真夜中のHappy Birthday Act3

「磯野!車を回して!」

 瀬人の元から飛び出してきたモクバはすぐ近くに控えていた磯野に向かってそう叫んだ。その顔は先程の城之内にとても良く似た憤りを抑えた怒り顔で、それを見た磯野は今日は瀬人に関わると皆怒るようにでもなっているのかと本気で思ってしまう。慌ててモクバの指示通り車を回しエントランスまでついて行くと、彼は表情を変えずに早口で「ちょっと出てくる!」と言い、飛び出していった。

「モクバ様!」
「すぐに戻ってくるから一緒に帰ろうって!もし兄サマにオレの事聞かれたらそう言って置いて!」

 その言葉を最後に車のドアは閉ざされ、慌しく発進していく。その行動から磯野はモクバは多分城之内を探しに行くのだろうと思った。数年傍にいれば主の、しかも子供の思考パターンなど手に取るように分かるもので、そうであるからこそ彼等も自分の事を信用してくれる。出過ぎた真似をして手酷く叱られる事もままあるが、それでも心配をしたり口を出さずにいられない事もあるのだ。モクバはともかく瀬人のような破天荒すぎる思考を持っているなら尚更。

 ……それにしても、本当にモクバ様は兄様思いのいい弟だ。

 磯野の知る限りではここまで互いの愛情や絆が強い兄弟など見たことはない。会社関連以外の事で瀬人が気にかけているのは殆どモクバの事で、モクバの抱える心配事の99%は瀬人に関係するものだった。

 余りにも依存度が高いその関係が異常だと謗る者がいるのも事実だが、彼等にとってはそれが当たり前なのだから仕方がない。未だ子供だという事もあり、どことなく微笑ましい想いすら抱いてしまう。しかし、それは彼等を良く知る磯野だからそう思えるだけで、他人にそれが分かるかと問われれば否と答えてしまうだろう。

 その均衡が今、城之内によって崩れようとしている。

 彼らの間に、というより瀬人のモクバと繋がっていない方の手を上手く握り締める事に成功した彼は少しずつ瀬人の意識をモクバから自分へ向くようにと努力をしているらしい。今のところその目論見は余り成功しているとは言い難いが、瀬人がモクバ以外の事に意識を向ける事が多くなったという事は少しずつ変わってきてはいるのだろう。今回の海外出張の事でもそうだった。

 モクバとの定期連絡の他に、瀬人が携帯を手にどこかへしきりに連絡を取ろうとしている姿を磯野は何度も目撃していた。大抵それは思うように繋がらず、顔を顰め時には舌打ちをして物に当たるまではいかないが不機嫌な態度になる事が多々あった。本人は決して口にはしないが、あれは多分城之内に連絡を取ろうとしていたのだろう。

 瀬人がモクバ以外の他人に心を開いていく事。それは勿論歓迎すべき事だったが、その相手が城之内というのは少し頂けないのでは、と磯野は思った。現に心を開いてはいるものの以前よりも些細な事で苛立つ事が多くなった気がする。大抵は城之内関連の話でだ。しかしモクバはそれはいい事だと笑い、オレも嬉しいと言い切った。ならば、自分が口を出すまでもない。今回のように、振り回されても尚そう言うのだ。その気持ちは本物なのだろう。

 冷たい夜風が吹き抜ける。それに車を見送ったまま外に立ち尽くしている事に気づいた磯野は早く戻って仕事の続きをしなければと踵を返したその時だった。書類を手にした河豚田がエントランスから出てきて磯野を呼んだ。

「磯野、A社の専務から連絡が入っている。来週の商品発表会の打ち合わせの件だそうだ」
「ああ、わかった。直ぐに行く。……しかし、私でいいのか?瀬人様は?」
「瀬人様の姿が見当たらないんでお前に頼んでいる。何処に行ったか知らないか?社長室には不在のようだった」
「携帯は?」
「出ないな」
「……それはおかしいな。つい今しがたまでモクバ様と話をしていた筈なんだが。大体、外出時には必ずその旨を言い置いていくだろうに」
「とにかく、A社には話をつけてくれ。急ぎのようだった」
「わかった」

 彼等が連れ立って社内へと戻っていくのと同時刻。正面玄関の裏手にある重役室へと直結する専用の出入り口から外に抜け出す瀬人の姿があった。白いシャツ姿で、手には城之内の鞄だけを持って闇に紛れる様に駆けて行く。

 その姿に気づく者は誰一人いなかった。
「………………」

 それから少し時間が経った頃、城之内は酷く途方に暮れていた。

 全速力でKC本社から逃げ出して特に考えもなく街中の公園まで辿り着き、走った所為で喉が渇いたと思った瞬間、とんでもない忘れ物をして来た事に気づいたのだ。財布や携帯、家の鍵などとりあえず常に必要な物品が全て入った鞄をあろう事かあの社長室に置き去りにしてきたのだ。怒りに頭が真っ白になり、ただ夢中で飛び出してきてしまったのだからしょうがない。

 しかし、あれだけ派手な喧嘩をして最後にはとんでもない啖呵を切って出てきてしまったのだ。今更忘れ物をしたからと行って戻るのは罰が悪い。それに、今は瀬人の顔を見るのすら嫌だった。彼に思い切り殴られた左の頬がズキリと痛む。

「……ちくしょー。あの野郎ほんっとにムカつくぜ……」

 合鍵を持つ父親はこの三日間程姿を見せない。どうせどこか女の元へと転がり込んでいるのだろう。一度いなくなると一週間は不在になる男である。家にいる事などまず絶望的だった。この寒さの中無一文でしかも自分の家にも帰れないという現実は余りにも惨めで情けない。それもこれも全部瀬人の所為だと思いつく限りの恨み節を並べ立てつつ、近間のベンチに座り込んだ。

 夜の闇に包まれた公園。ところどころに点在するライトの下では寒い晩秋の夜を身体を寄せ合う事でやり過ごそうとするカップルの姿が目につく。それを遠目で眺めながら、城之内はこれ以上無いほど顔を歪め、盛大に舌打ちした。

 本来なら自分も今頃はあのカップル達に負けない程楽しい時間を過ごす筈だったのだ。一月分の空白を埋めるように沢山話をして、触れ合って、明日からまた同じ空間で生活できる幸せを確認するはずだった。なのに、そう思っていたのは自分一人だったのだ。

 彼にとって自分の存在などその辺に落ちている石ころと同じようなもので、普段はそこにある事すら気づきもせず、それに焦れて石を投げるが如く体当たりすれば鬱陶しいと罵る位の価値しかない。あの週刊誌に掲載された写真の熱烈な抱擁とキスでさえもただの挨拶だと言い切った彼である。自分とのキスやセックスもそれと同じ程度の認識しかないのかもしれない。

 確かに先に好きになり、多少強引に事を進めていったのは自分の方だ。ほぼ押し付けに近いものだったのかもしれない。しかし、それを受け入れたのは紛れもなく瀬人の方で、そこに文句を言われる筋合いは絶対にないのだ。嫌なら嫌と言えばいい。けれどそれも言わず、ただ曖昧な態度や距離を置くのは余りにもきつい仕打ちなのではないだろうか。
 

── 今すぐその汚らわしい口を閉じて出て行け、凡骨!
 

 まるで悲鳴のように上げられたその声が、頭の中に木霊する。自分の方が余程酷い事をしているのにも関わらず、何故「汚らわしい」などと言ったのか。腹が立つ。本当に腹が立つ。けれど……。
 

 ……それ以上に、悲しかった。
 

「……しょうがねぇ。遊戯のところにでもやっかいになるかな」

 深い深い溜息の後ぽつりとそう呟いた城之内は、冷たいベンチから腰を上げた。一晩置けば少しは頭も冷えるだろう。そう思い、緩やかに歩き出した。その時だった。

「あ、城之内くん!!やっと見つけた!!」

 静かな公園に場違いな声が響き、たった今思い浮かべていた少年の手が背後から城之内を捕らえた。驚いて後ろを振り向くと、酷く息を切らした遊戯が佇んでいる。一体何事かと問う前に、遊戯は大きく深呼吸をすると息を整えてこう言った。

「城之内くんったらなんで今日学校に来ないんだよ。僕、モクバくんに伝言頼まれてたのに」
「……?モクバから、伝言?」
「そうだよ。城之内くん、今携帯も家電も使えないでしょ、だから」
「あ、ああ……うん。そいつは悪かったな。バイトが入っててよ」
「その伝言っていうのが、今日の7時に家で待っててって事だったんだけど、伝えられなくって。さっきモクバくんから電話が来て、伝言伝えてくれたかって聞かれたから、ごめんって言ったんだ。そしたら、君が捕まらないっていうもんだから、探しに来たんだよ。きっとここにいるんじゃないかと思って」
「…………悪ぃ」
「そんな事より、早く海馬くんの所に行きなよ。今日ぐらいバイト休んだっていいんでしょ?」

 目線を合わせるなりそんな事を早口でまくし立てる遊戯に、城之内は些か面食らって首を傾げた。彼は何をそんなに真剣になっているのか。モクバからの伝言は至極単純なものだ。そんなに重要とは思えない。それに、何故遊戯の口から早く瀬人の元へ行けなどという言葉が出るのだろう。喧嘩をしたという事を知っているのか。否、例え知っていたとしてもそんなお節介な事を口にする彼ではない。なのに、何故。

「な、なんでお前がそんな事言うんだよ。モクバからなんか聞いたのか?」
「?何かって?君がいないって事しか聞いてないけど」
「じゃあ、なんで……海馬のとこに行けなんて」
「え、だって。今日は」
「今日は?」
「今日は、海馬くんの誕生日じゃないか!」

 一瞬、遊戯の発したその単語の持つ意味を城之内は理解できなかった。
 彼は今なんと言った?誕生日、と口にしなかっただろうか。今日は、海馬くんの…誕生日だと。

「何?!マジかよそれ!!」
「マジかよって……知らなかったの?!」
「知らねぇ。だって教えて貰ってねぇもん。一っ言も聞いてねぇ。言われてねぇよ!」
「……多分君以外皆知ってると思うけど。今日学校で噂もしてたし。本田くんなんか城之内くんはその為に休んだんだとか言ってさ、明日思いっきりからかってやるとか言ってたよ」
「……嘘だろ」
「嘘じゃないよ。だから早く……今モクバくんに電話するから。直ぐ来て貰うから!」
「…………っ!」

 ありえない、と思った。こんな事はありえない。
 誕生日なのに。瀬人にとっても、もちろん自分にとっても一年で一番嬉しい日であるはずなのに。

 罵りあって、殴られて、最後には最低だと吐き捨てて置き去りにして来てしまった。

 最低だ、何もかも。
 

「あ、モクバくん?城之内くん見つけたよ。えっと、中央公園。うん。じゃあ待ってるね」

 モクバと連絡を取ったのだろう遊戯の声を聞きながら、城之内は自分で自分を殴りたい衝動に駆られていた。無意識に噛んだ唇が痛い。……もう瀬人から逃げたいとか顔を見たくないとかそういう気持ちはどこかに消えていた。怒りが消えたわけではない。ただ、突然齎された余りにも強い衝撃に、それらの感情が奥に押しやられてしまったのだ。

「モクバくん、直ぐに来るって。それまで、一緒に待っててあげるね」
「……遊戯」
「恋人の誕生日位ちゃんと押えておかないと嫌われるよ?おめでとうだけでいいんだしさ。もう一人の僕がそう言ってる」
「うるせぇって言っとけ」
「モクバくん、今日は君と海馬くんと三人で誕生日パーティするんだってはりきってたんだけどな。上手くいかなくてごめんね。でもちょっと遅くなっただけで、今からでも間に合うよ」

 時刻はもう9時を少し廻っていた。

 ……間に合うだろうか。間に合えばいい。城之内は傍にあった公園時計を眺めながら、指先を強く握り締めた。