Act16 触るな(Side.城之内)

「あ、海馬くんおはよー!わ、凄い珍しい!」

 初夏の蒸し暑い空気が微妙に不快な6月半ばのある日。朝からどうもやる気がなくてぐだぐだしていたオレは、遊戯のその声にずっとうつ伏せていた顔をがばりと上げた。そして慌ててその方に顔を向けると、確かに奴が言った通りの人物……海馬の姿があった。

 海馬の姿を見るのは、その実一ヶ月ぶりの事だった。5月のゴールデンウィーク辺りからバタバタと忙しそうにしていたあいつは、ある日突然「アメリカに行って来る」と電話をかけてきて、そのまま本当にアメリカに行っちまって、今日まで全く音沙汰がなかった。

 まぁ、それはいつもの事で慣れてるし、今更そんなもんガタガタ言う程ガキじゃないけど。帰ってくる時位一言言えっていうのは我侭なのかね。ま、言った所で「貴様に教える義理などない」とか言われて終わりなんだろうけど。なんだろうなぁもう。

 つか、そんな事よりも……お前なにその格好。何があった?アメリカで何やらかして来たの?

 そんな感想を抱いたのはオレだけじゃなかったらしく、その場にいた他の連中も少しざわついて海馬がいる方向をちらちら見ていた。

 まぁ、当然だよな。だって海馬くん……夏服着てるんだもん。しかも半袖。

 全体的な色素が薄い所為で、白いシャツを着るとますます白っぽく見えるその細長い後姿は、窓から入りこんで来る朝日を浴びてなんだか目に眩しく映る。ていうか色々丸見えじゃね?うちの夏服ってボタン上までないじゃん?オレはTシャツ着てっからボタン全然嵌めてねーけど、これがっちり嵌めたって鎖骨見えるじゃん、どうなのその辺。

 そんな事を考えながら海馬を観察してると、奴は遊戯となにやら楽しそうに盛り上がってる。ていうか遊戯の奴なんでベタベタ海馬に触ってんだおい。オレだってまだ触って無いのに!つかアイツオレを無視して遊戯と先に喋るとか何事なんだよ、愛がねぇな!

 しっかし改めて思うと一ヶ月って長いよなー。普段は三日にいっぺんは会いに行くし、会いに行くって事は当然ヤってるから、そう考えるとよく30日も我慢したもんだ。オレって偉い。

 浮気すると後が怖いっつーか、オレって結構ハマるタイプだから一人にのめり込んでる時は他の人間とヤろうとか思えないし。まあ一月位なら妄想をオカズにしてなんとかなる。それもそろそろ限界だったけど。そういう意味ではナイスタイミングです海馬くん。今夜は寝かせないぜ!

 ……ってヤバイ。今そんな事考えたら我慢できなくなる。まだここは学校だし、1時限目も始まって無いし、しかも授業が体育だからこれから着替えがあるし(勃ってたら脱げないじゃん!)落ち着け自分、平・常・心!

 と、オレが突然降って沸いたエロ衝動に一人勝手に慌て始めたその時だった。いきなり、本当にいきなり目の前に白い物体がぬっと現われて、やけに覚えがある意味懐かしい匂いが鼻を擽った。奴がいつも好んで身につけてるなんとかっていう英語だかフランス語だかのブランドの香水の匂い。同時に視界に入った細い手首に付けたいかにも高級そうな腕時計が机に当たってカツン、と小さな音を立てる。

 ヤバイ、海馬だ!そう思った瞬間、オレは反射的にうつ伏せていた上半身を跳ね上げて、椅子ごと後ろに後ずさった。ちょっとお前その匂いも反則だろ!

「うわぁ!海馬っ!!」
「……何を化け物を見たような顔をしている」
「だ、だってお前イキナリ!!」
「は?貴様の席の近くに寄る為には、わざわざ声をかけて許可を取らなければならんのか」
「そ、そうじゃねぇけど!」

 そんな格好で突然オレの目の前に現われるなっつってんの!つかマジひでぇよこれ!

 オレの態度が気に入らなかったのか、立ったまま不機嫌な顔をしてこっちを見下してくる海馬の姿は、遠目でみたよりもずっと……あーなんていうか、刺激的だった。

 想像通り、第一ボタンまで嵌めているはずの夏服は、元々首周りが大分楽に作られていて、その辺の男子より若干首元が頼りない海馬に至っては、ぱっと見だらしないと思える程開いていて。緩んだ空間から見える浮いた鎖骨や、そもそも普段はがっちりとガードしている喉の辺りが、丸見えすぎて例えようもなくエロイ。

 常に肌身離さないペンダントの紐がそこに纏わりついてるもんだから余計に凄い光景だ。ありえねぇ。むき出しの腕に至っては言わずもがな。とにかくもうここまで来ると視覚の暴力だ。勘弁してくれ。いやむしろ助けてくれ。こんなものを見せ付けられてオレはどうしたらいいんだよ?!

「どうした?人の事をジロジロみて」

 そんなオレの動揺なんか全く持って何処吹く風の海馬は、些か不審な顔をしてオレの事を見ている。いや、どうしたも何もお前がどうしたんだっつーの。近づくな!身を乗り出してくるな!!

「お、お前。なんで今日に限ってそんな格好してんの?一年365日学ランを貫き通してた癖に!」
「夏に夏の格好をして何が悪い」
「別に悪いとか悪くないとかじゃなくって……」
「貴様の方こそ顔色がおかしいぞ。早々に夏バテか」
「へ?!そ、そんな事ねぇよ!!」
「そうか?触らせてみろ」

 オレの顔色が変なのはお前がそんな格好してっからだろうがッ!

 そう心の中で絶叫しても目の前のこいつに届く筈もなく、今日に限って妙な親切心を見せた海馬は、ちょっとだけ眉を顰めてマジでオレの、多分頬か額かなんだろうけど……に触ろうと手を伸ばして来た。

 ぎゃー!!ちょ、ヤバイって!!今は駄目だッ!

 咄嗟に身の危険を感じたオレは、思わず立ち上がって大きな声でこう叫んでしまった。
 

「ちょ、待て!近づくな!オレに触んなッ!!」
 

 同時に振り上げた手に差し伸べられた海馬の手が、激しく当たって凄い音を立てる。超痛ぇ!!と思った瞬間……。
 

 何故か、オレの視界は暗転した。
「貴様ふざけるな!!」

 頭上で耳を劈くような怒鳴り声がする。

 そう思った数秒後、オレがはっと目を開けると、そこにはつい今し方と同じ様相の……や、全然違う。見慣れた紺の学ランをきっちり着込んだ海馬が立っていた。あれ?と思う間もなくゴツン、と頭に重い衝撃。

 いでッ!!こいつゲンコで殴りやがった!!

「……いってー……なんだよ!?」
「なんだよだと?!それはオレの台詞だ!授業が終わってHR中もひたすら寝こけていた馬鹿が!もう教室には誰も残っていないわ!」
「ほえ?……だって授業ってこれからだろ?一時間目は体育で……」
「何を言っている」
「つかお前、何時の間に着替えたんだ?暑くねぇの?」
「……おい、眠りすぎて脳が腐ったのか?」
「え?だって……って、あれ。その手どーした?赤くなってんじゃん」
「城之内」
「は、はい」
「寝ぼけるのもいい加減にしろこの駄犬が!!まだ目覚めないのなら目覚めさせてやろうか?!」
「っぎゃー!!いだだだだだ!ちょ、耳ッ!耳は反則ッ!!」

 オレが疑問を口にする度にどんどんと顔が怖くなっていった海馬は、未だ良く状況が把握できないオレがふと呟いた言葉に完全にキレちまったのか、一瞬にして凄い形相になってオレの耳を思い切り引っ張った。まかり間違えば耳がちぎれちまうんじゃないかって程の痛みに思わず飛び上がったオレは、漸くさっきの光景が夢だった事に気づかされた。

 そうだった。今は真冬で、今日は今年一番の大雪まで降ったクソ寒い日だった!ついでに言えば昨日は海馬の家に泊まって、今日もこれから一緒に帰る予定だったんだ。アメリカとか関係ねぇ!思い出した!

「痛い痛い!ごめんなさい!目ぇ覚めました!!オレ夢見てたんだ!」
「フン。大方下らん夢を見ていたのだろうが!にやにやしていたと思ったら突然人の手を力任せに叩き払って触るなだと?!オレは親切に貴様を起こしに来てやったと言うのに!」
「あ、だから手ぇ真っ赤だったのか。ごめんっ!つーか夢とごっちゃになったの!あんまりリアルな夢だったから」
「もう一度夢の世界に帰してやろうか。オレは貴様を捨てて帰るがな」
「結構です!謝るからマジ許して!」

 確かに、あの夢はちょっと惜しいと思ったけど。夢は所詮夢だし。現実には叶わないから。ここは早く家に帰って、夢で出来なかった事をやったほうがよっぽど有意義だ。

 そう思ったオレは、漸くオレの両耳を解放して不機嫌そうにそっぽを向く、やっぱり凄く落ち着く学ラン姿の海馬を見あげると、涙目のまま笑ってもう一度ゴメン、と謝った。

 そして、今度は自分から思い切り触る為に、呆れて離れようとするその身体に手を伸ばしたんだ。