Act8 眠ってるとほんと天使みたいなのに

 部屋に入ると、そこには世にも珍しいほのぼのする光景が広がっていた。大抵オレがここに入ると一番に感じるのは完全無視の空気か、何をしに来た、と言わんばかりに鋭く冷たい視線だけだから、こんな事は百年に一回あるかないかだと思う。最も、百年後にオレが生きているかどうかは分からないけど。

 そんな未知との遭遇を果たしてしまったオレは、暫く部屋の入口で立ち止まり、その様子を存分に観察した後、そうっと足音を立てずに、その光景を繰り広げている二人の元へと歩み寄った。二人っていうのはこの部屋の主である海馬とその弟のモクバなんだけど、現時点で意識があるのはモクバだけらしい。

 ……というのも、海馬の方は常にオレに見せる迫力ある睨み顔を机の上に突っ伏してピクリとも動かないからだ。あ、一つ訂正。その手だけは隣に立つモクバの頭に置かれていて、なんかしきりに撫でている。な?世にも不思議な光景だろ?……つーか何やってんだこいつ。

「……何やってんだよ。子守り?」
「……どっちが?」
「微妙な所だなー。っていうか、そいつどうしたの?」
「寝ぼけてるんだと思うけど。兄サマ、ここのところ新システムのプログラム構築でずっと徹夜続きで今朝それが仕上がってさ、今デバッガーに回して報告待ちなんだけど、その間に寝ちゃったんだよ」
「……何言ってんだかさっぱり分かんねーけど要は仕事が終わって疲れて爆睡中って訳ね」
「全然『要』になってないけどそういう事。どっちにしてもこのままじゃ身体に悪いからベッドで寝なよって言ってるんだけど、分かったっていいながらこの状態なんだ」
「夢見てんじゃねぇの」
「どうだろうね。でもオレとしてはちょっとラッキーだぜぃ」
「うん、確かに羨ましい」

 海馬は多分寝ていても横にいるのがモクバだってちゃんと分かってるんだろうな。だから優しく頭撫でちゃったりしてくれてる訳で。兄弟の特権とは言えズルイよなーなんて素直に口にしたら「一緒に寝てる癖に」なんて切り返された。それはそうなんだけど、それとは微妙に違うって言うか、何て言うか。

「ま、何でもいいけど。丁度良かった。兄サマをベッドまで運んでくれよ。オレじゃなんともならなくて」
「ほんとに寝かしつけて大丈夫かぁ?後で『何故起こさなかった!』って殴られんの嫌だぜオレ」
「その時はその時だよ」
「お前はいいかもしんねーけどよー」
「どっちにしたってこんなに疲れてるんじゃ仕事なんて無理だって。責任はオレが取るから早くして」
「はいはい。分かりました。じゃ、ちょっとそこ退……いや、ちょっと待て」
「何だよ」

 モクバの事がちょっと羨ましくなったオレは、いい機会だから自分もついでに撫でて貰おうと少し身を屈めてモクバの直ぐ横に近づくと、その幸福な場所を譲って貰った。それを察して素早くそこを退いてくれたモクバの代わりにぽすん、と力ない掌がオレの頭の上に落ちてくる。よし!そのまま撫で撫でだ!と勢いこんで待っていたら、奴は髪の感触が違う事に気付いたのか、手を動かす事なく引っ込めてしまった。ちょ、これは酷い。

「なんで手ぇ引っ込めんだよー撫で撫ではー?」
「お前だって分かったんじゃないの?」
「酷ぇ」
「ちゃんと意識のある時にやって貰えばいいだろ」
「してくれねーもん」
「お前ががっつくからだろ!」
「がっついてねぇし!……まぁいいや。おーい海馬。か・い・ば君!おねむならベッドで寝て下さーい」

 ある意味予想通りの反応にちょこっと凹む気持ちを抑えつつ、オレは膝の上にぽとりと落ちてしまった手を名残惜しげに見つめながら、髪の間から僅かに見える耳元に向かって少しだけ意地悪な気持ちでそう声をかける。すると、今度は横にいるのがオレだと気づいたのか、むくりと頭を持ち上げて一瞬だけ目を開けた。が、直ぐに力尽きた様にパタリと元の状態に戻ってしまう。勿論頭に手を乗せてくれる気配もない。……寝てる時も可愛くねぇ!

「……ま、期待してはなかったけど」
「何ブツブツ言ってんだよ」
「あーオレもモクバになりてぇ」
「なればいいんじゃない?多分結果は同じだと思うけど」
「その優越感丸出しの態度がムカつくんだけど!」
「しー。大声出すと兄サマ起きるぜ」
「絶対起きないって爆睡中じゃん」

 ったくこいつらは兄弟揃って!

 そんな事を沸々と湧き上がる頭の片隅で考えながら、オレは漸く頭を撫でて貰う事は諦めて、海馬の運搬係を務める事にする。特に苦もなく、椅子から持ち上げたその身体は珍しく全身脱力状態だったけれど、やっぱり軽い。相変わらず中身入ってねぇのな、と呟くと「忙しいと三大欲求を完全におろそかにするからね」と返って来た。それはまた不幸な事で。その不幸の一端はオレにも降りかかってる訳だけど。

「そういやーご無沙汰な気がしてきた」
「一週間前に来たばっかりじゃん」
「バーカ、健全な青少年をなめんじゃねぇよ」
「何威張ってんだよ。お前がそんなだから兄サマが鬱陶しがるんだろ」
「とかなんとか言ってー、実はこっそり寂しがってたりしなかった?お前の頭撫でまくってる位だし」
「それとこれとは全く違うと思うけど。お前の存在なんか忘れてたんじゃない?」

 ……んなわけねー!と強く言えない所が悲しい現実なんですが。

 モクバとそんなアホな事を語り合いつつ、海馬をそつなくベットに運び上げたオレは、なんだか大分よれた感がある上着とベルトだけをひんむいて薄いブランケットだけかけてやる。スプリングが利いている所為かベットに寝かせた時点でちょっとだけころんと転がった海馬は顔をこっちに向けたまま、相変わらず眠りの世界の住人だ。その表情は普段から想像出来ない程、穏やかで……可愛らしい。それを必然的に凝視しながら、オレは思わずぽつりとこう口にしてしまう。

「眠ってるとほんと天使みたいなのになー。なんで起きると悪魔になるかね」
「兄サマは天使でもないし、悪魔でもないぜぃ」
「いや、マジだって。いっその事ずーっと寝ててくれたらいいのに」
「それはそれで寂しい癖に」
「それはそうなんだけど」
「じゃ、オレ部屋に帰るな。兄サマ起こしに来ただけだし」
「おっ、気でもきかせたか?」
「別にー。だってその状態でなんともならないじゃん」
「切ない事言うなよ」
「ま、兄サマが起きたら二人でご飯食べに来なよ。それも目的だったんだろ」

 そう言って寝室を後にするモクバの後ろを眺めながら、オレは初めて自分が物凄く腹が減っている事に気がついた。ここに来たのが学校が終わって2時間程後だったから、丁度夕飯時って言えば夕飯時だ。後でと言わず今なんか食いたい。唐突にそう思ったオレは、出て言ってしまったモクバを追おうと海馬を寝かせる為に乗り上がっていたベッドから降りようとした、その時だった。

 ぐい、と何かに服の裾を引かれる感触。ん?と思って後ろを振り向くと、さっきは頑なにオレの頭を撫でる事を拒んでいた海馬の右手が、オレのTシャツをがっちりと掴んでいた。え、おい、何だよ、何事?!と慌てて声を出しても勿論爆睡中の相手には届かない。手を外そうとしてもかなり強く握ってるのかびくともしない。

 ちょ……こいつほんとに寝てるのか?タヌキ寝入りしてんじゃねぇよな?!……疑問も露わにくるりと後ろを振り向いて、そうっと寝顔に顔を近づけてみても、返ってくるのは穏やかな寝息ばかり。その裏腹に強まる指先の力。……なんだこれ。何プレイ?

「お前、本当に寝ぼけてんのか?」

 確認の為にもう一度かけてみた声にも全く無反応。……はい、爆睡中。でも、これっていわゆるラッキーって奴かも。このまま暫く一緒にいたら頭も撫でてくれたりして!

 そう思ったオレは、盛大に鳴る腹の虫はとりあえず無視する事にして、この偶然にして最大の幸福の瞬間を噛み締めようと、誘われるままにごろりと隣に寝転がった。そして、抱きつかれたり頭を撫でられたりするのを今か今かと待っているうちに、結局オレも眠ってしまった。物凄く残念だった。

 起きたら当然元の元気で意地悪な海馬くんに戻っていたけれど、ほんのひと時だけでもオレはとっても幸せでした。
 

 例え、天使のままじゃなくっても。