
「あの……モクバ様。先程申しあげるのを忘れたのですが、城之内様は最初からかなりお怒りになっていたようです」
「え?どういう事?」

 そのモクバの呟きに、磯野はタイミングを掴んだとばかりに、先程言おうとして言えなかった事を口にした。城之内が凄い剣幕で海馬は何処だと言った事。その表情が普段とは余りにもかけ離れた怒りに満ちたものだった事。瀬人を目の前にした時、それが更に強張ったという事。磯野はそれらの事実を一つ残らず正確に伝達する。

「怒ってた?城之内が?……なんで?」
「それは私も存じ上げません。あ、入室前は顔は腫れてはいませんでしたよ」
「あー喧嘩でもしたのかなぁ。兄サマすぐ手を出すから……オレ、ちょっと兄サマの所に行ってくる。磯野は家に連絡して、ちゃんと準備しておけって言っといて」
「かしこまりました」
「ったくなんでこんな日に喧嘩なんか……ああもう、やんなっちゃうなぁ」

 ご苦労お察しします、と小さな声で囁かれた磯野の言葉を背に聞きながらモクバは大きな溜息を吐き、さほど遠くもない社長室へと歩き始めた。
「兄サマ、オレ。入るよ!」

 ノックなどしても到底響きそうにない扉を前にモクバは大声でそう叫んだ。返事が返ってこない事は気にせずに、彼はさっさと中に入る。まだ夕方の5時だというのに、既に日が沈みかけた空は既に暗く、ライトもつけない室内は藍色の闇に沈んでいた。

 その中央奥に求めていた瀬人の姿は存在していた。液晶画面の齎す白い光だけがぼんやりと彼の顔と胸元を照らし、瀬人は視線をそこに落としたまま微動だにしない。今ここにいるモクバの存在すら気づいていないのだろう。常に時間に追われテキパキと仕事をこなす機敏さは今の彼からは全く感じられなかった。

 近寄ろうと一歩足を踏み出して、モクバはふと床の上に落ちている見慣れた物体に目を留めた。どこか高い場所から落下したのか、留め具が外れ中身が一部はみ出ているそれは城之内の鞄だった。それすらも置き去りに飛び出したのだとすれば、相当派手な喧嘩をしたに違いない。モクバは先程とは一転した酷く沈んだ気持ちでそれを避けながら瀬人の元へと駆け寄り、動かないその身体に軽く触れた。

「兄サマ」
「っ!……なんだ、モクバか。今帰ってきたのか」
「うん。ただいま」

 とん、とモクバの手が座する瀬人の足に触れる。その手に驚いたように顔を上げ、瀬人は何時の間にかそこにいたモクバの顔を見遣った。そして慌てて机上に置かれたままだった雑誌の上にファイルを重ねて隠してしまう。

 その一連の動作をモクバは訝しげに見遣っていたが特に何も言わなかった。しかし問うように向けられる眼差しに、瀬人は普段通りの言葉をかける事が出来ずに黙り込んでしまう。いつもならもっと屈託のない笑みを見せながら明るい声で取りとめのない話をしてくる彼が、こんな風にじっと自分を見る時は何かいつもとは違う事があるという事を知っているからだった。そして、その予想は直ぐに当たったのだ。

「城之内、来てたの?」
「……ああ。お前が呼んだという時刻よりも、大分早くな。どういう風の吹き回しだか知らんが」
「で、喧嘩しちゃったんだ?」
「何故、それを?」
「だってオレ、そこで会ったもん。ほっぺた腫らしてすっごい怖い顔してさ、走って出て行ったから。兄サマがやったんでしょ、あれ」
「………………」
「どうして喧嘩なんかしたんだよ。折角今日は皆で仲良くご飯食べようって思ってたのに」

 兄サマ酷いよ。そう口を尖らしていうモクバの顔を眺めながら、瀬人は内心大きな溜息を吐いていた。したくてした喧嘩ではない。それを聞きたいのはこちらの方だ。大体来た瞬間から一方的にこちらを詰って来たのは城之内の方で、瀬人は何一つ彼の気に障るような事は言っていないつもりだった。それなのに最後は信じられない侮辱の言葉まで浴びせられ、とどめとばかりに最低だと吐き捨てられたのだ。

 それに思わず殴ってしまったのは自分だが、殴られる以上にダメージを受けたのも自分だった。思い切り叩き付けた右手は当たり所が悪かったのか今も鈍く痛み、動かせない有様だ。おまけにこの事でモクバにまで心配をかけてしまっている。最低だと罵りたいのはこちらの方だった。

 不意にこみ上げて来た怒りと悔しさに思わず唇を噛み締めた瀬人に、モクバは僅かに顔を曇らせて、ぽつりとこう口にする。

「……特別な日なのに、喧嘩なんかしないでよ」
「……特別?何の事だ」
「忘れちゃったの?今日は兄サマの誕生日だよ。だからオレ、絶対帰ってきてねって言ったんじゃないか。城之内も呼んでさ、楽しく過ごしたいなって、そう思って」
「…………!」
「なのに勝手に喧嘩して!台無しじゃないか!」
「モクバ」
「もういいよ!全部やめる!」

 今日はよくよく人を怒らせてばかりだ。瀬人は目の前で怒鳴り声を上げそのままくるりと背を向けて走り出したモクバを見ながらそう思った。……一体何をやっているのだろう。

 誕生日。一年で尤も心が安らいでいたその日。去年も一昨年もその前も、剛三郎が生きていた時でさえ、その日は確かに特別で幸せな日だったのだ。

 なのに、今年はその存在すら全く思い出せない程忙しくて。その所為で、一ヶ月ぶりに会えて嬉しいはずの城之内と喧嘩をして、更に誕生日を楽しみにしていたというモクバを怒らせた。最悪だ。これほど最悪だと思った日もそうはない。

 再び一人になった部屋の中で、瀬人は大きく肩を落として息を吐いた。パソコンを閉ざし、ファイルを元通りの位置に戻すと、現れた雑誌を手に取り力任せに引き裂いた。あっという間に細かい紙切れに変化したそれを屑篭に投げ入れて席を立つ。

 すっかり疲れてしまったその身体を近間のソファーに投げ出そうと足を踏み出すと、足先に障害物がある事に気がついた。特に考えもせず手を伸ばして拾い上げた瞬間、大きな音がして携帯が床へと転がり落ちた。

 手にした鞄と、足元の携帯。それはモクバが見たものと同じ、紛れもなく城之内のものだった。

「………………」

 瀬人は鞄を即座にソファーに放り投げると、身を屈めて床と同化している黒の携帯を拾い上げた。暫しそれを無言で眺めていた瀬人だったが、不意に何かを思い立ったように、躊躇なく折りたたみ式のそれを開き、電源ボタンに手をかける。そして素早く操作して、通話履歴を表示した。9月末でぷつりと途絶えている日付表示を確認すると、再び電源を落として元の状態に戻してやる。

 パチンと音を立てて閉ざされたそれを握り締め、瀬人は忌々しげに上着を脱ぎ、ネクタイを取り去るとそのままソファーへと座り込んだ。そして、小さくこう呟いたのだ。
 

「……あんな下らん雑誌を買う余裕があったら、通話料金ぐらい払え、凡骨め」
 

 城之内の携帯に、家に、飛び回っていた先々で瀬人は何度も、それこそ数え切れない程何度も電話をしたのだ。

 けれど返って来るのはお客様の都合で、の機械音ばかりで、全く埒があかなかった。勿論手段など他に幾らでも存在していた。けれど、私事に……しかも色恋で他人を巻き込むのは好きではないため、モクバや遊戯など比較的簡単に間に入ってくれそうな存在には頼みたくなかったのだ。

 瀬人は城之内の顔を見たらまず一番にその事に対して文句を言ってやろうと思っていた。どうして携帯の料金ぐらい払えない。何度も連絡したのに連絡がつかなかった。ふざけるな、と。

 それなのに、奴はそんな事すら気が付かないで勝手な事を巻くし立てたのだ。
 

 ── オレはお前と違ってフツーの人間だから、一ヶ月も会えねぇと寂しいんだよ!
 

「……貴様だけだと思っていたのか。……馬鹿が!」

 ギリ、と携帯を握り締め、瀬人は手にしたそれを床に叩きつけようとして、出来なかった。

 人生至上尤も最悪な誕生日は残り後五時間。それすらももうどうでも良く、瀬人はソファーに深く凭れると、ゆっくりと目を閉じた。