Act18 徹底的に(Side.海馬)

「もうっ!やめてよ兄サマ!何やってるの?!」
 

 そんな悲鳴の様な声と共に正面から小さな、けれど存外強い衝撃を腰辺りに感じた。はっとして下を見ると、そこにはモクバの泣きそうな顔。
 

 ── その顔にオレの頭に上っていた血が一気に下がり、我に返った。
 ざり、と耳障りな音が響き、床に落ちていた硝子が粉になる。多分あれは机横にあった花瓶の破片だ。あんな所まで殴り飛ばしたのだろうか、オレが。それとも、こいつが?

 そうオレがぼんやりと考えていると、つい今し方悲鳴を上げていたモクバが先程とは一変した怒り顔でオレの前にやって来て、手にした救急セットを些か乱暴に手渡して来た。箱を受け取った掌がぬるりと滑る。

 なんだと思ってそこを見ると、ものの見事に血塗れていた。ただし、それがオレのものかは不明だった。

 それを抱えながら少し目線をモクバからずらすと、向かい側のソファーには馬鹿犬…もとい、城之内が殆ど同じ様相で……いや、現状ではあちらの方が悲惨な状態だが……同じく救急箱を手に呆然としていた。

 この少し前にオレ達は二人、揃ってモクバにズキズキ痛む頭を叩かれ、「反省した?!」と怒鳴られた。もう17にもなる大柄の男二人が仁王立ちの小学生に散々叱られ、しゅんとして項垂れる様は滑稽以外の何者でもないが、それだけの事を確かにしたのだから、反論など出来る筈もなかった。

 オレ達はただ無言で、互いの悲惨な状態と目の前の惨状に対する深い反省をするのみだった。

「落ち着いた?……あのね、兄サマ達はどっちも喧嘩が強いんだから、本気になってやっちゃ駄目だっていつもいってるでしょ。それも室内でやるなって、何回言ったら分かるんだよ?メイドがカンカンだよ!オレだって怒ってるんだからね!」
「す、すまない、モクバ」
「……ごめんなさい」
「後オレは知らないから、ちゃんと二人で傷の手当と後片付けしてね。掃除用具、廊下に全部揃ってるから」
「えー。掃除もすんのかよ!」
「当たり前だろ!誰がやったと思ってんだよ!とにかくっ、夜までには元通りにしてね!返事は?」
「……わかった」
「はい」
「ちゃんとやらないと夕飯抜きだから。しっかりやれよ、城之内」
「ちょ、それはナシだろ!海馬はどうでもいいけど、オレ死んじゃうよ!」
「ご飯抜きが嫌ならちゃんと『共同作業』で頑張るんだね。オレ、後で見に来るから」

 じゃ、しっかりやってね。

 最後に笑顔と言うには全く可愛らしくない顔でそういうと、モクバはオレと城之内の顔を交互に見て、「第二ラウンドは厳禁だよ。やったら追い出すから」と釘を刺して部屋を出て行った。パタンと扉が閉ざされると同時にその場には嫌な沈黙だけが残される。

 今から約1時間前、この場でオレと城之内は近年稀に見る殴り合いの大喧嘩をした。きっかけは相変わらず些細な事だったが、たまたま互いに虫の居所が悪かった所為で先にオレが手を出してしまい、それに城之内が触発されて、最後には殴る蹴るの応酬になってしまった。

 モクバの言う通り城之内は元不良(オレに言わせれば十分今も現役だ)というだけあり喧嘩は勿論強く、オレはオレで立場上様々な危険から身を守る為にある程度は必要だと、護身術を始めとした様々な体術を身につけていた。故に、その辺の軟弱な男よりは腕が立つ。

 その城之内とオレ、どちらが強いか正式に勝負をした事はないが、喧嘩をする度に同程度のダメージを受ける事からその力はほぼ拮抗していると言ってもいい。ただし、元より喧嘩慣れしている事や体力面において、多少城之内の方が優勢なのは間違いない。

 そんなオレ達が本気になって殴り合いをすれば、相当の事態になるのは目に見えていて、今日もまたオレの自室で始まったそれは、騒ぎを聞きつけたモクバが仲介に入るまで収まらず、「怨恨による惨殺事件があった現場なのここは?!」と言われるほどの酷い惨状を招いてしまった。

 白い棚やキャビネット、ソファーにはどちらのものか分からない血痕がつき、床の上にはあらゆるものが壊れ、散乱している。互いの状態など言わずもがな。城之内は一応気を使ったのか、オレの顔に殆ど触れる事はなかったが、その代わり投げ飛ばしたり、胴体部分を蹴りつけてくれたお陰で、多分服を脱げば酷い事になっているだろうし、オレは気を使う義理など無いから容赦なくその鼻や頬を蹴り飛ばしたり、殴ったりした所為で城之内の顔は見るも無残な姿になっていた。

 ……まぁ、それもこれが始めてではないから、それほど驚く事でもないのだが。
 

 

 モクバが部屋を出てから数分後、暫く無言のまま向かい合っていたオレ達は小さな溜息を一つ吐くと、こんな時ばかりは気が合って、同時に「こっちへ来い」と口にした。妙な具合に重なった二つの声は、荒れた部屋に大きく響いて消えていく。

「なんでオレがそっちに行かなきゃなんねーんだよ。お前が先に手ぇ出したんだろ。反省してお前が来いよ」
「ふざけるな。何故オレが行かなければならない。貴様が来い。大体、貴様が投げ飛ばしてくれた所為で足が痛いわ」
「はぁ?!お前、オレの顔こんなにしといて何言ってんの?お前こそふざけんなよ」
「煩い馬鹿犬!」
「お前が黙れバカイバ!」

 ……モクバのお陰で一時は収まった喧嘩だったが、唐突に収束させられただけで、自分達で収まったわけではなかったから、口を開けば当然言い争いは再開する。しかし互いに満身創痍で立ち上がる事すら億劫な状態で喚きあっても、あちこちが痛むだけで声は語尾に重なった呻きと共に直ぐに消えてしまう。全く、馬鹿馬鹿しい事この上ない。

「あーもう。ちょっとは加減しろよな、この馬鹿!思いっきり殴りやがって!」

 それから数秒後、オレよりは僅かに諦めのいい城之内がそう吐き捨てて立ち上がり、オレには聞こえないよう悪態を付きながら仕方なくといった様相でオレの前までやって来る。そしていかにも嫌々です、と言った顔で隣に座り、酷く不機嫌な声でこう言った。

「ほら脱げよ。多分あちこち痣になってっぞ」
「うるさい。誰の所為だ」
「お前の所為だっつーの。つか喋るといてーし。むかつく」
「貴様の顔を先になんとかする。見てられん」
「くそっ、誰の所為だよ」
「貴様の所為だ」

 言いながら、オレはモクバから手渡されて予め開けておいた救急セットを引き寄せて、相変わらずの仏頂面でそっぽを向く目の前の顔を髪の毛を掴んで無理矢理こちらを向かせると、動くな、と釘を刺す。それにうるせぇ、と鋭い声が帰ってきて、奴は最後にもう一度「バーカ!」と唸った。

 けれどその顔は、もう怒ってはいなかった。

 そして奴はそのまま何を言わずに切れた口の端を見せ付けつつ、身を伸ばして口付けてきた。中も外も傷ついていて痛いだろうに、殆どヤケのように舌まで入れて来る。甘苦い血の味と香る鉄錆びにも似た匂いに吐き気がしたが、特に抵抗もせずに受け入れた。

 それが一応オレなりの謝罪の気持ちで、それを分かっているこいつも特に何も言わずにキスを続けた。時たまオレの舌が城之内の口内の傷に触れたり、何時の間にか回された奴の手がオレの肩甲骨辺りを撫でると互いに顔を顰めたりしたが、それでも簡単には離れなかった。

 漸く口を離した時にはどちらも至極微妙な顔で、同時に大きな溜息が一つ出る。

「……とりあえず、手当てして、片づけして、仲直りしよっか?」
「貴様この状態でもヤるつもりなのか。オレは無理だぞ。体中ガタガタだ」
「だぁいじょうぶだって!お前が上になれば……いてっ!」
「お断りだ!」
「あーあ。背中と腰蹴ったのは不味かったよなぁ。ごめんな」
「貴様は足が短い癖に勢いがありすぎるのだ」
「短いとか言うな。もうこういうの止めようぜ。後が面倒だし」
「モクバは怒らせるしな」
「あはは!あいつがマジで怒るとお前より怖いのな。さっすが兄弟!」
「そんな事で褒められてもちっとも嬉しく無いわ」

 そんな事を言いながら、なんとなく『仲直り』を果たしたオレ達は、その後速やかに痛む身体を引きずりつつ事態の収集作業に入り、モクバの了承を得る為に、二人揃って階下の部屋に向かった。

 そして、『もう二度と喧嘩をしません』と、何度目かしれない誓いの言葉を口にさせられるのだった。

 これも、一つの日常だ。